君を知らなければ
陽の傾きかけた砂浜に、ひとり立っていた。
潮風が髪を揺らし、乾いた砂が足元でかすかに鳴く。焼けた砂浜の匂い。波の音。セミの声は、もうほとんど聞こえなかった。
この海辺に来るのは、何年ぶりだろう。
足を踏み出すたび、懐かしい感覚が胸の奥をくすぐる。あの夏の日、夕と並んで走った浜辺。つま先だけ海に浸けて、くすぐったそうに笑っていた横顔。あの時の俺たちは、何も疑わずに、ずっと一緒にいられると思ってた。
「……ずっとなんて、ないくせに」
声に出したくなって、思わず呟いた。
それでも、俺はずっと、あの時の“約束”に縛られていた。小さな小指を絡めたあの瞬間が、俺の中で永遠になってしまっていた。
——君を知らなければ、もっと楽に生きてこれた。
そんなこと、何度も思った。
苦しかった。惨めだった。
ずっと誰かと比べて、誰かに甘えて、それでも満たされない自分に自己嫌悪して。
でも、今ははっきり言える。
——君を知らなければ、俺は俺じゃなかった。
初めて誰かを好きになって、うまく言えなくて、でも確かに大切だった。
振り返るたびに思い出す笑顔も、名前も、声も。
全部、俺を作ってきた一部だった。
忘れようとして苦しんで、それでも忘れられなくて。
だからもう、忘れなくていい。
このまま、思い出として抱えて生きていく。
砂浜に足跡を残しながら、海を背にして振り返った。
駅へと続く坂道の先で、見慣れた後ろ姿が見えた。
淡い色のワンピース。細い腕。軽く揺れるポニーテール。
夕だった。
手を振る友達と並んで、笑っていた。
俺に気づくこともなく、彼女はゆっくりと歩いていく。
その背中が、少しずつ遠ざかっていくのを、俺はただ黙って見送った。
何も言わず、何も求めず、ただその背中を見つめていた。
かつて、あの小さな小指で誓った「ずっと」は、叶わなかった。
けれど、俺の中には、あの日の記憶がちゃんと残っている。
あの夏の、夕の笑顔も。
子どもみたいに叫び合った声も。
全部、もう過去になったけれど。
ふと、風が頬をなでた。
——それでも、出会えてよかった。
その言葉だけを、心の中でそっと呟いた。
そして俺は、背を向けて歩き出す。
夏はもう、終わっていた。




