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7話.練習の帰り道

 清輝は、柔道部の武道館でせっせと畳を拭いていた。すでに何度も雑巾を走らせたはずなのに、烈志に「まだムラがある」と指摘され、もう一度最初からやり直している。すでに腕は重く、雑巾を握る手には赤みが浮かび上がっていた。


「これ、絶対に綺麗だよなぁ……どこをどう拭けって言うんだよ。」


 ぶつぶつ文句を言いながら、畳を磨く手を止めない。武道館には柔道特有の汗の匂いと、窓から差し込む夕陽のオレンジ色が広がっていた。ふと顔を上げると、窓に差し掛かった他の部員たちが新聞紙を押し当て、黙々とガラスを磨いているのが見えた。


「新聞紙って、ホントに窓が綺麗になるのかよ……。」

 清輝は半信半疑で新聞紙を手に取り、窓をゴシゴシと磨き始めた。無理な体勢で伸ばした腕が、早くも悲鳴を上げ始める。


「これ、絶対いいように使われてるだけだろ……。」

 心の中で毒づきながらも手を止めることはない。ふと視線を横にやると、烈志がサンドバッグの前で一人、柔道の動作確認をしているのが目に入った。


 烈志の動きは流れるようで、一切の無駄がない。サンドバッグに向かい、足を踏み出すと同時に腰を沈め、鋭く投げる動作を繰り返す。手首や肩の使い方まで正確で、一つ一つの動きが洗練されていた。真剣そのものの表情が、練習の集中度を物語っている。


「……あいつ、一人で仕上げてんな。」


 清輝はつい雑巾を持つ手を止めて、その様子を見つめてしまう。烈志はしばらくサンドバッグに向き合い続けると、今度は道場の隅で筋トレをしている正樹に声をかけた。


「正樹、腹筋の時は背中が浮かないようにしろ。あと、足を固定する角度はこれくらいがベストだ。」

 烈志は言葉だけでなく、自ら手本を見せるように体を動かしながらアドバイスしていた。その的確な指導に、正樹が何度も頷いているのが見える。


「……ほんと、部長様だよな。俺なんか、ただの雑用係だってのに。」


 清輝は少し呆れたようにため息をつきながらも、視線は烈志の黒帯に刻まれた金色の文字に引き寄せられる。そこには「松本烈志」と彼のフルネームがしっかりと刺繍されていた。その輝きが、彼の実力と誇りを象徴しているようにも見えた。


「金色の刺繍とか、どんだけ気合入ってんだよ。」

 そうぼやきつつも、どこか烈志に憧れにも似た感情を抱いている自分に気づく。


 烈志は清輝に気づいたのか、ちらりとこちらを見て、軽く手を挙げてきた。

「おい、清輝!窓、まだ全然終わってねぇぞ!」


「はぁ!?俺、一人で全部やるんかよ!?」

 清輝が抗議すると、烈志はニヤリと笑って返した。


「当たり前だろ。マネージャーってのはそういうもんだ。」

 その言葉に、清輝は心底呆れながらも、再び新聞紙を持って窓拭きに取りかかった。


 その間も烈志の動きは止まらない。サンドバッグに向かう背中、正樹に指導する姿、そのどれもが「柔道部の部長」としての存在感に満ちていた。


 清輝はそんな烈志の姿を横目で見ながら、窓越しに沈む夕陽をぼんやりと眺めた。どこか苛立ちながらも、彼の胸には確かな充実感が少しだけ芽生えていた。



 柔道場の空気が少し落ち着き、練習がひと段落した。烈志はタオルで額の汗を拭きながら、一息ついて言った。


「他校の練習試合、間に合いそうだな。」


 その言葉に、正樹が目を輝かせながら勢いよく声を上げた。


「僕も出たいです!お願いします!」


 その真剣な声に、一瞬烈志は驚いたように正樹を見たが、すぐにいつもの豪快な笑みを浮かべると、肩を叩きながら言った。


「おう!じゃあ、一回締め落としてもらえ!一翔熊谷高校の連中は締め技好きだからよ!」


「落として……もらいます!」

 正樹は目をキラキラさせながら、大声で返事をする。その姿が真剣すぎて、清輝は思わず吹き出しそうになりながらも、眉をひそめて言った。


「おい、落とすって気絶だぞ?わかってんのか?」


 その言葉に、正樹の目が一瞬きょとんとする。そこに追い打ちをかけるように、烈志がガハハと笑いながら声を張り上げた。


「はっはっはっ!そうだ、気絶だ!息止められて意識がぶっ飛ぶやつな!わざとやったら大事になるけど、試合中の事故ならまあ、たまーにあるかもなぁ~。」


 その言葉に正樹は一瞬硬直し、顔が青ざめていくのがはっきりとわかる。

「き、気絶……!?し、試合中ってそんなことが……」


 清輝は肩をすくめながら呆れたように言った。


「まぁ、普通に練習してりゃそうそうならねぇよ。でも、あいつらは烈志みたいに怪物揃いだからな。しっかり覚悟しとけってこった。」


 烈志はそんな清輝の言葉にさらに笑いながら、正樹の肩を叩いた。


「大丈夫だって!試合中の事故なら、むしろ『よく耐えた!』って褒められるんだぜ?」


「い、いやいやいや!」

 正樹は必死に首を振りながらも、どこか興奮しているようにも見える。その様子を見た清輝はため息をつきながら、再び床に置いた雑巾を手に取った。


「……お前ら、ほんと体力バカだな。」


 烈志は再びガハハと笑い声を上げながら、サンドバッグに視線を移した。


「ま、正樹にはとりあえず基礎から鍛えてもらうしかねぇな。まずはこの道場でしっかり仕上げろ!気絶するのはその後だ!」


「オス!気絶する気で頑張ります!」

 正樹がまっすぐに敬礼のようなポーズをとりながら声を張り上げると、道場全体にその元気な声が響き渡った。


 清輝は半ば呆れながら雑巾で畳を拭き続け、再び烈志を横目で見た。

「……お前、もうちょっと抑えろよ。」


 烈志は満足げに笑いながら、軽く肩をすくめた。

「抑える?男が抑えなんて言葉使うな!とことん行くのが柔道ってもんだろ!」


「……どっかで試合中にぶっ倒れるのがオチだな。」


 清輝はそうぼやきながら、少しだけ笑みを浮かべていた。柔道場の片隅、普段は薙刀部が使っていた空いたスペースにふと目をやる。清輝は「あ、いねぇんだな」と今さら気づいたような感覚に襲われた。ほんの数日前まで、あそこには佳苗や柚子がいたのに、今日はその空間がやけに静かで、どこか間が抜けたように見える。


 なんとも言えない感情が胸をよぎったが、今それを口にするのは無粋な気がした。なぜなら、目の前では烈志と正樹がガハガハと豪快に笑いながらプロテインを飲み交わしているからだ。


「いやぁ~これ、効きますねぇ!先輩、僕、確実に強くなってますよね!」

 正樹が目をキラキラさせながら、力こぶを作るように腕を見せつける。


 烈志も負けじと腕を上げて、満足そうに自分の腕を眺めながら言った。

「おう!ガンガン強くなってるぞ!その調子だ!もっと飲め、ほら!」


「はいっ!もっと飲みます!」

 正樹が勢いよく返事をして、プロテインシェイカーを振り回しながら一気に飲む。


 その様子を見ていた清輝は、なんとも言えない表情でため息をついた。

「……いや、これ、筋肉どうこうっていうより、ガキ見てるみたいだな。」


 無邪気にプロテインを飲みながら盛り上がる二人は、まるでおもちゃを手に入れて大はしゃぎする子供のようだった。その光景に、呆れるような、そして少しだけ温かい気持ちになりながら、清輝は視線を柔道場全体に戻した。


 清輝は畳に腰を下ろし、天井の高い柔道場をぼんやりと見上げた。微かに揺れる蛍光灯の光が視界に映り、今日一日の疲労感がじんわりと体に広がる。


「なぁ、清輝。」

 隣で座っていた烈志が、ふと口を開いた。


「お前の謹慎って、いつ終わるんだ?」


 清輝は天井を見上げたまま、軽く肩をすくめて答えた。

「来月には開けてるよ。もうちょいって感じだな。」


「そっか、なら良かった。」

 烈志の返事には、どこか安心したような響きが混じっていた。


 清輝はちらりと烈志を横目で見て、少し目を細めた。

「……心配してんのか?」


「まぁな。」

 烈志はニヤリと笑いながら、頭を掻いて続けた。

「親友が同じクラスにいないと、なんか勉強ができねぇって言うか。カンニングとか協力プレイができないって言うかさ。」


「……お前、それ俺を便利に使おうとしてるだけだろ。」

 清輝は呆れたようにため息をついた。


 烈志は笑いをこらえつつ、真顔で頷いた。

「そうだよ。だってお前、勉強教えるのうまいし、楽じゃん。」


 清輝は苦笑いしながら膝に肘をつき、天井を見つめた。

「ほんとお前は、そういうとこあるよな……。」


 ふと清輝は思い出したように、ぼそりと呟いた。

「なぁ、もしお前のクラスに真希みたいな奴がいたら、どうする?」


 烈志は一瞬首をかしげ、清輝の方をじっと見た。

「真希って……」


 清輝は少し間を置いて答えた。

「戸田真希だよ。」


「ああ、転校してきた病気の奴か。」

 烈志は思い出したように軽く頷いた。

「で、なんだよ。もし真希みたいな奴がクラスにいたらって?」


「……そうだよ。なんか、周りからちょっと浮いてる感じの奴だよ。」

 清輝は天井を見つめたまま続けた。

「もしそういう奴がいたら、お前どうする?」


 烈志は腕を組んで少し考え込むような仕草を見せたが、すぐに肩をすくめて即答した。

「いい奴なら、全力で仲良くするだろ。」


 その言葉に清輝は少し驚き、同時に安堵の気持ちが広がる。

「だよな。」

 短く呟いたその言葉は、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。


「そりゃ、変な奴だったら距離を置くけどさ。いい奴だったら、別に関係ねぇよ。」

 烈志はさらりと言い切ると、豪快に笑いながら手にしたプロテインを飲み干した。


 清輝はその笑い声を聞きながら、少しだけ希望を感じた。

 烈志の言葉が、真希とのことをどうにかしていこうと思う自分の背中を軽く押してくれるような気がしてならなかった。


「お前って、ほんと単純だよな。」

 清輝は小さく笑いながら天井を見上げたままそう言った。


「単純でいいだろ。単純な方が強ぇし、楽だ。」

 烈志は豪快に笑い飛ばした。


 その声が柔道場に響く中、清輝はなんとなく自分の考えが少し軽くなったように感じた。



 烈志の門限が近づいたようで、「お先に」と軽く手を挙げた彼を見送りながら、清輝は柔道場の外に出た。烈志はいつものボロ自転車にまたがり、軽快にペダルを漕ぎながら坂道を下っていく。


「気をつけてなー!」

 清輝が軽く声をかけると、烈志は振り返らずに手だけを挙げて応える。その背中が見えなくなるまで清輝はなんとなく目で追っていたが、ふと我に返り、トボトボと一人で家路についた。


 街灯がぽつぽつと点灯し始め、辺りには夕暮れの静けさが広がっている。そんな中、清輝はふと頭に浮かんだ用事を思い出し、道すがらダイソーに立ち寄った。


「アルバイト許可とか原付通学許可とかの書類に使う印鑑が必要だったよな……。」


 店内を歩きながら印鑑コーナーを探し、自分の苗字に使えそうなものを探し始めた。

「あ、あったあった……って、えっと、『信濃』、『信濃』……ねぇな。」

 立て掛けられた印鑑を一つひとつ確認するが、自分の苗字が見つからない。


「まぁ、そりゃそうだよな。信濃なんて苗字、珍しいしな。」

 清輝は苦笑いを浮かべながら、棚に手をついて考え込む。


「どうするよこれ……。芋でも掘って複製するか? なんてな。」

 冗談めかして呟くと、自然と肩がすくんだ。


 結局、印鑑は見つからず、掃除で汚れた体と埃を手で軽く払いながら、店を後にした。外に出ると、辺りはすっかり夕方の色に染まっていた。


 清輝は西武秩父駅近くの踏切に差し掛かった。遠くから電車の警笛が響き、カンカンカンという踏切の音が静かな街に反響している。遮断機がゆっくりと降り、赤い警告灯が点滅を繰り返す。清輝はため息をつきながら遮断機の前で足を止めた。


「またかよ……。」

 小さく呟きながら、遮断機の向こう側を見つめる。夕日の光が遮断機の赤いランプに反射し、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 その時、電車が駅を発車し、ゆっくりと踏切の前を通過し始めた。車内の明かりが窓越しに漏れ、座席に座る人々の姿がちらちらと見える。


「ん……?」

 清輝は視線を電車の中に向けた。すると、その中に見覚えのある顔があった。


「……あれ、真希?」

 思わず足を止め、目を凝らす。見間違いではない――それは、確かに真希だった。


 窓際に座る真希は、いつもの穏やかな表情で外を眺めていた。そしてその隣には彼女の父親らしき男性が座っている。二人は楽しそうに会話をしており、時折真希が微笑む姿が見えた。


「電車通学してるんだな……。」

 清輝はそんなことを考えながら、ぼんやりとその光景を見つめた。


 真希と父親の姿は、どこか温かさを感じさせた。親子で和やかに話すその様子は、清輝にとってどこか遠いものだった。自分もかつては、あんな風に父親と会話を交わしたことがあったはずだ。


「……俺も親父とあんなに仲良く喋ったのって、いつ頃だっけな……。」

 清輝の頭の中に、幼い頃の記憶が蘇る。手を繋ぎながら歩いた帰り道、些細なことで笑い合った日々――だが、それらは今となってはすっかり遠いものとなっていた。


「……まぁ、今さら考えたってどうしようもねぇけどよ。」

 自嘲気味に呟き、歩き出そうとしたその瞬間、真希がふとこちらに気づいたように窓の外を見た気がした。


 驚いて立ち止まった清輝だったが、遮断機が上がる音に我に返る。電車はすでに遠ざかり、真希と父親の姿は見えなくなっていた。


 清輝は小さく息を吐き、再び歩き出した。だが、真希と父親が会話していた光景は、帰るまでの間、どこか心に引っかかるものを残していた。



 清輝が玄関の扉を開けると、すぐに母親の声が耳に飛び込んできた。


「清輝、座りなさい。」


 その一言に、清輝は一瞬足を止めたものの、無視するように靴を脱ぎ、そのまま部屋に向かおうとする。


「清輝!聞いてるの!?座りなさいって言ってるでしょ!」


 母親の声はさらに鋭くなり、清輝の背中に突き刺さる。それでも無視して歩き続ける清輝に、母親はとうとう足を踏み出し、肩を掴んだ。


「ちょっと待ちなさい!」


「……うるさいなぁ。」

 清輝は振り返りざま、苛立ちを隠そうともせずにそう吐き捨てた。その言葉に母親は一瞬怯んだが、すぐに口を開いた。


「清輝、あなたはまだ家族に何も謝ってないわよね?謹慎中だからって、何も考えずに遊んでばかりいるけど……!」


「遊んでねぇよ。」

 清輝は母親の声を遮るように言い放つ。

「こっちはこっちで楽しくやってんだから、ほっといてくれよ。」


 その投げやりな言葉に、母親の顔が赤く染まる。感情を抑えきれなくなったように、言葉をぶつけた。


「ほっとけるわけないでしょ!私もお父さんも、あんたのこと心配してるのよ!なんで私たちに進路の相談や悩みを話してくれないの!?家族でしょ、清輝!!」


「家族?」

 清輝は皮肉げに笑いながら母親を見つめた。そして、ゆっくりとした口調で、言葉を一つずつ突き刺すように言った。


「お前らを家族とか思ったことねぇよ。」


 その一言に、室内の空気が凍りついた。母親は目を見開き、言葉を失ったように立ち尽くす。


 その沈黙を破ったのは、廊下で物音を立てた奈緒だった。清輝が顔を向けると、ちょうど奈緒と目が合う。


「今のは……言い過ぎじゃない?」


 奈緒の声は静かだったが、その中には確かな非難が込められていた。清輝はその視線を一瞬だけ受け止めるが、すぐにそらして小さく呟く。


「……お前には言われたくねぇよ。」


 その一言に奈緒は何も言い返さなかった。ただその場に立ち尽くし、無言で清輝を見つめている。


 母親はその光景を目の端で捉えながらも、再び言葉を発しようとしたが、清輝はそれを振り切るように背を向け、階段を駆け上がった。


「清輝!まだ話は終わってないわよ!」


 母親の声が追いかけてきたが、清輝は振り返らず、自分の部屋へと駆け込んだ。そして扉を強く閉め、背中を預けるようにしてその場に座り込む。


「……クソッ。」

 自分の胸の中で渦巻く感情を吐き捨てるように呟きながら、清輝は大きく息を吐いた。階下から聞こえてくる母親の声と、奈緒の足音。それらを全て遮断するように、清輝は深く目を閉じた。


 清輝は自分の部屋の床に背中を預けたまま、深いため息をついた。階下からはまだ母親の声がかすかに聞こえるが、その言葉の一つ一つを頭の中で遮断する。


 ふと、天井をぼんやり見つめながら、心の奥で浮かぶ言葉に耳を傾けた。


 ――折り合いをつければいい。

 そんなことは、わかっている。頭では。家族とだって、きっと仲良くやれるはずだ。どこかで妥協して、少しだけ譲ればいい。母さんも、奈緒も、そんなに悪い人間じゃない。むしろ、あいつらは良い人間なんだろう。俺のことを心配してくれてるのだって、本当はわかってる。


「……けどさ。」

 清輝は天井を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


「なんでそれができねぇんだろうな、俺。」


 頭では理解しているのに、それを実行する気にはどうしてもなれない。母さんの言葉に素直に「悪かった」と言えれば、それで済む話だ。奈緒に対してだって、あんな冷たい言葉を吐かずに済む方法はいくらでもあった。


 でも――その「でも」が邪魔をする。どこかで自分が子供っぽく意地を張っているのは自覚している。分かり合える可能性だってあるはずなのに、それを自ら壊そうとしてしまう。


「バカだよな、ほんと。」

 清輝は苦笑しながら、自分の手を見つめた。拳を握りしめると、その中には何も残らない。ただの空っぽな感覚だけが広がる。


 ――結局、俺はまだガキなんだろう。

 母さんや奈緒がどれだけ歩み寄ってくれたとしても、それを受け入れられない自分がいる。素直になれない、ただのガキだ。


「……譲れねぇんだよな、どうしても。」

 その小さな呟きは、どこか諦めの混じったものだった。


 譲ることが負けだなんて思っていない。ただ、何かを認めることで、自分の中にある「何か」が壊れてしまう気がしている。それが何なのか、はっきりわからないけど、簡単に手放すわけにはいかないものだ。


「俺って、ほんと面倒くせぇやつだな。」

 自嘲の笑みを浮かべながら、清輝は軽く頭を壁に預けた。母親との喧嘩で荒れた空気も、奈緒の沈黙も、自分の言葉で全て悪い方向に向かわせたことも理解している。


 ――けど、今さら何をどうすればいい?


 答えは出ないまま、清輝は目を閉じた。家庭の中での自分の居場所が、いつの間にかどこにもないように感じてしまう。そんな孤独感に囚われながらも、どこかで「俺が変われば、きっと……」と考える自分もいる。


 だけどその一歩が、どうしても踏み出せない。


 清輝は机の上に置かれた原付の鍵をじっと見つめた。小さな鉄の塊だが、そこに込められた自分の感情が不意に押し寄せてきた。


「今思えば、これが始まりだったのかもな……。」

 小さく呟くと、鍵を手に取って軽く指で回した。その冷たい感触が、自分の浅はかさを責めているように思える。


「いや……でも、アルバイトを始めた時点でか。それとも……。」

 思考が堂々巡りを始める。けれど、どこか心の中でわかっているのだ。この原付が自分にとって何を意味しているのかを。


「羨ましかったんだよな。」

 ぽつりと呟きながら、窓の外の街並みに目をやる。そこに広がるのは、いつもと変わらない風景だった。


「ずっとこの街に囚われている気がしてさ……。」

 昔は好きだった景色。それが今はどこか重く感じられる。これが「俺の居場所」だと思っていたのに、その景色の中にいる自分が、どんどん窮屈になっていく。


「本当は憎かったのかもしれないな、この景色が。」

 好きだったはずのものが、いつの間にか嫌いになっていた。それは家族との関係も同じだったのかもしれない。


「だから抜け出したかったんだろ……。」

 自分のためだけの移動手段を手に入れれば、この街から、そして日常から逃れられる――そんな考えが、原付を買う理由の一つだったのだろう。


「知らない街に行って、知らない場所を見てさ、家族のことなんか考えなくてもいいって思ってたんだよな……。」

 自嘲気味の笑みが自然とこぼれる。その浅はかな考えを思い出すと、どこか笑うしかないような気分になった。


「……だけどさ、俺、結局どこにも行けなかったよ。」

 鍵を手に握り締めながら、清輝は自分に言い聞かせるように呟いた。


 原付を手に入れたところで、日常から抜け出すことなんてできなかった。何も変わらなかった。家族との関係も、この街の景色も、結局は自分を縛りつけたままだった。


「逃げるための手段が、いつの間にかただの玩具になっちまったな。」

 鍵をそっと机の上に戻すと、深い息を吐いた。自分が本当に欲しかったものは、原付でも、アルバイトでもなかったのかもしれない。


 ――俺は何を探してるんだろう?


 窓の外の景色は変わらないまま、じっと清輝を見つめ返している気がした。


 清輝は机に突っ伏し、胸を押さえた。呼吸が荒くなり、額にはじっとりと汗が滲んでいた。


「はぁ……はぁ……。」


 部屋の中は静まり返り、自分の荒い呼吸音だけが耳に響いていた。胸が苦しい。ただの息苦しさじゃない。胸の奥底から湧き上がるような、怒りや憤り、そして深い失望が混ざり合った感情が、清輝の全身を支配していた。


「……俺、結局……何をやりたかったんだ?」


 言葉が自然と口をつく。誰に向けたわけでもなく、ただ空虚な部屋に投げかけられるその問いは、清輝自身をさらに追い詰めた。


 原付を買ったのも、バイトを始めたのも、家族を見返すためか、それとも自分自身を変えたかったのか――。思い返してみても、どれも中途半端だった。気づけば謹慎処分を受け、部屋の中に閉じこもるような日々を送っている。


「何も変わらねぇじゃねぇか……。」


 その声には、自分への苛立ちがにじみ出ていた。全てを投げ出したいような、そんな感覚に襲われる。胸が苦しく、息を吸っても吸っても足りないような錯覚に陥る。


 清輝は手で胸を押さえ込み、何とか呼吸を整えようとした。


「はぁ……はぁ……。」


 深く息を吸い込み、吐き出す。けれど、その呼吸すらも浅く、不完全に感じられる。喉の奥が詰まるような感覚が続き、頭の中に重苦しい靄がかかったままだった。


 結局、自分は何を変えたかったのか――それすらもはっきりとは思い出せない。ただ漠然と、「このままじゃダメだ」という思いだけがあった。だけど、その思いもどこか中途半端で、行動に結びつくことはなかった。


「……何やってんだよ、俺……。」


 その言葉は、清輝自身の無力さを突きつけるようだった。原付を買った時の高揚感も、今となってはただの一時的な逃避に過ぎなかったのだと気づく。あれで何かが変わると思っていた自分が、馬鹿らしく思えた。


「……結局、俺はどこにも行けねぇのかよ。」


 吐き捨てるように呟いたその声は虚しく部屋に消え、ただの静寂だけが残った。清輝は椅子に体を預け、視線を天井に向けた。


「……何がしたかったんだ、俺……。」

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