日常の9 九十九佐月はたまに何もない一点をじっと見つめている
平日の夕方。
僕は学校から帰宅する。
二階の自室で通学鞄を下ろした、その直後――。
「ただいまぁ~」
「はぁ……お、お邪魔します」
玄関の方から、莉差姉の声が聞こえた。
それに続けて溜息交じりの挨拶……佐月さんかな?
しばらくして、二人分の足音がこちらに近づいてくる。
廊下を覗くと、莉差姉と佐月さんがちょうど二階に来たところだった。
「あ、和博~。今からお姉ちゃんたち部屋で勉強会するから、何か甘いお菓子持ってきてぇ~」
「り、莉差ちゃん、またそんな風に頼って……はぁ、和博くんが可哀想です……」
「僕は平気ですよ。いつものことですから」
「……な、なら、私も一緒に和博くんのお手伝いをします」
「え? そんなのダメです。佐月さんはお客さんですし、莉差姉と一緒に待っていてくれたら大丈夫ですよ」
「あぅ、そうですか……はぁ、ごめんなさい」
佐月さんは猫背のまま、ぺこぺこと平謝りしていた。
そんなに気にしなくてもいいのに……。
莉差姉くらいだらしなくて、ふてぶてしいのも問題だけど、佐月さんはもうちょっと自分勝手になってもいい気がする。
そんなことを考えながら、一階へ降りてキッチンからチョコ菓子を確保する。
適当な数をトレーに乗せて、莉差姉の部屋まで向かう。
その途中の廊下で。
佐月さんが静かに立ちつくしている光景を見た。
「…………」
佐月さんは鈍色の瞳をカッと見開いている。
その視線の先には、僕の部屋。
扉は締めていなかった。部屋の中をじーっと見られている。
な、なんだろう……?
「あの、佐月さん、僕の部屋になにかあります?」
「――……いいえ。何もいませんよ。はぁ」
佐月さんは溜息をついて、莉差姉の部屋に向かった。
それにしても、『何もいない』って……変な言い回しだ。
てっきり、何か気になる物があったのかと思ったけど、まるでそこに何者かがいないかを見ていたみたいだ。誰もいなくて当たり前なのに。
「和博ぉ、まだぁ~?」
「あ、ごめん。今いく」
一旦おいといて、莉差姉の部屋に入る。
そこでは莉差姉と佐月さんがテーブルを挟んで対面で座っていた。
「そういえば、佑陽さんは一緒じゃないんですね」
「はぁ……佑陽ちゃんは勉強嫌いなので、誘っても来てくれないんです。けれど、私も人の心配ばかりしていられません……」
「佐月さんも勉強が苦手なんですか?」
先日のエアホッケー対決のせいか、佐月さんは実力者だという僕には印象がある。
佑陽が勉強嫌いというのは、失礼だけど印象通り――……でも、佐月さんまで勉強が苦手というのは、ちょっとだけ意外だ。
「苦手なことないよねぇ? 佐月、いつも成績は学年一位だもん~」
「へっ!? す、すごいじゃないですか!」
莉差姉が教えてくれた事実に、僕は驚いた。
でも、佐月さんは不安そうな表情で、首を横に振る。
「これからも成績を維持できるかはわかりませんから……はぁ、きちんと勉強しておかないと」
「心配性だなぁ、佐月は~。わたしならいっぱい自慢するのに」
莉差姉には佐月さんの姿勢から見倣ってほしい……。
莉差姉は宿題を基本やらない上に、僕に課題を手伝わせてくる時もあるけど、成績はそこまで悪くない。
家でのだらしない姿とは違って、教室ではマジメに授業を受けているのかな。
「莉差姉も、佐月さんみたいに頑張らないとね」
「あぁん……和博、やる気ちょうだい。お姉ちゃんにやる気ちょうだい~……!」
「がんばれ、がんばれ」
応援とともに、チョコ菓子をあげる。
「わーい美味しい。頑張るぞぉ~!」
やる気が安くて助かる……。
どうせ長くは続かないだろうけど。
すると、僕らのやり取りを見守っていた佐月さんが笑う。
「くすっ。和博くんは弟なのに、まるでお兄ちゃんみたいですね」
「莉差姉が甘えてばかりなので、しょうがないです」
「いつも甘えられてばかりで、和博くんは疲れませんか?」
「えっと、はい。慣れていますから。これっくらい平気です」
もちろん無理はしていない。これは本心だった。
それなのに、佐月さんはどうも心配そうな表情のままだ。
座っている位置をずらして僕へと近づくと、小声で喋りかけてくる。
「本当に、そうですか?」
「え?」
「誰かに甘えたくなったら、甘えてもいいんですよ。たとえば、私にでも」
「――……」
「常に何かを頑張っていると、癒しがほしくなる。はぁ……その気持ちは誰よりもわかるつもりです」
ドキリと心臓が跳ねる。
佐月さんの微笑みからは、寄り添うような温かみを感じた。
けど、僕はどう答えたら……どう甘えたらいいんだろう?
「困らせてしまいましたか。はぁ……ごめんなさい。ではこうしましょう」
佐月さんがこちらへ顔を寄せた。
柑橘系の良い香りがふわりと鼻に届く。またドキッとした。
佐月さんの吐音が耳をくすぐり、そのまま囁かれる。
「……何か困ったことがあったら、なんでも言っていいからね……?」
「――っ!?」
思わず耳に手を添えて、背筋を逸らす。
今の佐月さんは……何かこう、普段とは違う感じがしてドキドキした。
な、なんでもと言われても、それはそれで困るわけで!?
ただ、焦って答えを出さなくてもいいと、安心をもらえたような気もした。
「う、うん……ありがとう……ございます」
「気楽に言ってください。私に癒しをくれた、ほんのささやかなお礼です」
「……ん? それは……えっと、どういう?」
「内緒です」
そっと顔を逸らされる。
顔半分が前髪に隠れて見えない上に、露出した左目も僕の位置からは見えない。
でも、佐月さんの口元はニマニマと緩んでいた。
なんだか、もてあそばれたような気がする。
まったくもう……そろそろ自室に戻ろう。
あ、その前にひとつだけ、佐月さんに訊きたいことがあった。
「あの、変な話ですけど、佐月さんって霊感あるんですか?」
「霊感……ですか?」
佐月さんがきょとんと首を傾げる。
そのとき、今までお菓子をぽりぽり食べていた莉差姉が、ふと思い出したように言う。
「あ~……佐月って、何にもないところをじぃ~っと見る癖があるよねぇ~」
「へえ。なんだか猫みたいですね」
うちでも昔は猫を飼っていた。
僕が小学生の頃に老衰で亡くなったけど、仔猫の頃から一度も怪我も病気もせず大往生だった。僕にとって大切な思い出のひとつだ。
「猫かぁ~……懐かしいね、ミケちゃん」
莉差姉も僕と同じことを思い出していたみたいだ。
お互いに笑みを交わす。それを見て、佐月さんが小さく息を吐いた。
「はぁ……なるほど。猫ちゃんを飼っていたんですね。道理で」
「え?」
「いえ。その子も、まだ甘え足りなかったのかも……と思っただけです」
「……?」
「はぁ……霊感なんてありませんよ。あれは私のただの癖です」
佐月さんの発言を理解するのは、僕には難しかった。
ただ、要するに、霊感は僕の思い過ごしだったわけか。
莉差姉もマイペースにお菓子を食べる手を再開させている。勉強しなよ……。
僕は溜息をついてから、今度こそ部屋から出た。
自室へと戻る。それから部屋のなかをぐるっと見回した。
僕としては幽霊なんて信じてはいない……でも。
「ミケー……。にゃーん……?」
ありえないと思いつつ、返事を期待して、何となく呼びかけた。
無音。当たり前だ。
うわぁ、恥ずかしい……。
――そのとき、にゃーんと鳴き声が返ってきた。
「えっ!?」
息を忘れるくらい驚いた後、窓の外に野良猫が見えた。
あんまりにも良いタイミング過ぎる。つい脱力して笑った。
ふと、佐月さんに囁かれた提案を思い返す。
いつか上手な甘え方を知ることができたら、そのときは、佐月さんの言葉にも甘えさせてもらおう。
でないと、僕もこの世に未練を残してしまうかも。
……なんて、冗談だけど。