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2話.親友の烈志

 朝、奈緒の運転する車は学校の駐車場に到着した。清輝は無言で車から降り、ドアを閉めるとそのまま校舎に向かって歩き始める。奈緒も小さくため息をつきながら後を追った。


(……喋る気なんてない。向こうだってそうだろう。)


 清輝は表情を変えず、視線を正面に固定したまま歩き続ける。奈緒もまた、弟の横顔を一瞥するだけで何も言わなかった。


 校舎内の廊下を二人が歩く中、部活動中の生徒たちがちらほらと姿を見せる。その中の数人が清輝の姿に気づき、小声で噂話を始めた。


「……あれ、信濃じゃねぇか?」

「あいつ、まだ謹慎とかになってないんじゃないの?」

「いや、警察沙汰だろ?普通に退学もあり得るっしょ。」


 その声が耳に届いても、清輝は表情ひとつ変えなかった。横目で生徒たちを一瞥し、奈緒とともに廊下を進む。奈緒はその噂話を聞きながら、眉をひそめた。


 奈緒が何か言おうと口を開きかけたが、清輝は何も気にしないような素振りで歩き続ける。そんな沈黙を破るように、奈緒は窓の外を指差した。


「清輝、あの銀杏の木、見える?」


 唐突な問いかけに清輝は無視を決め込んだが、奈緒は構わず話を続けた。


「あの銀杏の木ね、私がここに通ってた頃からずっとあるんだよ。懐かしいなぁ……清輝みたいな悪い奴はいなかったけどさ。」


 冗談混じりの言葉だったが、清輝は何も反応しなかった。そのまま黙って足を進め、校長室の前で立ち止まった。


 説明会が始まり、校長と担任の錦堀先生が新学期からの処遇を伝えた。


「信濃君には、当面の間、個別で授業を受けてもらいます。そして、休み時間や放課後には、読書感想文の作成と校内の掃除をしてもらいます。」


 校長が淡々と説明を終えると、錦堀先生がため息をつきながら口を開いた。


「清輝……少しでも挽回するつもりで頑張ってほしいな。お父さんの名前を汚さないようにしたほうがいいよ。」


 その一言が清輝の心に火をつけた。


(……お父さんの名前?またそれかよ。)


 顔には出さないものの、清輝の中では怒りが渦巻いていた。


(アイツなんて俺に興味すらないくせに。俺が何をしたって、何もしなくたって、あいつにとっちゃどうでもいいんだよ。)


 奈緒が深々と頭を下げながら謝罪の言葉を述べる。その姿を横目で見た清輝は、内心でさらに苛立ちを募らせていた。


(……親でもねぇくせに、親みたいにぺこぺこ頭下げやがって。)


 説明会が終わり、校舎を出るまでの間、清輝と奈緒は再び一言も交わさなかった。駐車場に向かう途中、清輝が足を止めた。


「俺、友達に会ってから歩いて帰るから。」


 奈緒は驚いたように振り返り、何か言おうとしたが、清輝はすでに踵を返して歩き出していた。


「清輝!」


 呼び止める声も届かない。清輝は一度も振り返らず、校門を出ていった。奈緒はその背中をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐いて車へと戻った。


 清輝は無言で武道館へ向かった。聞こえてきたのは畳の上を踏む足音、威勢のいい掛け声、そして体がぶつかり合う鈍い衝突音。


「次!」「次!」


 扉を開けると、畳の上で大柄な男が相手を投げ飛ばしていた。迫力のあるその動きに、清輝は思わず目を引きつけられる。烈志の投げ技は容赦がなく、それでいてどこか美しさすら感じさせるほどだった。


 清輝の親友、松本烈志。


 烈志はその体格と威圧感で、相手を完全に支配していた。相手が立ち上がる暇も与えず、投げ、抑え込み、次の一手を準備する。その一挙手一投足が鮮やかで、周囲の空気を圧倒していた。


「次!」


 声を飛ばす烈志の背中に清輝は軽く鼻を鳴らす。


(相変わらずバケモンじみた奴だな。)


 烈志は倒れた相手を軽く起こしながら、優しげに肩を叩く。


「大丈夫か?もう一回いくぞ。」


 投げ飛ばされた相手は苦笑しながら頷き、次の構えに入る。それを見届けた烈志は、ふとこちらに目を向けた。


「……おい、清輝。何してんだよ。」


 烈志の視線を受けながら、清輝は片手を挙げて応じる。


「いや、ちょっと暇だったからよ。バケモンが暴れてる様子でも見に来ようと思ってな。」


 烈志は苦笑しながら清輝に歩み寄る。


「バケモンは言い過ぎだろ。……で、柏木に捕まったって話、もう知ってるぞ。」


 清輝は軽くため息をつき、肩をすくめる。


「どこからその話が漏れてんだよ。」


 烈志は肩を揺らして笑った。


「漏れてるっていうか、学校だぞ。お前みたいな奴がドジ踏めば、一瞬で広まるに決まってんだろ。」


「ドジ踏んだとか言うな。たまたまだろ。」


 烈志はニヤリと笑い、少し声を低くして続ける。


「いや、あれはお前が捕まったのが面白かっただけだ。柏木、どんな顔してた?」


 清輝は呆れたように頭を振る。


「あいつ、真面目ぶって説教してきたよ。『自由を手に入れるにはルールを守れ』だとさ。」


「自由ねぇ。」


 烈志が少しだけ考え込むふりをしてから、口を開く。


「まぁ、柏木が言う自由ってのは『未来の部下に尻拭いされない自由』だろうな。」


「お前、それ直接言ったら確実に嫌われるぞ。」


 清輝が呆れるように言うと、烈志は笑いをこらえるように肩を揺らした。


「嫌われても部下にはなるだろ。俺、警察行ったら柏木に雑用全部押し付けるから。」


「お前みたいな奴に命令されたら柏木も泣くぞ。」


 そんな軽口を叩き合いながら、二人は武道館の隅に腰を下ろした。


 畳に沈み込む熱気の中、清輝はふと肩の力が抜けるのを感じた。喋りながらも、目の前の烈志の堂々とした姿がどこか心地よかった。


 清輝は畳の隅に腰を下ろし、武道に打ち込む烈志の姿を黙って見つめていた。掛け声と共に相手を投げ飛ばし、次々と技を繰り出す烈志。その動きには迷いがなく、一つひとつの技が鮮やかで力強い。


(ほんと、いつ見てもすげぇよな。)


 清輝はふと目を細めた。烈志との付き合いは、もうだいぶ長い。


 幼稚園の頃に出会い、小学校では一緒に遊びまわった。いつも泣き虫で、少し大きな子たちにからかわれると涙を浮かべて清輝の後ろに隠れていた烈志。それが、今では全国大会でも首位を狙えるような選手になっている。


(……あんな泣き虫がな。)


 畳の上で堂々と構え、対戦相手と向き合う烈志の姿を見ていると、その成長ぶりが何とも不思議だった。


 烈志の耳は柔道特有の「餃子耳」になっている。柔道で何度も耳を潰した跡がその形に残っているのだ。小学生の頃は普通の耳だったのに、気づけばこんな風になっていて、初めてそれを見たときは清輝も驚いた。


「柔道やってると、こうなるんだよなー」


 烈志がそう笑いながら言ったのを覚えている。清輝はその時、何も言わなかった。ただ、その耳が彼の努力と歩んできた道を物語っているのは、よく分かっていた。


(いつの間にか、あいつの背中が俺よりも大きくなったな。)


 かつては泣き虫で清輝の後ろに隠れていたはずの烈志。だが、今では彼の背中は清輝よりも広く、頼もしい。


(でも……なんか変わらねぇんだよな、こいつは。)


 柔道で鍛え上げられた体格や、その実力には圧倒されるけれど、根っこの部分は昔と変わらない気がする。相手を投げた後に軽く肩を叩いて起こす仕草、試合の後に笑いながら声をかける様子。それらが、烈志の優しさや面倒見の良さを物語っていた。


 清輝は肩を壁にもたせかけ、少しだけ口元を緩めた。


(まぁ、背中がでかくなろうが、強くなろうが、俺たちの関係は変わらねぇよ。)


 烈志が相手を投げ飛ばし、畳に響く衝突音が武道館にこだまする。清輝はそれを聞きながら、どこか安心するような気持ちで、その光景をじっと見つめ続けていた。


 畳の隅に寝そべり、清輝は天井をぼんやりと見上げていた。烈志が相手を投げ飛ばす鈍い音が心地よく耳に響き、そのたびに畳全体が軽く震えるのが分かった。


(本当、すげぇな。)


 そんな感慨を抱きながら、清輝は目を閉じかけた。その瞬間、不意に額に冷たい感触が押し付けられた。


「……冷てぇ!」


 驚いて起き上がると、目の前にはポカリスエットのペットボトル。それを押し付けた人物に目を向けると、そこには薙刀部の部長・飯田佳苗が腕を組んで立っていた。


「……何してんの、あんた。」


 その声はどこか投げやりで、佳苗の視線は清輝を見下ろしている。隣には、副部長の荻柚子が控えめに立っていた。


「邪魔。畳って寝る場所じゃないんだけど。」


 佳苗の冷めた口調に、清輝はムッとした表情を浮かべたが、すぐに肩をすくめた。


「……隅っこで寝てただけだろ。」


「隅っこでも邪魔なんだって。これから練習なんだから。」


 佳苗のぶっきらぼうな言い方に、清輝はため息をつき、片手を挙げた。


「はいはい、悪かったよ。」


 その軽い態度に、佳苗は少しだけ眉をひそめた。


「あんた、ほんと適当だよね。」


 その一言には、明らかな見下しが込められていて、清輝は何か言い返そうとしたが、佳苗の冷たい目を見てやめた。


 その時、隣に立っていた柚子が遠慮がちに口を開いた。


「信濃さんって、謹慎処分になったんですよね?」


 不意の言葉に、清輝は少し顔をしかめた。


「……おい、それどこで聞いたんだよ。」


「噂です。学校中で話題になってますから。」


 真面目な顔でそう言う柚子に、清輝は軽く舌打ちをした。それを聞いた佳苗が短く鼻で笑い、さらに冷たい視線を清輝に向けた。


「何それ、またなんかやったわけ?」


 その言葉に、清輝は少しイラっとした表情を見せた。


「別に大したことじゃねぇよ。ただ、ちょっと捕まっただけだ。」


「捕まったって……マジ呆れるんだけど。」


 佳苗は軽く首を振り、視線を逸らした。その一連の動作は、清輝を完全に見下しているように見えた。


「ホント、周りに迷惑かけるの平気なんだね。」


 その一言に、清輝は軽く息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。


 柚子が困ったように佳苗を見て、小さな声で言った。


「佳苗さん、さすがに言いすぎじゃ……。」


「別にいいでしょ。あんたもこんなとこで寝てなけりゃ言われなくて済んだのに。」


 佳苗は淡々と答えながら練習用の薙刀を手に取った。その仕草には清輝への興味のなさがはっきりと表れていた。


 清輝は短く息を吐き、軽く肩をすくめた。


(なんだよ、こいつ。)


 烈志がちらりとこちらを見て苦笑いするのが視界に入ったが、清輝はそれにも何も反応せず、ただその場に静かに立ち尽くしていた。


 武道館から追い出されるようにして外へ出た清輝は、しばらく歩き回った末に、武道館の裏手にある階段に腰を下ろした。ここは木々に囲まれた場所で、人目を避けるにはちょうどいい場所だ。


 スマホを取り出し、画面を指で滑らせながら適当にニュースアプリやSNSを眺める。だが、どの情報も心に引っかかるものはなく、つい画面を閉じる。


「……暇だな。」


 ぽつりと呟きながら、清輝は階段の手すりに肘をついて遠くを見つめた。風が微かに吹き、木々の間を揺らす音だけが響く。


 ふと、スマホの時計を見ると11時50分。あと10分で正午だ。時報の音が聞こえるだろうと思うと、なぜか時計ばかりが気になり、落ち着かない。


(さっきの佳苗たち、もう練習してんのかな。)


 そう思って耳を澄ませるが、遠くから聞こえるのは時折の掛け声だけ。苛立ちを覚えた清輝は、またスマホをいじり始める。


 やがて、正午を告げる「グリーンスリーブス」が、ゆったりとした旋律で流れ始めた。それは校内放送から響いてくるお馴染みのメロディだ。


「……正午か。」


 清輝が呟いたその時、足音が近づいてきた。軽快で力強い足音。そのリズムが次第にはっきりとしてきたかと思うと、階段の上に大柄な影が現れる。


「お前、こんなとこで何してんだ?」


 烈志だった。汗で濡れた額をタオルで拭きながら、軽く息を整えた彼が階段を降りてくる。その背中は太陽の光を浴びて大きく影を落としていた。


「……時間つぶしだよ。」


 清輝はスマホの画面を閉じ、手すりに肘をついたまま烈志を見上げた。烈志は階段の途中で立ち止まり、短く笑った。


「追い出されたか。」


「まあな。佳苗に邪魔って言われてよ。」


 清輝が軽く肩をすくめて答えると、烈志はタオルを肩に掛けながら階段の隅に腰を下ろした。


「いいんじゃねぇの。あいつ、練習となりゃマジだからな。」


「分かってるよ。でも、そんな言い方しなくてもいいだろ。」


 清輝が少し不満げに呟くと、烈志は苦笑いを浮かべながらポカリスエットのボトルを差し出した。


「ほれ、飲めよ。文句ばっか言ってても喉は渇くだろ。」


 清輝はボトルを受け取り、一口飲んだ。冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が心地よかった。


「ありがとよ。つーか、お前、昼飯は?」


「まだ食ってねぇよ。」


 烈志がタオルで首を拭きながら答えると、清輝はスマホを再び手に取り、近くの食堂を検索し始めた。


「どっか行くか?おごりは期待すんなよ。」


「はは、分かってるって。」


 二人のやりとりに、木々の間を吹き抜ける風の音が心地よく重なった。時報の余韻が消え、正午の太陽が頭上で輝いていた。


 武道館の裏手で烈志が引っ張り出してきたのは、見慣れたボロボロの銀チャリだった。清輝はそれを一瞥すると、ため息混じりに呟いた。


「……相変わらずボロいな、お前のチャリ。」

「乗るんだろ?」

 烈志が軽くサドルを叩いて促す。清輝は「分かってるよ」とぼやきながら、荷台に腰を下ろした。


「でもよ、この荷台、ほんとケツ痛くなんだよな。」

「贅沢言うな。乗っけてもらうだけありがたく思え。」

「はいはい、どうもどうも。」


 烈志がペダルを漕ぎ出すと、自転車はキーキーと耳障りな音を立てながら進み始めた。風を切る感覚が、清輝の頬を心地よく撫でる。


 道中、しばらく無言で進んでいたが、清輝がふと思い出したように口を開いた。


「しかし、佳苗の言い方よ。あれ、完全に見下してたよな。」

「そうか?」

「『救いようがない』とか言われて、普通怒るだろ。」

「お前、そんなことで怒るタイプじゃねぇだろ。」

 烈志が淡々と答えると、清輝は鼻で笑った。


「まぁ、怒りはしないけどさ。なんかムカつくじゃん、ああいう言い方。」

「気にするだけ無駄だろ。佳苗はそういう奴だ。」

「お前、あいつの肩持つのかよ。」

「持つっつーか、事実だしな。薙刀じゃ県大会で名前残してんだから。」


 清輝は一瞬驚いたように目を見開き、それから「マジで?」と小声で言った。


「お前、ほんと佳苗のこと何も知らねぇな。」

「知るわけねぇだろ。嫌いなんだから。」

「お前が嫌ってるのは分かるけど、あいつも同じだろうな。」

「知ってるよ。あの冷たい目見れば一発で分かるわ。」


 清輝が肩をすくめると、烈志は軽く笑いながらペダルを踏み続けた。


「でもよ、あいつに嫌われててもお前がいるから問題ないしな。」

「……気持ち悪いこと言うな。」

 烈志が振り返りもせずに言うと、清輝は後ろで笑いながら足をぶらつかせた。


 壊れかけの銀チャリはギシギシと音を立てながら本町へと向かう。やがてジョナサンの看板が視界に入ると、清輝は前方を指差して声を上げた。


「おい、着いたぞ。さっさと降ろせ。」

「命令すんな。このボロいチャリで乗っけてやった恩を忘れんなよ。」

「感謝してるよ。ただ……次はちゃんとしたチャリ買えって。」


 そんな軽口を叩き合いながら、二人はジョナサンの駐輪場に滑り込んだ。烈志が自転車を止めて鍵をかける音が響く中、清輝はボロボロのフレームを見ながら再び呟いた。


「あー腰いてぇ……ほんと、マジで買い換えろよ。」

「その前にお前の態度を直す方が先だな。」


 烈志が笑いながらそう返すと、清輝も苦笑いを浮かべ、二人はジョナサンの入り口へと歩いていった。


 ジョナサンの窓際の席に座った清輝と烈志。店内は昼時の賑やかさに包まれているが、二人の空間はどこか穏やかだった。


「パスタ、一番安いやつにするか。」

 清輝がメニューを眺めながら言うと、烈志は軽く頷いた。


「それでいいけどさ……奢ってよ。」

 烈志がニヤリと笑いながら言う。


「奢らねぇって言ったろ。」

 清輝はメニューを置きながら、呆れたように肩をすくめた。


「いやいや、バイトしてるんだし、原付も買ったんだから余裕あるだろ?」

「原付買ったから金がねぇんだよ。新聞配りで稼いだ金、全部使っちまったっつーの。」


 清輝が軽くため息をつくと、烈志はフォークを持ってテーブルに肘をついた。

「千円くらいは残ってるだろ?」

「その千円で今からパスタ食うんだよ。」

「ケチだなぁ。奢られてもいいくらい俺はいい奴だと思うんだけどな。」

「その自信、どっから来んだよ。」


 そんな軽口を叩き合いながら、清輝が「ミートソースパスタ」を二つ注文する。ドリンクバーはもちろんなしだ。


 運ばれてきたパスタを見て、烈志が早速フォークを伸ばした。ひと口食べると、満足そうに頷く。

「……これ、普通にうまいな。」


「だろ?安いけど結構いけるんだよ。」

 清輝もフォークを手に取り、口に運ぶ。


「でもさ、お前、安いもんでも『うまい』って言えるの、ある意味才能じゃね?」

 烈志が冗談っぽく言うと、清輝は鼻で笑った。


「才能じゃねぇよ。ただ、俺は安いもんでも食えりゃそれでいいだけだ。」

「いやいや、世の中には高いもんじゃないと満足できない奴だっているだろ?」

「そいつらのほうが不幸だな。こんな安いミートソースで『うまい』って思えるほうが絶対得だろ。」


 清輝が肩をすくめながら言うと、烈志は笑いながらフォークを回した。

「まぁ、そういう意味じゃ、お前は得してるな。なんか、人生の効率いいやり方知ってそう。」

「効率よく生きてんじゃなくて、ただ金がねぇだけだ。」


 二人はそんな話をしながら、黙々とパスタを平らげていく。

「次は俺がバイト始めたら奢るわ。」

「やめとけ、無許可でやると謹慎くらうぞ。」


 軽口の応酬が続く中、一番安いパスタは二人の会話を邪魔することなく、空腹を満たしていった。


 清輝と烈志がジョナサンのテーブルに残ったパスタ皿を眺めながら、話題が一段落したところで、烈志がふと思い出したように言い出した。


「なあ、謹慎中って暇か?」

「……何だよ急に。」

 清輝が眉をひそめてフォークを置いた。


「暇ならさ、うちの柔道部のマネージャーやってみないか?」

 烈志は気軽な調子でそう言った。


「は?なんで俺が。」

 清輝が呆れたように聞き返すと、烈志は少し肩をすくめた。


「いやさ、さっき武道館で見ただろ?更衣室とか、あの辺の散らかりっぷり。」

「ああ……確かに汚ねぇな。掃除くらいしろよ。」

「だから、その掃除をやってほしいんだよ。」

 烈志はニヤリと笑って、フォークをくるくると回した。


「おい、結局俺をパシリ扱いするつもりかよ。」

「違う違う!マネージャーってのは立派な役割だって。ほら、部活の手伝いも含めて、助かるだろ?」

「助かるって言うけどな……俺、柔道のことなんて何もわかんねぇぞ。」

「それでいいんだよ。俺らのこと見てくれるだけで、なんとなくやること分かってくるから。」


 清輝はあきれたように額に手を当てた。

「マネージャーっていうより、雑用係じゃねぇか。」

「まぁ、そうとも言うな。」

 烈志が悪びれる様子もなく笑う。


 清輝は少し考え込むようにフォークを置き、視線をテーブルに落とした。


「つーかさ、小中の頃、佳苗がマネージャーやってたじゃん。あいつ呼び戻せよ。」

「あー、それは無理だな。」

 烈志は軽く首を振った。


「なんで?」

「佳苗、高校入ってから薙刀部に入っただろ?それで、こっちのことは完全にサヨナラだよ。」

「あいつがなぁ……でも、高校から薙刀始めて、もう県大会入賞かよ。すげぇじゃん。」

 清輝が感心したように呟くと、烈志も頷いた。


「だろ?あいつ、ああ見えて頑張り屋さんだからな。やると決めたらトコトンやるタイプ。」

「お前ら幼馴染だったよな?」

「そうそう。昔っからうるさい奴だったけど、あの意地っ張りがいい方向に向くと強いんだよな。」


 二人の会話が一瞬途切れた。清輝は何気なく窓の外を見ながら、少し肩をすくめた。


「それで、佳苗の代わりに俺が掃除役かよ。」

「いやいや、そういうんじゃなくてさ。お前が来ると雰囲気変わるし、案外楽しいかもなって思っただけ。」

「なんだそりゃ。」

 清輝は呆れながらも少し笑った。


 烈志が言った言葉の真意はわからないままだったが、どこか悪い気はしなかった。


 ジョナサンを出た清輝と烈志は、駅へ向かいながらぶらぶらと歩いていた。特に目的もなく、本屋やコンビニに立ち寄っては何気ない会話を交わす。


「おい、清輝。」

 本屋で雑誌を手に取っていた烈志が声をかけた。

「そろそろヤバい。門限が近い。」

「お前んち、相変わらず厳しいな。」

 清輝は軽く肩をすくめた。


「当たり前だろ。うち、武道の家系なんだぞ。日常生活のルールとか、マジで細かくて厳しいんだよ。」

 烈志は雑誌を棚に戻しながら、苦笑いを浮かべた。


「そういや、そうだったな。掃除とか、時間厳守とか、お前んちの家訓だっけ?」

 清輝が思い出したように言うと、烈志は少しうんざりした顔をする。


「そういうの、柔道で結果出せば少しは緩くなるかと思ったけど、逆にもっと厳しくなるだけだったわ。」

「真面目な家庭だなぁ……俺の家にその半分でもあれば、もうちょいまともだったかもな。」


 清輝が自嘲気味に笑うと、烈志も少し笑った。


 駅前に着くと、烈志は自転車にまたがりながら手を挙げた。

「じゃあな、清輝。また。」

「おう、遅れるなよ。」


 烈志は軽くペダルを踏み、古びた銀色の自転車がゆっくりと走り出す。その後ろ姿をしばらく見送りながら、清輝はふと深いため息をついた。


 一人になった帰り道、清輝はポケットに手を突っ込みながらゆっくりと歩いていた。街灯がぽつぽつと灯り、住宅街の家々から漏れる明かりが通りを照らしている。


(……烈志は柔道で結果出してる。佳苗だって、薙刀で名前残してるし。)


 さっきまでの会話を思い出しながら、清輝は自嘲するように鼻で笑った。

(みんな、なんか積み重ねてるよな。俺だけ、なんもできてねぇ。)


 ふと足を止め、空を見上げた。見慣れた街並みと、変わらない夜空がそこにあった。


(原付買ったくらいで自由になった気になってたけど……結局、それが何になるんだよ。)


 自分が何をしているのか、これからどうするのか。その答えは一向に見つからない。


(……何かやらなきゃいけないのか?でも、何を?)


 誰に言うでもなく呟いたその一言が、ひんやりとした夜風に消えていく。清輝はまた歩き出した。住宅街の明かりが少しずつ遠ざかり、静かな道を一人進みながら、胸の奥にわだかまる感情を振り払うようにスピードを上げた。


 家のドアを開けると、微かにテレビの音が聞こえてきた。リビングに明かりが灯っているのが見え、清輝は足を止めた。


(……親父?)


 珍しいこともあるもんだ、と思いつつ、靴を脱いでリビングを覗くと、父親がソファに腰を下ろしていた。スーツの上着を脱ぎ捨てたシャツ姿で、背もたれに体を預けている。顔を見たのは久しぶりだった。


 清輝は無意識に息を飲んだが、「ただいま」と声をかけることもなく、リビングの隅を通り過ぎるように冷蔵庫へ向かった。


 父親の視線が一瞬だけ清輝を捉えたが、すぐにテレビへ戻る。会話の気配は一切ない。


 冷蔵庫の扉を開けると、中身はいつも通り貧相だった。缶ビールが整然と並んでいるのが目に留まる。


(……帰ってきて、即ビールかよ。)


 清輝は冷蔵庫の中を漁るふりをしながら、リビングに置かれたテーブルの上を見る。空き缶が三つ、無造作に置かれていた。


(これ、もう飲んだ後?いや、今飲んでるのが四本目か。)


 テレビの明かりに照らされた父親の横顔がやけに老けて見えた。額には深い皺が刻まれ、頬も少し痩せたように見える。


(……なんか、老けたな。)


 そう思った瞬間、自分自身に驚いた。普段、父親のことを気にかけることなんて一度もなかったからだ。


 リビングに漂うビールの匂いと、微かに煙草の残り香が鼻につく。久しぶりに同じ時間に家にいたはずなのに、どうしてこうも遠い存在に感じるのか。


 父親は無言のまま、テーブルに置かれた缶ビールに手を伸ばした。プルタブを開ける音がやけに大きく響き、テレビの中の喧騒がそれをかき消した。


 清輝は冷蔵庫から適当にペットボトルの水を取り出すと、その場を足早に離れた。


(……なんでだろうな。こんなに近くにいるのに、なんか全部どうでもよく見える。)


 リビングのドアを閉め、自室への階段を上る途中、ふと振り返ると、父親が缶ビールを片手にテレビをじっと見つめていた。


(たぶん、俺の謹慎のことなんて知りもしないんだろうな。)


 清輝は肩をすくめ、溜息をつきながら階段を上り切った。部屋に入るとドアを閉め、ベッドに倒れ込む。


(……やっぱ、家って嫌だ。)


 天井を見上げながら、再び父親の老けた横顔が頭をよぎった。普段意識しないものが、ふとした拍子に胸に引っかかる。


(なんであんなに老けた顔してんだよ。)


 自嘲気味に笑いながら、清輝は目を閉じた。

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