21話.決行準備
武道館の扉を開けると、ほんのりと畳の匂いが漂っていた。
夜祭まで、あと三日。
清輝と烈志、そして正樹は、武道館の一角に広げた作業スペースに座り込んでいた。周りには和紙や竹ひご、絵の具や筆が雑然と転がっている。三人は、夜祭の雰囲気を少しでも出そうと、提灯や小道具を作っていたのだった。
「……で、今のところの進捗がこれなわけだ」
清輝が手元の提灯を持ち上げてみせる。和紙の表面はシワだらけ、墨で書かれた「祭」の文字も、どことなく歪んでいる。
「正直、どう見ても素人仕事だよな」
「すみません……。僕なりに頑張って筆入れしたんですが……」
正樹がしょんぼりしながら筆を置く。
烈志はそんな二人を見ながら、腕を組んでうなった。
「うーん、やっぱり三人だけじゃ限界があるな。もっと人手がいれば……」
「とはいえ、今から誰かに頼むのも難しいだろ」
清輝は、作りかけの提灯を転がしながら言った。
そのとき、正樹が意を決したように口を開いた。
「実は……ひとつ考えがあるんです」
「ん? 何かあるのか?」
烈志が眉を上げる。
正樹は持ってきたバッグの中から、小型のビデオカメラを取り出した。
「これ、僕の家のなんですけど、使えますか?。ライブ中継とかに」
「おお、これは!」
烈志が興味深そうにカメラを手に取る。
「つまり、花火も笠鉾も、このカメラを通して病室に届けられるってことか?」
「そうです。リアルタイムで映像を配信すれば、真希さんも自分の部屋からお祭りを見られると思います」
正樹は胸を張った。
「……正樹、ちょっと成長したか?」
清輝がからかうように笑う。
「あ、当たり前です! 僕だって、先輩たちに助けてもらってばかりじゃいられませんから!」
正樹の言葉に、烈志が満足げに頷く。
「いいぞ正樹! これで準備の問題は一つ解決だな」
そう言った瞬間、武道館の扉が勢いよく開いた。
「すみません! 今日、柔道部の見学に来たんですけど!」
「お邪魔してもいいですか!?」
突如現れた十数人の高校生たち。
清輝と烈志が驚いて振り向くと、そこには見知らぬ顔の生徒たちが立っていた。
「……え?」
「何事?」
混乱する二人をよそに、正樹が立ち上がって嬉しそうに説明する。
「みんな、烈志先輩に憧れて柔道部に入りたいって言ってるんです! 全国大会二連覇のニュースを見て、僕が声をかけたら、たくさん集まってくれました!」
「お、お前……」
烈志は目を丸くした後、感動したように口元を押さえた。
「お前……やるじゃねぇか!」
「あ、憧れている烈志先輩へ恩返しになれたらと……!!」
正樹は、いつもより少しだけ堂々と胸を張った。
「よし、みんな、まずは準備を手伝ってくれ! 柔道部の練習はそのあとだ!」
烈志の声に、新入部希望者たちが「押忍!」と気合いの入った声を上げた。
その光景を見ながら、清輝は思わず苦笑した。
「なんだよ、結局人手集まったじゃねぇか」
「ま、結果オーライってことで」
烈志が誇らしげに笑った。
その頃、武道館の入り口の外では、佳苗と柚子が袋を抱えて歩いていた。
「まったく、小麦粉とか卵とか高いなぁ……」
佳苗がぼやきながら、袋の重みを持ち直す。
「まあまあ、これも祭りの準備だから」
柚子は気楽に言いながら、一緒に扉を押し開けた。
「よし、到着!」
武道館の中では、柔道部の新入部員たちが作業を進めていた。
「おい、買い出しご苦労さん」
清輝が迎え、佳苗からレシートを受け取る。そして、レシートに目を走らせた途端、顔をしかめる。
「おい! アイス買ってんじゃねぇか!」
「いいじゃん! パシらせたんだから!」
柚子が開き直るように言い放つ。
「はぁ!? 誰がパシらせたって?」
「だって、疲れたんだもん! あと、あたしの労働力分の手当て!」
「どんな手当だよ……」
清輝が呆れながらも、もうアイスはすでに胃の中だろうと諦める。そんな中、柚子が周囲を見回し、柔道部員の数を改めて確認する。
「……なんかさ、いつの間にかワカメみたいに増えてね?」
柔道部員たちは次々と提灯の組み立てや、祭りの装飾を手伝い始めていた。
その中心にいる烈志は、腕を組んで満足げに頷いている。
「よし! お前ら、今日は特別な修行をするぞ!」
「押忍!」
部員たちが一斉に声を揃える。
「いいか、秩父の夜祭には欠かせないものがある。それは……秩父音頭だ!!」
「じゅ、柔道しないんすか!?」
部員たちが戸惑いの声を上げるが、烈志は動じない。
「伝統なんだよ!!」
「どんな伝統だよ」
清輝がツッコミを入れるが、烈志は満面の笑みで流す。
佳苗は呆れたようにため息をつきながら、腕を組んだ。
「やめなさいよ、病室ギッチギチになるでしょうが」
しかしその顔は、呆れてはいるが一体感を確かに感じていて満足そうな様子だった。
めくるめく日々の中で、武道館の準備は着実に進んでいった。
提灯の数は増え、飾り付けも整い、武道館の畳には祭りの小道具がずらりと並ぶ。新入部員たちもすっかり作業に慣れ、活気が溢れていた。
そんな喧騒の中で、時間は止まることなく流れて。
――夜が訪れ、そして夜明けがくる。
秩父の空は、静かに明るさを増し、冷えた空気を帯びながら新しい朝を迎える。電車がゆっくりと線路を滑るように走り、通学や通勤の人々を乗せて街を横切っていく。幹線道路には車が少しずつ増え、街の空気も次第に賑やかさを増していった。
病室の窓際で、真希は静かに街を見下ろしていた。
祭りの前日。秩父の町並みは、どこかそわそわとした雰囲気を纏っていた。横断歩道を渡る人々の歩調がいつもより軽やかに見えるのは、自分の気のせいだろうか。道路沿いの店先には提灯が吊るされ、通りを彩る旗が揺れている。駅の方を見ると、大きな荷物を抱えた観光客らしき人々が、祭りの気配を感じているようだった。
――こうやって、街が動いていく。
そして、その流れの中に、自分はいない。
それが、どこか取り残されたような気分にさせた。
何度かの夜と夜明けを繰り返し、ついに夜祭当日。
夕方の光が街を優しく包み込む。窓の外を見つめる真希の視線の先には、いつもより賑わう道路の光景があった。車の流れが増し、歩道を行き交う人々の数も明らかに多くなっている。楽しげに話しながら歩く子供たち、浴衣を着た若者たちがちらほらと目に入る。
――祭りが始まる。
窓越しに、真希はそっと息を吐く。
「準備はいいか?」
父の声がして、真希は振り返った。
父はゆっくりと彼女の肩に手を置きながら、柔らかく微笑んだ。
「友達が面会に来てくれるだろう?」
その言葉に、真希は小さく頷く。
「うん……。」
「森田には話してる。多少騒いでも問題ないってさ。」
森田は病院の看護師長だ。病室に人が集まることについて、事前に許可を取ってくれていたのだろう。
「……ありがと。」
真希は小さく礼を言い、ベッドに寝そべる。
ふと、スマホを手に取った。
みんなにお礼のメッセージを送ろうか。
そう思った瞬間、画面に新しい通知が表示された。
「よう、もうぼちぼちこっち来るわ。」
――清輝からだった。
指先が止まる。
本当に、来てくれる。
改めてそう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとう。」
そう呟いて、スマホを握りしめる。
それから、一度深呼吸をして、指を動かした。
――言いたいことがある。
そうメッセージを打ち込んだ。
けれど。
「……ああぁもう!」
急に恥ずかしくなって、入力したままの画面を閉じてしまう。
何を言えばいいのか、どう伝えればいいのか。
分かっているはずなのに、言葉にするのが難しい。
祭りの夜。
彼らが来る。
それだけで十分なはずなのに、心は落ち着かない。
真希はスマホを胸に抱え、再び窓の外を眺めた。
祭りの光が、静かに広がり始めていたとき。
「おーい!」
外から元気な声が響いた。
真希は、窓の外を覗き込む。目を細めて下を見れば——
「……ぷっ」
思わず、声を立てずに笑った。
そこには、清輝がいた。サイズの合わない法被を羽織り、ねじり鉢巻をぐるりと適当に巻きつけ、いかにも「借り物」然とした格好で、一階から手を振っていた。
「似合わないね」
真希は、自然と手を振り返す。
「うるせぇよ!」
清輝が言い返すが、どこか嬉しそうに笑っているのが分かる。
そのやりとりの最中、病室の扉が開き、次々と荷物が運び込まれてきた。
「よし、ここに置いて!」
佳苗が手際よく指示を出しながら、折り畳まれた提灯を広げる。
「ほら、これ壁に貼っといて!」
「あいよ!」
烈志が頼まれるままに動き、さらに大きな袋を抱えて入ってきた。
「でっかいモニター持ってきたぞ!」
そう言いながら、烈志が額の汗を拭う。
「おお、いい感じだな!」
清輝も手を止め、辺りを見回す。
病室の壁に、紅白の装飾が吊るされ、折り紙の花火が窓際に飾られた。テーブルには、焼きそば、たこ焼き、りんご飴など、祭りの屋台料理が並び始める。
「待って、それ違うでしょ!? MIDI端子は?」
「え、これじゃねぇの?」
「違う違う! そっちじゃなくてこっち!」
「お、おぉ……すまん!」
佳苗と烈志が、モニターの配線を巡って軽く言い争いながら作業を進める。佳苗が苛立ち気味にコードを繋ぎ直し、烈志は腕を組んで「なるほどな……」と適当に相槌を打つ。
「いや、なるほどじゃなくて、ちゃんと確認してよ!」
「俺はパワー担当だからな!」
「そんな担当ない!」
「押忍!」
そんな二人のやりとりをよそに、柚子はこっそりと料理に手を伸ばしていた。
「……ん、ちょっと味見していい?」
「ダメ!」
佳苗が素早く手を叩く。
「ちょっとくらいいいじゃん! あたしもここまで運ぶの手伝ったし!」
「それはそれ、これはこれ!」
「ケチ!」
柚子はぷくっと頬を膨らませるが、佳苗は毅然とした態度を崩さない。
「あとでみんなで食べるの!」
「はーい……」
柚子がしぶしぶ手を引っ込める。
清輝はそんな二人を横目に、机の上に手作りの飾りを並べていった。小さな紙の笠鉾、折り紙の花火、提灯のミニチュア——。どれも拙い作りだが、それでも病室の中を確実に祭りの空気に染めていく。
「ほい、こんなもんか」
手を止めると、清輝は真希の方を見た。
「ちょっと、しょぼいけど……雰囲気伝わるか?」
真希は、飾られた病室をぐるりと見回し、最後にテーブルの上の小さな笠鉾をじっと見つめた。
「……うん」
小さく、そして確かに微笑んで、彼女は言った。
「すごく伝わる」
病室の窓の外では、夜祭がゆっくりと動き出している。
街の灯りが少しずつ増え、遠くから祭囃子の音が微かに聞こえてくる。
確かに——
この部屋にも、祭りが届いていた。
「よし——モニターをつけるぞ!」
烈志が宣言し、手のひらで軽く膝を叩いた。病室には、清輝、佳苗、柚子、そして設置を終えたばかりのモニターが鎮座していた。その前に全員が集まり、期待と不安が入り混じる静寂が、部屋を包んでいた。
「正樹、そっちは準備できたか?」
烈志はスマホを耳に当てながら尋ねる。
『はい! こっちのカメラもセッティング完了です! ちゃんと繋がるはずです!』
正樹の声が電話越しに弾む。背景には、遠くで響く太鼓の音や、人々のざわめきが微かに混じっていた。
「おっしゃ、いくぞ」
烈志は勢いよくモニターの電源ボタンを押した。
全員が息を呑む。
暗転した画面が、一瞬の沈黙を挟んで、じわりと光を帯び始める。
——ザザッ。
ノイズ混じりの画面。ぼやけた色彩。かすかに流れる祭囃子。
そして、画面が鮮明になった。
そこに映し出されたのは、賑わう夜祭の光景だった。
提灯の列が、通りを彩っている。神社の鳥居の前では、人々が歓声を上げ、屋台の明かりが揺れていた。浴衣姿の子どもたちが手をつないで歩き、屋台の匂いが画面の向こうからでも漂ってくるかのようだった。
「おおおお……!」
烈志が思わず感嘆の声を上げる。
「やった、成功した!」
佳苗も思わず拳を握りしめ、柚子がぱちぱちと小さく拍手をする。
「すげぇ、本当に繋がったんだな」
清輝が感慨深げに呟く。
真希は——
その映像を、じっと見つめていた。
夢の中みたいだった。自分が今ここにいながら、街の喧騒をこんなに近くに感じられるなんて。ずっと、病室の窓から遠巻きに見ていた夜祭が、今は手を伸ばせば触れられそうなくらい近くにある。
画面の中では、誰かが綿あめを買い、金魚すくいに挑戦し、そして賑やかに笑っている。
「……」
何かを言おうとしたが、喉の奥が熱くなって、声が出なかった。
「おーい、秩父神社の方、カメラ向けられるか?」
清輝がスマホ越しに指示を出す。
画面がぐらりと揺れ、人混みをかき分けながら進む映像に切り替わる。ざわめく声、提灯の光が揺れ、参道の石畳が不規則に映り込む。
——それは、今まさに誰かがそこを歩いている証拠だった。
「すごい……」
真希は、小さく呟いた。
それが自分の声だと、あとになって気づくほど、夢中になっていた。
「ほらほら、せっかくなんだから食べなって!」
その時、柚子が軽く真希の肩を揺らしながら、祭りの料理を差し出した。
「りんご飴に、焼きそば、あとたこ焼きもあるよ。せっかく作ってきたんだから、ちゃんと食べてよね?」
「あ……うん」
真希は、まだ映像に目を奪われながらも、そっとりんご飴を手に取った。
ガラスのように輝く飴の表面が、病室の灯りを受けて光る。
「……」
小さく息を吸って、口をつける。
飴がしゃりっと音を立てて、ほのかに甘い香りが口の中に広がった。
どこか遠くで、祭囃子の笛の音が響いた気がした。
病室の中は、すっかり祭りの雰囲気に包まれていた。テーブルの上には、りんご飴、たこ焼き、焼きそばといった屋台の料理が並び、提灯の灯りが、壁に柔らかい影を落としている。モニターの向こうでは、祭囃子が流れ、映像の中の人々が笑い合いながら行き交っていた。
「おい、清輝。これ食えよ。焼きそば、うまいぞ」
烈志が大盛りの焼きそばのパックを渡してくる。
「お前が食えよ、どんだけ買ってんだよ……」
清輝は呆れたように言いながらも、箸を伸ばした。横では柚子がたこ焼きを頬張り、佳苗がそれを横目で睨んでいる。
「お前、さっきからたこやき食いすぎじゃね?」
「いいじゃん! 夜祭の雰囲気味わってんの!細かいこと気にすんなって!」
柚子は飄々とした顔で笑い、佳苗はため息をつく。
「はぁ……ほんと、柚子には注意したって無駄ね」
そんなやり取りを見て、真希はふふっと笑った。病室が、まるで夜店の片隅のようににぎやかで、温かかった。こんなふうに、みんなと楽しく話すのは、いつぶりだろう。
「……」
その瞬間、ふいに涙が溢れた。
頬を伝う感覚に驚いて、真希は慌てて指で拭う。
「……ありがとう」
静かに、でも確かに、真希は呟いた。
全員が言葉を失い、彼女を見つめる。
「本当に……ありがとう」
今まで我慢していたものが、一気に溢れ出したかのようだった。
佳苗は真希の隣に座り、そっと肩に手を置いた。
「なに泣いてんのよ。私たち、ただ楽しくしてるだけなのに」
「……うん、でも……」
柚子がふわりと笑いながら、真希の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「ほんと、しょーがないなぁ。でも、よかったよ」
「うん」
烈志は腕を組み、少し照れくさそうに視線を逸らしながら言った。
「まぁな、俺たちは仲間だからな。こういうの、当たり前だろ?」
「……」
真希は、涙で滲んだ視界の中で、一人ひとりの顔を見つめた。
佳苗。誰よりもしっかり者で、みんなをまとめる存在。いつもきつい言葉を投げかけるけれど、本当は誰よりも気遣いのできる優しい人。
柚子。天真爛漫で自由奔放。でも、その率直な素直さがどれだけ人を救ってきたことか。彼女の存在があるだけで、場が温かくなる。
烈志。努力家で、みんなを引っ張る頼れる兄貴分。大雑把だけど、その内側にある不器用な優しさは、誰よりも純粋だった。
清輝。
……清輝。
彼は、ずっと真希を見ていた。
言葉をかけるでもなく、ただじっと、静かに。
「……」
真希は、唇を噛みしめながら、もう一度「ありがとう」と言った。
その瞬間、清輝は視線をそらした。
「……バカかよ」
そう呟きながら、彼はグッと拳を握る。
涙が出そうだった。けれど、今ここで泣くのは違う気がして、必死に堪えた。
「本当はさ」
絞り出すように、清輝は続ける。
「実物を……見せたかったんだけどな」
病室の窓の外を見た。夜空には、まだ花火の光はない。でも、街は祭りの灯りに包まれていた。
その時——
「えっと、そろそろ笠鉾が来ます!」
電話越しに、正樹の声が弾んだ。
「まじか!」
烈志が勢いよく立ち上がる。
モニターに目を向けると、カメラが少しずつ揺れ、人混みの向こうから、ゆっくりと笠鉾が近づいてきているのが分かった。
「おお……!」
柚子が思わず身を乗り出す。
「これ、ちゃんと見れるんだな……」
清輝も、そっと息を吐きながら画面を見つめる。
真希の目にも、笠鉾の灯りが映り込んでいた。
祭りのクライマックスが、ゆっくりと近づいてくる——。
モニターの中で映し出される笠鉾は、ゆっくりと進んでいた。灯りがゆらゆらと揺れ、華やかな提灯が周囲の夜を照らしている。祭囃子の音が人混みの向こうから響き、どんどんと高鳴ってくる。
「すげぇ……ほんとに祭りのど真ん中って感じだな」
烈志が感嘆したように言う。
モニターの向こうで、正樹の声が響いた。
「えっと……あれ?」
少し戸惑ったような声だった。
「どうした?」
清輝が聞き返す。
「いや、なんか……ルートが去年と違う気がするんですけど……」
「え?」
その言葉に、病室の中の空気が一瞬止まる。
「待て、どういうことだ?」
烈志が眉をひそめた。
正樹の持つカメラが揺れながら、人混みの中を進んでいく。
それまで大通りを進んでいたはずの笠鉾が、どこかで曲がり、狭い道へと入っていくのが見えた。
「あれ……? これ……」
正樹がカメラを回し、映像が映し出す景色に、病室の全員が息をのむ。
「まさか……」
清輝がモニターに近づいた。
映像の向こう、徐々に近づいてくる祭囃子。
祭りの喧騒が、明らかにこちらへと向かっている。
「嘘だろ……」
清輝が呟いた。
やがてモニターのカメラが、病院の正面へと向いた。
そこには、ゆっくりと進む笠鉾の姿があった。
笠鉾が、病院の前に近づいている——。
「……!」
真希の目が大きく見開かれた。
窓の外から、はっきりと太鼓の音が聞こえてくる。
夜風に乗って、笛の音が病室にまで響いた。
「……まさか……」
誰かが言葉を発したのか、それともただの思考だったのか。
もう、それすらも分からない。
でも、確かに。
祭りが——。
祭りが、真希の元へやって来ていた。
烈志が「すげぇ……」と呟いた。
全員が窓の外を覗き込んでいるなか。
笠鉾の巨大な車輪がゆっくりと進み、提灯の明かりが道路を照らしながら、病院の前を通過していく。
「うそ……本当に、生で見れたじゃん……!」
柚子が驚きと喜びの混じった声を上げる。
「奇跡……奇跡だよ、こんなの……」
佳苗が信じられないように窓に手を添え、呆然としながら笠鉾を見つめた。
太鼓の音、笛の音、人々の掛け声——すべてがこの病室まで届いている。
まるで、夜祭の中心が、ここに移動してきたかのようだった。
清輝は、祭囃子を聞きながら、ふと考えた。
——親父が、動いたのか?
ルートを変えるなんて簡単じゃない。
でも、もし、親父が……。
そう思った瞬間、胸が熱くなった。
(ありがとう……)
心の中で静かに呟く。
いつも距離を感じていた父親だった。
それでも——。
「……すごいな」
清輝は、窓の外の笠鉾を見送る。
やがて笠鉾が病院の前を通り過ぎ、遠ざかっていく。
その瞬間——。
ドンッ!!
遠くの山から、光の弾ける音がした。
「……!」
全員の視線が空へ向いた。
夜の闇を切り裂くように、ひと筋の火が舞い上がる。
そして、ドン! という大きな音とともに、花火が夜空を染め上げた。
青、赤、金色——
次々に花火が咲いていく。
「……花火……!」
真希が、小さく呟いた。
モニターの画面が切り替わる。
病室の中で、花火を見上げる五人の顔が映し出されていた。
「正樹!!」
烈志がモニター越しに叫ぶ。
「花火だ!! 花火映せ!!」
「その必要はないよ。」
不意に、穏やかな声が病室に響いた。
全員が振り向くと、そこには森田主治医が立っていた。いつもの白衣姿のまま、静かな笑みを浮かべている。
「屋上……開けてるんだよね。」
そう言って、彼は何気なく天井を指差した。
「……え?」
真希が驚いたように目を見開く。
「さ、早く行っておいで。」
そう言い残すと、森田はそのまま踵を返す。
「あ、あの……」
何か言おうとした真希だったが、それを遮るように、彼は足を止めずに手を軽く振った。
「無理はしないようにね。」
それだけ言い残し、お礼を言う隙も与えず、静かに去っていった。
静寂が広がる。
そして——。
「行こうぜ。」
清輝が、不意に真希の手を取った。
驚いたように清輝を見つめる真希。
「……いいの?」
「いいに決まってんだろ。」
そう言って、軽く真希の手を引く。
その瞬間、烈志も「お、俺も——」と続こうとした。
しかし——。
「待って。」
佳苗がそっと烈志の腕を掴んで引き止める。
「私たちはあとで。」
短い言葉だった。
だが、それだけで烈志はすべてを察した。
「あ……そうか……」
一瞬戸惑い、次に納得したように、烈志は頭をかいた。
そして——
「へへ、そうだよな。」
軽く笑いながら、腕を組み、清輝と真希を見送った。
屋上の扉を開いた瞬間、冷えた夜の風がふわりと二人を包み込んだ。
ビルの上に広がる空は、ただ漆黒の闇に沈んでいるように見えたが、その下では街全体が光を帯びていた。
「……すげぇな」
清輝はポケットに手を突っ込みながら、低く呟いた。
「なんかさ、こうやって上から見ると、まるで違う街みたいに見えるよな。いつも通ってる道が、あんなに賑やかに光ってて、まるで別の国みたいだ」
真希は、無言で頷いた。
遠くから、笠鉾のゆっくりと進む音が聞こえてくる。
そして、その遥か先——。
夜の帳を裂くように、最初の花火が打ち上がった。
ごおぉん、と腹に響くような音が広がる。
次の瞬間——。
空に、鮮やかな大輪が咲いた。
黄金色の火花が夜を裂き、瞬く間に消えていく。
「おお……」
清輝は、しばらく息を飲んだまま、目を見開いていた。
「こんなに近くで見たの、初めてかもな……いや、近いっていうか、まるで真下から見上げてるみたいだな」
また一つ、花火が上がる。
今度は、蒼白い光が弧を描き、ゆっくりと散っていった。
「すげぇよな……ほんとに、こんな景色があったんだな。なんかさ、こういうの見てると。」
ぽつりと、清輝は呟いた。
「俺さ、なんかいままで何かにイラついてばっかだった気がするんだよ。家のこととか、学校のこととか、全部。ほんのちょっとのことでムカついて、投げ出したくなって……でも、なんだろうな、こうやって花火を見てると……」
彼の言葉は、夜空に溶けていくようだった。
「なんつーかさ、ちょっとぐらい、どうでもいいのかなって思えてくるんだよな」
ぼんやりと、清輝は夜空を見上げる。
「いや、そう思えるようになった……っていうのかな」
花火の光が、彼の顔を淡く照らしていた。
その横顔を見つめながら——。
真希は、ずっと胸にしまっていた言葉が、しまいきれなくなるのを感じていた。
気持ちが溢れそうになる。
「——清輝君!!」
思わず、呼んでしまった。
それは、まるで息をするのと同じくらい自然な動作だった。
「……え?」
清輝が驚いたようにこちらを向く。
花火の光が、彼の瞳に映り込んでいる。
真希は、唇を噛んだ。
胸の奥にずっとしまっていた言葉が、今——溢れ出ようとしていた。
「私——!!」
でも、言葉が詰まる。
喉の奥が震えて、どうしても続きが出てこない。
清輝は、ただじっと真希を見つめていた。
夜空に、また一つ大きな花火が咲いた。
燃え盛るような紅色の光が、空いっぱいに広がる。
「……清輝君」
小さく、もう一度呼ぶ。
「私、ずっと——」
言いかけた瞬間、また一つ、大きな音とともに花火が打ち上がった。
火花が降り注ぎ、光の欠片が星のように瞬く。
その光の中で——
真希は、ただ清輝を見つめていた。
声にならない想いが、胸の奥で静かに震えていた。
夜空に、また一つ大きな花火が咲いた。
紅と金の火花が、暗闇を切り裂くように放射状に広がり、夜の静寂を一瞬だけ飲み込む。そして、燃え尽きるように儚く散っていく。
風に流された煙が雲と混じり、街の灯りと相まって、夜の空が揺らめいて見えた。
静寂が訪れる。
その静けさの中、清輝はゆっくりと、けれど迷いなく真希の手を取った。
温かい。
ずっと冷えていた指先が、彼の体温を吸い込むようにじんわりと温まっていく。
「……あぁ、そうだ」
清輝の低い声が、真希の耳に届く。
胸の奥に響くような、真っ直ぐで、力強い声。
真希は、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
「俺、今、夢ができた」
夜の闇に溶けてしまいそうなほど静かで、それでも確かな意思を持った言葉だった。
真希はそっと、彼の顔を見上げる。
「夢……?」
問い返すよりも先に、清輝は淡々と続けた。
「俺がさ……医者になる」
夜風が、二人の頬を撫でていく。
どこかで祭囃子が響き、遠くの屋台から笑い声がこぼれてくる。
そんな賑わいとは対照的に、屋上のこの場所だけは、まるで時間が止まったように静かだった。
「俺が医者になれたら……お前を治してやれるかもしれない」
「……!」
真希の瞳が、わずかに揺れた。
それはあまりにも——
あまりにも非現実的な話だった。
彼が、医者になる?
それは、今までの清輝を思えば想像もつかない未来だった。
けれど——
冗談ではないことは、彼の表情が物語っていた。
「それで、また会いに行く」
清輝の手が、少しだけ力を込める。
夜空を見上げる彼の横顔は、これまで見たどんな顔よりも、はっきりとした決意に満ちていた。
「だからさ——」
風が吹く。
真希の髪を、そっと揺らしていく。
「好きって言葉……俺の胸にしまっててもいいか?」
その問いかけは、静かに、けれど確かに真希の心を揺さぶった。
好き——
その言葉を、自分が彼に向けて言ったときのことを思い出す。
あの時、彼は何も言わなかった。
けれど——
今、清輝は、確かに言葉を返してくれた。
未来を、夢を、約束を。
真希の胸が、熱くなる。
目の奥がじんわりと滲む。
涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、震える手をそっと持ち上げる。
そして——
ぎゅっと、清輝の手を握り返した。
それが、真希の答えだった。
何も言葉にしなくても、伝わると信じた。
清輝は少し驚いたように真希を見つめる。
そして、彼の唇がわずかに動いた。
「……ありがとう」
祭りの終わり屋上に響く夜風の音に混じり、遠くから囃子の笛の音がかすかに届いていた。
清輝と真希は、最後の花火を見上げたまま、手を握りしめていた。
火花が弾け、夜空に光の残像を描く。黄金色の光がふわりと広がり、やがて儚く消えていく。その度に、まるで時間が止まったかのように、周囲の音が遠のいていく。
烈志が屋上の扉を押し開けた。その背後には、佳苗と柚子の姿があった。二人とも、涙を拭う素振りも見せず、ただ静かに立っていた。
言葉はなかった。
けれど、その表情が、すべてを物語っていた。
佳苗は、まるで泣いたことを認めたくないように口元を引き締めていた。柚子は、そんな佳苗の肩をぽんぽんと叩くようにしていたが、目の淵が赤くなっている。
烈志は、彼女たちをちらりと見た後、何かを言おうとして、結局口を閉じた。
そのまま、言葉を飲み込むように、屋上の手すりに寄りかかり、夜空を見上げる。
「……」
今、モニターに映し出しているもの——
それは、遠くの夜空に咲く花火と、並んで立つ五人のシルエットだった。
煌めく花火の光が、屋上の彼らの姿を照らし、静かに揺れる。
誰も何も言わない。
けれど、その映像は、病室にいる誰かにも、カメラを握る正樹にも、そして、これまでこの祭りに関わってきた全員へと、確かに伝わる何かがあった。
そして——
夜空を最後に飾るように、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。
黄金と朱の光が夜空いっぱいに広がり、その輝きが、屋上の彼らの背中をそっと照らす。
それは、まるで夜祭の幕を引く合図のように。
——ドン。
余韻を残して、静寂が訪れる。
夜風が吹き抜ける。
遠くで祭囃子の音が静かに途絶え、街の灯りがゆるやかに落ち着いていく。
その静けさの中で、誰かが小さく息を吐きました。
そして、最後の花火と共に、一夜の物語が終わった。