5話.烈志と佳苗
昼休み、清輝は学校の屋上にいた。周囲には誰もおらず、金属製の柵越しに広がる風景を一瞥しながら、手にしたコンビニ弁当を箸でつついている。
「またコンビニ弁当かよ。」
声がして振り返ると、烈志が階段を上がってきたところだった。手にペットボトルを持ち、のしのしと歩いて清輝の隣に腰を下ろす。
「家で作ったやつとか食わねぇの?」
烈志の問いに、清輝は口の中の唐揚げを飲み込みながら、そっけなく答えた。
「別に。家で作ったやつなんか食ったことねぇよ。」
烈志は少し驚いたように眉を上げたが、それ以上は何も言わず、ペットボトルのキャップを開けて一口飲む。
「お前んちってさ、飯とか出てこねぇの?」
「いや、出てくるけど、親父も母さんも勝手に食ってんだよ。俺の分とか特に考えちゃいねぇし。」
清輝は箸で弁当の隅のポテトサラダをつまみながら、どこか気だるげに呟いた。
「ふーん。」烈志は曖昧に頷き、それ以上深く突っ込むことなく、ぼんやりと目の前の空を見上げた。
「で、謹慎中ってどうなんだよ?ぶっちゃけ楽だろ?」
唐突に烈志が言葉を放り投げる。
「楽っちゃ楽だけどよ。」清輝は弁当のフタを閉じ、空を見上げる。
「図書室で本読まされて、感想文書かされてるだけだしな。でも、なんか先生が見てないのに一人でいるってのも気が抜けるっていうか、落ち着かねぇ。」
「ははっ、自由時間って考えればいいんじゃね?」烈志が笑いながら言う。
「お前、謹慎とか言いながら先生の監視がないの、最高だろ。なんならサボってどっか行っちまえばいいじゃん。」
清輝は肩をすくめた。
「いや、そんなことしてまた問題起こしたら、マジで留年するだろ。さすがに面倒だし、そこまでする気はねぇよ。」
「まぁな、そこはお前の良心ってやつか?」
烈志がニヤニヤしながらからかうと、清輝は無言でペットボトルを放り投げるふりをして烈志を軽く脅した。
「で、今日は何してたんだよ?」烈志が尋ねる。
清輝は少し黙り込んでから、ぽつりと言った。
「図書室で、なんか変なやつに会った。」
「変なやつ?」
「……病気で学校あんまり来てないとか言ってた女。名前は戸田って言ったかな。」
「病気?」烈志は少し驚いたように身を乗り出した。
「どんな病気なんだよ?」
清輝は箸を置き、少し視線をそらしながら答えた。
「知らねぇよ。何だか呼吸器とか使ってたけど。とにかく、すげぇ地雷踏んじまって焦ったわ。」
烈志は「お前らしいな」と苦笑いしながら、空を見上げてペットボトルを振ってみせた。
「まぁ、お前も色々あるだろうけど、謹慎期間中なんだし、そういうのも気にせず適当にやっとけよ。」
清輝はため息をつきながら、少しだけ気を抜いたように笑った。
「適当にな……お前みたいに能天気にはなれねぇけどよ。」
清輝が弁当を片付けようとしていると、烈志が思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。お前さ、放課後に道着全部洗っとけよ。」
清輝はペットボトルを飲みながら、眉をひそめた。
「は?なんで俺がやんなきゃなんねぇんだよ。新人の正樹にでもやらせりゃいいだろ。」
「正樹に洗濯なんか任せられるわけねぇだろ!」
烈志は真剣な顔で言い返してきた。
清輝は呆れたように肩をすくめ、ペットボトルを置いた。
「エ●本の管理は任せるくせにな。」
その言葉に烈志は吹き出しそうになりながらも、声を抑えて笑った。
「あれは別だろ!つーか、エ●本は道場の伝統だからな!ちゃんと管理しねぇと部のアイデンティティが崩れる!」
「どんな伝統だよ……。」
清輝は頭を振りながら、適当に手を振ってその場を流そうとした。
ふと下のグラウンドを見ると、女子生徒たちが数人集まっているのが目に入った。清輝は視線をそちらに向けた。
「あれ、なんだ?」
烈志も気づき、グラウンドを見下ろす。そこには佳苗と柚子が、新入生たちに声をかけている姿があった。佳苗は薙刀を肩に担ぎ、身振り手振りで何かを熱心に説明している。柚子は少し控えめながらも、新入生たちに話しかけているようだった。
「体験入部の勧誘だろ。」
烈志が苦笑いしながら言った。
「薙刀部って、あいつら2人しかいねぇからな。佳苗が創設者だし、潰したらメンツが立たねぇんだろ。」
清輝は肩をすくめながら弁当のフタを閉じた。
「なるほどな。あいつのことだ、意地でも続けようとするわけか。」
烈志は頷きながら続けた。
「でも実際、道場系の部活なんてどんどん廃部になってるからな。空手も剣道も、どっちも消えたろ。」
「まぁな。地味だし、人気がねぇんだろ。」
清輝はグラウンドの佳苗を見ながら呟いた。佳苗は一際大きな声で薙刀を構え、新入生たちに何かをアピールしている。
「世知辛ぇよな。武道系って、今の時代にウケねぇもんな。汗臭ぇし、キツいし、そりゃ敬遠されるわ。」
烈志がペットボトルを振りながらぼそりと言った。
「それでも、あいつ必死だな。」
清輝は佳苗の動きをぼんやりと眺めながら呟いた。
「まぁ、あいつの場合、薙刀が好きっていうより、自分で作った部活が潰れるのが許せねぇんだろうな。」
烈志が肩をすくめながら苦笑いを浮かべた。
「そういうプライドってやつか。」
清輝は小さく息を吐きながら、空を見上げた。
しばらく無言でグラウンドを眺めていた二人だが、烈志がふっと思い出したように口を開いた。
「……なぁ、でも俺ら柔道部も、正直ギリギリだよな。今の新入生だって、正樹一人だけだし。」
清輝は軽く笑って肩をすくめた。
「正樹って、新聞でお前を見て入ったんだろ?エ●本どころか、すげぇ真面目な動機じゃねぇか。」
「そうなんだよ。マジでいいやつだよな、正樹。純粋に柔道やりたくて入ってきたんだぜ。俺なんか最初、先輩に引っ張られた勢いだったのによ。」
烈志がしみじみとした口調で言う。
「ま、でもお前のファンなんだろ。だったら、もうちょい特訓してやれよな。」
清輝が少し茶化しながら言うと、烈志は苦笑しながらペットボトルを飲んだ。
烈志がふと思い出したように言葉を放った。
「で、道場はいつ洗うんだよ?」
清輝は一瞬黙り込んでから、眉間にしわを寄せた。
「……お前、しつけぇな。」
そう言って、手にしていたペットボトルを烈志に向かって軽く投げるふりをした。だが、手が滑ったのか、本当にペットボトルが手から離れ、屋上の柵を越えて下へと落ちていった。
「……あ。」
清輝の口から思わず声が漏れる。
その直後、下から聞こえてきたのは、佳苗の怒声だった。
「おい!何落としてんだよ!危ないだろうが!!」
二人は顔を見合わせ、烈志が苦笑しながら肩をすくめた。
「バレたな。」
清輝は呆れたように息をつきながら、柵の下を覗き込んだ。佳苗は地面に転がったペットボトルを拾い上げ、鋭い目つきで上を見上げている。
「お前、あんなすぐ怒るやつが近くにいて大変だな。」
清輝がぼそりと呟くと、烈志は肩をすくめて笑った。
「まぁ、幼馴染だしな。あれがデフォだよ。」
その時、佳苗が腕を大きく振りかぶり、勢いよくペットボトルを屋上に向かって投げ返してきた。
「うわっ!?」
清輝はとっさにしゃがみ込み、ペットボトルが屋上の床にゴツンと当たって転がる音が響いた。
「こ、怖ぇ……。」
烈志は震えたふりをしながら、肩をすくめる。清輝も同じようにペットボトルを指差して苦笑いした。
「マジで2階まで届くのかよ。化け物だな。」
「怒らせるとホント怖ぇぞ、佳苗は。」
烈志が半分冗談めかして言うと、清輝はわざとらしく震えながら笑った。
「なぁ、今のうちに逃げとくか?」
「逃げとけ逃げとけ。」
二人はふざけた様子で笑いながら、屋上に転がるペットボトルを無視して、その場から距離を取った。佳苗の怒声がまだ下から微かに聞こえてくる中、二人の笑い声が風に乗って広がっていった。
武道館近くの廊下まで二人で足早に逃げてきた清輝と烈志。足音が少し響く静かな廊下に、ようやく二人は立ち止まった。
「ふぅ……ここまで来りゃ、追ってこねぇだろ。」
烈志が息を整えながら笑う。
清輝はちらりと視線を横に流し、目の前にある「保健室」の看板に目を止めた。足が自然と止まり、じっとドアの方を見つめる。
烈志はその様子に気づき、首をかしげた。
「ん?どうした?」
清輝は一拍置いて、軽く肩をすくめる。
「いや、アイツ……いるのかな、って思っただけだよ。」
「アイツって……さっきの病人のことか?」
烈志が首をかしげながら問いかけると、清輝は少しだけ考え込むように視線を落とした。
「……ああ。」
ぽつりと答えた清輝の声には、わずかな戸惑いが混ざっていた。
烈志はその答えに、ふっと笑いながら尋ねた。
「お前、さっき言ってた地雷踏み抜いたっての、なんか言っちまったんだろ?ちゃんと謝ったのか?」
清輝は顎を掻きながら、困ったように苦笑いを浮かべた。
「いや……なんか必死すぎて覚えてねぇんだよな。」
烈志はその言葉に呆れたように笑いながら、腕を組んで堂々と言い放った。
「ほらよ、こういう時こそ“潔く謝罪”だろ。武道家たるもの、己の非を認めたら迷わず頭を下げろってことだ。」
「へっ……自分でも訳の分かんねぇこと言ってんじゃねぇよ。」
清輝は苦笑しながら肩をすくめた。烈志が偉そうな顔をして語るたびに、少しばかり滑稽に思えてくる。
だが、烈志は真顔のまま、保健室のドアに向かって一歩を踏み出した。
「おい、何してんだよ!」
清輝は慌てて烈志の腕を掴んで止めようとする。
「何って、会いに行くんだよ。俺もさっきの病人に挨拶くらいしとこうと思ってな。」
「いやいや、余計なことすんなって!」
清輝は烈志を止めようとするが、烈志は軽く清輝の手を振り払い、何事もなかったかのように保健室のドアを開けた。
「ちょっと、勝手に入んなよ!」
清輝の制止も聞かず、烈志はそのまま保健室の中へと入っていく。その背中を見ながら、清輝は思わず頭を抱えた。
「……ったく、なんでこういう時だけ積極的なんだよ、コイツ……。」
ドアの向こうから何が起こるのか分からない緊張感に、清輝はその場で動けずに立ち尽くしていた。その時、保健室のドアが開き、中から烈志が耳を引っ張られながら出てきた。
「イデデデデ!先生、耳ちぎれるって!」
烈志は涙目になりながら必死に訴える。
その耳を容赦なく掴んでいるのは、筋肉ムッキムキの保健の先生、久保だった。
普通、保健の先生と言えば美人で優しそうなお姉さんをイメージするだろうが、この久保という男はその期待を豪快に裏切る。
久保先生は、その見た目通りの強面と熱血ぶりで生徒たちの間では有名だった。だが、話が通じない上に、持論を延々と展開して最後は涙で訴えかけてくる暑苦しい性格から、清輝はとにかく苦手にしている。
清輝は廊下でその様子を遠巻きに見ながら、ため息をついた。
「……だから入るなっつったのに。なんであいつ、いっつもこうなんだよ。」
「おい、烈志!」
久保先生が烈志の耳を掴んだまま声を張り上げる。
「保健室は命を守る神聖な場所だ!お前みたいな不届き者が無断で入っていい場所じゃない!分かったか!」
「分かりました!分かりましたから耳を放してください!」
烈志は痛みに耐えながら叫ぶが、久保先生は聞く耳を持たない。
久保先生はさらに熱血な表情を浮かべ、片手を空に掲げて語り出した。
「保健室の責務はただ生徒の命を守ることではない!心を守り、未来を支えることだ!お前たちはその尊さをまだ知らないだけなんだ!!」
「あー、もう始まった……。」
清輝は頭を抱えながら、小声で呟いた。
久保先生はそのまま感極まり、目に涙を浮かべながら話を続ける。
久保先生は片手を胸に当て、熱い涙を流しながらさらに語り続けた。
「生徒たちの未来のために、この久保!この身を捧げる覚悟で日々を戦っているんだ!たとえどんな困難があろうと、俺は負けない!これが俺の使命なんだ!!」
烈志は耳を解放されたものの、まだ痛みが残っているのか耳をさすりながら小さく「はいはい、分かりました」と適当に相槌を打っていた。
清輝はその様子を冷めた目で見つめながら、廊下の壁に寄りかかって呟いた。
「……ったく、あの暑苦しさ、どうにかなんねぇのかよ。」
そんな中、烈志がふと思い出したように尋ねた。
「なあ先生、さっき清輝が言ってた病人、戸田って子だよ。あの子はどうしたんだ?」
久保先生は涙を拭いながら真面目な顔で答えた。
「戸田か……親御さんが彼女を病院に連れて行ったんだ。少し体調が不安定らしい。」
その言葉に、烈志は「そうか」と短く答え、どこか気まずそうな表情を浮かべた。一方で清輝は黙ったまま、何も言わずに久保先生の言葉を聞いていた。
しかし、久保先生はここで終わらない。熱血のスイッチが再び入ったのか、語りを再開する。
「彼女のような生徒のためにも、俺たち大人は何ができるか常に考えなければならない!生徒の未来を守るということは、つまり――」
「あ、やべぇ。また始まった。」
清輝が素早く烈志の腕を掴み、小声で耳打ちした。
「行くぞ。今のうちに逃げるんだ。」
烈志も同意するように頷き、二人は静かに後ずさりを始める。久保先生の熱い言葉が廊下に響き渡る中、二人はそっと保健室から距離を取っていく。
「――生徒の一歩一歩が未来への礎となり、我々教師がその礎を支えるべきなんだぁ!!」
久保先生は情熱的に拳を振り上げて語っていたが、すでに清輝と烈志の姿は廊下の彼方に消えていた。その事実に気づく様子は一切ない。
廊下の角を曲がり、ようやく安全圏に辿り着いた二人は、息を整えながら顔を見合わせた。
「……あの化け物、マジで話通じねぇな。」
清輝が呆れたように言うと、烈志は苦笑いを浮かべた。
「まあな。でも、あれで生徒を守るって本気で思ってるからタチ悪いよな。」
清輝は頭を掻きながら、深く息を吐いた。
「あんな暑苦しいやつが保健の先生務めてるの、どう考えても奇跡だろ。」
「だよな。でも、伝説は伊達じゃねぇよ。何だって、世界を三度救ったって噂もあるし。」
烈志が冗談めかして言うと、清輝は眉をひそめた。
「そんな話、誰が信じるんだよ。」
「信じる信じないじゃねぇんだ。生徒の間で語り継がれてんだから、それが真実だろ?」
烈志はニヤニヤしながら清輝を見た。
「……マジで頭悪いな、お前。」
頭悪いを聞いてか聞かずか、そして烈志は歩きながらぽつりと呟いた。
「でも、戸田が帰っちまったのか……なんか、ちょっと残念だな。」
清輝はその言葉に少し驚いたように眉を上げた。
「お前が?おいおい、あの子と話したこともねぇくせに何言ってんだよ。」
烈志は肩をすくめ、軽く笑いながら言った。
「いや、話したことはねぇけど、そんな大変な病気抱えてるやつが学校に来てたってのは、なんか応援したくなるだろ?頑張ってるって感じだしさ。」
清輝は面倒くさそうに片手を振り、鼻で笑った。
「いやいや、お前が会いに行ったら、逆にまた発作起こすかもしれねぇぞ。」
その言葉に烈志は苦笑しながら首をかしげた。
「俺が?なんでだよ?」
清輝はわざとらしく溜め息をついて、烈志をじっと見つめる。
「お前みたいにデカい奴が急に近づいてきたら、そりゃビビるだろ。あんな細い子が、ストレスで発作起こしたらどうすんだよ?」
烈志は少し考えるように視線を泳がせたが、すぐに照れ隠しのように笑った。
「おいおい、俺はそんな怖がられるタイプじゃねぇぞ。むしろ優しい兄貴みたいなもんだろ?」
清輝は呆れたように肩をすくめた。
「どこの優しい兄貴がエ●本管理させてんだよ。」
その返しに烈志は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに「それはそれ、これはこれだ!」と強引に話を終わらせようとする。
清輝はそんな烈志を横目に見ながら小さく笑い、また一歩を踏み出した。
「……まあ、次会うことがあったら、少しは優しくしてやれよ。お前がストレス与えたら、それこそ洒落になんねぇからな。」
烈志は清輝の言葉に軽く頷き、二人はそのまま廊下の向こうへと歩き出していった。昼の陽射しが廊下の窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。
昼休みが終わりに近づき、清輝と烈志は廊下で別れようとしていた。清輝が少し悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開く。
「なぁ、ちゃんと真面目に授業やれよ。」
烈志は苦笑しながら肩をすくめて返す。
「お前こそな。どうせまた図書室で寝てんだろ?」
「寝ねぇよ。たぶん、な。」
清輝は軽く手を振りながら歩き出す。烈志もそれを見送るようにして手を振り返した。
図書室の静かな席に座り、自習課題に取り組もうとする清輝。しかし、久保の言っていた「体調が不安定」という言葉が頭を離れない。
(あいつ……戸田。親が病院連れてったって言ってたけど、大丈夫なのかよ。)
何度もノートに向かおうとするが、気持ちが集中できない。思い浮かぶのは、図書室での真希の様子だ。吸入器を使う彼女の姿が頭にちらつき、ペンを持つ手が止まる。
(……別に俺が心配しても、どうなるもんでもねぇけどよ。)
そう自分に言い聞かせながら再びペンを握り直すが、やはり順調には進まない。苛立ちが募ってきたその時――。
「バシッ!」
頭に軽い衝撃が走り、清輝は思わず後ろを振り返った。そこに立っていたのは柚子。手にはペットボトルを握りしめ、無表情で清輝を見下ろしている。
「……何だよ、お前。佳苗の腰巾着が報復に来たのか?佳苗はどこだ?」
清輝が眉をひそめながら聞くと、柚子は濁声で淡々と答えた。
「わたしは風紀員でもあるので。」
その声は、どこか枯れたような低さで、清輝は一瞬面食らった。
「……おい、なんだその声。お世辞にも可愛い声じゃねぇな。道場で声出しまくってそうなったのか?」
柚子はその言葉を完全に無視して、ペットボトルを清輝の机に置いた。
「屋上から落としたペットボトル。返しに来ただけ。」
「……わざわざかよ。捨てとけばいいだろ。」
清輝が呆れたように言うと、柚子は首を振る。
「自分で出したゴミは自分で始末するべき。捨てるのは簡単だが、それじゃ風紀員としての務めが果たせない。」
その真面目すぎる返答に、清輝はやれやれと頭をかいた。
「……お前、マジで律儀だな。で?それだけかよ。」
「いや、もう一つ。」
柚子は少し間を置いて続けた。
「佳苗さんのことについて、少し相談したくて。」
清輝は思わず眉をひそめた。
「佳苗?お前らの仲間内の話なら、俺に関係ねぇだろ。」
柚子は一瞬黙り込み、目線を机の上に落とした。次の言葉を発するのを少し躊躇しているようにも見える。
その空気の中、清輝は少し嫌な予感がしながらも、仕方なくペットボトルを指で転がしながら相手の言葉を待つ。
「……まぁいい。話ぐらいは聞いてやるよ。」
そう言いながら、清輝は柚子に視線を向けた。
清輝は机に肘をつき、少し眠そうな目で柚子の言葉を待っていた。柚子は短く息を吸い、話し始める。
「部活、辞めたい。」
その直球すぎる言葉に、清輝は目を見開き、ペットボトルを机に置いた。
「……は?お前、佳苗の腰巾着だろ?辞めるとか、本気で言ってんのか?」
柚子は小さく頷く。枯れたような濁声で、どこか力のない響きがあった。
「うん。本気で辞めたい。」
清輝は困惑しつつも、少し興味を持ったように体を乗り出す。
「お前ら、いつから仲良かったんだよ?俺から見りゃ、最初っから佳苗に付き従ってるように見えるけどな。」
柚子は目線を机の上に落とし、少しだけ考え込むような表情を見せた。
「……正直、いつからか分かんない。でも、中学から一緒にいたのは確か。」
「ふぅん。」清輝はペットボトルを指で転がしながら、少し間を置いた。「じゃあなんで薙刀部なんかに入ったんだ?」
柚子はその問いに答えるように、淡々と話を続けた。
「佳苗さんが薙刀部を立ち上げた時、自然と入った。中学から一緒だったし、断る理由もなかったしね。」
「ふーん……。でも、辞めたいんだろ?飽きたとか?」
柚子は苦笑し、首を振る。
「それもある。でも、それだけじゃない。……清輝、お前、佳苗さんがなんで薙刀部を作ったか知ってる?」
清輝は少し眉をひそめ、肩をすくめた。
「いや、知らねぇよ。ただ頑張り屋だからだとか、そんなとこだろ?」
柚子はその言葉に、小さく鼻を鳴らして笑った。
「違うよ。佳苗さんが薙刀部を作った理由は、そんな立派なもんじゃない。」
「じゃあ、何だよ。」
柚子は一拍置いてから、少し冷めたような口調で続けた。
「烈志のことが好きだから。」
その言葉に、清輝は一瞬言葉を失い、ペットボトルを転がす手を止めた。
「……は?」
「ただ好きな人に近づきたかっただけ。それだけの理由だよ。」
柚子はため息をつきながら、机に手を置いた。
清輝は呆れたように頭を掻きながら、少しだけ笑った。
「いやいや、それで薙刀部作るとか……正気かよ。つーか、それならマネージャーでいいだろ?」
柚子は眉を上げ、少しきつい口調で言い返した。
「それだと、お前と変わんないでしょ。友達としてくっついてるだけで、烈志には対等に見てもらえない。それが嫌だったんだよ、佳苗さんは。」
清輝はその言葉に、少し驚いたように目を細めた。
「……対等に、ねぇ。」
柚子は肩をすくめながら続けた。
「だから薙刀部を立ち上げた。烈志に自分を認めてもらいたかったんじゃないかな。ただひっついてるだけの存在じゃなくて、ちゃんとした“武道の仲間”として。」
清輝は腕を組み、少し考え込むように視線を落とした。
「……だから薙刀部、か。でも、なんで薙刀なんだよ。普通、もっと王道っぽい剣道とか行くだろ。」
柚子は肩をすくめ、淡々と答えた。
「それも色々考えてたみたい。剣道よりも女性的で、柔道や空手よりも暑苦しくないイメージがあるからって。」
「なるほど……弓道は?」
「それは道場が別だから最初から無理。」
清輝は深く息をつき、目を閉じた。
「……お前も大変だったな、そんな不純な動機に付き合わされて。」
柚子は少し苦笑いを浮かべながら、机を軽く叩いた。
「そう。最初はまぁ、佳苗さんがやるならいいかって思ったけど、さすがにもう飽きた。」
清輝は机に肘をつき、柚子を見上げる。
「……辞めたいなら辞めればいいじゃねぇか。佳苗も理解するだろ、多分。」
「どうかな。」柚子は首をかしげた。「烈志が絡むと、佳苗さんは意地を張るから。下手に言えば拗れる気がする。」
清輝はやれやれとため息をつき、視線を天井に向けた。
「そりゃ……面倒だな。」
ここで会話は一旦区切れ、柚子が思案するように黙り込む。その静けさの中で、清輝は次に何を言うべきか考えていた。
清輝は腕を組みながら、少し困った顔で柚子を見た。
「なぁ……悪いけど、俺にできることはねぇよ。烈志の友達だからって、佳苗のことまで面倒見れるわけじゃねぇし。」
その当然ともいえる返答に、柚子は呆れたように眉を上げた。
「……やっぱ使えねぇな、お前。」
清輝は肩をすくめ、視線をそらす。
「まぁ、そりゃそうだろ。多分、俺、佳苗に嫌われてるしな。」
柚子はため息をつきながら机から立ち上がった。
「……もういいわ。じゃあ自習戻る。」
そのそっけない言い方に、清輝は少し気まずそうに首をかしげた。
「で、どうするつもりなんだよ。佳苗にはちゃんと言うのか?」
柚子は立ち去ろうとする足を止め、振り返りもせずに軽く答えた。
「……ま、佳苗とは少し距離置く。」
その言葉に、清輝は「ああ、そうか」と適当に相槌を打ちながら、ふと違和感を覚えた。
「……お前、今“佳苗さん”じゃなくて“佳苗”って呼んでたよな。」
言われた柚子は一瞬だけ足を止めたが、何も言わずにそのまま歩き出す。
清輝は小さく息を吐き、机に頬杖をついた。
「女って……怖ぇな。」
その言葉は自分に向けた独り言のようなもので、図書室の静寂の中に溶けていった。柚子が去っていく背中をぼんやりと見送りながら、清輝は机に向き直り、散らばった自習用のプリントを整理し始めるのだった。




