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3話.生活指導

 始業式の日、校舎内は春休みが終わったばかりのざわつきで満ちていた。廊下を行き交う生徒たちの明るい声や笑い声が、清輝の耳には遠い音のように聞こえる。清輝は体育館の二階ギャラリー席にぽつんと座っていた。謹慎処分のため、他の生徒たちと一緒に席に着くことは許されず、一人俯瞰する形になっていた。


「今日から二年生かよ。だけど、俺はここで見学だもんな。」

 清輝は小さく呟き、足を組んだ。

「なんか先生になった気分だな。ま、こっちの方が楽でいいか。」


 クラスメイトが体育館に整列して座っていくのを、清輝は片肘をついて眺めていた。その態度が目に留まったのか、近くを通りかかった体育教師が不機嫌そうに声をかけてきた。


「おい信濃!お前、そんなふんぞり返った態度で何様のつもりだ?足、組むな!ここで反省しろって言われてんだろうが!」


 清輝は面倒そうに肩をすくめた。

「……あー、はいはい。」


 渋々足を解いたが、その目には明らかに反発の色が浮かんでいた。教師が去ると、清輝は小さく舌打ちをして背もたれに軽く寄りかかった。


 壇上では校長先生が演説を始めていた。

「今年も素晴らしい一年にしましょう。勉強、部活動、そして友人関係を大切に……。」


 要するに、どこかで聞いたことのあるような話を引き延ばしているだけだった。清輝は頬杖をつきながら、少しずつ後ろに傾く体をなんとか支えていた。


(話のテンポが悪い。俺が校長だったら、こんな10分なんてあっという間に終わらせてやるのに。)


 目の前の光景を眺めながら、清輝の頭には全く別のことが浮かんでいた。壇上の校長先生が言葉を繋げるたびに、体育館内の空気がじわじわと重たくなる。話を聞く生徒たちの表情も硬直し、あるいは無表情になり始めていた。


(なんで校長ってこういう浅い話しかできないんだろうな。)

 清輝は小さく笑い、視線を再び壇上へ戻した。校長先生の声は相変わらず平坦で、内容に新鮮さもなければ説得力もない。


「新年度の目標を立てて、それに向けて努力しましょう!」

 力強く締めくくったはずの言葉も、清輝にはただのノイズのように聞こえた。


 式が終わり、整列した生徒たちが体育館から退場していくのを、清輝は上から眺めていた。


(あー、暇だな。みんな忙しそうでいいよな。)


 体育館のざわめきが次第に遠のいていく中、清輝は一人残された静けさに包まれていた。どこか現実感のない空気の中で、彼はぼんやりと自分の靴先を眺めていた。


 清輝は始業式が終わった後、職員室に呼び出された。錦堀先生は机の向こうで書類を整理しながら、どこか落ち着きのない様子だ。


「信濃君、そこに座って。」


「はいはい。」


 清輝はだるそうに椅子に腰を下ろし、机に肘をついて錦堀先生を見た。


「まずは原付の件だけど……これが通学許可証だ。必要事項を記入して、親御さんにサインをもらって、持ってきてくれれば正式に許可が下りる。」


 錦堀先生が差し出した書類を、清輝はぞんざいに受け取った。


「……は?これ書けば終わりなの?」


「そ、そうだよ。ただ……最初にちゃんと手続きしてくれれば、こんな面倒にはならなかったんだけどね。」


 錦堀先生が困ったように言うと、清輝は肩をすくめて笑った。


「だったら最初から許可くれよな。順番が逆だっただけだろ。」


「そ、それでも順番は守らないとダメなんだよ、信濃君。」


 錦堀先生が少し声を張るが、清輝の態度は変わらない。


「分かったよ、次からそうする。」


 清輝は適当に流して書類をカバンに突っ込んだ。


「それと、アルバイトの件もだね。」


 錦堀先生は次の話題に移り、少しだけ真面目な表情を作った。


「学校としては基本的にアルバイトは禁止されてる。でも、どうしても必要なら、親御さんの同意を得て、学校に申請すれば認められる場合もあるんだ。」


「ほらな。」


 清輝はニヤリと笑い、机に肘をつきながら言った。


「結局許可取れるんじゃん。なんだよ、それなら最初からそう言えよ。」


「でも、許可が降りるかどうかは内容次第だからね……例えば深夜の仕事とかは認められないし……。」


 錦堀先生がやや小声で言い訳を重ねるのを見て、清輝は溜息をついた。


「分かったよ。次からはちゃんと手続きするって。」


 そう言いながらも、どこか適当な態度の清輝に、錦堀先生はまたも困ったような笑みを浮かべた。


「最後にこれだ。」


 錦堀先生が差し出したのは進路希望書だった。


「来月の提出予定だったけど、時間があるうちに準備しておいてほしい。早めに出してくれると助かるんだけど。」


 清輝は進路希望書を手に取り、ちらっと内容を確認した。


「進路希望ねぇ……こんなの何書けばいいんだよ。」


「何でもいいんだ。自分の未来について少しでも考えるきっかけにしてほしい。」


 錦堀先生の言葉に、清輝は一瞬目を細めたが、すぐにそれをカバンに突っ込んだ。


「はいはい、分かりました。」


 立ち上がる清輝に、錦堀先生は少し躊躇いながら言葉を続けた。


「信濃君、君はやればできる子なんだから、もっと……」


「はいはい、どうも。」


 清輝は手をひらひらと振りながら職員室を後にした。その背中を見送る錦堀先生の表情には、どこか言い足りなさと期待が入り混じっていた。


 廊下を歩きながら清輝は小さく舌打ちをした。


(やればできる、ねぇ……適当に言いやがって。)


 進路希望書をカバンの中で手探りしながら、清輝はそれ以上考えることをやめた。


 屋上の鉄製のドアが軋む音を立て、清輝は屋上へと足を踏み入れた。ひんやりとした風が頬を撫でる。晴天の空は眩しく広がり、街並みが遠くにぼんやりと見える。周囲に誰もいないことを確認し、清輝は鉄柵にもたれかかるようにして、カバンから許可証を取り出した。


「さてと……親父の名前、親父の名前っと。」


 ペンを取り出し、欄に視線を落とす。親のサインが必要な欄が白紙のままそこにあった。清輝は少し考え込むそぶりを見せると、口元に薄い笑みを浮かべた。


「ハンコなんて、帰りにダイソーで適当に買えばいいだろ。使うべきは頭だよ、頭。」


 得意げに呟きながら、丁寧に父親の名前を記入していく。


「信濃正一……っと。」


 一文字ずつ慎重に書き込み、ペンを置いて軽く書類を眺める。文字は妙に整っていて、清輝としては満足のいく出来栄えだった。


「完璧じゃん。これならバレねぇな。」


 そう言いながら、清輝は大きく伸びをした。誰かに見られる心配もない場所での小さな悪知恵に、どこか爽快感すら覚えていた。


「結局、大事なのは要領よ。これで原付通学も問題なし。」


 カバンに許可証をしまいながら、清輝は小さく鼻歌を口ずさんだ。頭を使う自分に自信を感じながら、風に髪を揺らされて目を細める。


(次はハンコ買って帰るだけだな……適当に済ませりゃ、それでいい。)


 そう思うと、妙に気分が軽くなった清輝は、屋上の端から景色を見下ろしながら、少しだけ満足そうに笑った。


 清輝は満足げにカバンを閉じ、屋上の手すりにもたれて景色を眺めていたが、ふと息をつくように背中から倒れ込んだ。鉄板の冷たさが制服越しに伝わる。青い空が無限に広がり、ほんの少しだけ浮かぶ雲が流れていくのを見つめる。


「……進路かぁ。」


 呟いた言葉は、空に吸い込まれて消えていった。さっきの許可証に親父の名前をサラッと書き込むことに感じた罪悪感は不思議とない。でも、この進路希望書は……さすがに適当に書く気にはなれない。


「……親父の名前、これには書けねぇよな。」


 静かに呟きながら、視線を空の一点に固定する。許可証の時とは違う重さが、胸にじんわりと広がる。


(未来なんて考えたこともねぇし、どうせ何書いても『適当にやってます』ってバレるだけだろ。)


 手を伸ばして進路希望書を取り出すと、表紙を眺めながら無造作に振る。紙のカサカサした音が耳に心地よく響くが、その内容について考えるたびに気が重くなる。


「親父なんて、何も言わねぇだろうな。いや、興味すらないか。」


 自分の言葉が冷たく響いて、清輝は苦笑いを浮かべた。母親だって何か言うかもしれないけど、結局は仕事が忙しい。姉……奈緒に至っては、きっと気まずい顔をするだけだろう。


「……俺、何がしたいんだろうな。」


 目を閉じ、手にした書類を胸の上に乗せる。その重みが妙にリアルに感じられて、清輝は小さく息を吐いた。


「……何も思いつかねぇ。ホント、どうすりゃいいんだよ。」


 そう言いながらも、手の中の進路希望書を握りしめる力がほんの少し強くなる。頭の中では堂々巡りの考えが続くが、答えなんて出るはずもない。


 風が吹き抜け、紙の端が少し揺れる音がした。清輝はそれに気づくと、もう一度目を開け、空を見上げた。


「とりあえず……今は何も考えなくていいよな。」


 そう自分に言い聞かせるように呟くと、清輝は小さく笑った。その笑顔には、ほんの少しの諦めと一欠片の希望が混ざっていた。


 清輝が空をぼんやり見上げていると、ポケットの中で携帯が振動した。振動音が静かな屋上に響く。


「……誰だよ、こんな時に。」


 面倒くさそうに携帯を取り出し、画面を覗くと「烈志」の名前が表示されていた。清輝は軽く眉をひそめ、通話ボタンを押す。


「……何だよ、烈志。」


 電話越しに聞こえてきたのは、いつもの低くて落ち着いた烈志の声だった。


「おい清輝、この前の話、考えてくれたか?」


「は?この前の話って……ああ、あれか。マネージャーのやつ?」


「そう、それ。で、やるのか?」


 清輝は少し間を置き、言葉を濁した。


「……いや、別に俺がやる必要なくねぇか?お前らで何とかなるだろ。」


 すると烈志はため息混じりに言葉を続けた。


「いいから、ゴチャゴチャ言ってないでさっさと来いよ。今、道場にいるから。」


「いやいや、ちょっと待てって――」


 清輝が何か言い返す前に、烈志は一方的に通話を切った。


「……はぁ、勝手なやつだな。」


 呆れたように携帯をポケットに戻し、清輝は屋上の手すりにもたれた。


(道場で待ってる、か……ったく、振り回されんのは慣れてるけどよ。)


 そう思いながらも、仕方なく屋上を後にして烈志のいる道場へ向かうことを決めた。


 清輝が道場に足を踏み入れると、思わず声を上げた。


「……なんだこれ、道場っていうより、ゴミ屋敷じゃねぇか!」


 畳の上には古びた賞状の束や壊れたトロフィーが散乱し、隅には埃をかぶった柔道着が山積みされている。その中に、明らかに場違いなエ●本が数冊転がっていた。


「おー、来たか清輝。助っ人登場だな!」


 烈志は顔中真っ黒にしながら、ガラクタの山を掻き分けていた。手には壊れたトロフィーを持ち、ゴミ袋に投げ入れる。


「いや、助っ人ってレベルじゃねぇだろ。これどんだけ放置してたんだよ……てか、なんでエ●本まであるんだよ!」


 清輝が指をさすと、烈志はそれをひょいと拾い上げ、表紙を眺めた。


「んー、これは……平成初期の遺産かな?」


「遺産とか言うな!新入生が見たらどうすんだよ!」


 清輝が慌ててそれをゴミ袋に突っ込むと、烈志は肩をすくめた。


「いや、こういうの片付けるのも部活の伝統継承の一環だろ?」


「そんな伝統いらねぇよ!」


 その時、清輝の足元から「ゴトッ」と何かが転がり出てきた。見ると、赤錆びた鉄アレイが埃まみれで横たわっている。


「なんだこれ、柔道部で鉄アレイって使うか?」


「知らねぇけど、筋トレ用だろ。もしくは武器?」


「道場で武器持ち込むのやめろ!」


 さらに整理を続けると、壁際から壊れたサンドバッグと、なぜか使いかけの蚊取り線香が出てきた。清輝が思わず額に手を当てる。


「おい烈志、これマジで全部捨てていいのか?」


「捨てろ捨てろ。先輩たちが残したもんだろうが、俺たちにとっちゃただの邪魔だしな。」


 烈志はそう言いながら、古びた賞状を広げた。


「でも、これは捨てちゃダメだな。『全国大会ベスト16』。これがなかったら俺たち、ここ使わせてもらえなかったんだぜ。」


「……先輩たちは頑張ったんだな。でも、この蚊取り線香とかエ●本は関係ねぇよな?」


 清輝の突っ込みに、烈志は爆笑しながら答えた。


「それはな、俺らの代で完全に片付けて、黒歴史として封印するべきだ!」


 二人はゴミ袋を引きずりながら、壊れたトロフィーや賞状の整理を続ける。清輝はため息をつきながらも、どこか笑いをこらえきれない様子だった。


「これ、年度始めの大掃除っていうより、遺跡発掘だな。」


「そうだな。俺たち、柔道部員じゃなくて考古学者になった方が良かったかもな。」


 埃をかぶった道場の中で、二人の笑い声が響いていた時だった。


 ガラガラッ――。


 道場の戸が勢いよく開き、バーコード頭の柴崎先生が現れた。

「おい、お前ら、掃除はちゃんと進んどるか?」


 清輝はその姿を見て、烈志に小声で囁いた。

「……来たよ、バーコード柴崎。」


 烈志も笑いを堪えつつ肩をすくめる。

「またそのうち『訴訟起こすぞ』って言われるんじゃねぇの。」


「まあ、あれ持ちネタだから気にすんな。ほら、なんか言ってくるぞ。」

 清輝がニヤリと笑いながら柴崎先生に目を向けた。


 柴崎先生は二人を見て、眉をひそめた。

「お前ら、何かコソコソ言っとるの、ワシに聞こえとるぞ?またワシの頭イジっとるんか?」


 清輝はわざとらしく手を振りながら答えた。

「いやいや、先生、光の反射具合が絶妙だなって感心してただけっすよ。」


 烈志も肩を竦めながら笑う。

「そうそう、昼間っから道場が照らされて助かりますよね。」


「こら、そういうのは今時ダメなんじゃぞ!訴訟起こすぞ!」

 柴崎先生は指を突きつけながらも、どこか余裕のある笑みを浮かべている。


 清輝は吹き出しそうになりながら言い返した。

「いやいや、先生、そのフレーズ何回目っすか?完全に持ちネタ化してますよ。」


 柴崎先生はふんと鼻を鳴らしながら道場を見回した。

「で、どうなんじゃ、この有様は。全然片付いてないじゃろが。」


 烈志が埃だらけの壊れたトロフィーを拾い上げ、苦笑いを浮かべる。

「いや、これ全部片付けるの大変なんすよ。先生、手伝ってくれたら早いんですけどね。」


「ワシが手伝う?んなもんお前らの仕事じゃろが。ワシは顧問じゃ、監督するのが役目じゃ。」

 柴崎先生は軽く手を振り、部屋の隅に腰を下ろした。


 清輝が皮肉っぽく口を尖らせた。

「監督っていうか、役立たずって感じしますけどね。」


「なんじゃと?お前なぁ、今時そういうこと言うと――訴訟起こすぞ。」

 柴崎先生がニヤリと笑って返すと、清輝はあきれたように溜息をついた。


 その時、戸口に小柄な少年がモジモジと立っているのが目に入った。

「……なんだあいつ?」清輝が眉をひそめる。


 柴崎先生が少年の背を軽く押しながら言った。

「ほれ、新入生じゃ。今日からここを見学に来とる、入江正樹だ。」


 少年――入江正樹は短髪で小柄。どこか猫背で、今にも逃げ出しそうな様子だった。正樹はおずおずと頭を下げ、小さな声で話し始めた。

「あ、あの……はじめまして。去年の大会で烈志先輩が新聞に載ってるのを見て……その、僕も、先輩みたいになりたくて……。」


 烈志は驚いたように目を丸くし、それから大げさに手を広げて笑った。

「お前、俺のファンかよ!そりゃ光栄だな!でもな、お前に一つだけ覚えておいてほしいことがある。」


 正樹は少し戸惑いながらも、烈志の言葉に引き込まれるように目を見開いた。

「なんですか?」


「俺も昔はめちゃくちゃ弱かったんだよ。」

 烈志はそう言うと少しだけ声を落とし、真剣な表情を浮かべた。

「ほんとにさ、柔道部どころか、クラスで一番頼りないやつだった。体も小さかったし、すぐ泣いてばっかでさ。」


 正樹は驚きの表情を隠せない。

「え……先輩が……?」


「そうだよ。清輝に泣かされてたこともあったし、何より自分に自信がなくて、すぐ諦めてばっかだった。でもな、ある日気づいたんだ。弱い自分を変えたいって思うなら、まずは一歩踏み出さなきゃダメだって。」


 烈志は少し笑い、正樹の肩に軽く手を置いた。

「正樹、お前がここに来たこと、それがもう一歩踏み出したってことだ。お前にはその勇気があるんだよ。」


 正樹はその言葉にじんわりと胸が熱くなるのを感じ、小さく頷いた。

「……僕、先輩みたいに強くなりたいです。」


 烈志は力強く頷き、正樹を見つめた。

「おう、その気持ちがあれば大丈夫だ!お前はこれからどんどん強くなれる。俺が保証する。」


「うん、頼もしい先輩だな。」

 清輝が少し呆れたように笑いながら言うと、烈志はニヤリと笑い返した。

「そりゃそうだろ!でもお前、マネージャーとして正樹をしっかりサポートしてやれよな!」


「は?俺まだマネージャーやるなんて一言も言ってねぇけど?」

 清輝が眉をひそめると、烈志は構わず笑い飛ばした。


 その時、清輝が棚の奥から埃まみれのエ●本を見つけて取り出した。

「……おい、これどうすんだよ。こんなの新入生に見せたらまずいだろ。」


 烈志はそれを受け取ると真剣な顔で正樹に向き直った。

「よし、正樹、お前を『エ●本管理班長』に任命する。」


「えっ……!?ぼ、僕がこれを……?」

 正樹は顔を真っ赤にしながら両手で本を抱え、困惑した様子で烈志を見た。


「そうだ!新人には責任ある役割を任せるのが柔道部の伝統だ。これは大事な任務だぞ!」

 烈志が堂々とした調子で言うと、清輝は呆れたように溜息をついた。

「お前、それただの押し付けだろ……ったく、正樹も苦労するなぁ。」


「まぁ、そういう経験も大事だって!」

 烈志が笑いながら正樹の背中を軽く叩いた。正樹はまだ戸惑っているようだったが、少しずつ肩の力を抜いていった。


 柴崎先生が手を腰に当てて声を張り上げた。

「ほれ、雑談はそこまでじゃ!入江君も一緒に掃除して、道場を綺麗にするんじゃ。ほれほれ、動かんか!」


 正樹は「はい……!」と小さく返事をし、手にしていた本をゴミ袋に入れて掃除を始めた。そんな正樹を見て、柴崎先生は満足げに頷いた。

「やっぱり新入生が入ると、道場も賑やかになるのぅ。」


 清輝と烈志は顔を見合わせ、小さく笑いながら掃除を続けた。正樹はまだぎこちない動きだったが、二人と一緒に作業を進めるうちに少しずつ表情が明るくなっていった。


 清輝は埃っぽい道場の隅で古い賞状を片付けながら、ちらりと正樹の姿を見た。慣れない手つきで掃除をしている正樹の背中は小さく、どこか頼りない。それでも懸命に手を動かしている様子に、清輝はしみじみと感じた。


(……入江って子、本当に昔の烈志にそっくりだよな。)


 目の前でガラクタをまとめている烈志が、どっしりとした体つきで悠々と作業をこなしている。その姿と、正樹がぎこちなくゴミ袋を押し広げる様子を交互に見比べて、清輝は小さく息を吐いた。


(そういや、烈志も最初はよく泣いてたっけな。柔道家の家系なのに、俺よりも全然弱くてさ。まさかあいつが全国大会で名前を載せるなんて、当時は夢にも思わなかった。)


 正樹がゴミ袋に壊れたトロフィーを入れるのに手間取っているのを見て、清輝は思わず声をかけた。

「おい、無理に詰めると袋破けるぞ。力で押し込む前に、ちゃんと空気抜けよ。」


「は、はい!ありがとうございます……。」

 正樹はぎこちなく頷き、言われた通りに作業をやり直す。


(……でもな、今の烈志を見てると、やっぱり不思議だよな。何がそこまであいつを変えたんだろうなって思うわけよ。)


 清輝の視線は、額に汗を浮かべながら豪快に動き回る烈志に向けられていた。壊れた棚を引っ張り出しながら、烈志は笑顔を浮かべ、正樹に声をかけている。


「おい正樹、そのペースでいけばすぐ終わるぞ。やるじゃねぇか!」

 正樹はその言葉に少しだけ顔を上げ、小さく笑ってみせた。その表情を見て、清輝の胸の中にふっと暖かい感覚が広がる。


(きっとあいつも、誰かにこうやって引っ張られてきたんだろうな。そういう積み重ねが、今の烈志を作ったんだろうな……。)


 清輝はふと手を止め、天井を見上げた。どこか懐かしさと羨ましさが混じった感情を抱えながら、微かに口元を歪ませる。


(……入江も、そんな風に変わるのかな。いや、変わってほしいって思ってるんだろうな、あいつ。)


「おい清輝、何サボってんだよ!お前が片付けてるの、全然進んでねぇじゃねぇか!」

 烈志の声にハッとして振り返ると、烈志が不敵な笑みを浮かべて立っていた。


「悪ぃ、ちょっと昔を思い出してた。」

 清輝は苦笑いを浮かべ、肩をすくめながら再び作業に取り掛かった。


(……まあ、こうしてバカやりながらでも、少しずつ前に進んでいくんだろうな。)


 入江が掃除に加わったことで、作業は一気に進んだ。正樹は烈志や清輝に指示されながらも、黙々と動き回っていた。埃だらけだった道場の床が見え始め、散乱していたガラクタもきちんと分別されていく。


 夕方になる前には、ようやく掃除が終わった。ゴミ袋を端にまとめ、道場はすっかり片付いた状態になっていた。


「ふぅ……終わったな。」

 清輝は額の汗を拭いながら、片付いた道場を見渡した。

「この調子なら、新入生が来ても恥ずかしくねぇな。」


 烈志も笑顔で頷き、正樹の肩を軽く叩いた。

「お前、やるじゃねぇか!いい働きっぷりだったぞ、正樹!」


「ありがとうございます……。」

 正樹は少し照れたように笑い、はにかんだ表情を浮かべた。


 正樹が軽やかな足取りで道場を後にする姿を二人で見送った後、清輝は口を開いた。

「なぁ、烈志。」

「ん?」

「マネージャーの件、引き受けるわ。」

「おお!そうか!」

 烈志の顔が一気にほころび、力強いガッツポーズを見せる。


 清輝はそれを苦笑いで見ながら、肩をすくめて言った。

「ただし、雑用はお前がメインでやるんだからな。俺はサポートな。」


「おい、なんだそのサポートってのは!普通マネージャーがやるもんだろ!」

 烈志が大げさに抗議するが、その顔には笑顔が満ちていた。


 烈志はふと天井を見上げて、両手を広げながら言った。

「それにしても、新入生たくさん入ってくれねぇかなぁ。せめて5人くらい!いや、10人でもいい!」


 清輝はその熱烈な祈願に思わず吹き出す。

「どこの強豪校だよ。お前、柔道部がそんな人気になるとでも思ってんのか?」


「夢くらい見させろよ!部活に新しい風が吹くってだけで、なんかワクワクするだろ!」

 烈志は拳を握りしめて語る。


 清輝は呆れながらも、その熱意に微かに感化される自分を感じていた。

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