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4話.転校生

 翌日から本格的に謹慎生活が始まった。


 清輝は一限目が始まる時間に図書室へと足を運ぶ。窓際に用意された自分専用の席は、朝の柔らかな陽射しに照らされていた。教室から離れた静かな空間――だが、その静けさが妙に重たく感じる。


 机の上には、担任の錦堀先生がわざわざ選んだらしい本が一冊置かれている。タイトルは『銀河鉄道の夜』。

「……なんだよ、星の話か?」

 清輝はぼそりと呟き、椅子に腰を下ろした。


 表紙を眺め、ページをめくる。ところどころに挿絵が描かれているが、読書感想文のために選ばれた“無難な一冊”という雰囲気が漂っていた。


「こういうのって、案外難しくて気楽に読めるもんじゃねぇよな……。」

 文句を言いながらも、一応目を走らせる。しかし、内容が全く頭に入らない。文字がただ目の前を流れていくだけで、心のどこにも引っかからない。


 清輝は溜息をついて本を閉じ、椅子に深くもたれかかった。

「……無理だな、こりゃ。」


 椅子の背に体を預け、少し足を前に投げ出した。窓の外に視線を向けると、のどかな風景が広がっていた。グラウンドでは体育の授業が行われているらしく、元気な掛け声がかすかに聞こえる。


「……いいよな、普通に授業受けられるやつらは。」

 呟いてみても、当然誰からも返事はない。清輝は気だるげに窓の外を見続けた。


 青空には白い雲がゆっくりと流れている。遠くの山の稜線は柔らかく霞み、田畑が光を受けて微かに輝いて見えた。校庭では、鳥が一羽すっと飛び立つ。その一瞬の動きに目を引かれるが、すぐにまた静かな風景に戻る。


「……のどかだねぇ、秩父って。」

 自然と漏れた言葉に、清輝は苦笑いを浮かべた。


 グラウンドから聞こえる掛け声も、どこか緩いリズムで耳に届く。遠くの国道にはトラックが一台、静かに走り去っていくのが見えた。


「こんな風景、いつも見てるのにな。」

 清輝は頭の後ろで手を組み、気だるそうに目を細めた。


 謹慎生活という名の隔離状態に置かれると、普段の風景が妙に新鮮に見える。どこにでもある日常の光景が、自分にとっては手の届かない遠い世界に思えてくる。


「……まぁ、こんなところじゃ悪さしても大騒ぎにはならねぇけどさ。」


 ぼそっと呟きながら、清輝は少しだけ眉をひそめた。その言葉がどこか投げやりで、図書室の静けさに吸い込まれていく。


 再び椅子にもたれ、机に投げ出していた足をゆっくりと引き戻すと、窓の外に視線を戻した。

「ほんと、……俺、何してんだろ。」


 静かな図書室。遠くから響いてくる運動部の掛け声。秩父の穏やかな風景。それらが混ざり合い、清輝の言葉は風とともにそっと消えていった。


 静まり返った図書室の中、清輝はぼんやりと窓の外を眺めていたが、ふと視界に入った違和感に気づいた。


「あれ……?」


 部屋の奥にある椅子が一つだけ、他の椅子と位置がずれていた。整然と並んでいる他の椅子とは異なり、その椅子だけが少しだけ引かれている。


(なんだこれ……。)


 図書室は基本的に誰も来ない静かな空間だ。一限目の時間帯にここを使う者などほとんどいない。休み時間でもない今、この椅子を動かした人物がいるとすれば、清輝よりもずっと早い時間に来たことになる。


(まさか、俺の他にも謹慎受けてる奴がいるのか?)


 そんな考えが頭をよぎるが、心当たりはない。清輝はずれた椅子をじっと見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……まぁ、別に関係ねぇか。」


 再び本に視線を戻すが、気になり始めるとどうにも集中できない。ページをめくる指が止まり、清輝は再び窓の外へ目を向けた。


「ったく、なんなんだよ……。」


 そんな時――


 キーンコーンカーンコーン。


 チャイムが静寂を破り、清輝の心を現実へと引き戻した。


「……マジかよ。もう次の時間始まんのか?」


 時計を確認し、焦りを覚えた清輝は慌てて本を閉じた。


「くそ、読書感想文全然書けてねぇじゃねぇか!」


 ペンを掴み、清輝は開きっぱなしのノートに向き直る。ほとんど埋まっていないページを見て、眉間にシワを寄せた。


「えーっと……『この物語は友情と希望についての話で……』とかでいいか……。」


 内容が頭に入っていないせいで筆が進まない。だが、時間がない以上、細かいことを気にしている余裕はない。清輝はとにかくページを埋めることに集中した。


「なんかもっと、感動したフリとかしといたほうがいいのか?いや、それっぽくしとけばバレねぇだろ……。」


 頭の中で葛藤しながらも、ペンは次々と言葉を紡いでいく。


「よし、これでいいだろ……多分。」


 どうにか感想文を書き上げ、清輝はノートを閉じた。そして深いため息をつき、椅子にもたれかかった。


(……やれやれ。なんでこんなことに追われなきゃなんねぇんだよ。)


 窓の外を見れば、相変わらずのどかな秩父の風景が広がっている。鳥が飛び交い、遠くの山並みが霞んでいる。その穏やかな光景を見つめながら、清輝はふと苦笑いを浮かべた。


(まぁ、とりあえず終わったからいいか。)


 気だるそうに肩をすくめながら、清輝はペンを机に置き、図書室の静けさに耳を傾けた。


 机の上には、急いで書き上げたばかりの読書感想文が置かれている。文字は整っているように見えるが、その中身はどこか空虚だ。「とりあえず埋めた」という感じが、書き手自身にも伝わる雑さだった。本を横目でちらりと見て、清輝は小さく呟く。


「……まぁ、あれで十分だろ。どうせ見られやしねぇし。」


 そう言いつつも、どこか腑に落ちない感覚が胸に残る。感想文の内容なんて気にしていないはずなのに、やっつけで済ませたことが、ほんの少しだけ引っかかっている。


 時計の秒針が、静かな部屋の中で規則的に音を刻む。本棚にきっちりと収まった本たちの背表紙は整然としていて、それが清輝には無性に窮屈に感じられた。


 その時――


 図書室の扉が静かに開いた。鈍い音を立てながら、ひとりの女子学生が入ってくる。


 その姿に、清輝は何気なく視線を向けた。女子学生は、肩までの髪を整えた至って普通の身なりだった。制服のスカートも規定の丈で、目立った装飾や個性はない。どこにでもいるような、平凡な生徒に見える。


 しかし、彼女は図書室にいる清輝を見つけると、わずかに目を見開いて驚いた様子を見せた。すぐにその表情を整え、深呼吸をして胸を落ち着かせるような仕草をする。


 清輝は椅子にもたれかかったまま、軽く眉をひそめた。

(なんだ?珍しいな。図書室にこんな時間に人が来るなんて。)


 女子学生は清輝には目を合わせず、静かに歩みを進める。そして、清輝が朝から気になっていた“ずれた椅子”の前で足を止めた。


 その椅子をじっと見つめ、躊躇するようにしてから、そっと座る。姿勢を正し、バッグから一冊のノートを取り出して机に置いた。その動作はどこかぎこちなく、周囲の様子を気にしているようにも見える。


(あの椅子……あいつが動かしたのか)


 清輝はぼんやりとそんなことを考えながら、彼女の様子を観察していた。だが、彼女はそれ以上清輝に視線を向けることはなく、黙々とノートにペンを走らせ始める。


 清輝は彼女のノートをぼんやり眺めながら、ペンを指でクルクル回していた。しかし、ふと気づいたように眉をひそめる。


「おい、それ、間違ってるぞ。」


 突然声をかけられた彼女は驚いて顔を上げた。ペンを握った手が止まり、目を大きく見開いて清輝を見つめる。


「……え?」


 清輝は面倒くさそうにノートを指差しながら言う。

「その問題、水平に投げた物体が地面に着くまでの時間と距離を求めるやつだろ?そもそも、地面に着く時間を間違えてたら、距離もズレるに決まってんじゃん。」


 彼女は慌ててノートを見返し始めるが、清輝は続ける。

「投げた高さが10メートルで、重力加速度が9.8……だからさ、まず垂直方向の時間を計算するだろ?で、その時間を水平の速度に掛ける。それで距離が出る。」


「……えっと、それってつまり……」


 彼女が戸惑いながら呟くと、清輝は少しイラついたように眉をひそめる。

「要するに、お前が計算した1秒ちょっとじゃ、短すぎるんだよ。もっと時間がかかる。それに気づかないで進めたから、答えがズレてんだろ?」


 彼女は再びノートを見つめ、震える手で計算をやり直し始めた。そして、しばらくして静かに呟いた。


「……ほんとだ……間違えてた……。」


 清輝は呆れたように肩をすくめる。

「ったく、基本中の基本じゃねぇか。」


 彼女は顔を赤らめながら、小さく「すみません……」と呟いた。その声に、清輝は少しだけ口元を歪めた。


 清輝は呆れたように鼻を鳴らし、背もたれにもたれかかった。


「へっ、これだから真面目にやるやつは抜けてんだよな。」


 彼女は恥ずかしそうに視線を落とし、ノートに手を置いたまま少し躊躇うようにしていた。そして、小さな声で言った。


「……あ、あの……もしよかったら、他の問題も見てもらえませんか?」


 その言葉に、清輝は驚いたように眉を上げる。


「は?他の問題って……おいおい、俺に教わるのかよ?」


 彼女は頬を赤らめたまま、小さく頷いた。

「だって、さっきの……教えてくれたの、分かりやすかったから……。」


 清輝は思わず視線をそらし、頭をかきながら言葉を濁す。

「……いや、別に俺は先生でもなんでもねぇし。てか、そっちで勝手にやればいいだろ。」


 彼女は少し困ったような顔でノートを指差しながら言葉を重ねる。

「でも、他にも何か間違ってるかもしれなくて……その……君が見てくれると、助かるなって……。」


 その控えめな頼み方に、清輝はさらに戸惑った様子を見せる。視線を泳がせながら口元を曲げると、ため息交じりに呟いた。


「ったく、俺はこんなんやるためにここにいるわけじゃねぇんだけどな……。」


 そう言いながらも、彼女の期待に負けたのか、渋々彼女の隣の椅子に腰を下ろした。ノートをちらりと覗き込むと、眉をひそめながら軽く舌打ちをした。


「……ほら、ここもおかしいじゃん。なんで途中で符号が逆になってんだよ。そりゃ答え合わねぇわけだろ。」


 彼女は驚いた顔でノートを見直し、またもや「ほんとだ……」と小声で呟いた。その様子に、清輝は再び肩をすくめて苦笑した。


「……マジで大丈夫かよ、お前。それでよく勉強できてるつもりでいたな。」


 彼女は顔を赤らめたまま、「すみません……」と恥ずかしそうに頭を下げる。その仕草を横目で見ながら、清輝は少しだけ困ったように口元をゆがめた。


「……しゃあねぇな。ちょっとだけ見てやるよ。ちょっとだけな。」


 清輝は彼女のノートを広げ、適当に目を通しながら指で問題をトントンと叩いた。


「ほら、ここな。これ、基本中の基本だろ?力の分解。斜面に物体が乗ってるとき、重力を垂直方向と斜面方向に分けるんだよ。三角関数使えば一発だろ?」


 彼女は頷きながらノートにメモを取り、ペンを走らせる。

「あ……垂直方向がmgcosθで、斜面方向がmgsinθ……でいいんだよね?」


「正解。でも、それが次の問題に繋がるんだよ。摩擦力の計算だな。摩擦力は垂直抗力に摩擦係数μをかけたものだろ?で、垂直抗力ってのは斜面に垂直な方向の力だから、さっきのmgcosθと同じってわけだ。」


 彼女は一生懸命メモを取りながら「なるほど……」と呟いた。その集中ぶりに、清輝は少し呆れたように鼻を鳴らす。


「おいおい、今さら『なるほど』って顔すんなよ。こんなの、中間試験でも普通に出るだろ。」


 彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、ペンを握る手が少し震えている。


 清輝は次々と説明を続けながら、彼女のノートに問題の解き方やポイントを書き込んでいった。斜面上の運動やエネルギー保存則、簡単な振り子の公式などを教えるうちに、彼女も徐々に理解を深めていくようだった。


 気づけば、教科書の一年生範囲の内容がほぼ終わってしまっていた。


「……おい、これで一年生の物理は一通り終わりだな。っていうか、どんだけ時間かかるんだよ。こんなん、普通は授業で覚えるもんだろ。」


 清輝は呆れたように彼女を見て、軽く肩をすくめた。

「……で、学校には何しに来てんだよ。こんな簡単なことも知らないなんて、正直ヤバいぞ?」


 彼女はその言葉に一瞬目を見開き、それから視線を落として、小さく声を漏らした。

「……学校、ずっと来てないんだよね。」


 その言葉に、清輝は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに興味なさげな態度で問い返した。

「ん……いじめか?」


 彼女は首を横に振り、少し困ったような表情を浮かべた。

「ううん、病気で……。」


 その一言で、清輝は少し戸惑ったように視線を彼女に向けた。しかし、どう返せばいいのか分からず、口を閉ざしてしまう。


 彼女は気まずそうにノートを閉じ、机の上で手をぎゅっと握りしめる。清輝は何か言おうと口を開きかけたが、結局言葉にならず、ただ少し視線をそらすだけだった。図書室の静けさが二人の間に広がり、気まずい空気が漂う。


 清輝は彼女の言葉を聞いて、内心で大きな地雷を踏んだと気づいた。

(やっべ……完全にやらかしたな。これ、フォロー入れないとマズいだろ。)


 それでも言葉が出ず、ただ彼女の様子を伺うしかできない。

 彼女は俯いたまま何も言わず、再びノートと教科書に目を落として問題を解き続ける。


 その沈黙がどうにも耐えられなくなった清輝は、焦って声を上げた。

「いや、黙るなよ!おい、何か言えって!」


 しかし彼女はちらりと清輝を見ただけで、また問題に視線を戻してしまう。余計に焦った清輝は、言い訳じみた口調で続けた。

「だってさ、病気って……なら初めからそう言えばいいじゃん!なんかさ、まるで俺が悪者みたいじゃねぇかよ!」


 そう言って、自分でも驚くほど空回りしていると気づいた。彼女の反応は変わらず、清輝の言葉はただ空気に溶けていくようだった。


(……いや、実際、俺が悪者だよな。これ以上何言っても無駄だろ。)


 清輝は頭をかきむしり、深く息を吐くと肩を落とした。そして、最後は素直に頭を下げた。

「……悪かったよ。ごめん。」


 その言葉に、彼女はふっとペンを止め、驚いたように清輝を見た。


「……いいよ、別に。」


 彼女の言葉は小さかったが、どこか柔らかい響きがあった。それに清輝は少しだけ安堵し、気まずそうに頭をかきながら「ほんと悪かった」ともう一度謝った。


 彼女はそれ以上何も言わず、再び教科書に目を戻して問題を解き始めたが、さっきまでのピリついた空気は少しだけ和らいだようだった。清輝はその様子を見ながら、小さく息を吐いて椅子に座り直した。


 清輝は一息ついてから、初めて自分の名前を告げた。

「俺、清輝。信濃 清輝って言うんだ。」


 彼女はペンを止め、少し驚いたように顔を上げた。

「信濃……あ、信濃って……あの市議会議員の?」


 その言葉に清輝の表情が一瞬曇る。

「……親父のことなんか、俺には関係ねぇだろ。」

 ぶっきらぼうに返すと、彼女は少し戸惑ったように眉を下げながらも、気まずそうに言葉を続けた。


「えっと……あんまり詳しくはないんだけど、その……観光地を増やそうとか……秩父をもっと良くしようとしてる人だよね?それから……えっと、環境のこととかも頑張ってるとか聞いたことあるし……なんか、地元の人たちを守るために……その……。」


 彼女の言葉はどこかたどたどしく、詳しい知識がないことを自覚しながらも、清輝との会話を繋げたいという思いが滲み出ていた。その一生懸命な様子に、清輝は眉をひそめて面倒くさそうに呟いた。

「……やめろ。」


 しかし、彼女は気づく様子もなく、さらに話を続けた。

「だって、そういうのってすごいと思うよ。地元のためにいろいろやってるって……えっと、何だっけ、セメントの会社の人たちに優しくする……じゃなくて、配慮……?そういうのも、すごいと思うし……。」


 清輝の表情がさらに険しくなる。

「……だから、やめろって。」


 彼女は一瞬ペンを止めたが、それでも微笑みを浮かべながら、ぎこちない調子で続けた。

「いや、本当に……そういうお父さんがいるなんて、なんか……うらやましいな、って思うし……。」


 その瞬間、清輝は拳をぎゅっと握りしめ、思わず机を軽く叩いた。

「やめろって言ってんだろ!!」


 彼の突然の大声に、図書室は一瞬静まり返った。


 清輝の声が図書室に響き渡った瞬間、彼女の表情が硬直した。一瞬だけ静寂が支配したあと、彼女の顔がみるみる青ざめていく。


 彼女は胸に手を当て、まるで何かを掴もうとするかのようにぎゅっと押さえつけた。その指先が小刻みに震え、肩が不自然に上下する。呼吸をしようとするたびに、喉が乾いた音を立て、空気を吸い込むことさえ困難な様子だ。


「……おい、大丈夫か?」

 清輝は彼女の異変に気づき、慌てて声をかけた。だが、彼女は答えることもできず、机に手をついて支えようとしたが、力が入らないのか、その体はゆっくりと崩れるように座り込んでいった。


「おい、何してんだよ!ちょっと、先生を呼んで――」

 清輝が立ち上がりかけたその瞬間、彼女は震える手で清輝の袖を掴んだ。その力は驚くほど弱々しく、それでも彼を引き止めようと必死だった。


「……カ、バン……」

 彼女の唇が小さく動き、かすれた声がかろうじて耳に届く。その声を聞き取るまでに、清輝は数秒かかった。


「……カバン?」

 清輝は彼女の視線を追い、机の下に置かれた鞄に気づいた。中途半端に開いたチャックから、何かが覗いている。


「これのことか……?」

 清輝は迷う余裕もなく鞄に手を伸ばした。中を覗き込むと、そこには奇妙な機械が入っていた。見慣れないが、どこか医療器具のような冷たい金属の感触が指に伝わる。


「これ、どうすんだよ……!」

 清輝は狼狽えながら機械を引っ張り出し、どう扱えばいいのか分からずに彼女の顔を見た。だが、彼女はさらに胸を押さえ、酸素を求めるように苦しそうに顔を歪めている。清輝の動揺は頂点に達していた。


「お、おい、何とか言えよ!これでいいのか?」

 彼女はもう声を出すことすらできず、ただ清輝を見つめる。目には涙が滲み、言葉にできない苦しみがその視線から痛いほど伝わってきた。


 清輝は焦りながらも、持ち出した機械の使い方を考え始めた。彼の中で、冷や汗が背中を伝う感覚が止まらない。


「頼むから、これで合ってるって言ってくれよ……!」

 図書室の空気が異様に重く感じられる中、清輝の手は震えながら彼女に呼吸器を差し出していた――。


 清輝は呼吸器を彼女に渡すと、彼女は震える手でそれを受け取り、慣れた手つきで必死に自分の口元へと運んだ。その動きはぎこちなく、細い指先が何度も機械を落としそうになる。


「おい、落ち着けよ……!」

 清輝の言葉も届いているのか分からない。彼女は口元に呼吸器を当て、ようやくボタンを押した。小さな機械が低い音を立て、薬剤が細かい霧となって散布される。


 吸い込むたびに、彼女の喉が音を立てた。まるで空気を必死に掴み取ろうとしているようだった。肩が大きく上下し、酸素を取り込もうとするその動作が、いかにこの行為が命綱であるかを物語っていた。


 清輝は、彼女が薬を吸い込む様子をじっと見守るしかなかった。その顔は真っ青で、額には冷や汗が滲み、目には涙が浮かんでいる。それでも、彼女は震える手で2回、3回と薬剤を吸い込む動作を繰り返した。


「……はぁ、はぁ……。」

 彼女の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻し、肩の動きも次第に穏やかになっていく。顔色も少しずつ戻り始め、何とか正気を取り戻したようだった。


 清輝は、息を呑んでその様子を見つめていた。さっきまでの彼女の苦しみが、まるで生々しい夢のように脳裏に焼き付いている。ようやく落ち着いた彼女が、呼吸器を膝の上に置いて、ぐったりと体を机に預けるのを見て、ようやく言葉を発する。


「これが……病気なのか?」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、まだ息が完全には整っていない状態で小さく頷いた。その表情には、どこか諦めに似た影が漂っている。


「……うん。産まれた時からずっと、これなんだ。」

 彼女の言葉は淡々としていたが、その裏に隠れた苦しさや孤独が、清輝にはひしひしと伝わってきた。


 清輝は、それ以上言葉を続けることができなかった。喉に何かが詰まったような感覚とともに、ただ彼女を見つめることしかできなかった。


 彼女は一度呼吸器を机の上にそっと置き、清輝を見上げた。その表情にはどこか申し訳なさそうな気配があったが、決して暗くはなかった。


「……ごめんね、びっくりさせちゃって。」

 軽く笑いながら言う彼女の声は、思ったよりも穏やかだった。


「いや、俺の方が悪いだろ……。」

 清輝は眉をひそめ、少し落ち着かない様子で呟いた。


 彼女は軽く首を振り、空いた手で呼吸器を軽く撫でながら説明を始めた。

「これね、『IGR(Idiopathic Gas Exchange Respiratory Disorder)』っていうの。……突発性難呼吸機能疾患、って言えば分かりやすいかな?」

 清輝は意味が掴めず、首を傾げた。


 彼女は肩をすくめて、気負うことなく続けた。

「要は、突然横隔膜がうまく動かなくなっちゃって、それで呼吸ができなくなるの。運が悪いと、そのまま意識を失っちゃうこともあるんだって。」

 さらっとした言い方に、清輝は思わず彼女を見つめた。


「おい、それって結構ヤバいじゃんか。」

 思わず漏れた清輝の言葉に、彼女は困ったように笑った。


「そうかもね。でも、ちゃんとこうやって呼吸器持ち歩いてるし、今は発作が起きても慣れちゃったから、大丈夫だよ。」

 清輝は「大丈夫」と言い切れる彼女の様子に、何とも言えない違和感を覚えた。


 彼女は続けて、明るい声で言った。

「だから、さっきみたいに驚かされるとちょっと困るけど……まぁ、びっくりしても、こんな風に対処すれば大丈夫ってこと。」

 清輝はまだどこか釈然としない様子で彼女を見ていたが、彼女はそれに気づかないように、机の上の呼吸器を軽く叩きながら笑った。


「ほら、あんまり深刻に考えないでよ。私、こういうのに負けたりはしないから。」

 そう言い切る彼女の笑顔に、清輝は少しだけ目を丸くした。そして、言葉に詰まりながらも、軽く咳払いをして話を戻そうとした。


「……で、それが理由で、学校は?」

 清輝が話を振ると、彼女は一瞬だけ目を伏せた。


「学校にはね……ほとんど行けてないんだ。やっぱり、いつ発作が起きるか分からないし、みんなに迷惑かけちゃうのも嫌だし。」

 そう言いながらも、彼女の声はどこか穏やかだった。悲観的というよりは、事実をそのまま受け入れているような口調だ。


 清輝は彼女の言葉に何かを言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。代わりに、机の端を指でトントンと叩いて間を持たせた。


(なんだよこれ……俺、さっきまで調子こいてたのに。)


 彼女は清輝が黙り込むのを見て、軽く微笑みながら手を振った。

「いいの、気にしないで。私、こう見えて結構楽しくやってるから。」

 その言葉に、清輝は少し驚いたように目を見開き、彼女の顔を見つめた。彼女の中に、病気を言い訳にしない強さのようなものが見えた気がした。


 清輝は黙ったまま、机の上の教科書に目を落とした。その視線には、さっきまでの適当な態度とは違う、どこか複雑な思いが混じっていた。


 清輝は少し躊躇いながらも、口を開いた。

「……治るのか?その病気。」


 彼女は一瞬だけ考えるように視線を泳がせたが、すぐに薄く笑って肩をすくめた。

「どうだろうね。お医者さんもまだ分からないって言ってるし、私は今のままで何とかやっていくしかないから。」

 どこか軽く流すような口調に、清輝は何も返せず、ただ机の端を指でトントンと叩いた。


 その時、学校中に響くチャイムの音が聞こえてきた。

 キーンコーンカーンコーン――。


 彼女はその音に反応して椅子を引き、そっと立ち上がった。

「そろそろ行かなきゃ。発作が出たときは保健室の先生に報告しないとダメなんだ。」

 呼吸器をバッグにしまいながら、軽く頭を下げる。


 清輝は黙ったまま彼女を見上げた。彼女は少し微笑んで、自分の胸に手を当てた。

「あ、そうだ。私、戸田 真希って言うの。」

 その名前を告げると、真希は清輝に軽く手を振りながら図書室を後にした。


 静寂が戻った図書室。清輝は椅子にぐったりと腰を沈め、天井を見上げながら大きく息を吐いた。

「……ビビったぁ。」


 思わず漏れた言葉に、自分で苦笑しながら、頭を軽くかきむしる。


「すげぇのに会っちまったな……。」


 窓の外から差し込む陽射しが、真希の残した余韻のように淡く広がっていた。清輝は机に突っ伏し、そのままぼんやりと窓の外を眺めていた。

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