9話.君となら
後日、清輝はクラスに復帰した。教室に入るや否や、待っていたかのようにクラスメイトたちが次々に声をかけてくる。
「おい、信濃!謹慎中、何やったんだよ?」
「罪状って何?強盗?殺人?それともスパイ活動?」
「留置所とか入ったんじゃねぇの?まさか刑務所か?」
「いや、お前、もう死刑になったのかと思ってたわ!」
清輝は心底呆れた顔をしながら「うるせぇ、静かにしろよ」と返すが、どこか悪い気はしていない。こんな風に自分を茶化してくる連中がいることは、ある意味気楽だった。
席に着くと、隣の烈志がにやにやしながら話しかけてくる。
「やっぱり清輝がいると、教室が賑やかになるなぁ。人気者じゃん。」
清輝は机に肘をつき、頭を片手で支えながら肩をすくめた。
「俺のどこが人気者だよ。からかわれてるだけだろ。」
すると烈志が、「まぁいいじゃん。謹慎開けのスターだぜ?」と茶化してくる。
授業が始まると、烈志がぼそっと呟いた。
「なぁ、清輝。授業ってさ、全然集中できねぇよな。」
清輝は呆れた顔を向ける。
「お前、もとから集中してねぇだろ。」
烈志は「それを言うなよ」と笑いながら教科書を開くふりをする。清輝はそんな様子に肩をすくめつつ、窓の外に目を向けた。
(真希、今何してんだろうな……。)
窓の外の景色をぼんやり眺めながら、図書室にいるであろう真希の姿を思い浮かべる。隣にいないのが、少しだけ物足りなく感じる自分に気づき、内心で苦笑いをする。
そんな時、不意に黒板の前から声が響いた。
「信濃、そこ!お前だ、答えてみろ!」
教室がざわめく中、非常勤で有名な物理の先生――意地悪で有名な小宮山先生が清輝を指名してきた。白髪交じりの髪を後ろで束ねたその先生は、ニヤリとした笑みを浮かべながら、黒板にびっしり書き込んだ物理の問題を指さした。
「これを解いてみろ。どうせ授業中暇なんだろう?ほら、大学生でも解けないって言われる問題だぞ。」
教室内が一気に静まり返り、誰もが清輝の反応を注目する。清輝は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに「なんだ、そんなもんか」と椅子を引いて立ち上がる。
「……ふーん、大学生でも解けない問題ねぇ。」
清輝は黒板を一瞥すると、教科書を開くこともなく、口早に理路整然と解答を述べ始めた。加速度や摩擦力の計算、エネルギー保存則の応用など、複雑な要素が絡み合う問題だったが、清輝の説明は的確で無駄がない。
「まず、ここの初速度を代入して時間を求める。その次にエネルギー保存則を使って位置エネルギーと運動エネルギーの合計を計算する。それを式に当てはめれば、結果は……これだろ。」
清輝が黒板の数式を指差して言い切ると、教室はシーンと静まり返った。
小宮山先生も一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに咳払いをして表情を引き締めた。
「ほう……正解だな。だが、お前、よくそんな暇そうな顔して授業を聞いてるもんだな。」
清輝が「迂闊だぜ、先生。俺を誰だと思ってんだよ?」と堂々と言い放ち、教室が笑いに包まれる中、小宮山先生は腕を組み、悔しそうに「うーん」と唸りながら首を傾げていた。
そのまま何か考え込むようにしていたが、ふと「あ!」と声を上げた。教室が再び静まり返る。
「おい、信濃……お前、普通に間違っとるやんけ!」
小宮山先生のその一言に教室中が爆笑の渦に巻き込まれた。清輝はその場で固まり、次の瞬間「あれ?」と自分の答えを見返し始める。
「お前な、最初の速度の代入ミスってんだよ。だから次の式から全部ズレてんの!ちゃんと授業聞いとけよな!」
先生が黒板を指しながらズバッと言い放つと、教室中から「マジで?」「あんなにドヤってたのに!」とさらなる笑い声が飛び交う。
清輝は苦笑いを浮かべながら「……まぁ、たまにはそういうこともあるだろ」と肩をすくめ、さも気にしていない風を装うが、耳が少し赤くなっているのを見て、烈志が「清輝、お前今めっちゃ恥ずかしいだろ!」と指摘してさらに場が盛り上がる。
小宮山先生は最後に「まったく、お前みたいな奴こそしっかり授業聞いとけ!次間違えたらまた指名するからな!」と釘を刺し、教室の笑いを収めて授業を再開した。
清輝は席に戻りながら、窓の外に目を向けると、ぼそっと呟く。
「……なんであの時、真希のこと考えてたんだよ。集中力が散ったに違いねぇ……。」
そのつぶやきは誰にも聞かれず、春風がそっと教室を駆け抜けた。
昼休みから6時限目までは、まるでカレンダーを一気に捲るような速さで過ぎていった。普段はゆったりとした口調で進む授業も、今日はやけに早く感じる。清輝は何度も時計を見上げては、「今日の時間、ぶっ壊れてんのか?」と心の中でぼやいた。
6時限目のチャイムが鳴り、クラス中が解放感に包まれる中、清輝は机に寄りかかりながら伸びをした。その時、烈志が隣の席に体を預けながら、軽い調子で話しかけてきた。
「なぁ、部活今日休みだし、またジョナサン行かねぇ?こないだのポテト、うまかったろ?」
清輝は少し眉を上げながら「お前、毎日フライドポテト食ってたらマジで体脂肪増えるぞ。柔道部なんだろ?」と軽く突っ込む。烈志は「それくらい問題ねぇよ!むしろ重いくらいでいい!」と笑い飛ばしながらも、「いやでも、今日はデザートにしようかな」と自分の中でメニューを考え始めた。
そんな軽い会話が教室に響く中、廊下から「ドン」という靴音が聞こえ、ふいに錦堀先生が教室に入ってきた。その姿を見て、教室のざわめきが少しずつ静まり始める。
錦堀先生は教壇の前に立つと、手を軽く叩いてクラスの注目を集めようとした。
「みんな、ちょっといいか?」
その一言で、教室全体が静まり返る。先生の真剣な表情に、清輝は「なんだ、また説教か?」と内心で思いながらも、その場の空気に少し緊張感を覚えた。
「お前らに、ちょっと伝えたいことがある。」
錦堀先生の静かな声が教室に響き、全員が次の言葉を待つように、じっと先生の方を見つめていた。
錦堀先生は軽く咳払いをして、視線をクラス全体に巡らせた。
「明日からこのクラスに新しい仲間が入る。」
その一言で、教室は一気に湧き立った。誰もが顔を見合わせながら、ざわめきが広がる。前の席の生徒が勢いよく手を挙げて尋ねた。
「先生、どんな人なんですか?男?女?可愛い?」
教室のあちこちから笑い声が上がる中、錦堀先生はため息交じりに肩をすくめながら言った。
「まぁ、実際に会って話したほうが早いな。ここに来ているから、紹介するよ。」
先生は振り返り、教室の入り口に向かって名前を呼んだ。
「戸田、入ってきてくれるか?」
その名前を耳にした瞬間、清輝と烈志の腰が浮いた。二人は同時に視線を交わし、無言のままドアの方に注目する。
そして次の瞬間――。
教室の扉が静かに開いた。そこから現れたのは、小柄な女の子。彼女はゆっくりと歩を進めながら、引いている機械――酸素濃縮器――の軽い音が教室中に響く。その音に合わせるように、教室全体のざわめきがぴたりと止んだ。
彼女は教室の真ん中に立つと、緊張した面持ちでクラスを見渡した。酸素チューブが鼻に繋がり、機械から伸びたホースが静かに揺れている。窓から差し込む午後の光が、彼女の白い肌とどこか儚げな雰囲気を際立たせていた。
誰もが息を飲むように見つめる中、錦堀先生が優しい声で促した。
「戸田、自己紹介をしてくれるか?」
真希は一歩前に出て、教室全体を見渡した。緊張しているのが一目でわかるその様子に、誰もが視線を彼女に集中させている。教室の空気は既に張り詰めていて、酸素濃縮器の機械音が規則的に鳴る音が妙に響いていた。
「えっと……はじめまして……戸田……真希です。」
か細い声が教室に染み渡る。その声は震えていて、言葉の端々にぎこちなさが見えた。真希は目を泳がせながら、次の言葉を探すように短く息を吸い込んだ。
「えっと……その……病気で、えっと……普通の学校にしばらく通えなくて……でも、ここでは……頑張りたいと思ってます。」
その言葉が口をつくたび、酸素濃縮器からの音が静かな教室に混ざり込む。生徒たちは、彼女が話す「病気」という言葉の重みを想像しきれず、何も言えなかった。ただ、その雰囲気に呑み込まれるようにして見守っている。
「その……『突発性難呼吸機能疾患』という……病気なんですけど……あの……」
彼女が病名を口にした瞬間、教室の空気がさらに張り詰めた。言葉にされるその生々しい響きに、クラスの全員が無意識に息を飲み、ざわつきそうだった空気が瞬時に固まった。
「……よろしくお願いします。」
彼女がそう締めくくった時、酸素濃縮器の小さな機械音だけが教室を満たしていた。その音は、クラスの中で響く誰の呼吸よりも明瞭で、全員がその音に耳を澄ませてしまっているかのようだった。
普段なら茶々を入れるような声や冷やかしが飛び交う場面――だが、今は違う。誰もが言葉を失い、ただ沈黙を守る。そこには、生々しい現実を直視することへの戸惑いが確かにあった。目の前に立つ少女が抱えているものの重みを、誰もが少しずつ感じ取っていたのだ。
まるで静寂の中のさらに深い静寂――その異様な空気が教室を包み込む中、錦堀先生がその重い空気を静かに壊した。
「戸田、ありがとう。みんな、これから彼女をよろしくな。」
しかし、その言葉がクラスに届いてもなお、誰も動かない。彼女の告げた病名が、頭の中で繰り返されるように響いていたのだ。
清輝はそんな彼女の姿をじっと見つめていた。教室の誰もが視線を外してしまいそうなその中で、ただ一人、目をそらさずに。隣の烈志も、普段の陽気さを完全に潜め、腕を組みながら無言で彼女を見ていた。
教室の静寂はそのままに、真希の細い声が微かに空間に残響を残して消え。
教室の空気は静寂に包まれたまま、まるで時間が完全に停止してしまったかのようだった。先ほどまでのめくるめくような活気が嘘のように、全員が言葉を失っている。時計の針が動く音すら聞こえてきそうな、重く張り詰めた空気。
真希は、その場をどうすればいいのか分からず、立ち尽くしていた。手元の酸素濃縮器をちらりと見て、何か話さなきゃという思いから、機械に手を置きながら、ぎこちなく口を開いた。
「あ、えっと……これ、酸素ボンベなんですけど……」
小さな声でそう言いながら、クラス全員にそれを見せようとした瞬間――
「……なんか、スキューバダイビングみたいだな。」
不意に清輝が呟いた。その一言に、教室全体が一瞬凍りついた。真希の発言に対してあまりに軽すぎる言葉だったからだ。
「おい、バカ!」
クラスの生徒たちが、思わずそんな声を上げる。非難の視線が清輝に向けられる中、烈志が苦笑いしながら清輝を肘で軽く小突く。
だが、そんな緊迫した空気を変えたのは意外な人物――真希だった。
「……エヘヘ、確かに、そうかも。」
真希が小さく笑いながら、少しだけ緊張を解いたような表情を見せる。そして、酸素濃縮器に触れながら、冗談めかした口調で続けた。
「でもね、ハレー彗星が通過して、地球が酸欠になっても、これがあれば私、5分は持ち堪えられるよ。」
教室が一瞬、静寂に戻る――かと思いきや。
「いつの時代だよ、それ。」
清輝が呆れたように言い放つ。その言葉に、まず烈志が吹き出し、その後、一人、また一人と笑いが広がり始めた。
「いやいや、ハレー彗星とか古すぎだろ!」
「5分って短くない!?それで終わりかよ!」
教室中から冗談混じりの突っ込みが飛び交い始め、ようやく場が和んでいく。ついさっきまでの重苦しい雰囲気が嘘のように消え、笑い声が教室を包み込んだ。
真希は小さく息を吐きながら、顔を少し赤らめて微笑む。その姿を見て、清輝もほっとしたように肩の力を抜いた。
「……まぁ、これで酸欠も解消されたろ。」
清輝がぼそっと呟くと、烈志が肩をすくめながら笑う。
「お前、ほんと適当なやつだな。でも、場が持ち直したのはお前のおかげかもな。」
教室には、再び穏やかな空気が流れていた。真希のぎこちない自己紹介は、彼女の小さな笑顔とともに、なんとか終わりを迎えたのだった。
教室の賑やかな雰囲気の中、真希はふと時計を見上げた。その瞬間、クラスメイトたちからの質問が止む気配はなかったが、彼女は軽く手を挙げて「ごめん、そろそろ帰らないと」と、とってつけたような理由を口にした。
「えー、もう帰るの?」
「まだ聞きたいこといっぱいあるのに!」
そんな声を背に、真希は笑顔で「また明日ね」と言いながら教室を抜け出した。そして廊下に出ると、真希は清輝と烈志の姿を探して歩き始める。
階段を下りる途中、ちょうど廊下を歩いている二人の後ろ姿を見つけた。慌てて足を速め、追いつくと軽く息を整えながら声をかけた。
「ねえ、待って!」
二人が振り返ると、真希が少し息を切らせながら立っていた。
清輝が眉を上げて言う。
「お前、また明日声かけようと思ってたのに、なんで今来るんだよ?」
その言葉に真希は少し顔を赤らめながら、笑って言った。
「……だって、今日中にお礼言いたかったから。」
清輝は照れ隠しのように鼻を鳴らして肩をすくめたが、横で烈志がニヤリと笑いながら言った。
「お前もジョナサン行くか?」
真希は少し驚いた顔をした後、すぐに目を輝かせながら頷いた。
「うん!行く!」
烈志はその返事に満足げに頷き、「歩きは遠いけど、俺のチャリの荷台に乗ればいい」と提案する。
「いや、気をつけろよ。尻に赤錆がつくぞ。」
清輝が忠告するが、真希は笑顔で首を振る。
「それでもいいよ。」
烈志は嬉しそうに自転車を押しながら歩き出し、清輝はため息をつきながらその後ろについていく。三人の軽口が飛び交いながら、ゆっくりとジョナサンへ向かう道が続いていく。
ジョナサンの明るい店内に、三人の姿が映し出される。窓際の席で、彼らはメニューを広げながら何かを話している。そこにはもう緊張も気まずさもなく、ただ穏やかで楽しい空気だけが流れていた。
ジョナサンでメニューを選びながら、清輝がふと真希に問いかけた。
「で、周りと仲良くできそうか?」
真希は少し驚いたような顔をしてから、笑顔で頷いた。
「うん、もちろんできると思う。」
その言葉に、清輝が「そっか」と軽く頷いたところで、烈志が急に大声で笑い出した。
「ガハハ!俺らみたいな男とつるんでも仕方ないだろうに。」
烈志の冗談めいた口調に、真希は少し困ったような顔をしたが、すぐに微笑んだ。その様子を見た烈志がさらに言葉を続けようとした時、不意に視線を外へ向けた。
「おっ、あそこ歩いてるの、佳苗じゃねぇか。」
烈志が窓の外を指さした先には、ちょうど歩道を歩いている佳苗の姿があった。清輝はその瞬間、嫌な予感が胸をよぎったが、それを振り払う間もなく、烈志が椅子を立ち上がった。
「待ってろよ、今友達を紹介してくる。」
烈志が意気揚々と外に出ていくのを見て、清輝は慌てて立ち上がる。
「おい、やめろって!」
だが烈志は振り返りもせずに手を振りながら言い放つ。
「もう謹慎終わってんだ、今更なんかあるかよ!」
清輝は頭を抱えて「違う、そうじゃなくて……」と呟くが、烈志は全く耳を貸さない。そのまま佳苗に向かって一直線に歩いていき、何かを話しかけ始めた。
ジョナサンの扉が開き、烈志に連れられて佳苗がやってきた。清輝を見た瞬間、佳苗は眉をひそめ、不快そうな顔をする。
「ほら、これが転校生の真希!こっちは幼馴染の佳苗な!」
烈志が元気よく紹介すると、佳苗はちらりと真希を見て、軽く会釈した。
「門限、大丈夫なの?」
佳苗がふいにそう尋ねると、烈志が笑いながら答える。
「ああ、大丈夫。今日はちょっと緩いからさ!」
「ふーん。」佳苗は短く返事をしてスマホを取り出し、画面をいじり始める。
真希は少し困惑しながらも「よろしくお願いします」と控えめに挨拶したが、佳苗はそれ以上話す様子もなく、空気はどこかぎこちない。
ついに清輝が苛立ちを隠せず、椅子を立った。
「おい!烈志、ちょっと外で話そうぜ!」
「お、おう?」烈志が戸惑いつつも立ち上がる。
清輝は烈志を引っ張り、店の外へ向かう。その場には真希と佳苗だけが残され、微妙な沈黙が漂った。
店内は静寂に包まれたまま、佳苗はスマホをいじり続け、真希は視線を落としたまま席に座っている。
「転校生なんだ。」
佳苗が不意に口を開くと、真希は少し驚いて顔を上げた。
「あ、はい……佳苗さんは……」
真希が答えようとすると、佳苗が言葉を遮るように被せた。
「烈志を誘ったの?」
真希は一瞬、言葉を詰まらせた後、小さく首を振りながら答えた。
「いえ……」
佳苗はさらに厳しい声で追い打ちをかける。
「じゃあ清輝?」
その問いに、真希は黙り込んだ。佳苗の好意的でない態度を感じ取り、言葉を失う。
佳苗はスマホを机に置き、真希をじっと見据える。冷たい視線に真希は縮こまるように肩をすぼめた。
「碌でなしの清輝なら、いくらでも相手しても構わない。でも、烈志は違う。」
佳苗の言葉にははっきりとした怒りが込められていた。
「烈志は世界を狙える。スポーツ推薦で大学に行って、その先にはプロの世界が待ってる。こんな場所で遊んでる暇なんてないの。」
真希はその言葉に反論しようにもできなかった。ただ佳苗の勢いに押されて、じっと耐えるしかない。
「あなたは烈志の大事な時間を奪っている。そこんとこ、わかってる?」
佳苗の冷たい言葉が突き刺さる。真希は俯き、何も言えなかった。佳苗の視線がさらに鋭くなる中、沈黙だけが二人の間を支配した。
佳苗はスマホをいじる手を止め、真希に冷たい視線を向けた。真希は何かを言おうと口を開くが、佳苗のその鋭い目に圧倒され、言葉を飲み込んでしまう。重い沈黙がしばらく続いた後、真希は小さな声で口を開いた。
「烈志君は別に……そんなのは……」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、佳苗の顔に一瞬で怒りの色が広がった。
「何が分かるの、あんたに!?」
佳苗が感情的に声を荒げ、真希を睨みつけた。突然の大声に真希は驚き、思わず身を縮める。佳苗はそのまま畳みかけるように話を続けた。
「烈志がどんな思いで柔道に打ち込んでるか、あんたには分かるわけないでしょ!……あんたみたいな奴が邪魔する権利なんてないの!」
その言葉はまるで刃物のように真希の胸に突き刺さった。真希は目を伏せ、言葉を返すことができなかった。ただ俯いて、佳苗の怒りが静まるのを待つしかない。
佳苗はしばらく真希を睨みつけていたが、ふいにため息をつき、スマホをポケットにしまった。
「もう烈志に関わらないで。邪魔だから。」
冷たく吐き捨てるように言い放つと、佳苗はそのまま振り返り、ジョナサンを後にした。真希はその背中をただ見送ることしかできなかった。胸の中には、何とも言えない後味の悪さと、言葉にできない不安が渦巻いていた。
佳苗が去った後、しばらくして清輝と烈志が戻ってきた。烈志は笑いながら席に着くなり、気軽な調子で話し始める。
「いやぁ、悪い悪い!佳苗、体験入部を邪魔されたとかで怒ってるんだよな。まぁ、正確には清輝が悪いんだけどさ!」
その言葉に清輝は一瞬だけ目を細めた。烈志が言っていることが完全に嘘だというのは分かっていた。しかし、場を和らげるための嘘であることも分かる。それでも、佳苗の感情を知っている清輝は心の中で小さくため息をついた。
「……あぁ、悪かったよ。俺が余計なことしたせいだな。」
清輝は苦笑いしながら、烈志に合わせて軽く頭を下げた。その態度に烈志は少し驚いたようだったが、「まぁ、佳苗のああいうとこ、どうしようもねぇよな!」と軽く流して笑った。
清輝は場の空気を変えるために、わざと話題を変えた。
「そういや、烈志。俺らがガキの頃、東京に行こうとしてやらかした話、真希にしてやれよ。」
烈志は目を丸くし、「お前またその話かよ!」と笑いながら言った。
「まぁ、聞いてみなよ。俺ら、小学校の頃に『東京行こうぜ!』って盛り上がってな。チャリで行けるだろってノリで出発したんだよ。」
真希は少し目を輝かせながら、「チャリで東京!?本当に行けたの?」と驚いて聞いた。
清輝は苦笑いしながら話を引き取った。
「いや、当然無理だったな。地図も読めねぇから、『南に向かえば東京だろ』って適当に進んで、気づいたら山道に迷い込んじまったんだ。」
「そうそう!」烈志が大笑いしながら続ける。
「で、途中で『この先に東京がある』とか根拠もないこと言って、結局、寄居のほうまで行っちまったんだよ!」
真希は思わず吹き出した。
「寄居まで行ってたの!?それ、全然東京じゃないよね。」
清輝は肩をすくめ、「だろ?あの頃はそんなの分かりゃしねぇって」と呟いた。烈志がさらに笑いを堪えながら話を続ける。
「で、腹が減って動けなくなったところで、警察に見つかってさ!事情を聞かれたら『東京に行こうとしてます』とか言っちまって、警官が真顔で『家に帰れ』って怒鳴りつけてきたんだよな!」
清輝はその時のことを思い出し、軽く鼻で笑った。
「あの時の警察の顔、未だに忘れらんねぇよ。完全に呆れられてた。」
真希は手を口元に当ててくすくす笑いながら、ふと尋ねた。
「でも、どうしてそんなに東京に行きたかったの?」
清輝は少し照れくさそうにしながら答えた。
「なんでって……ただ憧れてただけだよ。テレビで見る大都会とか、電車が走る風景とか、そんなの全部、秩父じゃ見られねぇからな。」
真希はその答えに少し微笑みながら、「東京か……」と遠くを見つめた。
「でもね、東京ってそんなにいいところばかりでもないよ。空気は悪いし、星も見えないし……でも、いろんな人がいて、いろんなものがある。だから、特別な場所ではあるんだと思う。」
清輝はその言葉に少し頷き、「なるほどな」と短く返した。そして、自分たちの失敗談を補完するように言葉を続けた。
「まぁ、俺らは東京の大都会を見るどころか、秩父に引き返されて終わりだったけどな。結局、そんなもんだ。」
烈志が大笑いしながら、「でもさ、あれもいい思い出だよな!」と話を締めくくる。
真希は二人の話を聞いて、どこか温かい気持ちになっていた。彼らの無邪気な冒険話が、秩父という場所ののどかな雰囲気をそのまま表しているように感じた。
「ここも……悪くないと思うよ。」
真希はそう言って、小さく微笑んだ。
烈志が自転車にまたがり、ゆっくりと遠ざかっていく。その背中をぼんやりと眺めながら、私は少しだけ足を止めた。ジョナサンで過ごした時間の温かさが、まだ胸の中に残っている。
「楽しかったな……」
自然と口をついて出た言葉に、自分でも驚く。こんな風に、誰かと一緒に笑い合いながら過ごす時間が、私にとってどれだけ遠いものだっただろう。ずっと、一人でいるのが当たり前だったから。
店の中での光景が頭の中に浮かぶ。清輝君の飄々とした冗談に、烈志君の豪快な笑い声。佳苗さんと話したときの緊張した空気だって、今思えば悪い気はしなかった。まるで「普通の高校生」みたいな気分にさせてくれた時間。
「佳苗に何か言われたか?」
隣を歩いていた清輝君の問いかけに、私は思わず一瞬だけ足を止めた。どうしようか迷ったけれど、結局は嘘をつけなくて、素直に答えることにした。
「うん……烈志君に関わるなって、そう言われた。」
その言葉を口にした途端、胸の中が少しだけ苦しくなった。でも、それを言わずに黙っているのも、もっと苦しくなりそうだったから。
清輝君はため息をついて「はぁ……そりゃ難儀だな」と呟く。その声に含まれた諦めとも、面倒くさそうな響きともつかないトーンが、少しだけ可笑しかった。
「でも、佳苗さんだって本当に烈志君のことを思って……」
そう言おうとした私の言葉を、清輝君が手を挙げて制する。
「秘密な。誰にも言うなよ。」
軽い口調で釘を刺すと、彼は肩をすくめながら話し始めた。
「烈志と佳苗はな、幼馴染なんだよ。で、佳苗は一方的に烈志が好きなんだな。でもなぁ……転校生に八つ当たりってのは、ちょっと違う気がするけどな。」
その言葉を聞きながら、私は足元のアスファルトを見つめていた。佳苗さんの気持ちは、なんとなく分かる気がする。好きだからこそ、不安になるし、他の誰かにその感情を乱されるのが怖くなる。それでも……。
「親友として、なんとかしてあげないの?」
気づけば、そんな問いを口にしていた。清輝君は少しだけ眉をひそめて、考え込むような顔をする。
「なんとかしてやりたいか……まぁ、時間が解決してくれるだろ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚がした。私は立ち止まり、まっすぐに清輝君を見上げた。
「……時間が解決なんてしてくれないよ。」
自分の声が驚くほど静かで、でもはっきりとしていたことに気づく。清輝君が振り返り、私の顔をじっと見つめる。何か言おうとしているみたいだけど、その言葉は出てこなかった。
その時、踏切の警報音が響き渡り、すぐ近くを電車が通過していった。窓から漏れる光が私たちの間を駆け抜けていく。
私はしばらくの間、電車の音と光に照らされながら清輝君を見つめていた。きっと今の私の顔は、普段の私とは違う顔をしている。いつもなら言わない言葉を口にしたから、何かが変わってしまった気がした。
電車が通り過ぎると、あたりに静けさが戻る。私はもう一度、胸の中に残っていた言葉を飲み込んで、歩き出した。
清輝君は私の後ろをついてきながら、何かを考えているようだった。でも、私はもう振り返らず、ただ前を向いて歩き続けた。
清輝君は少し間を置いてから、ポツリと言った。
「……じゃあお前がなんとかしろよ。」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。清輝君の声には、どこか冗談めいた響きが含まれていて、驚きながらも「えっ?」と声を漏らしてしまう。
「だから、お前がなんとかしろって言ってんだよ。」
清輝君は軽く肩をすくめて、にやりと笑った。その表情は、いつもの気楽そうな彼そのもので、なんだか拍子抜けしてしまう。
「時間は解決してくれないんだろ?そりゃ分かってるよ。だけど、俺にはこれしかやり方がねぇしさ。」
そう言いながら、清輝君は何も気にしていないように、あっさりと歩き出した。
私がその場に立ち尽くしていると、彼は振り返ることもなく、手を軽く振りながら言葉を投げかける。
「お前なら、もうちょっと上手くやれるだろ?ま、頑張れよ。」
その背中を追いかけたくて、「待って!」と声を張り上げた。でも、彼は止まらなかった。私の声なんて聞こえていないかのように、ただ淡々と歩いていく。
「……なんとかしろって……どうやって……。」
小さく呟いた言葉は、自分の耳にしか届かない。風に乗って、清輝君の背中へ届くこともない。
足が前に出なかった。胸の中が、なぜだか妙にざわざわと落ち着かなくて、どうしようもない気持ちが溢れてくる。清輝君の背中はどんどん遠ざかっていくけれど、私はその場に立ち尽くして、ただ見つめることしかできなかった。
夕暮れの空がオレンジ色に染まり、道端の影がどんどん長く伸びていく。清輝君の影も、彼の背中も、次第にその景色に溶け込んでいくようだった。
(私が、なんとか……する……?)
その言葉が頭の中をぐるぐると巡る。できるのかな――そんな不安が湧き上がる一方で、胸の奥には小さな灯火のようなものも揺れているのを感じた。やれることがあるなら、何かを変えられるなら、私は――。
風がふわりと髪を揺らし、清輝君の姿が見えなくなった時、ようやく私は一歩を踏み出した。その足取りはどこかぎこちなく、それでも確かに未来へ向かうものだった。




