表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/22

21話.決行準備

 武道館の扉を開けると、ほんのりと畳の匂いが漂っていた。


 夜祭まで、あと三日。


 清輝と烈志、そして正樹は、武道館の一角に広げた作業スペースに座り込んでいた。周りには和紙や竹ひご、絵の具や筆が雑然と転がっている。三人は、夜祭の雰囲気を少しでも出そうと、提灯や小道具を作っていたのだった。


 「……で、今のところの進捗がこれなわけだ」


 清輝が手元の提灯を持ち上げてみせる。和紙の表面はシワだらけ、墨で書かれた「祭」の文字も、どことなく歪んでいる。


 「正直、どう見ても素人仕事だよな」


 「すみません……。僕なりに頑張って筆入れしたんですが……」


 正樹がしょんぼりしながら筆を置く。


 烈志はそんな二人を見ながら、腕を組んでうなった。


 「うーん、やっぱり三人だけじゃ限界があるな。もっと人手がいれば……」


 「とはいえ、今から誰かに頼むのも難しいだろ」


 清輝は、作りかけの提灯を転がしながら言った。


 そのとき、正樹が意を決したように口を開いた。


 「実は……ひとつ考えがあるんです」


 「ん? 何かあるのか?」


 烈志が眉を上げる。


 正樹は持ってきたバッグの中から、小型のビデオカメラを取り出した。


 「これ、僕の家のなんですけど、使えますか?。ライブ中継とかに」


 「おお、これは!」


 烈志が興味深そうにカメラを手に取る。


 「つまり、花火も笠鉾も、このカメラを通して病室に届けられるってことか?」


 「そうです。リアルタイムで映像を配信すれば、真希さんも自分の部屋からお祭りを見られると思います」


 正樹は胸を張った。


 「……正樹、ちょっと成長したか?」


 清輝がからかうように笑う。


 「あ、当たり前です! 僕だって、先輩たちに助けてもらってばかりじゃいられませんから!」


 正樹の言葉に、烈志が満足げに頷く。


 「いいぞ正樹! これで準備の問題は一つ解決だな」


 そう言った瞬間、武道館の扉が勢いよく開いた。


 「すみません! 今日、柔道部の見学に来たんですけど!」


 「お邪魔してもいいですか!?」


 突如現れた十数人の高校生たち。


 清輝と烈志が驚いて振り向くと、そこには見知らぬ顔の生徒たちが立っていた。


 「……え?」


 「何事?」


 混乱する二人をよそに、正樹が立ち上がって嬉しそうに説明する。


 「みんな、烈志先輩に憧れて柔道部に入りたいって言ってるんです! 全国大会二連覇のニュースを見て、僕が声をかけたら、たくさん集まってくれました!」


 「お、お前……」


 烈志は目を丸くした後、感動したように口元を押さえた。


 「お前……やるじゃねぇか!」


 「あ、憧れている烈志先輩へ恩返しになれたらと……!!」


 正樹は、いつもより少しだけ堂々と胸を張った。


 「よし、みんな、まずは準備を手伝ってくれ! 柔道部の練習はそのあとだ!」


 烈志の声に、新入部希望者たちが「押忍!」と気合いの入った声を上げた。


 その光景を見ながら、清輝は思わず苦笑した。


 「なんだよ、結局人手集まったじゃねぇか」


 「ま、結果オーライってことで」


 烈志が誇らしげに笑った。


 その頃、武道館の入り口の外では、佳苗と柚子が袋を抱えて歩いていた。


 「まったく、小麦粉とか卵とか高いなぁ……」


 佳苗がぼやきながら、袋の重みを持ち直す。


 「まあまあ、これも祭りの準備だから」


 柚子は気楽に言いながら、一緒に扉を押し開けた。


 「よし、到着!」


 武道館の中では、柔道部の新入部員たちが作業を進めていた。


 「おい、買い出しご苦労さん」


 清輝が迎え、佳苗からレシートを受け取る。そして、レシートに目を走らせた途端、顔をしかめる。


 「おい! アイス買ってんじゃねぇか!」


 「いいじゃん! パシらせたんだから!」


 柚子が開き直るように言い放つ。


 「はぁ!? 誰がパシらせたって?」


 「だって、疲れたんだもん! あと、あたしの労働力分の手当て!」


 「どんな手当だよ……」


 清輝が呆れながらも、もうアイスはすでに胃の中だろうと諦める。そんな中、柚子が周囲を見回し、柔道部員の数を改めて確認する。


 「……なんかさ、いつの間にかワカメみたいに増えてね?」


 柔道部員たちは次々と提灯の組み立てや、祭りの装飾を手伝い始めていた。


 その中心にいる烈志は、腕を組んで満足げに頷いている。


 「よし! お前ら、今日は特別な修行をするぞ!」


 「押忍!」


 部員たちが一斉に声を揃える。


 「いいか、秩父の夜祭には欠かせないものがある。それは……秩父音頭だ!!」


 「じゅ、柔道しないんすか!?」


 部員たちが戸惑いの声を上げるが、烈志は動じない。


 「伝統なんだよ!!」


 「どんな伝統だよ」


 清輝がツッコミを入れるが、烈志は満面の笑みで流す。


 佳苗は呆れたようにため息をつきながら、腕を組んだ。


 「やめなさいよ、病室ギッチギチになるでしょうが」


 しかしその顔は、呆れてはいるが一体感を確かに感じていて満足そうな様子だった。


 めくるめく日々の中で、武道館の準備は着実に進んでいった。


 提灯の数は増え、飾り付けも整い、武道館の畳には祭りの小道具がずらりと並ぶ。新入部員たちもすっかり作業に慣れ、活気が溢れていた。


 そんな喧騒の中で、時間は止まることなく流れて。


 

 ――夜が訪れ、そして夜明けがくる。


 秩父の空は、静かに明るさを増し、冷えた空気を帯びながら新しい朝を迎える。電車がゆっくりと線路を滑るように走り、通学や通勤の人々を乗せて街を横切っていく。幹線道路には車が少しずつ増え、街の空気も次第に賑やかさを増していった。


 病室の窓際で、真希は静かに街を見下ろしていた。


 祭りの前日。秩父の町並みは、どこかそわそわとした雰囲気を纏っていた。横断歩道を渡る人々の歩調がいつもより軽やかに見えるのは、自分の気のせいだろうか。道路沿いの店先には提灯が吊るされ、通りを彩る旗が揺れている。駅の方を見ると、大きな荷物を抱えた観光客らしき人々が、祭りの気配を感じているようだった。


 ――こうやって、街が動いていく。


 そして、その流れの中に、自分はいない。


 それが、どこか取り残されたような気分にさせた。


 何度かの夜と夜明けを繰り返し、ついに夜祭当日。


 夕方の光が街を優しく包み込む。窓の外を見つめる真希の視線の先には、いつもより賑わう道路の光景があった。車の流れが増し、歩道を行き交う人々の数も明らかに多くなっている。楽しげに話しながら歩く子供たち、浴衣を着た若者たちがちらほらと目に入る。


 ――祭りが始まる。


 窓越しに、真希はそっと息を吐く。


 「準備はいいか?」


 父の声がして、真希は振り返った。


 父はゆっくりと彼女の肩に手を置きながら、柔らかく微笑んだ。


 「友達が面会に来てくれるだろう?」


 その言葉に、真希は小さく頷く。


 「うん……。」


 「森田には話してる。多少騒いでも問題ないってさ。」


 森田は病院の看護師長だ。病室に人が集まることについて、事前に許可を取ってくれていたのだろう。


 「……ありがと。」


 真希は小さく礼を言い、ベッドに寝そべる。


 ふと、スマホを手に取った。


 みんなにお礼のメッセージを送ろうか。


 そう思った瞬間、画面に新しい通知が表示された。


 「よう、もうぼちぼちこっち来るわ。」


 ――清輝からだった。


 指先が止まる。


 本当に、来てくれる。


 改めてそう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 「……ありがとう。」


 そう呟いて、スマホを握りしめる。


 それから、一度深呼吸をして、指を動かした。


 ――言いたいことがある。


 そうメッセージを打ち込んだ。


 けれど。


 「……ああぁもう!」


 急に恥ずかしくなって、入力したままの画面を閉じてしまう。


 何を言えばいいのか、どう伝えればいいのか。


 分かっているはずなのに、言葉にするのが難しい。


 祭りの夜。


 彼らが来る。


 それだけで十分なはずなのに、心は落ち着かない。


 真希はスマホを胸に抱え、再び窓の外を眺めた。


 祭りの光が、静かに広がり始めていたとき。


 「おーい!」


 外から元気な声が響いた。


 真希は、窓の外を覗き込む。目を細めて下を見れば——


 「……ぷっ」


 思わず、声を立てずに笑った。


 そこには、清輝がいた。サイズの合わない法被を羽織り、ねじり鉢巻をぐるりと適当に巻きつけ、いかにも「借り物」然とした格好で、一階から手を振っていた。


 「似合わないね」


 真希は、自然と手を振り返す。


 「うるせぇよ!」


 清輝が言い返すが、どこか嬉しそうに笑っているのが分かる。


 そのやりとりの最中、病室の扉が開き、次々と荷物が運び込まれてきた。


 「よし、ここに置いて!」


 佳苗が手際よく指示を出しながら、折り畳まれた提灯を広げる。


 「ほら、これ壁に貼っといて!」


 「あいよ!」


 烈志が頼まれるままに動き、さらに大きな袋を抱えて入ってきた。


 「でっかいモニター持ってきたぞ!」


 そう言いながら、烈志が額の汗を拭う。


 「おお、いい感じだな!」


 清輝も手を止め、辺りを見回す。


 病室の壁に、紅白の装飾が吊るされ、折り紙の花火が窓際に飾られた。テーブルには、焼きそば、たこ焼き、りんご飴など、祭りの屋台料理が並び始める。


 「待って、それ違うでしょ!? MIDI端子は?」


 「え、これじゃねぇの?」


 「違う違う! そっちじゃなくてこっち!」


 「お、おぉ……すまん!」


 佳苗と烈志が、モニターの配線を巡って軽く言い争いながら作業を進める。佳苗が苛立ち気味にコードを繋ぎ直し、烈志は腕を組んで「なるほどな……」と適当に相槌を打つ。


 「いや、なるほどじゃなくて、ちゃんと確認してよ!」


 「俺はパワー担当だからな!」


 「そんな担当ない!」


 「押忍!」


 そんな二人のやりとりをよそに、柚子はこっそりと料理に手を伸ばしていた。


 「……ん、ちょっと味見していい?」


 「ダメ!」


 佳苗が素早く手を叩く。


 「ちょっとくらいいいじゃん! あたしもここまで運ぶの手伝ったし!」


 「それはそれ、これはこれ!」


 「ケチ!」


 柚子はぷくっと頬を膨らませるが、佳苗は毅然とした態度を崩さない。


 「あとでみんなで食べるの!」


 「はーい……」


 柚子がしぶしぶ手を引っ込める。


 清輝はそんな二人を横目に、机の上に手作りの飾りを並べていった。小さな紙の笠鉾、折り紙の花火、提灯のミニチュア——。どれも拙い作りだが、それでも病室の中を確実に祭りの空気に染めていく。


 「ほい、こんなもんか」


 手を止めると、清輝は真希の方を見た。


 「ちょっと、しょぼいけど……雰囲気伝わるか?」


 真希は、飾られた病室をぐるりと見回し、最後にテーブルの上の小さな笠鉾をじっと見つめた。


 「……うん」


 小さく、そして確かに微笑んで、彼女は言った。


 「すごく伝わる」


 病室の窓の外では、夜祭がゆっくりと動き出している。


 街の灯りが少しずつ増え、遠くから祭囃子の音が微かに聞こえてくる。


 確かに——


 この部屋にも、祭りが届いていた。



 

 「よし——モニターをつけるぞ!」


 烈志が宣言し、手のひらで軽く膝を叩いた。病室には、清輝、佳苗、柚子、そして設置を終えたばかりのモニターが鎮座していた。その前に全員が集まり、期待と不安が入り混じる静寂が、部屋を包んでいた。


 「正樹、そっちは準備できたか?」


 烈志はスマホを耳に当てながら尋ねる。


 『はい! こっちのカメラもセッティング完了です! ちゃんと繋がるはずです!』


 正樹の声が電話越しに弾む。背景には、遠くで響く太鼓の音や、人々のざわめきが微かに混じっていた。


 「おっしゃ、いくぞ」


 烈志は勢いよくモニターの電源ボタンを押した。


 全員が息を呑む。


 暗転した画面が、一瞬の沈黙を挟んで、じわりと光を帯び始める。


 ——ザザッ。


 ノイズ混じりの画面。ぼやけた色彩。かすかに流れる祭囃子。


 そして、画面が鮮明になった。


 そこに映し出されたのは、賑わう夜祭の光景だった。


 提灯の列が、通りを彩っている。神社の鳥居の前では、人々が歓声を上げ、屋台の明かりが揺れていた。浴衣姿の子どもたちが手をつないで歩き、屋台の匂いが画面の向こうからでも漂ってくるかのようだった。


 「おおおお……!」


 烈志が思わず感嘆の声を上げる。


 「やった、成功した!」


 佳苗も思わず拳を握りしめ、柚子がぱちぱちと小さく拍手をする。


 「すげぇ、本当に繋がったんだな」


 清輝が感慨深げに呟く。


 真希は——


 その映像を、じっと見つめていた。


 夢の中みたいだった。自分が今ここにいながら、街の喧騒をこんなに近くに感じられるなんて。ずっと、病室の窓から遠巻きに見ていた夜祭が、今は手を伸ばせば触れられそうなくらい近くにある。


 画面の中では、誰かが綿あめを買い、金魚すくいに挑戦し、そして賑やかに笑っている。


 「……」


 何かを言おうとしたが、喉の奥が熱くなって、声が出なかった。


 「おーい、秩父神社の方、カメラ向けられるか?」


 清輝がスマホ越しに指示を出す。


 画面がぐらりと揺れ、人混みをかき分けながら進む映像に切り替わる。ざわめく声、提灯の光が揺れ、参道の石畳が不規則に映り込む。


 ——それは、今まさに誰かがそこを歩いている証拠だった。


 「すごい……」


 真希は、小さく呟いた。


 それが自分の声だと、あとになって気づくほど、夢中になっていた。


 「ほらほら、せっかくなんだから食べなって!」


 その時、柚子が軽く真希の肩を揺らしながら、祭りの料理を差し出した。


 「りんご飴に、焼きそば、あとたこ焼きもあるよ。せっかく作ってきたんだから、ちゃんと食べてよね?」


 「あ……うん」


 真希は、まだ映像に目を奪われながらも、そっとりんご飴を手に取った。


 ガラスのように輝く飴の表面が、病室の灯りを受けて光る。


 「……」


 小さく息を吸って、口をつける。


 飴がしゃりっと音を立てて、ほのかに甘い香りが口の中に広がった。


 どこか遠くで、祭囃子の笛の音が響いた気がした。


 病室の中は、すっかり祭りの雰囲気に包まれていた。テーブルの上には、りんご飴、たこ焼き、焼きそばといった屋台の料理が並び、提灯の灯りが、壁に柔らかい影を落としている。モニターの向こうでは、祭囃子が流れ、映像の中の人々が笑い合いながら行き交っていた。


 「おい、清輝。これ食えよ。焼きそば、うまいぞ」


 烈志が大盛りの焼きそばのパックを渡してくる。


 「お前が食えよ、どんだけ買ってんだよ……」


 清輝は呆れたように言いながらも、箸を伸ばした。横では柚子がたこ焼きを頬張り、佳苗がそれを横目で睨んでいる。


 「お前、さっきからたこやき食いすぎじゃね?」


 「いいじゃん! 夜祭の雰囲気味わってんの!細かいこと気にすんなって!」


 柚子は飄々とした顔で笑い、佳苗はため息をつく。


 「はぁ……ほんと、柚子には注意したって無駄ね」


 そんなやり取りを見て、真希はふふっと笑った。病室が、まるで夜店の片隅のようににぎやかで、温かかった。こんなふうに、みんなと楽しく話すのは、いつぶりだろう。


 「……」


 その瞬間、ふいに涙が溢れた。


 頬を伝う感覚に驚いて、真希は慌てて指で拭う。


 「……ありがとう」


 静かに、でも確かに、真希は呟いた。


 全員が言葉を失い、彼女を見つめる。


 「本当に……ありがとう」


 今まで我慢していたものが、一気に溢れ出したかのようだった。


 佳苗は真希の隣に座り、そっと肩に手を置いた。


 「なに泣いてんのよ。私たち、ただ楽しくしてるだけなのに」


 「……うん、でも……」


 柚子がふわりと笑いながら、真希の頭をぽんぽんと優しく叩く。


 「ほんと、しょーがないなぁ。でも、よかったよ」


 「うん」


 烈志は腕を組み、少し照れくさそうに視線を逸らしながら言った。


 「まぁな、俺たちは仲間だからな。こういうの、当たり前だろ?」


 「……」


 真希は、涙で滲んだ視界の中で、一人ひとりの顔を見つめた。


 佳苗。誰よりもしっかり者で、みんなをまとめる存在。いつもきつい言葉を投げかけるけれど、本当は誰よりも気遣いのできる優しい人。


 柚子。天真爛漫で自由奔放。でも、その率直な素直さがどれだけ人を救ってきたことか。彼女の存在があるだけで、場が温かくなる。


 烈志。努力家で、みんなを引っ張る頼れる兄貴分。大雑把だけど、その内側にある不器用な優しさは、誰よりも純粋だった。


 清輝。


 ……清輝。


 彼は、ずっと真希を見ていた。


 言葉をかけるでもなく、ただじっと、静かに。


 「……」


 真希は、唇を噛みしめながら、もう一度「ありがとう」と言った。


 その瞬間、清輝は視線をそらした。


 「……バカかよ」


 そう呟きながら、彼はグッと拳を握る。


 涙が出そうだった。けれど、今ここで泣くのは違う気がして、必死に堪えた。


 「本当はさ」


 絞り出すように、清輝は続ける。


 「実物を……見せたかったんだけどな」


 病室の窓の外を見た。夜空には、まだ花火の光はない。でも、街は祭りの灯りに包まれていた。


 その時——


 「えっと、そろそろ笠鉾が来ます!」


 電話越しに、正樹の声が弾んだ。


 「まじか!」


 烈志が勢いよく立ち上がる。


 モニターに目を向けると、カメラが少しずつ揺れ、人混みの向こうから、ゆっくりと笠鉾が近づいてきているのが分かった。


 「おお……!」


 柚子が思わず身を乗り出す。


 「これ、ちゃんと見れるんだな……」


 清輝も、そっと息を吐きながら画面を見つめる。


 真希の目にも、笠鉾の灯りが映り込んでいた。


 祭りのクライマックスが、ゆっくりと近づいてくる——。


 モニターの中で映し出される笠鉾は、ゆっくりと進んでいた。灯りがゆらゆらと揺れ、華やかな提灯が周囲の夜を照らしている。祭囃子の音が人混みの向こうから響き、どんどんと高鳴ってくる。


 「すげぇ……ほんとに祭りのど真ん中って感じだな」

 烈志が感嘆したように言う。


 モニターの向こうで、正樹の声が響いた。


 「えっと……あれ?」


 少し戸惑ったような声だった。


 「どうした?」

 清輝が聞き返す。


 「いや、なんか……ルートが去年と違う気がするんですけど……」


 「え?」


 その言葉に、病室の中の空気が一瞬止まる。


 「待て、どういうことだ?」

 烈志が眉をひそめた。


 正樹の持つカメラが揺れながら、人混みの中を進んでいく。

 それまで大通りを進んでいたはずの笠鉾が、どこかで曲がり、狭い道へと入っていくのが見えた。


 「あれ……? これ……」


 正樹がカメラを回し、映像が映し出す景色に、病室の全員が息をのむ。


 「まさか……」

 清輝がモニターに近づいた。


 映像の向こう、徐々に近づいてくる祭囃子。

 祭りの喧騒が、明らかにこちらへと向かっている。


 「嘘だろ……」

 清輝が呟いた。


 やがてモニターのカメラが、病院の正面へと向いた。

 そこには、ゆっくりと進む笠鉾の姿があった。


 笠鉾が、病院の前に近づいている——。


 「……!」


 真希の目が大きく見開かれた。


 窓の外から、はっきりと太鼓の音が聞こえてくる。

 夜風に乗って、笛の音が病室にまで響いた。


 「……まさか……」


 誰かが言葉を発したのか、それともただの思考だったのか。

 もう、それすらも分からない。


 でも、確かに。

 祭りが——。


 祭りが、真希の元へやって来ていた。


 烈志が「すげぇ……」と呟いた。


 全員が窓の外を覗き込んでいるなか。

 笠鉾の巨大な車輪がゆっくりと進み、提灯の明かりが道路を照らしながら、病院の前を通過していく。


 「うそ……本当に、生で見れたじゃん……!」

 柚子が驚きと喜びの混じった声を上げる。


 「奇跡……奇跡だよ、こんなの……」

 佳苗が信じられないように窓に手を添え、呆然としながら笠鉾を見つめた。


 太鼓の音、笛の音、人々の掛け声——すべてがこの病室まで届いている。

 まるで、夜祭の中心が、ここに移動してきたかのようだった。


 清輝は、祭囃子を聞きながら、ふと考えた。

 ——親父が、動いたのか?


 ルートを変えるなんて簡単じゃない。

 でも、もし、親父が……。


 そう思った瞬間、胸が熱くなった。


 (ありがとう……)


 心の中で静かに呟く。


 いつも距離を感じていた父親だった。

 それでも——。


 「……すごいな」

 清輝は、窓の外の笠鉾を見送る。


 やがて笠鉾が病院の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。


 その瞬間——。


 ドンッ!!


 遠くの山から、光の弾ける音がした。


 「……!」


 全員の視線が空へ向いた。


 夜の闇を切り裂くように、ひと筋の火が舞い上がる。

 そして、ドン! という大きな音とともに、花火が夜空を染め上げた。


 青、赤、金色——

 次々に花火が咲いていく。


 「……花火……!」


 真希が、小さく呟いた。


 モニターの画面が切り替わる。

 病室の中で、花火を見上げる五人の顔が映し出されていた。


 「正樹!!」


 烈志がモニター越しに叫ぶ。


 「花火だ!! 花火映せ!!」



 「その必要はないよ。」


 不意に、穏やかな声が病室に響いた。


 全員が振り向くと、そこには森田主治医が立っていた。いつもの白衣姿のまま、静かな笑みを浮かべている。


 「屋上……開けてるんだよね。」


 そう言って、彼は何気なく天井を指差した。


 「……え?」


 真希が驚いたように目を見開く。


 「さ、早く行っておいで。」


 そう言い残すと、森田はそのまま踵を返す。


 「あ、あの……」


 何か言おうとした真希だったが、それを遮るように、彼は足を止めずに手を軽く振った。


 「無理はしないようにね。」


 それだけ言い残し、お礼を言う隙も与えず、静かに去っていった。


 静寂が広がる。


 そして——。


 「行こうぜ。」


 清輝が、不意に真希の手を取った。


 驚いたように清輝を見つめる真希。


 「……いいの?」


 「いいに決まってんだろ。」


 そう言って、軽く真希の手を引く。


 その瞬間、烈志も「お、俺も——」と続こうとした。


 しかし——。


 「待って。」


 佳苗がそっと烈志の腕を掴んで引き止める。


 「私たちはあとで。」


 短い言葉だった。

 だが、それだけで烈志はすべてを察した。


 「あ……そうか……」


 一瞬戸惑い、次に納得したように、烈志は頭をかいた。


 そして——


 「へへ、そうだよな。」


 軽く笑いながら、腕を組み、清輝と真希を見送った。




 屋上の扉を開いた瞬間、冷えた夜の風がふわりと二人を包み込んだ。


 ビルの上に広がる空は、ただ漆黒の闇に沈んでいるように見えたが、その下では街全体が光を帯びていた。


 「……すげぇな」


 清輝はポケットに手を突っ込みながら、低く呟いた。


 「なんかさ、こうやって上から見ると、まるで違う街みたいに見えるよな。いつも通ってる道が、あんなに賑やかに光ってて、まるで別の国みたいだ」


 真希は、無言で頷いた。


 遠くから、笠鉾のゆっくりと進む音が聞こえてくる。


 そして、その遥か先——。


 夜の帳を裂くように、最初の花火が打ち上がった。


 ごおぉん、と腹に響くような音が広がる。


 次の瞬間——。


 空に、鮮やかな大輪が咲いた。


 黄金色の火花が夜を裂き、瞬く間に消えていく。


 「おお……」


 清輝は、しばらく息を飲んだまま、目を見開いていた。


 「こんなに近くで見たの、初めてかもな……いや、近いっていうか、まるで真下から見上げてるみたいだな」


 また一つ、花火が上がる。


 今度は、蒼白い光が弧を描き、ゆっくりと散っていった。


 「すげぇよな……ほんとに、こんな景色があったんだな。なんかさ、こういうの見てると。」


 ぽつりと、清輝は呟いた。


 「俺さ、なんかいままで何かにイラついてばっかだった気がするんだよ。家のこととか、学校のこととか、全部。ほんのちょっとのことでムカついて、投げ出したくなって……でも、なんだろうな、こうやって花火を見てると……」


 彼の言葉は、夜空に溶けていくようだった。


 「なんつーかさ、ちょっとぐらい、どうでもいいのかなって思えてくるんだよな」


 ぼんやりと、清輝は夜空を見上げる。


 「いや、そう思えるようになった……っていうのかな」


 花火の光が、彼の顔を淡く照らしていた。


 その横顔を見つめながら——。


 真希は、ずっと胸にしまっていた言葉が、しまいきれなくなるのを感じていた。


 気持ちが溢れそうになる。


 「——清輝君!!」


 思わず、呼んでしまった。


 それは、まるで息をするのと同じくらい自然な動作だった。


 「……え?」


 清輝が驚いたようにこちらを向く。


 花火の光が、彼の瞳に映り込んでいる。


 真希は、唇を噛んだ。


 胸の奥にずっとしまっていた言葉が、今——溢れ出ようとしていた。


 「私——!!」


 でも、言葉が詰まる。


 喉の奥が震えて、どうしても続きが出てこない。


 清輝は、ただじっと真希を見つめていた。


 夜空に、また一つ大きな花火が咲いた。


 燃え盛るような紅色の光が、空いっぱいに広がる。


 「……清輝君」


 小さく、もう一度呼ぶ。


 「私、ずっと——」


 言いかけた瞬間、また一つ、大きな音とともに花火が打ち上がった。


 火花が降り注ぎ、光の欠片が星のように瞬く。


 その光の中で——


 真希は、ただ清輝を見つめていた。


 声にならない想いが、胸の奥で静かに震えていた。


 夜空に、また一つ大きな花火が咲いた。


 紅と金の火花が、暗闇を切り裂くように放射状に広がり、夜の静寂を一瞬だけ飲み込む。そして、燃え尽きるように儚く散っていく。


 風に流された煙が雲と混じり、街の灯りと相まって、夜の空が揺らめいて見えた。


 静寂が訪れる。


 その静けさの中、清輝はゆっくりと、けれど迷いなく真希の手を取った。


 温かい。


 ずっと冷えていた指先が、彼の体温を吸い込むようにじんわりと温まっていく。


 「……あぁ、そうだ」


 清輝の低い声が、真希の耳に届く。


 胸の奥に響くような、真っ直ぐで、力強い声。


 真希は、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。


 「俺、今、夢ができた」


 夜の闇に溶けてしまいそうなほど静かで、それでも確かな意思を持った言葉だった。


 真希はそっと、彼の顔を見上げる。


 「夢……?」


 問い返すよりも先に、清輝は淡々と続けた。


 「俺がさ……医者になる」


 夜風が、二人の頬を撫でていく。


 どこかで祭囃子が響き、遠くの屋台から笑い声がこぼれてくる。


 そんな賑わいとは対照的に、屋上のこの場所だけは、まるで時間が止まったように静かだった。


 「俺が医者になれたら……お前を治してやれるかもしれない」


 「……!」


 真希の瞳が、わずかに揺れた。


 それはあまりにも——


 あまりにも非現実的な話だった。


 彼が、医者になる?


 それは、今までの清輝を思えば想像もつかない未来だった。


 けれど——


 冗談ではないことは、彼の表情が物語っていた。


 「それで、また会いに行く」


 清輝の手が、少しだけ力を込める。


 夜空を見上げる彼の横顔は、これまで見たどんな顔よりも、はっきりとした決意に満ちていた。


 「だからさ——」


 風が吹く。


 真希の髪を、そっと揺らしていく。


 「好きって言葉……俺の胸にしまっててもいいか?」


 その問いかけは、静かに、けれど確かに真希の心を揺さぶった。


 好き——


 その言葉を、自分が彼に向けて言ったときのことを思い出す。


 あの時、彼は何も言わなかった。


 けれど——


 今、清輝は、確かに言葉を返してくれた。


 未来を、夢を、約束を。


 真希の胸が、熱くなる。


 目の奥がじんわりと滲む。


 涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、震える手をそっと持ち上げる。


 そして——


 ぎゅっと、清輝の手を握り返した。


 それが、真希の答えだった。


 何も言葉にしなくても、伝わると信じた。


 清輝は少し驚いたように真希を見つめる。


 そして、彼の唇がわずかに動いた。


 「……ありがとう」


 祭りの終わり屋上に響く夜風の音に混じり、遠くから囃子の笛の音がかすかに届いていた。


 清輝と真希は、最後の花火を見上げたまま、手を握りしめていた。


 火花が弾け、夜空に光の残像を描く。黄金色の光がふわりと広がり、やがて儚く消えていく。その度に、まるで時間が止まったかのように、周囲の音が遠のいていく。



 烈志が屋上の扉を押し開けた。その背後には、佳苗と柚子の姿があった。二人とも、涙を拭う素振りも見せず、ただ静かに立っていた。


 言葉はなかった。


 けれど、その表情が、すべてを物語っていた。


 佳苗は、まるで泣いたことを認めたくないように口元を引き締めていた。柚子は、そんな佳苗の肩をぽんぽんと叩くようにしていたが、目の淵が赤くなっている。


 烈志は、彼女たちをちらりと見た後、何かを言おうとして、結局口を閉じた。


 そのまま、言葉を飲み込むように、屋上の手すりに寄りかかり、夜空を見上げる。


 「……」


 今、モニターに映し出しているもの——


 それは、遠くの夜空に咲く花火と、並んで立つ五人のシルエットだった。


 煌めく花火の光が、屋上の彼らの姿を照らし、静かに揺れる。


 誰も何も言わない。


 けれど、その映像は、病室にいる誰かにも、カメラを握る正樹にも、そして、これまでこの祭りに関わってきた全員へと、確かに伝わる何かがあった。


 そして——


 夜空を最後に飾るように、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。


 黄金と朱の光が夜空いっぱいに広がり、その輝きが、屋上の彼らの背中をそっと照らす。


 それは、まるで夜祭の幕を引く合図のように。


 ——ドン。


 余韻を残して、静寂が訪れる。


 夜風が吹き抜ける。


 遠くで祭囃子の音が静かに途絶え、街の灯りがゆるやかに落ち着いていく。


 その静けさの中で、誰かが小さく息を吐きました。

 そして、最後の花火と共に、一夜の物語が終わった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ