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19/22

19話.何気なく日々は過ぎていく

 巡りゆく季節の中で、夏が過ぎ、秋がやってきた。

 気づけば日々の空気は涼しさを増し、朝晩の風が肌をひんやりと撫でる。


 かつては惰性で過ごしていた日常が、少しずつ、けれど確実に変わっていくのを清輝は感じていた。


 結局のところ、アルバイトをしたいと思ったのは、特に深い理由があったわけじゃない。

 ただ、あの夜以来、家族に対しての向き合い方が変わったことは確かだった。

 だから、ちゃんと「許可を取る。」という、当たり前のことをやってみようと思った。


 夕食後、父親が新聞をめくる音だけが響くリビングで、清輝は静かに口を開いた。


「親父……アルバイト、していいか?」


 父親は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。


「……どこで?」


「居酒屋。学校帰りに働けるとこ見つけた。」


 思ったよりもすんなりとした反応だった。

 一瞬拍子抜けしそうになったが、それだけじゃなかった。


「学業に支障はないか?」


「ない。ちゃんと両立する。」


「なら、母さんにも相談して。それで問題なければいい。」


 許可を取る、ただそれだけのことなのに、胸が少し軽くなった気がした。

 そうやって、自分の中のルールを一つずつ作っていくような感覚だった。


 原付の件もそうだ。

 無許可で乗り回していた頃とは違い、今はちゃんと父親を通して話をした。


「分かった。ただし、ヘルメットと保険の更新は自分でやりなさい。」


「……あぁ。」


 それだけのやり取りだった。

 それだけで、今まで感じていた息苦しさが、すっと和らぐような気がした。



 原付のエンジンをかけると、涼しい風が頬をかすめた。

 三峰峠への道は、秋の訪れとともに、色づく木々が景色を変えていた。


 かつては自由を求めるために、苛立ちを振り払うために走っていた道。

 でも今は違う。ただ単に、この季節の変化を肌で感じたかった。


 カーブを抜け、アクセルを少し回すと、視界が開ける。

 山の向こうに沈む夕陽が、橙色の光を落としていた。


 ――ふと、ポケットのスマホが震えた。


 信号の前で停車し、画面を見ると「佳苗」からの着信だった。

 通話ボタンを押すと、相変わらず元気な声が耳に飛び込んできた。


「もしもし? 清輝? 今どこ?」


「三峰峠に向かってる。」


「へぇー、またバイクで? ……あ、そうそう、それよりさ! すごいニュースがあるんだよ!」


「ん?」


「烈志がね、全国大会二連覇したよ!」


 その言葉に、清輝は思わず息を呑んだ。


「あいつ……やりやがったな……。」


 烈志が勝つことは当然のように思っていた。

 けれど、実際にそうやって結果を聞かされると、胸の奥がざわつくのを感じる。


「すごいよねぇ、めちゃくちゃかっこよかったよ! そろそろニュースにも出るかも!」


「……そっか。」


 言葉を絞り出すように返す。


 不思議と、焦りのようなものはなかった。

 でも、胸の奥が妙に熱くなる感覚があった。


 そろそろ、俺も……進路、決めないとな……。


 佳苗がまだ何か言っているのを聞きながら、清輝はふとそう思った。


 三峰峠を登り切った頃、スマホがもう一度震えた。

 今度は、LINEの通知だった。


 画面を開くと、送信者は姉・奈緒。


「テストの成績、かなり良かったね! おめでとう!」


 その後に、クラッカーのスタンプが賑やかに飛び跳ねる。


 清輝は、しばらく画面を見つめた。


 頑張った、という意識は正直なかった。

 ただ、これまでと同じように過ごすのではなく、少しだけ前を向いてみようと思っただけだった。


 でも、そうやって誰かに認められるのは――悪くない。


 峠の頂上から見下ろす街並みは、夕陽に染まり、どこか懐かしさを感じさせる色だった。


 俺は、ちゃんと変わったのか?


 いや、変わろうとしてるだけなのかもしれない。

 けれど、それでもいい。少しずつでもいい。


 巡りゆく季節の中で、俺は、俺自身を変えていく。


 そう思いながら、ゆっくりとアクセルを回し、原付を走らせた。


 三峰の風が、頬を優しく撫でていった。




 三峰神社の境内は、静寂に包まれていた。

 木々の葉は秋の名残を残しながらも、ひんやりとした風に揺れ、社の奥へと流れていく。


 清輝は、手を合わせて目を閉じた。


 願い事はいくつもあった。

 家族のこと、進路のこと、烈志のこと――そして、真希のこと。


 けれど、祈り終え、ゆっくりと目を開くと、その願いの多さに自分でも苦笑する。

 こんなに欲張って、一体何から叶えればいいのか。


 石段を降りながら、ふと頭に浮かんだのは、来月のことだった。


 秩父夜祭。


 冬の訪れとともに、街が熱を帯びる日。

 祭囃子が響き、屋台の灯りが川の水面を照らし、夜空には大輪の花火が咲く。


 そして、巨大な笠鉾が坂道をゆっくりと進む。ガキの頃、奈緒と手を繋ぎながら、この光景を見たことがある。

 

 暗闇に浮かぶ笠鉾は、やたらと大きくて、まるで空に届くみたいだった。

 「すごいね」って言う奈緒の声が、祭囃子に紛れて消えそうだったのを覚えてる。


「また来年も一緒に見ようね」


 あの時、俺は何て返したんだろう。思い出せないけど――たぶん、何も言わなかった気がする。

 

 それから何度も夜祭はあったのに、一緒に見ることはなくなった。


 ――そういえば、真希はまだ見たことがなかったっけ。


 ポケットからスマホを取り出し、新規メッセージを開く。


「来月の初め、予定ある? 秩父の夜祭、行かないか?」


 送信ボタンを押すと、スマホが小さく震える。

 その音は、遠く離れた場所で、一つの時間を動かしていた。



 映画館の館内に灯りが戻る。

 観客たちが席を立ち、ざわめきが広がっていく中、真希はスマホを取り出した。


 画面には、清輝からのメッセージ。


「来月の初め、予定ある? 秩父の夜祭、行かないか?」


 隣に座る柚子が、残ったポップコーンをつまみながら、ちらりと画面を覗き込む。


「お、LINE。……彼氏でもできた?」


 真希は慌ててスマホを胸元に隠しながら、小さく首を振る。


「ち、違うよ……清輝くんから。」


「ふーん?」


 柚子はニヤリと笑う。


「で、なんの用?」


「……夜祭、一緒に行かないかって。」


 ためらうことなく、真希は指を滑らせる。


「うん、行きたい。絶対に行く!」


 送信した瞬間、柚子が口角を上げた。


「ねぇ、それ、もうほとんど付き合ってんじゃん?」


「ち、違うよ……!」


 思わず顔が熱くなる。


 柚子は肩をすくめ、大人びた口調で言う。


「ま、いいんだけどね。」


 ――夕暮れの交差点

 映画館を出ると、街は夕日に包まれていた。

 西の空は茜色に染まり、橙の光がビルの壁面に長く影を落としている。


 冬の気配を帯びた風が吹き、空気が澄んでいる。

 商店街のガラス窓には、クリスマスの飾りつけがちらほらと映り込んでいた。


 柚子と並んで歩く。


 駅へ向かう途中、二人の影が歩道に伸びていた。


 信号が青に変わる。


 柚子が先に歩き出し、真希も後に続く。


 車のエンジン音が、どこか遠くから響いていた。


 何気なく視線を上げた、その瞬間だった。


 交差点の向こうから、一台の車が左折しようとしている。


 だが――


 減速していない。


 真希の足が止まる。


「……?」


 胸の奥がざわつく。


 柚子が数歩進んだところで、異変に気づいた。


「あっ――。」


 車のヘッドライトが視界いっぱいに広がる。


 柚子がとっさに腕を引く。

 真希は反射的に後ずさる。


 ――ブレーキ音。


 ギリギリのところで、車は止まった。


 張り詰めた空気が交差点に落ちる。


 柚子が息を詰まらせ、振り返る。


「な、なにあれ!? ふざけんなよ……!」


 胸を押さえ、大きく息を吸う。


「びっくりしたね……!」


 けれど、真希は何も言わなかった。


 ただ、そこに立ち尽くしたまま。


 次の瞬間、足元が崩れ落ちるように、膝をついた。


「真希!?」


 柚子の声が響く。


 しかし、真希の耳には届いていなかった。


 息が――できない。


 喉が締め付けられ、空気が入ってこない。

 心臓の鼓動が、異様な速さで脈打つ。


 目の前が揺れる。


「……あれ?」


 声にならない声が漏れた。


 交差点の信号が点滅する。

 車のライトが、不規則に揺れて見えた。


 遠くで、柚子の声がする。


「ちょっと、真希!? どうしたの!?」


 肩を支えられる感触。でも、体は重たく、意識が遠のいていく。


 あぁ――


 そうか。


 ある日、ちょっとしたきっかけで、日常の終わりがやってくる。


 静かな街のざわめきの中で、真希の世界は暗闇へと沈んでいった。




 深夜の市立病院の前に、一台の原付が静かに滑り込んだ。

 エンジンの振動が消え、静寂が戻る。ヘルメットを外すと、冷えた夜気が頬を撫でた。


 入口の前には、烈志と佳苗が並んで立っていた。


 病院の無機質な照明が、二人の顔に影を落としている。


「……遅ぇぞ。」


 烈志が低く、しかし明らかに焦りと苛立ちを滲ませた声で言った。


 清輝は原付から降り、息を整えながら彼らに歩み寄る。


「……柚子から聞いた。真希が倒れて、ここに運ばれたって。」


 佳苗は強く腕を抱きしめ、苦しげに言葉を漏らした。


「なんで……? ずっとなんともなかったのに、どうして今さら……。」


 肩が震えている。彼女の中で、まだこの事態が現実として受け入れられていないのが分かった。


 清輝も、それは同じだった。


 数時間前までLINEで話していた真希が、今は病室に横たわっている。

 そんな状況が、どうしても腑に落ちなかった。


「とりあえず……会いに行こう。」


 清輝がそう言うと、烈志と佳苗は小さく頷き、三人は病院の自動ドアの中へと吸い込まれた。


 病室の扉を開けた瞬間、冷たい機械音が耳を刺した。


 規則正しい、けれど無機質な電子音が室内に満ちている。


 ベッドの上には、真希が横たわっていた。

 口元には呼吸器がつけられ、点滴の管が細い腕に絡みつくように伸びている。


 その姿を見た瞬間、清輝は息を詰まらせた。


「……何がどうなってるんだよ。」


 思わず口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。


 ベッドの脇に座っていた柚子が、泣き腫らした顔でこちらを振り向く。

 いつもの快活な雰囲気は、跡形もなく消えていた。


「ごめんなさい……私が、救急車呼ぶの遅れちゃって……。」


 彼女は何度も唇を噛みしめ、言葉を詰まらせながら続ける。


「でも……もう、自分で息をするのが難しいって……。」


 その言葉に、佳苗がハッと息を呑んだ。


「そ、そんな……。」


 烈志も何かを言いかけたが、言葉にならなかった。


「……よくなるのか?」


 彼の声は、かすかに震えていた。


 そのとき、病室の扉が静かに開いた。

 中に入ってきたのは、白衣をまとった男――森田主治医だった。


 年齢は四十代ほどだろうか。

 この病院で長年医師を務めているが、どこか疲れたような雰囲気をまとっている。


 彼は真希のモニターを一瞥すると、静かに言った。


「無理だ。特に、こんな田舎の病院じゃ手に負えない。」


 その言葉を聞いた瞬間、清輝の中で何かが爆発した。


「……なんだよ、それ。」


 怒りと焦りがないまぜになった感情が、全身を駆け巡る。


 森田は短くため息をつくと、続けた。


「今、受け入れ先を探しているが……すぐに見つかるかどうかは分からない。」


「医者だろ!? なんとかしろよ、おい!!」


 清輝は思わず森田の胸倉を掴んだ。

 だが、森田は動じることなく、ただ淡々と言葉を紡ぐ。


「治らないってなんだよ! 今までなんともなかったんだぞ!!」


「だから、突発性なんだ。」


 短く、冷静に返される。


「どこか受け入れてくれる病院が見つかり次第、すぐに移送する。でも……。」


 森田はそこで言葉を切り、一瞬視線を落とした。


「……今は、それを待つしかない。」


「ふざけんなよ……!!」


 清輝は拳を握りしめるが、次の瞬間、烈志が強く肩を掴み、力任せに引き離した。


「やめとけ、清輝!!」


 その声には、苛立ちと悲しみが入り混じっていた。


 清輝は荒い息をつきながら、森田を睨みつけた。


「……約束したんだ。」


 沈黙の中で、清輝はぽつりと呟いた。


「一緒に秩父の夜祭に行くって。」


 佳苗が小さく口を噤む。

 烈志も、ただじっと清輝を見つめていた。


 そのときだった。


「……誰か、そこにいるの?」


 か細い声が病室に響いた。


 全員が、一斉に視線をベッドへ向ける。


 真希のまぶたが、かすかに開いていた。

 意識が朦朧としているのが分かる。


「……あぁ、いる!! 俺だ、清輝だ!!」


 思わず声を張り上げると、真希の手がゆっくりと動いた。

 震える指先が、そっと清輝の手に触れる。


 その温度は驚くほど冷たかった。


「……ごめんね……約束、守れなくて……。」


 弱々しく、それでも申し訳なさそうに。


「謝るなよ!! ずっとここで闘病すりゃいい!! ここなら、友達もいる!! 寂しくない!!」


 声を震わせながら言うが、真希は薄く笑い、静かに目を閉じた。


「……最後に、一緒に……花火が見たかったなぁ……。」


 その言葉に、清輝は息を詰まらせる。


「そんなの……そんなの……。」


 何かを言おうとしたそのとき、森田が静かに口を開いた。


「ダメだ……悪いけど、自分で呼吸ができない以上、病院から出すわけにはいかない。」


 冷静な言葉が、残酷な現実を突きつける。


「今だって、意識を失いかけているんだ。」


 その瞬間、真希の瞳から、涙が一筋流れた。


「……ずっと、なんともないことだと思ってた……。」


「ずっと、病気と向き合ってきて、慣れてたはずなのに……。」


「……今になって、この体が憎い……。」


 かすかな震えとともに漏れた言葉が、病室を静寂で満たす。


 清輝は、どうすることもできなかった。


 何を言えばいいのか、どうすればいいのか。


 ――わからない。


「……ッ。」


 耐えきれず、清輝は病室を飛び出した。


 静まり返った廊下に、彼の足音だけが響いたのだ。



 病院の出口を出ると、深夜の冷たい空気が三人の肌を撫でた。

 空はどこまでも暗く、まばらに瞬く星が、静かに街を見下ろしている。


 烈志と佳苗、柚子の三人は、無言のまま歩き出した。

 それぞれの足音だけが、夜の舗道に響く。


 佳苗は、空気を少しでも軽くしようと、努めて明るく振る舞った。


「……きっと大丈夫だよ。ね? ちゃんとした病院が見つかれば、ちゃんとした治療を受けられるし……。」


 そう言いながら、笑顔を作る。


 けれど、その声はどこか上滑りしていた。


 烈志は何も言わなかった。


 柚子もまた、ただうつむいたまま歩いている。


 その静寂に、佳苗の作った無理な明るさは、あっけなく飲み込まれた。


 やがて彼女も、口をつぐむ。


 ――秩父の夜祭。


 それは、この街で最も賑わう祭り。


 けれど、その祭りが行われる場所は、市立病院からはずっと離れた場所だった。


 清輝のやるせなさを思うと、胸が締めつけられる。


 結局、私たちは何もしてやれなかった。


 彼の悲しみを、苦しみを、どうしてやることもできなかった。


「……っ。」


 佳苗は拳を握りしめる。


 けれど、夜の空はただ静かに、三人の背を見下ろしていた。


 計画の始まり


 翌朝、道場には烈志の姿があった。

 誰もいない畳の上で、黙々と受け身の練習を繰り返している。


 ドンッ!

 体が畳に沈み込み、乾いた音が道場に響く。


 すぐに立ち上がり、もう一度構える。

 そして、再び倒れる。


 痛みはない。

 むしろ、畳の感触が心地よいほどだった。


 ただ、頭の中にこびりついた昨夜の光景を振り払うように、烈志は動き続けていた。


 ――病院の無機質な白、静かに響く人工呼吸器の音、清輝のどうしようもないほどの苛立ち。


 あの空間は、烈志にとっても息苦しかった。

 だからこそ、何かしていなければ、心が持たなかったのだろう。


「よう。」


 突然、背後から声がした。


 烈志は軽く振り返る。道場の入り口に、清輝が立っていた。


 昨日と変わらない様子で、無造作にポケットに手を突っ込み、少し猫背気味に歩いてくる。


 けれど、烈志はすぐに異変に気づいた。


「……お前、その手。」


 清輝の右手が赤黒く腫れ、拳には乾いた血がこびりついている。


 まるで何かを殴ったような傷。


「……ま、聞いてくれ。いいこと思いついたんだ。」


 清輝は短く答えると、ポケットから何かを取り出した。


 それは、一枚の大きな用紙。

 地図だった。


 清輝はそれを畳の上に広げ、真剣な表情で指を差す。


「なぁ、俺決めたんだ。」


「……何を。」


「真希を、秩父の夜祭に連れていこうと思う。」


 烈志は目を細めた。


「は?」


 清輝は、畳に座り込みながら、地図の上を指でなぞる。


「病院の見取り図だ。ここが正面玄関、こっちが裏口。普通に出すのは無理だから、機器搬送用の通路を使って――。」


 淡々と説明を続ける清輝の横顔を、烈志は黙って見ていた。


「見回りの交代時間は23時。このタイミングで動けば、多少のリスクは減る。で、替え玉にはマネキンを使う。」


「……おい。」


「それに、点滴や機器を運ぶ準備もいるけど、俺が――。」


「おい、清輝。」


 烈志の声が少し低くなる。


 それでも清輝は構わず話し続けた。


「全部計算してある。絶対にやれる。」


 その言葉を聞いた瞬間、烈志は拳を握った。


 次の瞬間――


 バチンッ!


 烈志の手が動いた。


 強い音が道場に響く。


 清輝の顔がわずかに揺れ、彼は驚いたように烈志を見上げた。


「……もういいだろ!!」


 烈志は怒鳴った。


 清輝の拳よりも、烈志の掌の方が痛みを感じていた。

 けれど、それよりも堪えられなかった。


「昨日見ただろ……。」


 声が震えていた。


「真希が、どれだけ苦しそうだったか。自分で呼吸すらできないのに、病院を抜け出して何になる?」


「……っ。」


 清輝の喉が詰まる。


 烈志はゆっくりと立ち上がった。


「そんなの、逆に真希のためにならないだろ。」


 それは、至極当然の言葉だった。


 けれど――


「……じゃあ、お前にできることはなんだよ。」


 清輝の声が震えた。


「もう会えなくなるのに、なんでそんなに冷静でいられるんだよ……。」


 烈志は拳を強く握った。


「……俺だって、冷静じゃねぇよ。」


 烈志は真っ直ぐに清輝を見つめる。


「だけど……だからこそ、できることをやるんだろ。」


 しばらくの沈黙があった。


 そして、烈志は静かに言った。


「みんなで、真希のために祭りをするんだよ。」


「……病室で?」


「そうだ。」


 清輝は、力なく笑った。


「そんなの……チンケなもんしかできねぇだろ。」


 烈志は腕を組み、じっと清輝を見つめた。


「……じゃあ、お前は何もしないのか?」


 清輝は息を詰まらせた。


 烈志はゆっくりと、畳に膝をつく。


「清輝、お前がやってた新聞配達のアルバイト、俺にも教えろ。」


 清輝は驚いたように目を見開く。


「……お前、家が……。」


「そんなの、どうでもいい!!」


 烈志は強く言い切った。


「できる限りのことはやってやる。だから、やらせろ。」


 その声は、まっすぐで、迷いがなかった。


「……私も賛成。」


 道場の入り口に、佳苗と柚子が立っていた。


 佳苗は腕を組み、強い意志を滲ませた瞳で清輝を見つめる。


 柚子も同じように、小さく頷いた。


「ねぇ、アルバイト許可ってどうやってもらえるの?」


 佳苗が問いかける。


 清輝はしばらくの間、みんなの顔を見渡した。


 そして、ふっと息を吐くと、ぱぁっと顔を明るくした。


「……じゃあ、何が必要か、話し合おうぜ。」


 その場の空気が、少しだけ変わった。


 秩父の夜祭を――病室でやる。


 それは、本物の祭りには敵わないかもしれない。

 けれど、それでも。


 大切な友のために、できる限りのことを。


 ――夜祭は、俺たちが作る。

 清輝は、拳を握りしめた。


 畳の上に広げられた大きな紙には、いくつものメモ書きと走り書き。“笠鉾”、“祭囃子”、“花火”といった単語が雑然と並び、無数の矢印が引かれている。

 しかし、そのどれもが決定的な答えにはたどり着かず、迷走を続けていた。


「……やっぱ笠鉾がネックだよな。」

 清輝は紙の端を指でなぞりながら、重く呟く。


 佳苗は机の上でノートを広げ、カリカリとペンを走らせ、考えを巡らせるが、すぐに眉を寄せた。


「じゃあさ、一から作る?」


「引っ張るやつがいねぇだろ。」


 烈志が腕を組みながら、あっさりと切り捨てる。


「いや、それ以前に病院に持ち込めないか。」


 佳苗がペンをくるくる回しながら言うと、

 柚子も腕を組んで「そりゃそうだよねぇ。」と呆れたように呟いた。


「なら、祭囃子の音楽を流して雰囲気を出すとか?」


 清輝がそう提案すると、佳苗が一瞬考え込む。だが、次の瞬間、柚子がすぐさま肩をすくめた。


「動画サイトのフリーBGMなんて、しょぼくね?」


「……たしかに。」


 佳苗が軽くため息をついて、ノートの端をカリカリと引っかいた。

 そこにいた全員が、言葉を失う。これではただの偽物だ。形だけの祭りに意味はあるのか?


「……あーもう!!」


 清輝は頭をぐしゃぐしゃにかきむしり、そのまま仰向けに倒れ込み、天井を見上げながら、大きく息を吐く。


「どうすっかなぁ……。」


 考えれば考えるほど、“夜祭”という形がぼやけていく。

 自分たちが作ろうとしているものが、ただの“模造品”のように思えてくる。


 “本物の祭り”に近づけようとすればするほど、

 “偽物”であることが突きつけられる。


 あの熱気。

 あの光景。

 あの高揚感。


 それを、病室の中で再現するなんて、到底不可能だった。


「……どうすっかな。」


 ぽつりと呟く声だけが、静かな部屋に響き、沈黙が落ちる中、誰も答えを見つけられない。


 そのとき——


「ねぇ。」


 不意に、柚子の静かな声が場の空気を切り裂いた。


 清輝は仰向けのまま、ちらりと視線を向ける。柚子は、視線を窓の外に向けたまま、考え込むように唇をかんだ。

 しばらく沈黙してから、ぽつりと呟いた。


「もっと大事なことがあると思う。」


 その言葉に、清輝は一気に身を起こした。


「おお!? なんだ!? なんでも言ってくれ!」


 考えあぐねていた計画の突破口を見つけたかのように、

 食いつくような勢いで柚子に詰め寄る。


 しかし——


「例えばさ、清輝……あんた、真希から“好き”って言われたことある?」


「……は?」


 一瞬、時間が止まる。


「な、何言ってんだよ、いきなり。」


「ほらね。」


 柚子は肩をすくめ、視線を上げる。

 その表情は、どこか真剣だった。


「真希ってさ、多分アンタのこと好きだよ。」


「っ……!!?」


 予想もしなかった言葉に、清輝は思わず仰け反る。

 それは、計画とは全く別の角度からの言葉だった。


「だからさ、離れる前にちゃんと聞いてあげたほうがいいんじゃない?」


「は、話にならねぇ!! なんでそんな話になるんだよ!!」


 清輝は耳まで赤くしながら、勢いよく立ち上がる。


「今それどころじゃねぇだろ!? 俺たちは夜祭をどうするか考えてんだよ!!」


 しかし、柚子は一歩も引かずに言った。


「……もう最後なのに。」


 その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。

 まるで、それが真実であるかのように。


 烈志も佳苗も、何も言わない。

 ただ、沈黙だけが流れた。


 佳苗がノートの端を指でなぞりながら、少しだけ口を開く。


「……まぁ、確かに。」


 ぽつりと呟いた声は小さかったが、たしかに響いた。


 清輝は拳を握りしめたまま、言葉を飲み込む。そのまま俯くと、手のひらにじんわりとした痛みが広がった。


 ——昨夜、壁に叩きつけた拳の痛みだった。


 それが、やるせなさから来るものだったのか、それとも柚子の言葉を聞いた今、この瞬間のものだったのか——


 清輝自身にも、分からなかった。

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