好きにならなければよかったのに
風鈴の音が、まだ乾ききらない空気の中で揺れている。アパートのベランダ越しに射しこむ西陽が、部屋のカーテンを透かして橙に染める。
陽奈は、麦茶を注いだグラスを両手で持ちながら、俺に笑いかけた。
「ねえ、今日の空、きれいだよ」
その言葉にうなずいた俺は、どう返事をしたのか、もう覚えていない。
グラス越しに陽奈の唇が少し開く。氷がカランと音を立てた。
その仕草が、夕に似ている気がした。
胸の奥が、ふいにきゅっと締めつけられる。陽奈の笑顔は何も変わらない。無邪気に、俺の隣で笑っている。
なのに、なぜこんなにも苦しいのだろう。
違う人を好きになったはずだった。
夕を忘れたくて、陽奈の手を取ったのに。
それでも俺の視線は、陽奈の髪の揺れ方や、声の調子、笑い方の端々に、あの人の面影を探してしまう。
「……なんか、元気ない?」
陽奈が首をかしげた。
やめろ、気づくな。何も見抜かないでくれ。
そのままでいい。俺の中で、陽奈はただ陽奈であってほしい。
「……少し寝不足でさ。レポートがギリギリだったんだよ」
「ふふ、そういうところだけ真面目だもんね。はい、これ飲んで元気出して」
麦茶を差し出す陽奈の手が、俺の指先にふれてぬるく感じた。
笑顔を返さなきゃいけないのに、口元だけでそれをなぞる。
——ちゃんと好きになりたい。
俺は陽奈のことを、ちゃんと好きになりたい。
比べたりなんて、したくない。
でも現実は、その願いを踏みにじるようにして、何度も何度も、俺の脳裏にあの声と笑顔を呼び戻す。
阿波夕。
幼なじみ。隣の家に住んでいた、小さな頃からずっと一緒だった存在。
いつから好きになったのかはわからない。気づいたときにはもう、彼女を目で追っていた。
小学生の夏の日。
町内のラジオ体操のあと、一緒に海へ行った。夕が提案して、俺が水着を忘れて着の身着のままで泳いだ日。
「ほら、波きたよ! 逃げて、海星!」
そんなことを言いながら、夕は波打ち際を駆けていく。砂に足を取られながらも、あの頃の俺は、必死で彼女の背中を追いかけていた。
日焼け止めの匂いと、潮の香り。
海辺の岩場に登って、ふたりで見上げた青空。
「……大人になってもさ、ずっと一緒にいられるかな?」
濡れた髪を払いながら、夕がぽつりと言った。
「いるよ、そりゃあ。隣の家だし、ずっと遊ぶだろ」
「……そうじゃなくて、ううん、なんでもない。じゃあ、指切りして」
差し出された小さな小指に、俺は戸惑いもせず指を絡めた。
「ゆびきった……嘘ついたら、針千本飲ーます!」
無邪気な声。弾ける笑顔。
あの瞬間のすべてが、焼きついたまま俺の中に残ってる。
……それなのに。
今、隣にいるのは夕じゃない。陽奈なんだ。
夕はもう、俺の隣に立つことはない。
わかってる。ずっと、わかってた。
夕は、俺のことを「幼なじみ」としか見てなかった。
高校のとき、先輩と付き合い始めたときも、「海星には何でも話せる」って言って笑ってた。
俺はそれを聞いて、「そっか、良かったな」なんて、うそぶいて見せた。
心なんて、ぐちゃぐちゃだったのに。
「夕……?」
不意に、口にしかけたその名前に、自分でハッとする。
「え? 何か言った?」
陽奈がグラスを置きながら、俺を覗きこむ。
ああ、違う。今のはちがうんだ。口が勝手に、心の奥が勝手に動いたんだ。
「ううん、なんでもないよ」
笑ってごまかした声は、ひどく乾いていた。
好きにならなければよかったのに。
そうしたら、陽奈を見て苦しくなることもなかった。
あの夏、あの海辺、あの笑顔。
全部、なかったことにできたら、俺は——。
「ねえ、花火大会、来週だけど一緒に行ける?」
陽奈の声が、現実に引き戻す。
俺は、しばらくの沈黙のあと、うなずいた。
「うん、行こう」
たぶん、ちゃんとした声だった。
たぶん、ちゃんと笑えてた。
でも、胸の奥ではまた誰かが呟いている。
——好きにならなければ、ずっと笑っていられたのに。




