22話.大きく息を吸って、呼吸を合わせて
あれから、私の病室にはたくさんの人が訪れた。
烈志率いる柔道部の部員たちは、「病気なんか投げ飛ばせ!」とまるで気合いを入れるように言っては、屈託のない笑顔を見せた。彼らの元気は、私が落ち込む隙すら与えてくれなかった。
佳苗は、めんどくさそうな素振りひとつ見せず、学校の提出物を律儀に届けてくれた。決して適当に渡すことなく、宿題の進捗を確認したり、教師からの伝言を伝えたりと、私をできるだけ学校とつなぎ留めようとしてくれた。
柚子は、相変わらず自由奔放で、「ったく、学校ってさぁ、ほんとクソじゃない?」と愚痴をこぼしながらも、決して私を忘れたような話し方はしなかった。「あたしが面白いこと全部教えてやるから!」と、まるで病室が教室の延長であるかのように、日々の出来事を話してくれた。
そして、本当たまに清輝君が勉強を教えに来てくれた。
彼は以前よりも引き締まった表情をしていて、東京でも勉学を怠るな、と教師のようなことを言ってくる。かつてのように不真面目な態度を見せることはなく、遊んでいる様子なんて微塵も感じられなかった。「もう俺には時間がねぇ……」と言った彼は本当に、ひたすら前に進もうとしていた。
奈緒さんはそんな彼を誇らしそうにしていて、「清輝、進路を決めたんだよ、今毎日毎日勉強しているよ」と嬉しそうに私に報告してくれた。
まるで、何かが変わり始めたように思えた。
だけど。
春先、私の受け入れ先が決まった。
それは、変わらない日々が続くわけではないことを、改めて突きつけるものだった。
——このままでいいのに。
何度、そう思っただろう。
だけど、時間は止まってはくれない。
そして、別れの時は訪れた。
西武秩父駅。
桜がほころび始めたホームで、私はみんなと最後の別れをした。
烈志は涙を隠そうともせず、「頑張れよ……! お前なら大丈夫だからな!」と拳を握りしめた。その後ろでは、柔道部の部員たちが「真希先輩、頑張ってください!」「病気なんか投げ飛ばせ!」と声を揃え、まるで試合に送り出すような気合いでエールを送ってくれた。
佳苗は、明るく笑いながらも、ボロボロと涙を流していた。「泣いてない!」と強がる彼女の目尻を、桜色の涙が静かに伝っていた。
柚子は「これ、ちゃんと使いなよ」と言って、万年筆を手渡してきた。「風紀委員の肩書き使って、先生たちからカンパ集めたんだからね!」と、どこか誇らしげに言う。
私は震える手でそれを受け取り、ぎゅっと握りしめた。
——みんな。
本当にありがとう。
でも。
清輝君は、そこにはいなかった。
姿を探しても、彼の影はどこにもない。
医学部に行くなら、こんな所に時間を使っていられないのはわかっている。
だから彼は来ないだろうと覚悟はしていた。
でも——
それでも、心のどこかで、最後にもう一度だけ、彼に会いたかった。
「真希」
父の声がする。
「行こう」
父が、私の手を取る。
その瞬間、心の奥底から、張り裂けそうな感情が湧き上がる。
行きたくない。
みんなと離れたくない。
このままでいいのに。
でも。
父の手は、強く、優しく、私を前へと導いていく。
「……うん」
私は小さく頷いた。
そして。
私は、父に手を引かれるまま、電車へと乗り込んだ。
ドアが静かに閉まり、車両がゆっくりと動き出す。
窓の向こうで、みんなが手を振っていた。
桜が風に舞う中、ホームの景色が遠ざかっていく。
涙がこぼれそうになるのを、私はぎゅっとこらえた。
それでも、胸の奥に、確かな想いがあった。
そう信じて、私は前を向き、電車は、ゆっくりと春の秩父を離れていった。
電車の窓から流れる風景を眺めながら、私はただ静かに息を吐いた。
西武秩父駅を出発して、列車は国道沿いを走る。車窓から見えるのは、穏やかに流れる川。陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
それを眺めながら、胸の奥がひどく痛んだ。
……ひどいよ。
わかっていた。清輝君は来ないだろうって。でも、それでも最後くらいは会いに来てほしかった。ほんの少しの時間でもいいから、顔を見たかった。あの、からかうような笑い方で「行ってこいよ」って言ってほしかった。
そんなことを願うのは、わがままだってわかっている。
清輝君は、前に進もうとしている。勉強に打ち込んで、私のために何かをしようとしてくれている。駅に来なかったのも、きっとそのせいだ。
だから、応援しなきゃいけない。
そう思うのに、胸の奥が締めつけられるように苦しかった。
あの日の告白を思い出す。
私があんなことを言わなければ、清輝君はこんなに変わらなかったかもしれない。
今、彼が必死に前を向いているのは、私のせいなのかもしれない。
……もし、あの言葉がなければ。
もし、私があのとき気持ちを伝えなかったら。
清輝君は、今も変わらずバカみたいに笑って、適当に生きて、時々ふざけた顔で私をからかってくれていたんじゃないか。
私は、彼を変えてしまったのだろうか。
あんなにも、全力で生きる理由を作らせてしまったのだろうか。
それが、嬉しいことなのか、悲しいことなのか。
私には、まだわからなかった。
父の手が、そっと私の手を握った。
振り返ると、父は黙ったまま、ただ優しく微笑んでいた。
ああ、そうだ。
私は行かなきゃいけない。
前を向いて。
電車はゆっくりと、秩父の町を離れていく。
もう、戻れない。
だけど、きっと——。
いつかまた、会える日が来る。
それまで、私は——。
目の前の景色が、少しずつ変わっていくのを、私はただ見つめていた。
その時だった。
——ブォォォォン!!
突き抜けるようなエンジン音が、車窓の向こうから響いてきた。
何かが赤く光った。
私はハッとして顔を上げる。
国道沿いを猛スピードで走る一台の車。屋根を開け放ったロードスターが、まるで風を切るように並走していた。
——え?
誰かが、手を振っている。
私の心臓が跳ね上がる。
急いで窓を開けた。風が一気に吹き込む。
髪が乱れ、喉の奥が苦しくなるほどの風圧。でも、そんなことはどうでもよかった。
——あれは、誰?
目を凝らした瞬間、その人物が誰なのか、はっきりとわかった。
「……っ!」
私は口元を押さえた。
涙が、溢れそうになる。
清輝君。
ロードスターの助手席。
そこにいたのは、紛れもなく彼だった。
麗花さんが真剣な顔でハンドルを握る横で、清輝君は身を乗り出し、全力で手を振っていた。
「真希——!!」
彼の叫び声が、電車の音を突き抜けて届いた。
胸の奥が、締めつけられる。
——バカだよ。
こんな無茶してまで、どうして。
「間に合わなくてマジごめん!!」
また、清輝君の声が響く。
「でも、絶対にまた会えるからな!!」
彼の目は真っ直ぐだった。
あの夜、屋上で見た瞳と同じ、迷いのない光。
私の呼吸が速くなる。
「……っ!」
どうしていいのかわからなくて、私はただ必死に手を伸ばした。
風に煽られながらも、全力で——彼に向かって。
絶対にまた会える。
——本当に?
でも、信じたかった。
この先、どれだけ時間が経っても。
どれだけ遠く離れても。
また、会えるって。
胸の奥が熱くなる。
私は、大きく息を吸った。
生まれて初めて、呼吸を恐れずに、大きく。
それは、清輝君も同じだった。
彼も、深く息を吸い込む。
そして、私たちは——
「絶対にまたここで!!」
二人の声が、ぴたりと重なった。
電車は、ゆっくりと加速する。
ロードスターは、国道の先へと続いていく。
でも、私たちは最後まで手を振り続けた。
どんなに距離が離れても、ずっと。
——また、ここで。
私たちは、必ずまた会う。
そう、信じて。
風が吹き抜ける。
桜が舞う春の空の下、電車は遠ざかっていく。
涙が止まらなかった。
でも、不思議と、悲しくはなかった。
——これが、始まりなんだ。
そう思えたから。




