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8話.疾患

 10歳の時、「突発性難呼吸機能疾患」って診断された。発症してから10年生存できる確率は半分――そんなこと、最初は実感なんてなかった。


 お母さんも同じ病気だった。小学生の時に亡くなって、それ以来ずっとお父さんと二人で生きてきた。最後に見たお母さんの顔は、苦しそうだったけど笑ってた。その笑顔が忘れられない。でも同時に、思い出すのが怖い。どうして私がこんな病気に生まれたのかって、何度も思った。


 小学校も中学も、病院がほとんど。たまに学校に行けても、友達がいるわけじゃない。行けば、自分が普通じゃないって思い知らされるだけ。だから、行くのが嫌だった。


 高校に入るとき、お父さんが会社を辞めた。「空気の綺麗な場所に行こう」って。実際の理由は、お母さんを亡くした都会から離れたかったからだと思う。お父さんの生まれた故郷、秩父。ここでなら、少しは落ち着けるんじゃないかって思ったんだと思う。でも私にとっては、どこに住もうが変わらない。ただ、どこかにいるだけ。


 東京で一年間だけ通信制の高校に通った。でも何も変わらなかった。自分の殻に閉じこもって、病気や未来のことを考えるのを避けてたんだと思う。


 今、秩父の静かな街で、私は「生きてるだけ」。病院通いも日常の一部で、ここではそれが当たり前。普通に生活するなんて、想像すらできない。


 図書室の扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を包む。窓際から差し込む柔らかな陽射し。ここが私の「学び舎」になるんだなって思うと、少しため息が漏れた。


 机の上には無機質な答案用紙と参考書が置かれている。「これで勉強しろ」ってことなんだろうけど、どこか投げやりに感じる。机に腰を下ろしても、この空間に馴染める気がしない。


 参考書を開いたけど、内容が全然頭に入ってこない。ただ紙をめくる手だけが無意味に動く。


 そのとき、ふと視界の端に人影が見えた。窓際の席に一人、適当に座っている男の子。髪はぼさぼさで、制服もだらしなく着崩している。机にはノートが広がっているけど、やる気はなさそう。窓の外をぼんやり眺めては、面倒くさそうにノートを見ている。


(あの人、誰だろう。)


 視線を戻そうとしたけど、なんとなく気になってもう一度見た。見た目はだらしないけど、どこか余裕があるようにも見える。私と同じ「ここにいるだけ」の人なのかなって思った。


 静かに椅子を引いて座り直し、机に広げた答案用紙に目を落とす。でも集中できない。机の上に広がる参考書と白い紙の空白が、なんだか圧迫感を与えてくる。これが私の「高校生活」だと思うと、どうしようもなく虚しくなる。


 その時――


「おい、それ、間違ってるぞ。」


 不意に声がして、思わず顔を上げた。声の主は、さっきの男の子。私のノートに視線を落としながら、眉をひそめている。


「垂直方向の計算、ズレてるだろ?そこ間違えると、全部おかしくなるぞ。」


 突然の指摘に驚きつつ、言われた通りにノートを見返すと、確かに計算が間違っていた。反射的に「ほんとだ」と呟くと、彼は呆れたように鼻で笑った。


「ったく、どんだけ勉強してねぇんだよ。」


 その言葉に少しイラっとしたけど、どこか的を射ている気がして何も言えなかった。代わりに、小さな声でお願いしてしまった。


「……他の問題も見てくれる?」


 自分でも驚いた。見ず知らずの相手に、こんな風に頼むなんて。でも、彼の説明は分かりやすかったし、一人で間違いに気づかないまま進めるのが嫌だった。


 彼は面倒くさそうにため息をついて、渋々椅子を引いて隣に座った。


「ったく、ちょっとだけだぞ。」


 そう言いながら、ノートに目を通し始めた。彼が指摘するたびに、自分の間違いに気づいていく。思ったよりも多くて、どんどん恥ずかしくなる。


(なんでこの人、こんなに分かるんだろう。)


 気づけば、彼の言葉に耳を傾けていた。こんな風に誰かと勉強するのは、何年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない。


 彼の存在が、少しだけこの空間を変えてくれた気がした。


(ここにいる。それだけで、今は十分。)



 図書室には静かな時間が流れていた。窓から差し込む午後の陽射しが机を柔らかく照らし、埃がゆっくりと空気中を舞っている。静寂を破るのは、ペンがノートを走る音と、低く抑えた声だけだった。


「おい、そこ『be動詞』の後は動詞の原形だろ。なんでまた『ing』つけてんだよ?」

 清輝が少し苛立たしげに指摘する。隣に座る真希は、うつむき加減でノートを見つめながら小さく頷いた。


「あ、そうだ……ごめん。」

 彼女はすぐに間違いを直そうとするが、ペンを持つ手がどこか頼りなく、清輝はその様子を見てため息をついた。


「何回言ったら覚えるんだよ。ほら、もう一回やり直せ。」

 ノートを指で軽く叩きながら、清輝は強めの口調で促す。だが、その視線にはどこか優しさが滲んでいた。


 真希は慌てて消しゴムで訂正し、清輝が問題の答えを確認する。彼女のノートには英語の文法問題が並び、書き直された文字がところどころ薄く滲んでいた。


「そこは『She doesn’t like swimming.』な。『don’t』じゃなくて『doesn’t』だぞ。」

 清輝がそう言いながらペンでノートを指すと、真希はまた小さく「ありがとう」と呟いて書き直した。


 図書室の静かな空間に、清輝の声が何度も響く。注意されるたびに真希は頷き、訂正を繰り返していた。その様子を見て、清輝はまた軽く溜息をついた。


「ったく、基礎中の基礎ばっかり間違えやがって……お前、ほんとに中学英語やってたのかよ?」

 その言葉に、真希は少し眉をひそめたが、何も言い返さなかった。ただ、机に置いた手をきゅっと握りしめる。


「……まぁいいや。ほら、次の問題な。」

 清輝は適当に参考書をめくり、次のページを開く。


「これ、疑問文に書き換えろってやつ。『You play tennis every day.』をどう変える?」

 真希は少し考えた後、ペンを握り直してノートに書き込む。


「……Do you play tennis every day?」

 そう言って顔を上げると、清輝は片方の眉を上げて頷いた。


「お、やればできるじゃん。やっと正解だな。」

 彼が少しだけ口元を緩めると、真希もほっとしたように小さな笑みを浮かべた。


「……でも、なんでこんな簡単なこと、前に覚えられなかったんだろう。」

 真希が呟くように言うと、清輝はすぐに言葉を返す。


「そりゃお前、まともに授業受けてなかったんだからしょうがねぇだろ。今から覚えりゃいいんだよ。」

 その言葉は素っ気ないようでいて、どこか温かさが含まれていた。


 図書室の窓の外では、風が木々を揺らし、葉がさらさらと音を立てている。その音に気を取られることもなく、清輝は淡々と次の問題を指差した。


「次いくぞ。『He went to the park yesterday.』を否定文に変えろ。」


 真希はペンを動かしながら、少しずつ自信を取り戻しているように見えた。隣でそれを見ている清輝の表情も、ほんのわずかだが柔らかくなっていた。


 図書室の静かな空間で繰り返されるやり取りは、いつもの日常になりつつあった。どこにでもある普通の時間――でも、今の真希にとっては特別で、清輝にとってもどこか悪くない時間だった。



 勉強がひと段落し、清輝はペンを机に置いて大きく伸びをした。そのまま椅子を後ろに引いて立ち上がり、窓へ向かう。外の空気を吸い込むと、ふいに振り返って言った。


「……最近、発作起きてなくね?」


 突然の問いに、真希は少しだけ驚いたように顔を上げる。

「……そうかもね。空気が綺麗だからかな。」


 清輝は鼻で笑いながら窓の外を見つめる。

「こんなクソ田舎で空気が綺麗って?都会だって変わんないだろ。」


 真希は微かに笑いながら首を横に振る。

「ここは別格なんだよ。ほんとにね、空気が違うんだから。」


 清輝は「へぇ」と気のない返事をして、窓枠に手をつきながら軽く肩をすくめた。


 その時、校内に昼のチャイムが響いた。清輝はその音に反応して大きな伸びをし、図書室の出口に向かいながらぼやいた。

「あー、腹減った。」


 出口の近くまで来たところで、ふと思い出したように振り返り、真希を見てぽつりと言う。

「ん?飯は?」


 真希は少し驚いた顔をして、控えめに首を横に振る。

「私は、別にいいよ……。」


 その返事に清輝は目を丸くし、すぐに大げさに眉をひそめた。

「良くない!少しくらい付き合え!」


 突然の勢いに、真希は戸惑いながら「えっ?」と狼狽える。


「ほら、行くぞ!」

 清輝はそう言うなり、多少強引に真希の腕を引き、出口へと向かう。真希は驚いた表情のまま、言い返す間もなく引っ張られる。


「ちょ、ちょっと!どこに行くの!?」


 清輝は振り返りもせず、軽く手を振って言い捨てる。

「いいから屋上!風も通るし、ここより空気もいいぞ!」


 真希は半ば呆れながらも、その勢いに逆らえず、清輝に連れられて図書室を出ていった。


 屋上に足を踏み入れると、冷たい春の風が顔を打った。真希が薄いセーターの袖を引っ張りながら「ちょっと寒いね」と呟いたその瞬間、目の前の光景に思わず言葉を失った。


 屋上の隅では、大柄な男――烈志が上半身裸で堂々と寝そべっている。陽射しを全身に浴びながら、まるで夏のビーチにいるかのような風格である。


「……え?何してるの?」

 真希が驚いた声を漏らすと、清輝が面倒くさそうに肩をすくめながら言った。

「まぁたやってるよ。アレだよ、夏の大会に向けて体を焼いてるんだってさ。こいつ、柔道部なんだぜ?」


 その言葉に真希がきょとんとした顔をするのを見て、烈志が起き上がり、得意げに笑いながら説明を始めた。

「俺の見立てではな、体が日焼けして黒くなると、相手の動体視力に3.8%の遅れが生じるんだよ。これで勝率が大幅に上がるってわけ。」


 自信満々の顔で、まるでそれが科学的に証明されているかのように話す烈志に、真希は唖然とした表情を浮かべた。


「えっと……でも柔道って、道着を着ますよね?」

 真希が冷静に指摘すると、一瞬の間が空いた。


 清輝が「お前、烈志より頭いいな」と呟きながら頭を抱えると、烈志は少し黙り込んだ後、焦りを隠しきれない様子で言い返した。

「いや、それは……まぁ、雰囲気っていうか、あれだ!気持ちの問題だよ、気持ち!」


「めちゃくちゃじゃん……。」

 清輝はため息をつきながら、両手で顔を覆った。


 真希はそんな二人の様子を見て、くすくすと笑いながら肩をすくめた。冷たい風が吹き抜ける屋上での光景は、どこかおかしみがあって、ほんの少しだけ暖かかった。


 その後、烈志と真希が仲良くなるのに、それほど時間はかからなかった。


 清輝が「無理させんなよ」と念を押しているものの、烈志は真希と打ち解けようと何かと話題を振ってくる。そんな中、烈志は自分から話を切り出す機会を見つけると、いきなり去年の新聞を取り出してきた。


「ほら、去年の全国大会。俺、堂々の優勝だぜ。」

 そう言って、烈志は得意げに広げた新聞を真希の前に差し出す。


 真希は少し戸惑いながらもその新聞を見つめた。紙面には全国大会で金メダルを首に掛けた烈志の写真が大きく掲載されている。その写真には相手を投げ飛ばし、試合を制した瞬間の堂々とした姿も映っていた。


「たくさんあるから、1部やるよ。」

 烈志が真希に向かって力強く差し出すと、清輝がすかさずツッコむ。

「おい、それ俺にもう40部くらい渡しただろ。全部燃やしたけどな。」


 その言葉に真希は吹き出しそうになるが、新聞を差し出している烈志の真剣な表情を見て、思わず笑いを堪えた。そして困ったようにその新聞を受け取る。


「……すごいですね。」

 真希が感心したように呟くと、烈志は得意げに頷きながら胸を張った。

「だろ?俺の得意技、背負い投げだ。相手がどんなにでかくても一発でひっくり返してやるんだよ。」


 その自信満々な様子に、真希はクスッと笑いながら、冗談交じりに「それで筋肉を見せつけるために日焼けしてるんですか?」と尋ねる。


「ああ、そうだ。戦う前から相手を圧倒するのが大事なんだよ。」

 烈志は冗談を真に受けたのか、それとも冗談に乗っかったのか、自信たっぷりに答えた。


 そんなやり取りを見ていた清輝が、呆れたように肩をすくめる。

「こいつ、頭ん中まで筋肉だからな。」


 真希はそんな二人の掛け合いを見ながら、自然と笑顔がこぼれていた。新聞を抱えたまま、彼女の中に少しずつ温かい空気が流れ始めていた。


 そんな昼休みも終わりかけ、屋上には柔らかな春の風が吹き抜けていた。フェンスに片手をつき、遠くの山並みを眺めながら清輝が口を開いた。


「……あーあー、明日で謹慎終わりかー。」

 ぼそっと呟くその声には、どこか達観したような響きがあった。

「長いようで短かったな、ま、どうでもいいけどな。」


 烈志がその言葉を聞いて顔を明るくした。

「おお、マジかよ!やっと戻ってくるのか、そりゃ良かったじゃねえか!」

 そう言いながら清輝の肩を叩く。

「お前がいねぇ間、俺がどんだけ寂しかったか分かるか?清輝がいねぇと話す相手が減るんだよ!」


「俺、別にお前の話し相手になるために存在してるわけじゃねぇから。」

 清輝は軽く肩をすくめながら呆れたように返す。だが、どこか悪くなさそうな表情を浮かべていた。


 一方で、少し離れた場所に立っている真希。清輝の「明日で謹慎が終わる」という言葉を耳にした瞬間、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。


(……明日から、クラスに戻るんだ。)


 そう思うと、なんとも言えない感情が胸の中で渦巻いた。もちろん、清輝が元のクラスに戻るのは良いことだ。それは分かっている。だけど、ここで過ごしていたこの時間が終わるということに、どうしようもない寂しさを感じていた。


「おい、真希。お前も寂しいだろ?」

 烈志がからかうように声をかけてきた。ニヤニヤと笑いながら、真希に視線を向ける。


「えっ……そ、そんなことないよ!」

 真希は少し顔を赤らめながら首を振る。でも、その声にはどこかぎこちなさが滲んでいた。


 烈志はその様子を見てさらに笑顔を広げた。

「嘘つけ!その顔、めっちゃ分かりやすいぞ!」


「べ、別に……!」

 真希は慌てて言い返したが、烈志の明るい笑い声に圧倒されてしまう。


 そんな様子を見た清輝が、ため息混じりに口を挟んだ。

「おい、からかうなって。真希だって色々考えてんだろ。」


 その一言に、真希は少し驚いて清輝を見上げた。彼の視線は、いつものように軽いようで、どこか気遣うような色を帯びている。


「でもまあ、俺は明日からクラス復帰だしな。」

 清輝がフェンスから手を離し、ゆっくりと伸びをした。

「図書室も案外よかったな。」


 その言葉が、真希の胸にぽっかりと穴を開けたような気がした。


(……もう来ない?)


 真希の中に残っていたわずかな温かさが、ふっと冷たい空気に変わる。彼女は言葉にできない感情を抱えながら、俯いて小さく「そっか」と呟いた。


 烈志はそんな空気を感じ取ることもなく、朗らかに声を上げる。

「やっとクラスに戻れるってのに、なんでそんなにやる気なさそうなんだよ?」


「だってめんどくせぇじゃん。」

 清輝はぶっきらぼうに答えるが、烈志は気にする様子もなく大笑いする。


「そろそろチャイム鳴るぞ。戻る準備でもするか。」

 烈志が軽い調子で言いながら立ち上がる。清輝も「そうだな」と相槌を打つ。


「真希、お前も行くんだろ?」

 清輝が振り返って声をかける。彼の目が真希をまっすぐに捉えた。


「……うん。」

 真希は一瞬ためらった後、小さく頷く。だがその声には、ほんのわずかに揺れる感情が滲んでいた。


 三人はゆっくりと屋上の階段に向かう。初夏の柔らかな陽射しが背中を押すように降り注ぐ中、真希の心には小さな寂しさが残り続けていた。


 午後の図書室は、静けさの中に時折ページをめくる音が響くだけだった。清輝も真希も、互いに話すことなくそれぞれの課題に向き合っていた。清輝は面倒くさそうにペンを動かし、真希は黙々と最後の問題を解こうと集中していた。


 たまに錦堀先生がやってきては、どちらにも話しかけるが、特筆するような会話はなかった。先生の声は穏やかで、真希に「どうだい、進んでるか?」と優しく問いかける一方で、清輝には「読書感想文、ちゃんと書いてるんだろうね?」と念を押す。


 真希が最後の問題を解き終わったのは、夕方近くのことだった。彼女はノートを閉じ、小さく息をつくと、錦堀先生に解答を見せに行った。


「うん、素晴らしいね!」

 錦堀先生は笑顔で真希を褒める。

「これなら同年代のクラスメイトにも十分追いついてるよ。いや、もしかしたらもう抜かしてるかもしれないな。」


 その言葉に、真希はほんの少しだけ顔をほころばせた。だけど、どこか控えめに「ありがとうございます」と返すだけだった。


(ここまで来れたのは、清輝くんのおかげだな……。)


 そんな風に思いながら、真希は清輝に「ありがとう」と言おうと視線を向けた。だが、清輝は錦堀先生の前でそれを察したのか、軽く目をそらしながら「やめとけ」と言わんばかりの雰囲気を漂わせていた。


(……そういうとこ、不器用なんだから。)


 真希は仕方なく言葉を飲み込んで、そっとノートを鞄にしまった。



 夕方のチャイムが鳴り、図書室の空気がふっと変わった。清輝が席を立ち、机に置いていた読書感想文を持ち上げる。


「これ、出してくる。」

 短くそう言うと、彼はゆっくりと歩き始めた。その背中を見ながら、真希はずっと言えずにいた言葉を口にした。


「……清輝くん。」


 彼は振り返らなかったけれど、足を止めて耳を傾けた。


「いろいろ、ありがとう。」

 その声は小さかったが、図書室の静けさの中でははっきりと届いた。


 少しの間があってから、清輝が肩越しに言葉を返す。

「……ま、なんかあったらいつでも言えよ。」


 それだけ言うと、彼はそのまま図書室の扉へ向かい、ゆっくりと出ていった。


 扉が閉まり、図書室は信じられないほどの静寂に包まれた。それまでのやり取りや清輝の存在感が嘘だったかのように、空間はぽっかりと穴が開いたように感じられた。


(……なんだったんだろう、今までの時間。)


 真希は机に残された参考書やノートに目をやりながら、ふとそんなことを思った。でも、その静寂の中で、彼女の胸にはほんの少しだけ温かな余韻が残っていた。


 やがて、夕陽が図書室の窓から差し込み、静かにその空間を包み込んだ。



 夕陽が校舎を染める中、真希は鞄に教科書を詰めながら帰り支度を整えていた。お父さんが迎えに来る時間も近いだろうと思い、静かに図書室を出る。


 廊下を歩き、階段を下り始めた時、上から上がってくる足音が聞こえた。顔を上げると、それは錦堀先生だった。彼は真希に気づくと、ホッとしたように笑顔を浮かべた。


「よかった、ちゃんと帰るところだったんだね。探してたんだよ。」


 真希は小さく頷いて「お疲れ様です」と返事をする。錦堀先生は「じゃあ気をつけて帰るんだよ」と言いながら踵を返し、階段を降りようとした。


 だが、その背中に向かって、真希は思い切って声をかけた。


「あの……先生。」


 錦堀先生は立ち止まり、振り返る。


「何かな?」


 真希は少し迷いながらも、勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。


「……私、クラスに入れてもらえないでしょうか?」


 その言葉に、錦堀先生は一瞬驚いたような顔を見せる。そして、慎重に言葉を選びながら答えた。


「それは……お父さんやお医者さんとも相談した方がいい話だと思うよ。君の健康が一番大事だからね。」


 真希は少し視線を落としながらも、頷いて話を続ける。


「それは分かっています。でも……私、もう少しだけ普通の高校生活を送りたいんです。」


 錦堀先生は腕を組み、難しい表情を浮かべる。


「君の気持ちは分かるけどね……校内規則のこともあるし、君が体調を崩したら学校としても責任を負うことになる。危ないんじゃないか?」


 その言葉を聞いて、真希は一瞬戸惑ったように息を飲む。それでも、自分の気持ちを伝えたいという思いが勝った。


「……大丈夫です、多分。」


 少し曖昧な言い方だったけれど、真希の目は真剣だった。その視線を受け、錦堀先生は何かを考え込むように黙り込んだ。


 やがて彼は小さくため息をつき、肩をすくめる。


「ふむ……誰かに感化されたのかな、君は。」


 ぽつりとそう呟くと、錦堀先生は軽く首を振りながら「やれやれ」と言い、階段を降りていった。


 真希はその後ろ姿を見送りながら、静かに「ありがとうございます」と呟いていた。夕陽が差し込む廊下を、真希は鞄を抱えて歩き出す。その足取りは軽く、いつもなら疲れて重く感じる足も、この時ばかりはまるで何も感じないかのようだった。


 階段を降りる途中、部活動帰りの生徒たちが廊下を行き交う。その中には「誰、この人?」と好奇心を隠さない視線を投げかける者もいたが、真希はそれにも気づかないふりをして、ただ真っ直ぐに昇降口へ向かって歩いた。


 その後ろ姿を階段の上からじっと見送る錦堀先生。彼は小さくため息をつくと、携帯電話を取り出して真希の父親に連絡を入れる。


「あ、戸田さんですか?お世話になっています、錦堀です。」


 電話越しの応答に一拍置いて、錦堀先生は真剣な口調で話し始めた。


「ええ、実は真希さんから少し相談がありまして……そうです、クラス復帰の件です。」


 数秒の沈黙が流れる。おそらく、父親がどう答えるべきか考えているのだろう。


「はい、もちろんご心配なさるのは分かります。ただ、最近の様子を見ているとですね……発作の症状が、以前よりも格段に減っているんですよ。あくまで私も医者ではないので断言はできませんが、客観的に見ても、段階的に様子を見ながらなら問題ないのではないかと感じています。」


 錦堀先生はそう言いながら、窓の外を見つめる。校庭では部活動を終えた生徒たちが楽しそうに話し合っている姿が見える。その中に真希がいる未来を、ふと想像する。


「もちろん、無理はさせないつもりです。学校としても、体調に配慮しながら対応しますから……そうですね、一度主治医の先生とも相談していただければと思います。」


 携帯を耳に当てたまま、錦堀先生は小さく頷く。


「……ありがとうございます。ええ、真希さんの気持ちを考えると、彼女が一歩踏み出したいと思っているのは確かです。どうか、前向きにご検討ください。」


 電話を切ると、錦堀先生はまた深く息をつき、ふと笑みを浮かべた。


「やれやれ……感化されたのは、僕の方かもしれないな。」


 そう呟くと、錦堀先生は手すりを軽く叩き、階段をゆっくりと降りていった。夕陽が校舎全体を優しく包み込み、静かに一日の終わりを告げようとしていた。


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