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あの夏を忘れる唯一の方法  作者: Amit Tsu
幼なじみの微熱
1/11

好きにならなければよかったのに


 風鈴の音が、まだ乾ききらない空気の中で揺れている。アパートのベランダ越しに射しこむ西陽が、部屋のカーテンを透かして橙に染める。

 陽奈は、麦茶を注いだグラスを両手で持ちながら、俺に笑いかけた。


「ねえ、今日の空、きれいだよ」


 その言葉にうなずいた俺は、どう返事をしたのか、もう覚えていない。

 グラス越しに陽奈の唇が少し開く。氷がカランと音を立てた。


 その仕草が、夕に似ている気がした。


 胸の奥が、ふいにきゅっと締めつけられる。陽奈の笑顔は何も変わらない。無邪気に、俺の隣で笑っている。

 なのに、なぜこんなにも苦しいのだろう。


 違う人を好きになったはずだった。

 夕を忘れたくて、陽奈の手を取ったのに。


 それでも俺の視線は、陽奈の髪の揺れ方や、声の調子、笑い方の端々に、あの人の面影を探してしまう。


「……なんか、元気ない?」


 陽奈が首をかしげた。

 やめろ、気づくな。何も見抜かないでくれ。

 そのままでいい。俺の中で、陽奈はただ陽奈であってほしい。


「……少し寝不足でさ。レポートがギリギリだったんだよ」


「ふふ、そういうところだけ真面目だもんね。はい、これ飲んで元気出して」


 麦茶を差し出す陽奈の手が、俺の指先にふれてぬるく感じた。

 笑顔を返さなきゃいけないのに、口元だけでそれをなぞる。


 ——ちゃんと好きになりたい。


 俺は陽奈のことを、ちゃんと好きになりたい。

 比べたりなんて、したくない。

 でも現実は、その願いを踏みにじるようにして、何度も何度も、俺の脳裏にあの声と笑顔を呼び戻す。


 阿波夕。


 幼なじみ。隣の家に住んでいた、小さな頃からずっと一緒だった存在。

 いつから好きになったのかはわからない。気づいたときにはもう、彼女を目で追っていた。


 小学生の夏の日。

 町内のラジオ体操のあと、一緒に海へ行った。夕が提案して、俺が水着を忘れて着の身着のままで泳いだ日。


「ほら、波きたよ! 逃げて、海星!」


 そんなことを言いながら、夕は波打ち際を駆けていく。砂に足を取られながらも、あの頃の俺は、必死で彼女の背中を追いかけていた。


 日焼け止めの匂いと、潮の香り。

 海辺の岩場に登って、ふたりで見上げた青空。


「……大人になってもさ、ずっと一緒にいられるかな?」


 濡れた髪を払いながら、夕がぽつりと言った。


「いるよ、そりゃあ。隣の家だし、ずっと遊ぶだろ」


「……そうじゃなくて、ううん、なんでもない。じゃあ、指切りして」


 差し出された小さな小指に、俺は戸惑いもせず指を絡めた。


「ゆびきった……嘘ついたら、針千本飲ーます!」


 無邪気な声。弾ける笑顔。

 あの瞬間のすべてが、焼きついたまま俺の中に残ってる。


 ……それなのに。

 今、隣にいるのは夕じゃない。陽奈なんだ。

 夕はもう、俺の隣に立つことはない。


 わかってる。ずっと、わかってた。

 夕は、俺のことを「幼なじみ」としか見てなかった。

 高校のとき、先輩と付き合い始めたときも、「海星には何でも話せる」って言って笑ってた。

 俺はそれを聞いて、「そっか、良かったな」なんて、うそぶいて見せた。


 心なんて、ぐちゃぐちゃだったのに。


「夕……?」


 不意に、口にしかけたその名前に、自分でハッとする。


「え? 何か言った?」


 陽奈がグラスを置きながら、俺を覗きこむ。

 ああ、違う。今のはちがうんだ。口が勝手に、心の奥が勝手に動いたんだ。


「ううん、なんでもないよ」


 笑ってごまかした声は、ひどく乾いていた。


 好きにならなければよかったのに。

 そうしたら、陽奈を見て苦しくなることもなかった。

 あの夏、あの海辺、あの笑顔。

 全部、なかったことにできたら、俺は——。


「ねえ、花火大会、来週だけど一緒に行ける?」


 陽奈の声が、現実に引き戻す。

 俺は、しばらくの沈黙のあと、うなずいた。


「うん、行こう」


 たぶん、ちゃんとした声だった。

 たぶん、ちゃんと笑えてた。

 でも、胸の奥ではまた誰かが呟いている。


 ——好きにならなければ、ずっと笑っていられたのに。

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