6話.死に至る病
翌日、そしてその翌日も、戸田の姿は学校にはなかった。
あまりにも忽然と消えたその存在感に、清輝はふと、あの日図書室で会ったのが本当に現実だったのか疑うほどだった。幽霊だったんじゃないか、なんて冗談めかしてもおかしくないくらいの不思議な余韻だけが心に残っていた。
あの日以来、清輝は毎日少しずつ罪を償うように読書感想文を書き続けていた。最初は嫌々だったが、いつの間にかその累計は5万文字を突破していた。それだけの文字数を綴ったこともあり、読むスピードも書くスピードも確かに上がってきた。
ただし――
「……心には全然響かねぇんだよな。」
清輝は机に突っ伏しながら、ため息交じりに呟いた。目の前にはまたしても真っ赤に校正された原稿用紙が積み上がっている。淡々と流れ作業のように本を読み、言葉を紡いでいく毎日。だがその内容は、文章として形にはなっているものの、自分の中に何も残らないような気がしてならない。
「謹慎も慣れてきたら、いよいよ暇だな……。」
最初は重荷だった罰則も、今となってはただのルーティンと化していた。罰としての実感が薄れると同時に、何かを頑張っているという感覚もない。
「……こんなんでいいのかね。」
頭の中で浮かぶのは、真希のこと。久保先生が言っていた「体調が不安定」という言葉がどこか引っかかっていた。
佳苗の姿も、あの日以来ぱったりと見かけなくなった。烈志の道場にたまに顔を出してみても、佳苗がいる様子はない。柚子はどうかというと、道場に顔を出している様子もなければ、清輝とまともに会話をすることもなかった。たまに図書室ですれ違うが、その時も言葉を交わすことはなく、軽く目をそらして通り過ぎるだけ。
「まぁ、柚子もあの日から色々あるんだろ。」
そう自分に言い聞かせるものの、どこか釈然としない気持ちが胸の奥に残った。
清輝は静かな図書室の中で、少しだけ背筋を伸ばして周囲を見渡す。だが、どこにも馴染む気配はなく、再び視線を原稿用紙へと戻した。
「……読んで、書いて、また読んで。」
機械的に繰り返すだけの時間に、清輝はひとつ息をつき、またペンを走らせ始めた。
清輝が読んでいる本のタイトルは『死に至る病』。これは19世紀の哲学者セーレン・キェルケゴールによって書かれた本だ。哲学と信仰について深く掘り下げた作品で、「絶望とは何か?」という問いに正面から向き合っている。
本書の中で語られる「死に至る病」とは、文字通りの病気のことではなく、精神的・存在的な「絶望」のことを指している。この絶望は「自分らしさ」を見失ったり、他者との比較で苦しんだり、自己を受け入れられないことから生じるとされる。キェルケゴールは、こうした絶望が人間にとって最も根本的で深刻な病だと主張する。
清輝にとって、この本の内容はどこか現実離れしているようでいて、どこか引っかかる部分もある。特に「絶望は自分自身から逃げられないことだ」という主張は、彼が現在抱えている曖昧な不安や虚無感に微妙にリンクしているように思えてならなかった。
「でも、哲学の話なんて俺にはよくわからねぇよな。」
そう自嘲気味に呟きながらも、手はページをめくり続けている。
「自己を失うこと。それが絶望だ、と本には書いてある。」
清輝は『死に至る病』のページに目を落としながら、無意識に呟いていた。
その言葉に引っかかる。自己を失う――つまり、自分でいられなくなること。
ふと、戸田の顔が頭に浮かんだ。
「……戸田がもし普通に高校生活を送っていたら、どうなってたんだろうな。」
清輝は机に肘をつきながらぼんやりと考えた。
友達と一緒に笑ったり、授業を受けたり、部活に顔を出したりする彼女の姿――そんなイメージは簡単に思い描けた。それが「普通の高校生」の生活だとしたら、今の戸田の姿はどうなんだろうか。
「今のあの姿は、もしかして本当の彼女じゃないのかもしれない。」
軽く笑ったり、「どうだろうね」と流したりする彼女。それは、本当の姿というよりも、自分を隠しているようにも思えた。
「……いや、そんなの俺にはわからねぇけどさ。」
清輝は自分の考えに苦笑いした。自分は彼女の何を知ってるわけでもない。ただ、あの目に映るものが「絶望」なら、どうにかしてやりたい――そんな風に思ってしまう自分がいるだけだ。
「なんでだろうな、気になってしょうがねぇ。」
小さな声でそう呟きながら、清輝は視線を机からそっと上げた。
戸田が座っていた席――図書室の窓際にある、その机が目に入った。彼女の不在がやけに静寂を際立たせているようだった。
清輝は本を閉じ、席を立つと、彼女の席にゆっくりと歩み寄った。
そこに座り、窓の外を眺める。
「……ここか。」
目に入ったのは、みんなが通う校舎だった。戸田がいつもこの席に座っていた理由が、なんとなくわかる気がした。
自分の席からは街や武甲山が見える。それはそれで良い景色だと思っていたが、この席からは違う。窓から見えるのは、教室のある校舎。廊下を歩く生徒たちや、笑い声がかすかに聞こえてきそうなその風景。
「……みんなが通う校舎。」
清輝はぼんやりと呟いた。
戸田にとって、この席からの景色はどんなものだったんだろうか。窓の外に映る「普通の高校生活」を、彼女はどんな気持ちで見ていたんだろう。
その瞬間、清輝の胸の奥で何かが小さく音を立てた気がした。彼女がここで見ていた景色を思うと、ただの同情では片付けられない感情が沸き上がってきた。
「……絶望ってやつか、これが。」
清輝はそう呟きながら、窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。
そして、小さく息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。図書室の静けさが、彼の中に残った余韻をさらに深めていく。
「俺がこんなこと考えたところで、どうしようもねぇけど……。」
彼女が戻ってきたら、何かを話すべきなのかもしれない――そんな考えが頭をかすめた。
清輝は窓枠に立った。冷たい窓ガラスが背中越しに当たり、微かにひんやりとした感触を感じる。外を見下ろせば、校舎の廊下を歩く生徒たちの姿が小さく見えた。笑い声や話し声が風に乗って微かに耳に届く。
「……自己を失うことが絶望、か。」
『死に至る病』の一節が頭をよぎる。彼女の「普通」を取り戻してやりたい――そう思う自分の考えは、どこか自己満足に過ぎない気もした。でも、今この瞬間に何かをしなければ、何も変わらない気がした。
一拍の静寂が訪れた。清輝は少し息を吸い込み、ぐっと拳を握る。そして、腹の底から声を絞り出した。
「俺はここにいるぞ!!!」
その声は図書室の静寂を突き破り、窓を通して校舎全体に響き渡った。生徒たちは一瞬何が起こったのかわからず、次の瞬間、一斉に図書室の窓の方を振り向いた。
「誰だよ!?」「何!?」「あれ清輝じゃねぇの!?」
ざわつきが一気に広がり、生徒たちの声が重なり合って騒ぎとなった。廊下にいた何人かが足を止め、下から清輝を指差す姿も見えた。
その視線を全身で浴びながら、清輝は自分の胸に手を当て、大きく息を吐いた。そして、満足げに口角を上げると、ガハハハと声を上げて笑った。
「これで充分だろ。」
そのまま、窓を勢いよく閉めると、振り返って自分の席に向かう。図書室には再び静けさが戻りつつあったが、清輝の胸の中には奇妙な高揚感が残っていた。
「……これで俺も、少しは自己を守れたってやつか。」
清輝の声が静寂を破り、校舎全体がざわめく中、その一瞬、確かに誰かの声が耳に届いた。
「清輝…君?」
その声に振り返った清輝は、一瞬息を呑んだ。そこには戸田が立っていた。細い体を支えるかのように点滴スタンドに手をかけ、そこから繋がるチューブが透明なバッグに続いていた。顔には酸素吸入器、鼻と口元を覆う簡易的なもの――酸素カニューラが装着されている。その呼吸を補助する装置は、彼女が苦しみながらも何とか立っていることを教えていた。
清輝は目を見開き、次の瞬間には慌てて声を上げた。
「あ、えっと、その……違う! 今のはそういう意味じゃなくて!」
言い訳しようとするものの、うまく言葉がまとまらない。戸田は小さく微笑みながらも、どこか驚いたような表情を浮かべていた。
「すごい声だったね。全校生徒に届いてたと思うよ。」
戸田が穏やかな声で言うと、清輝はさらに焦る。
「いや、違う! ただちょっと……発散っていうか……いや、なんていうか、こう……なんだよ!」
頭を抱えながら、顔を赤くする清輝。
そんな彼の姿に、戸田は小さく笑った。だが、すぐに息苦しそうに肩を上下させ、短い呼吸を繰り返す。清輝はその様子を見て、真剣な表情に変わった。
「大丈夫かよ……?」
気づけば、清輝の声は少し震えていた。
戸田は点滴スタンドを頼りながら軽く頷く。
「平気だよ。こういうの、慣れてるから。」
その言葉に、清輝はさらに返す言葉を失った。戸田の笑顔の裏にあるもの――それがなんなのか、明確にはわからない。ただ、その笑顔に隠された強さと、どこか諦めに似た空気を感じてしまったのだ。
清輝は戸田の顔をまともに見られず、うつむきながら言葉を絞り出した。
「……この前は、本当に悪かった。戸田がこんな……その、機械をつけてるのも、俺が余計なこと言ったせいなんだろ? 俺、病気のことも発作のことも、何にも知らなくて……。」
戸田は一瞬驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には穏やかな笑顔を浮かべた。
「そんなの、清輝君のせいじゃないよ。」
静かな声でそう言いながら、戸田は酸素カニューラの端を軽く触れた。
「これね、発作を防ぐためのもの。ちょっと息苦しくなった時に使うだけ。普段は大丈夫だから、心配しないで。」
清輝はその言葉に少しほっとしたような表情を見せたが、それでもまだ申し訳なさそうに視線を落とした。
「でも……俺、何も知らなかった。どんな時に発作が起きるとか、何をしちゃいけないのかとか……。ほんと、ごめん。」
その真剣な謝罪に、戸田は少し考えるように口を閉ざした。だが、ふっと小さく息をつくと、軽く笑いながら言った。
「ねぇ、清輝君。」
「……ん?」
「戸田って呼ぶの、やめてくれる? ‘真希’でいいよ。」
その言葉に、清輝は驚いて顔を上げた。戸田――いや、真希はどこか柔らかい笑顔を浮かべながら、軽く肩をすくめた。
「せっかく同じクラスなんだし、その方がいいかなって。」
「……あ、ああ。真希……で、いいのか。」
戸惑いながらそう返す清輝。名前を口にするたびに少しぎこちなさを感じつつも、彼女の顔を正面から見る。
真希はそんな清輝の視線に気づいたのか、わざとらしく視線を逸らし、清輝の机の上を指差した。
「あ、それ、何読んでるの?」
清輝は一瞬きょとんとしたが、すぐに自分が読んでいた『死に至る病』を指差されていることに気づいた。
「ああ、これ? 『死に至る病』って本……だけど。」
少し気恥ずかしそうに返す清輝。すると、真希は興味深そうにその本を眺めながら、小さく首をかしげた。
「ふーん。そんなタイトルの本、読むんだね。どんな話なの?」
「いや、まぁ……なんか難しいんだけど、絶望とか……そういう、ちょっと暗い話。」
清輝は言い淀みながら本を軽く持ち上げた。真希の視線が本に向けられている間、清輝は彼女の穏やかな横顔をちらりと見た。
真希はそのまま、どこか遠くを見るような目をしながら、本に触れずこう呟いた。
「絶望……か。ねぇ、それってさ、どんな時に出てくるの?」
その問いに清輝は一瞬言葉を失った。本の内容を思い出しながら、どう答えるべきか考える。
清輝は、口籠りながらもゆっくりと言葉を探した。
「なんていうかさ……さっきみたいに叫びたくても叫べなくて、ずっと暗闇の中にいる感じっていうか……。自分が自分じゃないって気づく時っていうか……そんな感じ?」
真希は少しだけ目を細めると、どこか哲学的な微笑みを浮かべながら静かに答えた。
「『死に至る病』、つまり絶望はね、生きながら死んでいるような状態を指すんだよ。」
清輝はその言葉に一瞬息を呑んだが、真希はすぐに続けた。
「逆に考えれば、最後に笑って希望を持って死ねたら、それは生きている状態なのかな……とも思うけどね。」
その声にはどこか確信めいた響きがあった。清輝は戸惑いながら彼女を見つめる。そんな彼に向かって、真希は短く、しかし力強い言葉を紡いだ。
「私は死んでない。諦めてないよ。」
その言葉は静かだったが、どこか力強く響いた。だが、次の瞬間、真希はふっと微笑みを浮かべ、肩をすくめながら言った。
「……なーんてね。本当は、死にたいと思う時もあるよ。」
その軽い口調に、清輝の胸が締め付けられるような感覚に襲われた。そして、自分でも気づかないうちに言葉が口をついて出た。
「俺は……死んでいるのかな。」
その言葉に真希は驚いたように目を見開き、少しの間だけ清輝をじっと見つめた。だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて首を振った。
「死んでないよ、清輝君。だって……こうして悩んで、考えて、動いてるじゃない。」
真希の言葉には、優しさと確信が混じっていた。それが、清輝の胸に少しだけ灯りをともしたような気がした。
真希は椅子に腰掛け、少し体を前に倒しながらこちらを見上げてきた。そして、思い切ったように言葉を紡ぐ。
「勉強教えて。まだ、みんなの授業に追いついてないから。」
その言葉に、俺は一瞬戸惑った。けれど、次の瞬間には自然と返事をしていた。
「……戸田がそう言うなら。」
そう言った途端、彼女の表情が少しだけ険しくなり、すぐに笑顔に戻った。
「違うでしょ。真希、って呼んでよ。」
名前で呼べ、と言われたのはこれで二度目だ。戸惑いながらも、俺は彼女の名前を口の中でそっと繰り返した。真希……。
机に置かれた彼女の手に目が行く。細くて、華奢で……その手の血管がうっすらと青く浮いているのがわかる。思わず目をそらそうとしたが、視線が吸い寄せられるみたいに動かない。
なんだろう、この手……見たことのないくらい繊細で、壊れそうなのに、どこか芯の強さを感じさせる。
彼女の顔に視線を移す。頬にかかる髪はきめ細やかで柔らかそうで、光を受けてまるで絹のように滑らかだ。その髪からは微かに甘い匂いが漂ってきて――いや、甘いだけじゃない。なんていうんだろう、洗い立ての石鹸みたいな清潔感のある香りが混じっている。
そして、俺の鼻をかすめるその香りは、なぜか少し切なく感じた。
そんな時、真希が俺の視線に気づいたのか、小さく微笑みながら言った。
「……清輝君、私の顔に何かついてる?」
突然声をかけられて、俺は慌てて視線を机の上に戻した。
「いや、別に……なんでもない!」
動揺して顔が熱くなるのを感じた俺を見て、真希はくすくすと笑う。
「そっか。それじゃ、さっそく教えてくれる?数学、苦手で困ってるんだよね。」
彼女の笑顔はどこか無邪気で、病気のことなんて感じさせないほどだった。でも、その笑顔の奥に何か隠しているような気がしてならなかった。
俺は軽く息をついて、机の上のノートを開いた。
「分かったよ。じゃあ、まず何がわかんないんだ?」
「全部!」
即答する彼女に、俺は思わず笑いそうになりながらも、ノートに視線を落とした。勉強を教え始めたけど、心のどこかでは、彼女の言葉や表情の裏に隠れているものを探ろうとしている自分がいた。
清輝はノートを広げ、真希に数学の問題を教えていく。彼女の質問に答えながら、解き方を紙に書いて見せているうちに、真希はふと気づいた。
「……清輝君、めちゃくちゃ頭良いよね。これ、私だったらこんなにスムーズに説明できないよ。」
真希の言葉に、清輝は照れくさそうに肩をすくめる。
「いやいや、大したことないって。昔っから、なんか物覚えだけは良かったつーか。」
真希はペンを持つ手を止め、じっと清輝を見つめた。その視線に少し居心地が悪くなった清輝が眉をひそめる。
「……なんだよ?」
「絶対高IQだよ。清輝君、メンサとか入れるんじゃない?」
「メンサだメンサだ!」真希は笑顔で囃し立てる。
清輝は苦笑しながら、頭を軽く掻いた。
「バカ言うなよ。俺がメンサとか、冗談にしかならねぇだろ。」
「でも本当に才能あるんだと思うよ。」真希はしみじみと呟いた。「こんなふうに説明されると、難しい問題も簡単に見えてくるもん。」
その言葉に、清輝は一瞬考え込むような顔をしたが、すぐに冗談めかして言い返した。
「おいおい、そんなこと言ってるけど、作文はからっきしなんだぜ、俺。」
真希はその返答に少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにクスクスと笑い始めた。
「左脳だけすごいのかもね、清輝君。」
「なんだそれ、脳の片方だけ優秀ってか?」清輝は眉を上げながら突っ込む。
「そうそう。右脳はお休み中で、左脳がフル回転してるのかも。」真希は冗談を言いながら、笑みを浮かべる。
「だったら、バランス悪すぎだろ。」清輝も負けじと笑い返す。
勉強を進めながらも、二人は軽口を叩き合い、自然と笑顔が増えていく。問題が解けた時には真希が「すごい!」と素直に褒め、清輝は「まあな」と得意げに返す。そんな調子で進む時間は、どこか穏やかで温かいものだった。
やがて真希がノートを閉じ、小さくため息をついた。
「……なんか、こんなふうに誰かに教わるのって久しぶりだなぁ。」
「そりゃそうだろ。普段一人で勉強してるんじゃ、わからないことも多いだろうし。」
「うん、そうなんだけど……なんだろう、こうやって話しながらやると、ちょっとだけ楽しい気がする。」
真希が穏やかな声でそう言うと、清輝は少し照れたように鼻をすする。
「まぁ、俺が相手だからってわけじゃねぇだろうけどな。」
「ううん、清輝君だからだよ。」真希はふっと笑って、机の上に置かれたペンを指で転がした。
その言葉に、清輝は一瞬言葉を失ったが、すぐに軽く肩をすくめて笑った。
「お前、ほんとにお世辞がうまいな。」
「お世辞じゃないってば。」真希はクスクスと笑いながら言った。
この温かい空気感が、清輝にとってはどこか不思議で、そして少し心地よいものだった。それは、自分が本当に誰かの役に立てているような気がする瞬間だった。
清輝は最後の問題を解き終えたノートを閉じ、軽く伸びをした。
「よし、これで終わり。分かったか?」
真希はノートをじっと見つめながら、小さく頷いた。「うん、ありがとう。清輝君、やっぱり教えるの上手だよね。」
「まあな。」清輝は少し得意げに言いながらも、どこか照れたように目をそらした。
机の上の教科書やノートを片付けていると、ふと清輝の頭にある考えがよぎった。
「なぁ、放課後どっか――」
言いかけたところで、清輝の目が真希の体に付いている機械――点滴のスタンドや酸素カニューラに止まる。彼女がどれだけ負担を抱えているのか、その姿を見て改めて思い知らされる。
(……いや、こんなの無理に誘うもんじゃねぇな。)
清輝は途中で言葉を飲み込み、口を閉じた。そして、ごく普通に別れの挨拶をすることにした。
「じゃ、また明日な。」
真希は微笑みながら手を軽く振った。「うん。また明日。」
そう言って彼女が図書室を後にするのを見送り、清輝は大きく息をついた。机の上に放置されていた自分の原稿用紙が視界に入る。
「あれ、これ……全然書いてねぇじゃん!」
思わず声を上げる清輝。原稿用紙には、途中までしか書かれていない文字が並んでいた。
「やっべぇ、作文全然終わってねぇ!」
慌てて残りを書き進めようとするも、締切が目前に迫っていることを思い出し、諦め気味に頭を掻きむしった。
場面が変わり、職員室。清輝は慌ただしい空気の中で、錦堀先生に原稿用紙を差し出した。
「先生、これ、今日の分っす。」
錦堀先生は原稿用紙を受け取り、ざっと目を通す。その表情が次第に険しくなるのを見て、清輝は嫌な予感がした。
「……う〜む、信濃君の作文は毎度毎度ひどい出来だな。」
「内容がむずすぎるんだよ!」清輝はすかさず反論するが、錦堀先生はため息をつきながら原稿用紙を机の上に置いた。
「むずすぎるって……君、本当に本を読んでるのかい? 内容を深く理解しているようには思えないんだけどねぇ。」
「読んでますよ、ちゃんと。でも、『死に至る病』とかさ、そもそも普通にむずいし……。」
清輝の言い訳じみた返答に、錦堀先生は呆れたように肩をすくめた。
「確かに難しい本だけどね、それでも自分なりの考えをもっとしっかりまとめないと。これじゃただのあらすじだよ。」
「考えをまとめろって言われても、どうまとめりゃいいか分かんねぇよ。」
清輝がぼやくように言うと、錦堀先生は少しだけ笑みを浮かべた。
「まぁ、信濃君らしいと言えばらしいけどね。じゃあ、今日はここまでにしておこうか。」
そう言われて、清輝は安堵のため息をつきながらその場を離れる準備をした。一旦ここで話が切れたような、区切りのある空気が職員室に漂っていたそんな時。
烈志は職員室のドアを勢いよく開け放ち、ズカズカと中へ入ってきた。
「錦鯉先生!」
錦堀先生が顔をしかめながら振り返る。「だから、錦堀だと言ってるだろう、松本君。」
「いやー、細かいことは気にしないでくださいよ!」烈志は大きな声で笑いながら、清輝の背中を思いっきり叩いた。「実はですね、信濃がうちの柔道部のマネージャーになったんですわ!」
「はぁ?」清輝は驚きと困惑の入り混じった声を上げた。
錦堀先生は烈志の突拍子もない発言に一瞬目を丸くしたが、すぐに眉をひそめた。「信濃君が柔道部のマネージャー? 松本君、それは初耳だな。それに、彼は今、謹慎中だぞ。」
烈志は悪びれる様子もなく、ふんぞり返りながら説明を続けた。「そうなんですよ。でも、謹慎中だからこそ、放課後に武道館を清掃するって名目で、信濃に手伝ってもらうんです。彼も反省の気持ちを示したいって言ってましたよね、信濃?」
「いやいや、そんなこと一言も――」清輝が慌てて否定しようとするが、烈志は彼の肩をガシッと掴み、無理やりうなずかせる。
「ね? 反省のために全力でやるって言ってましたから!」
錦堀先生は半信半疑の表情で清輝を見た。「信濃君、本当にやる気があるのか?」
「え、いや、それは……」清輝が困惑して言葉を詰まらせていると、烈志がさらに追い打ちをかけるように話を進める。
「先生、これも教育の一環ですって! 柔道部の掃除を手伝うことで、責任感とチームワークを学ばせますから! 錦堀先生、信濃君の将来のためにも、ここはひとつお願いしますよ!」
錦堀先生はため息をつきながら腕を組み、しばらく考え込む。「……まぁ、松本君がそこまで言うなら、いいだろう。ただし、ちゃんと清掃に集中するんだぞ。余計なことはするなよ。」
「やった!」烈志は満面の笑みを浮かべ、清輝の背中をまた勢いよく叩いた。「ありがとっす、錦鯉先生!」
「だから、錦堀だと言ってるだろう!」
烈志の無理やりな説得に巻き込まれた形の清輝は、なんとも言えない気持ちで職員室を後にしようとした。
(ありがとな、烈志……いや、全然ありがたくねぇけど!)
その時だった。職員室の入口で、佳苗とすれ違った。
「あっ。」清輝は思わず声を漏らしたが、佳苗は清輝の方を露骨に無視して足早に通り過ぎていく。
(……柚子もいねぇし、一人か。)
清輝は佳苗の背中を見送りながら、心の中で少しだけ引っかかるものを感じた。
「おい、あれいいのかよ?」清輝は烈志に問いかけた。
しかし、烈志はまるで佳苗の態度に気づいていないようで、首をかしげながら答える。
「あ? 何か問題か?」
その無邪気な反応に、清輝はため息をつくしかなかった。
(なんだかなぁ……。)
そのまま放課後の武道館清掃に向かう清輝と烈志。その道すがら、清輝はぼんやりと佳苗の冷たい態度や、烈志の無関心さに頭を巡らせていた。