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20/22

20話.日常

 武道館を出ても、清輝の頭はぐるぐると混乱していた。


 ――「真希ってさ、多分アンタのこと好きだよ」


 柚子の言葉が、脳の奥にこびりついて離れない。


 何の確証があって、あいつはそんなことを言う?

 そもそも今はそんな話をしてる場合じゃない。


 けれど、「最後なのに」という言葉が引っかかっていた。

 まるで、見たくなかった現実を無理やり突きつけられたような感覚。


 ……考えれば考えるほど、頭が重くなる。

 無意識に歩くスピードが上がる。


 家の前に着いたとき、リビングの窓から灯りが漏れていた。

 ドアを開けると、出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。

 キッチンを覗くと、奈緒がエプロン姿で鍋をかき混ぜていた。


 「あれ、姉ちゃん?」


 「ん? おかえり」


 奈緒は振り返ることもなく、淡々と料理を続ける。

 食卓にはもう味噌汁と副菜が並んでいて、鍋の中では豚肉と野菜がくつくつと煮込まれている。


 清輝はなんとなく椅子に座り、テーブルに肘をついた。


 「そういや、姉ちゃんってさ、観光課の仕事してるよな」


 「うん? 何急に」


 「いや……夜祭に関わったりとかしねぇの?」


 「しないよ」


 奈緒は鍋の火を弱めながら、軽く首を振る。


 「観光課って言っても、私は広報担当だからね。夜祭の準備とか運営は、商工会とか実行委員会の仕事だし、こっちで手を出せることはあんまりない」


 「そっか……」


 拍子抜けしたような気持ちで、箸を手に取る。

 だったら、頼るだけ無駄だったか。


 「なんで? 何かあるの?」


 奈緒は鍋を火から下ろしながら、ちらりと視線を向ける。


 清輝は箸で白飯をつつきながら、ぽつりと呟いた。


 「……笠鉾って、市立病院の前通らねぇの?」


 「通らないよ」


 奈緒は即答した。


 「笠鉾は基本的に神社の周辺だけだし、ルートを変えるなんて簡単にできることじゃない」


 「……そっかぁ」


 思った通りの答えだった。


 「今年からミューズパークに花火打ち上げたりしねぇ?」


 「それも無理。打ち上げる場所も決まってるし、変更には許可がいるし、何よりそんな話聞いたことない」


 「……やっぱそうだよな」


 清輝はため息混じりに米を口に運んだ。


 「でもさ、お父さんならどう?」


 奈緒が箸を置きながら、ふと提案するように言った。


 「実行委員会の人と仲良いんじゃない?」


 清輝はピクリと反応した。


 確かに、父親は市議会議員として地域のイベントにはよく関わっている。

 祭りの関係者とも顔見知りのはずだ。


 「聞いてみよっか?」


 奈緒がスマホを手に取る素振りを見せる。


 「……いや、別にいい」


 清輝は慌てて首を振った。


 奈緒は少し驚いたように目を瞬かせる。


 「なんで? せっかくの機会なのに」


 「……親父には、これ以上迷惑かけらんねぇよ」


 ポツリと漏らした言葉に、奈緒はじっと清輝を見つめる。


 それ以上は何も言わなかった。


 清輝は食事を終えると、「ごちそうさん」とだけ言って、自室へと引き上げた。


 部屋に入ると、冷たい空気が体を包む。


 スマホを取り出し、ぼんやりと画面を眺めた。


 柚子の言葉が、まだ頭の中に残っている。


 ――「もう最後なのに」


 もう最後。

 本当に、そうなのか?


 夜祭をやることが、真希にとって何の意味を持つのか。

 それ以前に、俺は――


 「真希ってさ、多分アンタのこと好きだよ」


 その言葉を、頭の片隅に押し込もうとしても、どうしてもできなかった。


 部屋の静けさが、逆に頭の中の雑音を大きくする。


 スマホを握りしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。


 考えたくもないのに、柚子の言葉が何度も頭をよぎる。


「もう最後なのに」


 そんなわけないだろ。真希が、ずっとこのままなわけがない。


 そう言い聞かせようとするのに、あの病室での光景が脳裏に張り付いて離れない。


 真希の顔は、今まで見たどんな姿よりも、儚くて、苦しそうだった。


 あんなの、見たくなかったのに。


「……クソッ」


 思わず、拳をベッドに叩きつけた。


 その時、不意にスマホが震えた。


 ピロン――


 通知音が部屋に響く。


 画面を見ると、バイト先の店長からのメッセージだった。


「今日夕方のシフト、まだ来れない?」


「……は?」


 何言ってんだ、今日シフトなんて――


 そう思いながらカレンダーを確認して、息が止まった。


 完全に忘れていた。


「やっべ!!」


 跳ね起きると同時に、全身の血の気が引いていく。


 もう約束の時間が過ぎてる。


 慌ててスマホを握り直し、「すぐ行きます!」とメッセージを打ち込む。


 着替えもろくに考えず、クローゼットの奥から適当なシャツを引っ張り出し、ジーンズを履く。


 財布とスマホをポケットに突っ込み、ドアを開ける。


 リビングへ飛び出すと、食器を片付けていた奈緒が驚いたようにこちらを見た。


「ちょっと、どうしたの?」


「バイト! 完全に忘れてた!」


 玄関へ駆け込みながら叫ぶと、奈緒は「あちゃー……」と苦笑いする。


「もう遅刻じゃん、大丈夫なの?」


「わかんねぇ! とりあえず行ってくる!」


「気をつけてね!」


 奈緒の声を背中に受けながら、玄関のドアを開ける。


 夜の空気が肌に冷たく触れた。


 急いでバイクカバーを外し、原付のキーを差し込む。


 エンジンをかけると、低い振動が足元に伝わってくる。


「くそっ……やっちまったな……」


 ヘルメットを乱暴に被りながら、唇を噛んだ。


 こんな日に限って、よりによって遅刻かよ。


 ハンドルを握り、スロットルをひねる。


 原付は小気味よい音を響かせながら夜の道へと滑り出した。


 街灯がぽつぽつと並ぶ静かな住宅街を抜け、幹線道路へと出る。


 車の流れを見ながら、アクセルを少し強めに回した。


 冷えた風が頬を切り、額の汗を乾かしていく。


 バイト先の「ういろう」の明かりが見えた頃には、心臓の鼓動が耳に響いていた。


 暖簾をくぐると、店内にはすでに客がちらほらと座っていた。厨房からは油のはじける音と、焼き物の香ばしい匂いが漂ってくる。活気のある雰囲気の中、清輝は息を整えながら、カウンターの奥に目を向けた。


「おい、信濃。」


 どこか嫌味の混じった低い声が聞こえた。カウンターの向こうに立つ店長が、腕を組みながらじっとこちらを見ている。鋭い目つきと、抑えた口調。それが逆に怒りの強さを感じさせた。


「時計、見えるか?」


 清輝は無言のまま、視線をレジ横の時計に向けた。すでにシフト開始時刻を大幅に過ぎている。


「……すみません。」


「すみません、じゃないんだよ。」


 店長は溜め息をつきながら、カウンターの上に置かれた伝票を指で弾いた。


「お前、社会に出たらこんなの話にならねぇからな? 何? まさかバイトだからって気楽にやってんじゃねぇだろうな。」


「……いえ。」


「お客様が入ってる時間帯に、ホールの人間が一人来ねぇってどういうことかわかるか?」


 言葉を選びながらも、その声には明らかに苛立ちが滲んでいた。清輝は無言で店長の視線を受け止める。


「お前がいない間、誰がオーダー取って、誰が料理運んでると思う? ああ?」


「……すみません。」


「謝れば済むってもんじゃねぇんだよ。」


 店長はそう言って、もう一度大きく息を吐く。そして、レジ横に置かれた注文伝票を指で軽く叩いた。


「まぁいい。言いたいことは山ほどあるが、とりあえず仕事に戻れ。皿洗い溜まってるぞ。」


「……はい。」


 それ以上、何かを言われることもなく、清輝は厨房へと足を向けた。


 皿洗い場には、使い終わった食器が山積みになっていた。水を勢いよく出し、手早く洗いながら、清輝はさっきの店長の言葉を頭の中で繰り返していた。


 ――「バイトだからって気楽にやってんじゃねぇだろうな。」


 そんなつもりはなかった。けれど、完全にシフトを忘れていたのは事実で、何も言い返せなかった。


「そっち、洗い終わったら拭いて並べといて。」


 奥からベテランのバイト仲間が声をかけてくる。清輝は「はい」とだけ返し、無心で手を動かした。


 お湯に浸けた皿を手早く洗い、シンクに並べる。泡を流しながら、皿の裏側までしっかりチェックする。拭き上げた皿を棚に戻すと、すぐに新しい皿が運ばれてくる。


 こんな単純な作業でも、遅れを取り戻そうとすると、自然と集中してしまう。余計なことを考えず、手を動かしているほうが気が楽だった。


「ホール、戻れるか?」


 厨房から声がかかる。清輝は手を止め、シンクの水を切ると「行きます」と短く答えた。


 ホールに出ると、ちょうど団体客の注文がまとまったところだった。紙エプロンを配り、ドリンクの追加を聞きながら、次々とテーブルを回る。


「すみません、生二つ追加で。」


「かしこまりました。」


 オーダーを通し、空いたグラスを下げる。客の言葉を聞き取りながら、なるべくテキパキと動くように心がける。


 働き始めると、不思議と店長の言葉も頭から消えていた。ただ、手を動かし、客の対応をこなすことで、気持ちの整理がついていくような気がした。


 気づけば、店内の混雑も少しずつ落ち着き始めていた。


 清輝は一息つく間もなく、次の注文を取りに向かう。


 ――バイトが終わったら、また現実に戻る。


 考えたくなくても、頭の片隅には、あの病室の光景が残っていた。




 バイトの時間が終わりに近づく頃、清輝は21時から予約が入っている団体客の席を整えていた。箸とグラスを並べ、おしぼりをセットし、椅子の角度を微調整する。こういう細かい作業も、働き始めた頃に比べると、ずいぶんと手早くなった。


 カウンターでは店長が伝票を確認しながら鼻歌を歌っている。先ほどまでの遅刻の件については、もうすっかり忘れたような様子だった。機嫌のいいときの店長は驚くほどあっさりしている。ついさっきまで散々嫌味を言われていたのに、この切り替えの早さには少し拍子抜けした。


「おつかれさん。明日もよろしくな」


 清輝が更衣室に向かおうとすると、店長が軽く手を挙げて声をかけた。怒りはもう完全に消えている。社会に出るって、こういうものなんだろうか。


「はい、お疲れ様でした」


 軽く会釈をして、更衣室でバイトの制服を脱ぎ、ロッカーに荷物を入れる。シャツの袖を整え、店を出ようとしたその瞬間――。


「いらっしゃいませ!」


 条件反射で声を出した清輝は、そのまま硬直した。


 店に入ってきたのは、夜祭実行委員会の関係者と、当日交通整理を担当する警察の面々だった。数人が談笑しながら店内に入ってくる中、その中に見覚えのある顔があった。


 ――親父。


 スーツを着こなし、背筋を伸ばし、隙のない表情をしている。その姿を見た瞬間、清輝は一瞬、目を疑った。


 家では新聞をめくりながら黙々と飯を食うか、ぼんやりテレビを見ていることが多い。疲れた顔しか見たことがなかった。それなのに、今目の前にいる父親は、まるで別人のようにシャキッとしていた。


「おや、信濃議員の息子さんですか?」


 実行委員会の一人が、父親に話を振る。


「あぁ、そうです」


 父親は、特に驚くこともなく淡々と答えた。


「へぇ、よく働いてますねぇ」


「いやぁ、バイトとはいえ立派なもんですよ」


 周囲の声に、清輝は「はは……」と苦笑いしながら適当に相槌を打つ。


 父親が俺をどう思っているのかなんて、考えたこともなかった。ただの家族として、同じ家に住んでるだけ。それだけだったのに――。


「自慢の息子ですから」


 不意に、父親が言った。


 その言葉が、喉の奥で引っかかる。


 ――自慢の、息子?


 今まで、そんなふうに言われたことなんて一度もなかった。なのに、何の迷いもなく、あまりにも自然に、父親はそう言った。何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。ただ、胸の奥がふっと軽くなったような気がしたのだ。そのまま父親たちは奥の座敷へ向かっていく。清輝も帰ろうと店を出ようとしたその時、父親がふと振り返った。


「清輝」


「ん?」


「お母さんに、今日は帰りが遅くなるって伝えてくれ」


「あぁ、わかった」


 それだけの会話で終わるはずだった。


 だが、父親の表情を見た瞬間、何かが引っかかった。


 いつも家で見る父親と違うのは、ただスーツを着ているからじゃない。どこか妙に静かで、まるで何かを考え込んでいるような――そんな顔をしていた。


「……何かあるのか?」


 父親がぽつりと呟いた。


「は?」


「お前、いつもと違うな」


 息が止まる。


 見抜かれた。


 いや、そんなはずはない。


「別に……なんでもねぇよ」


 そう答えたはずなのに、父親は黙ってこちらを見ている。


 その目が、まるで「それで終わりか?」と問いかけてくるようで――。


「……いや、あるわ」


 自分でも驚くほど素直に、言葉が口をついた。


 父親は何も言わず、ただ待っていた。


 清輝は一度息を吐き、ゆっくりと口を開く。


「親友が、病院にいる」


「……そうか」


「そいつのために、何かしたい。でも、俺一人じゃどうにもならねぇことがあってさ」


 言葉を選びながら、慎重に続ける。


「夜祭の話なんだけど……花火の打ち上げ場所は無理かもしれねぇけど、笠鉾のルートくらいなら、ちょっと変えられねぇかな」


 父親は顎に手を添え、しばらく考え込んだ。


「花火の場所は……難しいな」


 静かにそう呟いた後、少し間を置いて続ける。


「笠鉾のルートなら、可能性はあるかもしれない」


 その言葉に、清輝の心臓が跳ねた。


「マジで?」


「保証はできんが、ちょっと話を通してみる」


 父親の顔は真剣だった。議員としての冷静な表情。でも――どこか、家では見たことのない雰囲気があった。


 それなのに、次に口にした言葉は、まるで違うものだった。


「お前も、少し大人になったな」


「……そうか?」


「そうさ」


 短くそう言うと、父親はスーツの袖を整え、くるりと背を向けた。


 清輝は、その背中をじっと見送った。


 そして、ふっと息を吐く。


 ――なんでも相談していいんだな。


 そう思えたのは、生まれて初めてだった。



 夜風が頬を撫でる。冷えた指先に、熱い缶コーヒーの温もりがじんわりと染み込む。


 清輝はミューズパークの高台に腰を下ろし、街の灯りを見下ろしていた。


 ここへ来るのは、もう何度目になるのか。


 以前は苛立ちを吐き出すためにここへ来た。誰もいないことを確かめ、夜の空へ叫んだ。


 でも今日は、何も言葉を発しなかった。


 静寂が心地よかった。


 あたりをゆっくりと見回す。


 誰もいない。


 不良に絡まれたあの夜のことが頭をよぎるが、もうそんな心配はない。


 少しずつ、何かが変わってきているのかもしれない。


 熱い缶を両手で包み込むように持ち、ゆっくりと口をつける。


 苦い。


 けれど、悪くない。


 小さく息を吐き、夜の街を見つめる。


 秩父の夜景は、派手ではない。


 遠くに点々と灯る家々の光が、まるで生きているように瞬いていた。


 それが、今は妙に暖かく見えた。


 そう思えた自分に、驚く。


 これまで、秩父の街が嫌いだったわけじゃない。


 ただ、ここにいることに意味を感じられなかっただけだ。


 ――行きの道中、秩父大橋を渡るときも、少しだけ感じていた。


 いつもなら、観光客の車が邪魔だと舌打ちし、荒川を見下ろすこともなかった。


 けれど、今日は違った。


 橋の上から見えた夜の荒川は、穏やかに流れていた。


 川面に映る街の灯りが、波に揺られて優しくきらめく。


 いつもと変わらない風景。


 けれど、自分の目に映る景色は、どこか透き通っていた。


「……綺麗だな」


 思わず口をついた言葉に、自分で驚いた。


 帰るのは、もう少し先にしよう。


 夜景を見つめながら、最後の一口をゆっくりと飲み干す。


 熱の抜けた缶コーヒーの苦味が、どこか優しく感じられた。


 冷えた風が吹き抜ける。


 けれど、心は不思議と落ち着いていて。


 いつまでも変わらない夜景を、清輝は静かに見つめ続けていた。


 そんな時、不意にスマホが震えた。


 スマホの画面を見つめながら、清輝は無意識に息を止めた。


「夜祭実行委員会」


 その名前に一瞬ドキッとしたが、送り主を見て少し肩の力が抜ける。


 烈志だった。


 烈志:「夜祭計画、ここで進めるぞ」


 招待を受けると、すぐに佳苗と柚子も参加してきた。

 次々とメッセージが飛び交い、グループはあっという間に賑やかになった。


 柚子:「え、なんかそれっぽい!」

 佳苗:「夜中の秘密会議って感じ?」

 烈志:「いや、普通に祭りの準備するだけだから」

 柚子:「じゃあ、あたし会計担当ね」

 佳苗:「どこに会計が発生するの」

 柚子:「えー、だって実行委員っぽいじゃん?」

 烈志:「意味不明」

 清輝:「お前ら、会話の方向ブレすぎだろ」


 どうでもいい会話が続くが、こういうやり取りは嫌いじゃない。

 むしろ、こうやって何かを計画している時間が楽しく思えた。


 でも、その空気を一瞬で変えるメッセージが届く。


 佳苗:「……ねえ、真希も誘わない?」


 画面を見つめたまま、指が止まる。


 ……そうだ。


 この夜祭は、真希のためにやるんじゃないのか。


 だからこそ、当然の流れだ。

 けれど、今の真希がLINEを開くことができるのか――


 そんな不安がよぎる。


 数秒後、


 佳苗が真希を招待しました


 ポップアップが表示される。


 全員がスマホの画面を見つめたまま、動かない。


 期待と不安が入り混じった静寂が、グループの中に流れる。


 でも、


 ――真希は入ってこなかった。


 柚子:「……既読つかないね」


 佳苗も、清輝も、烈志も。

 それぞれが何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。


 佳苗:「やっぱ、スマホいじれないか……」


 誰もが予想していたこと。


 けれど、それでも少しだけ期待してしまった。


 スマホをそっと伏せると、清輝は夜景をもう一度見下ろした。


 祭りの灯りは、病室まで届くだろうか。


 そんなことを考えながら、冷えた空気を深く吸い込んだ。



 病室に響くLINEの通知音。


 一定の間隔で鳴り続けるそれは、まるで遠くの世界から響いているようだった。規則的で、機械的で、何の感情もない音。病院の白い天井に染み込んでは消え、染み込んでは消え、その度に真希の意識を現実へと引き戻した。


「真希、LINE来てるよ。」


 父の声がする。


 枕元に座る父は、スマートフォンの画面を覗きながら、優しく声をかける。その声はどこまでも穏やかで、いつものように娘を気遣う父親のものだった。


 それでも、真希は反対側を向いたまま、布団を握りしめた。


「……」


 何も見たくなかった。

 何も聞きたくなかった。


 この通知音が誰からのものかなんて、分かっていた。


 清輝。

 佳苗。

 柚子。

 烈志。


 みんなが私を気にかけている。


 そんなこと、分かっている。

 分かっているからこそ、痛い。


「きっと、良くなるよ。」


 父の声が落ちる。

 まるで、自分に言い聞かせるような かすれた声音だった。


 ――確証なんて、どこにもないのに。


 真希は、ぎゅっと目を閉じた。


「……もう、治らないよ。」


 喉の奥から絞り出すように言葉が漏れる。


 もう、終わりなんだ。

 どんなに願っても、どんなに抗っても、きっともう――。


 何かを失うくらいなら、最初から何も手に入れなければよかった。


 清輝と出会わなければよかった。

 佳苗と友達にならなければよかった。

 柚子と映画を見たり、烈志の練習を応援したり――そんなこと、全部。


 初めから、こんな日常なんてなければよかった。


 今までずっと一人でいることが当たり前だった。

 孤独は、私にとって慣れ親しんだものだったはずなのに。


 なのに、私は。


 暖かいものを知ってしまった。

 みんなと笑うことが、こんなにも心地よいものだと知ってしまった。


「……もう、全部なくなってしまうのに……。」


 かすれた声が、布団に沈む。


 私は、何のために生きてきたんだろう。


 この温もりが消えるくらいなら、最初から何もいらなかったのに――。


「……真希。」


 父の声が、また落ちる。

 今度は、どこか懐かしむような響きを帯びていた。


「昔な、お前がまだ小さかった頃――お母さんと、花火を見たことがあったよな。」


 ――花火。


 その言葉に、脳裏がふっと揺れる。


 病室の薄暗い天井を見つめたまま、真希はそっと目を閉じた。


 そう。

 確かに――あの夏の夜。


 私と、お母さんと、お父さん。


 三人で。


 あの頃、母はまだ元気だった。

 けれど、時折 ふと疲れたような顔をすることがあった。


 夏の夜、家のベランダにござを敷いて、

 夜空を見上げたのを、覚えている。


「真希、こっちにおいで。」


 母が手を広げる。


 私は、その膝の上に座り、

 母の指が私の髪をゆっくりと梳くのを感じながら、夜の空を見上げた。


「ねえ、お母さん。」


「ん?」


「花火って、どうしてすぐ消えちゃうの?」


 母は 少しだけ微笑んだ。


「綺麗なものは、長くは続かないのよ。」


「……やだ。」


 私は、母の膝の上で 小さく拗ねた。


「消えちゃうの、やだ。」


 母は、ゆっくりと私の髪を撫でながら、静かに言った。


「でもね、真希。」


「綺麗なものは、ちゃんと心に残るのよ。」


「……?」


「ほら、今も覚えてるでしょ?」


 母は、夜空を指差した。


 遠くでまた、花火が咲く。


「こうやって、思い出すたびに、花火はまた咲くのよ。」


「……ほんと?」


「うん。」


 母の指が、私の頬をそっと撫でる。


「だから、大丈夫。綺麗なものは、消えないのよ。」


 母は、消えた。

 二度と戻らなかった。


「……お母さんは、私を置いていったんだよ。」


 真希は ぽつりと呟いた。


「私を……一人にしたんだ。」


 父親は、静かにその言葉を受け止める。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「違うよ、真希。」


「母さんは、お前を置いていったんじゃない。」


「お前に、託したんだよ。」


 その言葉が、喉の奥でひっかかる。


「……託した?」


 父は 遠くの空を見るように、言葉を紡ぐ。


「お前は、お母さんと一緒に花火を見たよな。」


「うん……。」


「それを、今もこうやって思い出してる。」


 父は優しく微笑む。


「それが、母さんが託したものなんだよ。」


「お前の中に、ちゃんと残ってる。」


「……」


「だからな、真希。」


「お前も、誰かと一緒に、もう一度花火を見てほしい。」


「そうすれば、お前の中にある思い出は、もっと強くなる。」


「母さんは、それを願ってたんじゃないか?」


 涙が、頬を伝う。


 喉の奥がひりつく。


「……そんなの……」


 そんなの、ずるいよ。


 そんなの、信じたくないよ。


 でも――。


「私は……」


 涙をこぼしながら、真希は 絞り出すように呟いた。


「花火が……見たい……。」


 病室に、再び通知音が響いた。


 小さな振動と共に、ベッドサイドのスマホが光る。

 先ほどと同じ、どこか遠くの世界から聞こえてくるような音。


 父親は、それをちらりと見た。

 けれど、画面には目を落とさなかった。


 内容は分からない。

 けれど、それが誰からのものか、何のためのものか――彼には、おおよそ察しがついていた。


 「……真希。」


 父親は静かに声をかける。


 「LINE、出てあげなさい。」


 真希は、枕に顔をうずめたまま、動かなかった。

 けれど、父親はそれ以上何も言わず、ただそっとベッドの毛布を整え、扉へと向かう。


 ドアノブに手をかけると、一度だけ振り返った。


 「……おやすみ。」


 それだけを残し、病室をあとにする。


 

 扉が閉じた。

 静寂が戻る。


 冷たい空気の中、真希はしばらく動けなかった。

 けれど――


 そっと、伸ばした指先がスマホを拾う。


 電源ボタンを押すと、画面が光る。


 新しい通知。


 ――そこには、見覚えのない名前のグループが表示されていた。


 「夜祭実行委員会」


 ――え?


 思わず、画面を見つめる。


 恐る恐るタップすると、チャットログが流れ込んできた。

 スクロールしてもしても、途切れない言葉たち。


 「真希を絶対、花火に連れて行くぞ」


 「この計画、絶対成功させるからな」


 「夜祭の雰囲気、病室に届けよう。花火も、笠鉾も」


 「絶対、見せてやるからな」


 みんなの名前が、そこにあった。


 ――こんな、こんなことを考えてくれていたの?


 胸の奥が、ぐっと締めつけられる。


 指先が震え、画面がぼやける。


 「真希、LINE見てる?」

 「無理に返さなくていいから、でも伝えたくてさ」

 「秩父の夜祭、みんなで見ようよ」


 “みんなで”

 その言葉が、真希の中に降り積もる。


 私のために?

 本当に?


 今までの自分なら、疑ったかもしれない。

 でも――


 「……っ」


 声にならない息が漏れる。

 喉が詰まる。


 涙が、一粒、スマホの画面に落ちた。


 何をしたわけでもない。

 ただ、この町に来て、みんなと出会っただけなのに。


 それなのに、こんなにも――。


 スマホをぎゅっと握りしめる。

 そして、迷うように、ゆっくりと。


 参加ボタンに指を置く。


 ――ぽん。


 「真希がグループに参加しました。」


 たった一行の通知。

 それだけで、チャットが一斉に動き出す。


 「おおお!!!」

 「来た!!」

 「やったーーー!!!」


 通知が、何度も何度も鳴る。

 ぽん、ぽん、と弾ける音が、静かな病室に響く。


 それはまるで、夜空に咲く花火のようだった。

 一つ、また一つと光が広がり、

 暗闇の中で、色とりどりの輝きを散らしていく。


 画面に次々と流れていく文字。

 喜びに満ちた言葉たちが、温かく、優しく心を包む。


 ――こんなにも、私を待っていてくれた。


 その事実が、胸の奥をじんわりと満たしていく。

 気づけば、こぼれた涙が指先を濡らしていた。


 真希はそっとそれを拭い、

 画面の光を見つめながら、小さく笑った。

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