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18話.家族との思い

 夜の街を赤いロードスターが疾走していた。エンジン音が低く唸りを上げ、カーブを切るたびにタイヤが路面を擦る音が響く。助手席に座る清輝は、シートベルトをしっかりと掴み、必死で体を固定していた。


「お、おい麗花さん!なんすかこのスピード!俺、もう死にそうなんですけど!」

 清輝は震える声で叫んだ。


「お前、原付しか乗ったことないお子様には刺激が強すぎたか?」

 麗花は片手でハンドルを操作しながら、軽く笑う。


「そりゃ強すぎますよ!5回ぐらい死ぬかと思った!」

 清輝は声を張り上げながらシートにしがみつく。流れる街灯の光がフロントガラスに反射し、視界がぐるぐると流れていくようだった。


「へっ、慣れな。人生、こういう刺激が必要なんだよ。」

 麗花は鼻で笑うように言い、さらにアクセルを踏み込んだ。カーブを見事に抜け、ロードスターは勢いよくスナックの前に停車した。


 ブレーキ音が静かに響き、車内がようやく落ち着くと、清輝は助手席からヨロヨロと降りた。足元がふらつき、彼は膝に手をつきながら息を整えた。


「あぁ……地面が揺れてる……本気で死ぬかと思いましたよ……。」

 清輝は疲れた声を出し、ロードスターの赤いボディに寄りかかった。


「たくさん寝ただろ。体力余ってんだろうが。」

 麗花は車のドアを閉めながら軽く笑った。


「寝たけど……刺激が強すぎて全部チャラですって!」

 清輝が抗議すると、麗花は肩をすくめて呆れたように言った。


「ほら、文句ばっか言うな。お前はガキなんだから、スナックには入れねぇんだよ。日付が変わるまでぶらついとけ。」

 麗花はスナックの入り口を指しながら、片手で手を振る。


「えぇ!?疲れてるのに!俺、もうクタクタなんですけど!」

 清輝は大げさに声を上げたが、麗花は振り返りもせず、さっさと店の中に入っていった。


 仕方なく清輝はその場を離れ、夜の街をぶらぶらと歩き始めた。スナックの明かりが背後に遠ざかり、静かな夜風が頬を撫でる。シャッターの下りた店が並ぶ通りを歩きながら、清輝は深いため息をついた。


「田舎って嫌だねぇ……。」

 そう自嘲気味に呟き、街灯の薄明かりの下で軽く肩をすくめる。


 夜風に吹かれながら歩き続けると、小さな神社が目に入った。ふと足を止め、境内へ入る。石畳を踏みしめながら、清輝は境内の鳥居の下に立ち止まった。


 胸の中には、先ほどの夢の記憶がよみがえる。幼い頃の自分と姉の姿、そして姉が放った冷たい言葉。胸を押さえると、呼吸が苦しくなる。


「……なんだって……こんなに胸が痛いんだよ……。」

 静まり返った境内に響く小さな呟き。清輝は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。


「なぁ、おい!!」

 突如として叫び声が境内に響く。誰に向けたのかも分からない、ただ胸に溜まった苦しみを吐き出すような叫びだった。


「なんなんだよ……俺はどうすりゃいいんだよ……!」

 叫びながら頭を掻きむしり、目の前のゴミ箱を思い切り蹴り飛ばす。


「クソッタレ……!」

 ゴミ箱が転がり、派手な音を立てた。その音が夜の静寂を破ると、背後から不意に声がした。


「おい、見たぞ。」


 清輝は驚き、振り向く。そこには柏木巡査が立っていた。彼は腕を組み、呆れた表情を浮かべている。


「柏木……!」

 清輝は思わず眉をひそめる。


「なんだよ、神社でゴミ箱蹴るってのは、また妙なストレス発散方法見つけたな。」

 柏木巡査は怠そうに言いながら近づいてくる。


「いや……別に。」

 清輝は視線を逸らし、足元の石を蹴るような仕草を見せた。


「まぁ、今日はお前に構ってる暇ねぇけどな。ところで、この辺で赤いロードスター見なかったか?猛スピードで走ってたらしいんだけどよ。」

 柏木巡査の問いかけに、清輝は内心ドキリとしながらも首を振った。


「……知りませんけど。」

 そっけなく答えると、柏木巡査は軽くため息をついた。


「っかしいなぁ……まぁ、まだ近くにいるだろうし、見かけたら通報しろよ。」

 柏木巡査はそう言い残し、パトカーに戻っていった。


 その背中を見送りながら、清輝は小さく呟いた。

「麗花さん、危なかったな……。」


 神社の境内には再び静寂が戻った。清輝は境内の石段に腰を下ろし、ぼんやりと夜空を見上げた。胸にくすぶる感情は、簡単に消える気配がない。


 ふと、前方から複数の足音が近づいてくるのに気づく。振り返ると、そこには見覚えのある顔ぶれがあった。


「おい、てめぇ……!」

 ニヤついた笑みを浮かべる不良たち。彼らは以前武道館で追い払った実業高校の不良3人組だった。


「……なんだよ、お前ら。」

 清輝は立ち上がり、眉をひそめる。嫌な予感が胸をよぎる。


「なんだよじゃねぇよ。烈志ってやつ、いねぇのか?」

 1人が肩を揺らしながらニヤついた。


「いねぇから、今度は一人で遊んでやろうと思ってよ。」

 別の不良が言い、拳を鳴らす。その言葉に清輝は小さく舌打ちをした。


「ったく、めんどくせぇな。」

 呟きながら、不良たちを睨み返す。再び緊張が境内に漂い始めた――。


 不良たちが笑いながら近づいてくる。清輝は何とか冷静を装おうとしていたが、相手は明らかに数で圧倒していた。


「烈志がいねぇからって、ナメてられるのか?おい、どこ逃げんだよ。」

 1人の不良が清輝の肩を突き、嘲笑を浮かべる。


「どこにも逃げねぇよ。ただ……今、お前らに構ってる暇はねぇだけだ。」

 清輝は舌打ちしながら睨み返したが、不良たちはその言葉にさらに笑い声を上げた。


「ほら見ろ、ビビってやがる。」

 1人がそう言うと、別の不良が清輝の腕を掴み、力任せに引き寄せた。


「てめぇ、偉そうな口叩いてんじゃねぇよ。」

 清輝は腕を振り解こうとしたが、もう1人が後ろから肩を押さえ、身動きを封じられた。


「ああ、やめろって……!」

 清輝が声を上げるが、すでに遅かった。不良たちは次々と拳を振り下ろし、清輝の腹や脇腹に容赦なく打撃を加えた。


「ったく、なんで一人でウロウロしてんだよ。烈志がいりゃ助けてくれるのにな?」

 1人の不良がニヤつきながら清輝の顔を軽く叩いた。


「……っ……!」

 清輝は苦痛に顔を歪めながらも、必死に反撃しようとした。しかし、数の差は圧倒的だった。背後から押さえつけられ、膝に蹴りを入れられるたびに体が崩れていく。


 地面に倒れ込む清輝。その顔は泥で汚れ、唇からは血が滲んでいた。それでも、悔しさと怒りで歯を食いしばり、必死に顔を上げる。


「……柏木のヤロー……こんなときに何してやがんだよ……。」

 苦しげに呟く清輝。しかし、誰も彼を助ける者はいない。


 ふと、不良の1人が清輝のポケットに目を留めた。そこから半分飛び出していたのは、くしゃくしゃに丸められた写真だった。


「おい、これなんだ?」

 不良が写真を引っ張り出し、広げてみる。それは、家族全員で撮った古い写真だった。小さな清輝を中心に、母親と父親、そして奈緒の姿が並んでいる。


「……家族写真かよ。」

 その言葉に、別の不良が鼻で笑った。


「なんだこいつ。パパママ姉ちゃん助けてぇー!ってか?クソガキかよ!」

 不良たちは笑い声を上げながら、写真を地面に投げ捨てた。


 清輝はその光景を見て、奥歯をギリギリと噛みしめた。心の奥底で何かが軋む音がする。


「……あぁ……」

 清輝は震える声で呟いた。


「今になって……助けてほしいって……思い始めてる……。」

 その言葉は自分に向けたものだったのか、誰に向けたものだったのか分からない。ただ、胸の奥から込み上げてきた感情が、そう言わせた。


 そのときだった。


「待ちなさい!」

 澄んだ声が夜の空気を切り裂いた。清輝も不良たちも驚いて振り向く。


 そこには、真希が立っていた。彼女は震える手でスマートフォンを握りしめ、強い意志を感じさせる瞳で不良たちを睨んでいた。


「おい、なんだあいつ?」

 不良たちは一瞬ひるむが、すぐに肩を揺らして笑い出す。


「おいおい、なんだ女1人でヒーロー気取りかよ?痛い目見るぞ?」

 1人が脅すように言ったが、真希は動じなかった。


「今……警察に通報したから……!」

 その言葉に、不良たちの顔色が変わる。すると、遠くからかすかにサイレンの音が聞こえてきた。


「マジかよ、早すぎるだろ……!」

「ヤベェ、行くぞ!」

 不良たちは互いに顔を見合わせ、慌ててその場を立ち去った。1人が捨てた家族写真を踏みつけるようにして逃げていく。


 清輝は地面に倒れたまま、彼らの後ろ姿を見送った。身体中が痛み、立ち上がる気力も残っていない。


 真希が駆け寄り、清輝のそばに膝をついた。


「清輝くん、大丈夫……!?ごめん、もっと早く来れば……!」


 清輝はぼんやりと真希の顔を見上げた。そして、視線を地面に落とすと、泥だらけになった家族写真が目に入った。写真の端は破れていたが、そこには昔の清輝と家族の笑顔が写っていた。


 彼は震える手で写真を拾い上げ、じっと見つめた。


「……なんで……こんなときに……。」

 小さく呟いたその声は、真希の耳にも届いた。

「……助けてほしいと思ったんだろうな。」

 清輝が小さく呟いたその声には、どこか諦めと自嘲が混じっていた。


 その瞬間、真希は堪えきれずに清輝の襟を掴み、涙目で訴えかけた。

「バカ!!本当はずっと助けてほしい、手を貸してほしいって思ってたんでしょ!?清輝くん、そうなんでしょ!!」


 真希の声には怒りと悲しみ、そして深い思いやりが滲んでいた。彼女の指先が震え、掴んだ襟をさらに強く握る。


 清輝は顔を伏せたまま、真希の言葉を否定するように首を振った。

「……そんなことはねぇよ。俺は……別に……」


 その言葉を遮るように、真希は清輝の頬を平手で打った。乾いた音が夜の静寂を切り裂く。


「嘘つき!!」

 真希は声を上げ、さらに涙を溢れさせた。

「お姉さんはずっと謝りたかったんだよ!清輝くんの家族にずっと後ろめたい感情を持ってたんだよ!!」


 清輝は驚いたように真希を見上げた。その視線に込められた疑問を受け取るように、真希はバッグの中から一冊のアルバムを取り出した。


「これ……麗花さんのスナックで話そうと思ったけど……今、ここで言うね。」

 真希は震える手でアルバムを開き、その中のページを清輝の目の前に差し出した。


 アルバムの中には、清輝の写真がぎっしりと並んでいた。彼が幼い頃から成長していく様子が時系列順に並べられ、そのどれもが自然体の姿だった。


 清輝は驚きのあまり言葉を失い、ページをめくる手が止まる。

「……なんだよ、これ……?」


 真希は涙を拭いながら、静かに言葉を紡いだ。

「全部、奈緒さんが撮った写真だよ。清輝くんの家族写真……だけど、奈緒さん自身はどれにも写ってないのが清輝くんにはわかる?」


 清輝はその言葉に息を呑み、もう一度アルバムの写真を見返した。確かに、どの写真にも奈緒の姿はなかった。けれど、それぞれの写真の中で、自分は笑顔を浮かべている――家族と一緒に。


「あれ以来お姉さんはね、清輝くんが家族の一員になるために、自分の存在が邪魔だって分かってたんだよ。」

 真希は言葉を詰まらせながら続けた。


「だから、カメラの後ろにいたんだよ。清輝くんとお母さん、そしてお父さんをつなぎ止めるために……奈緒さんは自分が『家族じゃない存在』だって思いながら、清輝くんを見守ってたんだよ。」


 清輝はアルバムを握りしめたまま、呆然とした表情を浮かべていた。そして、ゆっくりと気づく。どの写真にも、自分がカメラの方向を少しだけ避けるように視線を逸らしていることを。


「……ああ……」

 清輝は呟いた。その声には苦しさと、言いようのない感情が混じっていた。


「お姉ちゃん……ずっと……。」

 声が震えた。手に持ったアルバムが、小さく揺れた。


「お姉ちゃんはずっと……繋ぎ止めようとしてたんだな……俺と家族を……。」

 清輝は喉を詰まらせるようにして言葉を絞り出した。


 真希は優しく頷き、清輝の肩に手を置いた。


「そうだよ。奈緒さんは、清輝くんが家族として生きていけるように……自分を犠牲にしてきたんだよ。それが、奈緒さんの人生になってたんだよ。」


 その言葉が清輝の胸に突き刺さる。写真の中の自分、そしてカメラの後ろでシャッターを切っていた姉――その光景が鮮やかに浮かび上がる。


 清輝の目から、一筋の涙が零れ落ちた。


「……なんだよ、それ……。」

 力なく呟きながら、彼はアルバムを抱きしめるようにして膝をついた。


 清輝は膝をつき、アルバムを抱きしめたまま顔を覆っていた。その震える肩を見て、真希はそっと背中に手を置いた。


「清輝くん……」


 真希が声をかけても、清輝は何も言わなかった。ただ、手の中のアルバムを強く抱きしめるだけだった。彼の頭の中では、幼い頃の記憶が次々と蘇っていた。カメラの向こう側にいた姉の姿。そして、いつもどこかで見守られていた記憶。


「……ごめん。」

 ぽつりと漏れたその一言に、真希は驚いて目を見開いた。清輝は顔を上げることなく続ける。


「俺……ずっと気づかねぇふりしてたんだよな……。奈緒が、俺のためにいろんなこと我慢してたの……。本当は気づいてたのに……ごめん、姉ちゃん……。」


 その声は震え、絞り出すようだった。清輝の瞳から涙が零れ落ち、アルバムの表紙にぽたりと落ちて染み込んでいく。


「清輝くん……」

 真希が再び名前を呼ぶと、清輝はようやく顔を上げた。涙で濡れたその顔には、どこか安堵と後悔が入り混じったような表情が浮かんでいた。


「でもさ……俺、どうやって言えばいいのか分かんなかったんだよ。ずっと……ずっと『ごめん』って言いたかった。でも……言葉にするのが怖くて……。」


 清輝の声は次第に途切れ途切れになり、再び顔を伏せる。


「なんかさ……あいつが俺を嫌いになってたらどうしようって……ずっと思ってたんだよ。姉ちゃんのこと嫌ってたの、俺なのに……。」


 真希は清輝の言葉を黙って聞いていた。そして、優しく微笑むと、もう一度清輝の背中に手を置いた。


「清輝くん……奈緒さんは、そんなことで清輝くんを嫌いになる人じゃないよ。」

 その言葉はとても静かで、けれど確信に満ちていた。


「だって、奈緒さんはずっと清輝くんのために動いてたんだから。今だってきっと、清輝くんに家族として幸せになってほしいって思ってるはずだよ。」


 清輝はゆっくりと顔を上げ、真希を見つめた。その瞳には涙が光っている。


「……そんな簡単なことなのかよ。」

 彼は小さく呟き、力なく笑った。


「簡単じゃないけど……でも、清輝くんが気づいてくれたなら、それが奈緒さんにとって一番の救いになるんじゃないかな。」


 その言葉に、清輝は少しだけうつむき、静かに頷いた。そして、震える手でアルバムを撫でながら、ぽつりと言葉を漏らす。


「……俺、謝りてぇ。ちゃんと……言わなきゃダメだよな。」


 真希は柔らかな笑みを浮かべながら頷いた。


「うん。でも、焦らなくていいと思う。清輝くんのタイミングで、ちゃんと言えば、奈緒さんは絶対分かってくれるよ。」


 清輝は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。そして、もう一度アルバムを見つめながら、小さな声で呟く。


「時間が解決してくれねぇなら……自分がなんとかしないとダメだよな。」


 清輝はアルバムを握りしめたまま、短く呟いた。


「……俺、行かなきゃ。」


 それだけ言うと、真希に背を向けて駆け出した。その姿は夜の闇に溶け込むように消えていった。


 真希はその背中をじっと見送っていたが、次の瞬間、胸を押さえ、ふらりとその場にしゃがみ込んだ。


「……はぁ……はぁ……」


 肩で息をしながら、しばらく地面を見つめていた。体に残る緊張が一気に解け、息が上がってしまったのだ。


「大丈夫……大きく息を吸って……すぅ……はぁ……」


 小さく自分に言い聞かせながら、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ひんやりとした夜風が彼女の髪を揺らし、冷静さを取り戻していく。


 立ち上がると、真希は空を見上げた。夜空に輝く星が、静かに瞬いていた。再び深く息を吸い、真希はそっと微笑む。


「……これで私も恩人になれたかな」


 自分にも、清輝にも言い聞かせるように呟いたその声は、夜の静けさの中に溶けていった。



 清輝は全速力で走っていた。夜風が髪を乱し、汗が額を流れる。いつもなら原付で通る道を、今はただ自分の足だけでひたすら駆け抜けていた。家の明かりが見えた瞬間、心臓がさらに高鳴った。


 玄関の扉を勢いよく開ける。リビングには灯りがついており、テーブルには一冊のアルバムが置かれていた。その前に座っている奈緒が、アルバムを整理しながら微笑んでいた。


「結構たくさん撮ったんだよね、これ。真希ちゃん、何に使うんだろう……。」

 奈緒はアルバムのページをめくりながら呟いていた。


 そのとき、清輝の荒い息遣いが聞こえ、奈緒は顔を上げた。目に飛び込んできたのは、泥だらけでボロボロの清輝の姿だった。


「清輝!?どうしたの、その格好!?」

 奈緒は驚き、慌てて立ち上がった。


 清輝は何も言わず、そのまま奈緒の前に座り、テーブルの上に置かれたアルバムを手に取った。ページをゆっくりとめくりながら、写真の数々に目を通す。


「……結構たくさん撮ったんだな。」

 清輝はポツリと呟くように言った。その声はどこか遠くを見つめているようだった。


 アルバムの中には、家族との思い出が詰まっていた。ページを進めると、次に現れたのは高校の入学式の写真だった。清輝は制服姿で、両親と並んで写っている。しかし、その顔には笑顔はなく、ただひたすら拗ねた表情が浮かんでいた。


「……これ、高校の入学式の日だよな。」

 清輝は写真を指差し、少し苦笑いを浮かべた。


「俺……なんだこの顔。拗ねてんな……めちゃくちゃ。」

 そう言って首を振る清輝に、奈緒は何かを言いかけて口を閉じた。そして、気まずそうに笑って言う。


「だって……私、写真撮るの下手だったし……手ぶれとかあるし、ごめんね。」


 清輝は奈緒のその言葉をじっと聞き、ゆっくりと顔を上げた。その瞳はどこか優しさを帯びている。


「……姉ちゃんさ。」

 清輝は一呼吸置いて、まっすぐ奈緒を見た。


「今度、羊山公園で家族全員で撮ろうよ。」


 奈緒は一瞬言葉を失い、清輝の顔を見つめた。そして、次の瞬間、目に涙が滲み始めた。


「……え?何それ……急に……。」

 奈緒は涙を拭おうとするが、止めどなく溢れてくる。


「……次はみんなで、ちゃんと姉ちゃんも一緒に撮ろうよ。」

 清輝はそう言いながら、アルバムを優しく閉じた。


「……親父と、母さんと、姉ちゃんと俺で……全員でさ。」


 奈緒は声を上げて泣くこともできず、ただ静かに涙を流し続けた。その姿を見た清輝も、堪えきれずに涙を流した。二人の肩が震え、リビングには小さなすすり泣きだけが響いていた。


 清輝は涙を拭いながら、声を震わせて続けた。

「ありがとう……俺を家族として繋ぎ止めてくれて、俺、馬鹿だからさ、こんな事でしか気づけなくて。」


 奈緒は泣きながら首を振った。そして、清輝の手を握り締めると、小さな声で答えた。


「…………そんな事ない、清輝は私と違ってずっと大人だった。」


 二人はただ泣きながら、これまで埋められなかった時間を取り戻すように、お互いを見つめ奈緒は清輝の手をぎゅっと握りしめた。その手の温もりが、お互いの胸の奥まで染み込むようだった。


「……私だって、ごめんなさい。」


 奈緒の声はかすかに震えていた。けれど、その言葉には真剣な思いが込められていた。


「貴方の気持ちも知らないで……酷いこと言って……ごめんね、清輝。」


 清輝は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに口を開いた。


 けれど、奈緒は首を振り、言葉を遮る。


「いいの。私がちゃんと言いたいの。ずっと、言わなきゃって思ってたから……。」


 奈緒は目を閉じて、少し息を吸い込むと、さらに続けた。


「お父さんもお母さんも……ずっと私のこと、大事にしてくれてたのに、それを無視して……私、全然気がつかなくて……清輝にも酷い態度ばっかりとって……本当に、ごめんね。」


 その声はどこか弱々しいけれど、深い後悔が滲んでいた。清輝は黙ったまま、奈緒の言葉を受け止めていた。


 やがて奈緒は、微笑みながらぽつりと呟いた。


「私……清輝が家族になれてよかったって、ずっと思ってるよ。」


 清輝はその言葉に喉を詰まらせた。奈緒の表情には、もう涙はなかった。ただ、安らかな笑顔が浮かんでいた。


 清輝は静かに頷き、もう一度言葉を絞り出した。


「俺も……姉ちゃんが姉ちゃんで……よかったよ。」


 リビングの中に、しばらく二人の静かな気持ちだけが流れていた。壁の時計の針が動く音だけが、ただ時を刻んでいた。


 あの夜を境に、俺の中の何かが変わった。


 ずっと胸の奥に絡まっていたものが、ゆっくりとほどけていくような感覚。

 胸を押さえつけるような、あの息苦しさは、もうどこにもなかった。


 奈緒とは和解した。

 時間が解決した、というよりは、きっとずっと前から解決する準備は整っていたんだ。

 俺が、それを認めることさえできれば。


「真希ちゃんに感謝しないとね」


 学校に行く前、姉に送ってもらう車の中でそう言われた。

 助手席の姉はフロントガラス越しにぼんやりと空を見つめながら、ゆっくりと続ける。


「あの夜、真希ちゃんに全部話したんだ。私たちのこと、今までのこと……」


 少しだけ、胸を押さえる仕草をして、姉は息を吸った。


「そしたらね、彼女、こう言ったの。時間が解決してくれないなら、自分でなんとかすればいいって」


 俺は窓の外に視線を移しながら、口元を少し歪めた。

 真希らしい、まっすぐな言葉だった。


「いや、もうすでに時間は解決してくれていたのかもしれない。あとは、二人が動くだけだったんだよ」


 奈緒はそう言いながら、微かに笑う。


「そしたらね、真希ちゃん、アルバム……貸してくださいって言ったの。清輝が見たアルバム、私にも見せてくださいって」


 車の外では、古びた商店街がゆっくりと流れていく。

 懐かしいラジオの音楽が、微かに車内に響く。


 俺は視線を前に向けたまま、ふっと息を漏らした。


「……あいつ、やっぱり強くなったんだな」


 奈緒はゆるく頷いた。


「うん。強くなったよ」


 学校に着くと、俺は先に車を降りた。

 扉の外で、軽く肩を回すように伸びをしながら、ふと姉の方を見る。


 奈緒はまだ運転席に座ったまま、俺を見ていた。


「清輝」


「ん?」


「お父さん、さ……明後日、休みなんだって」


 その言葉に、俺は一瞬だけ動きを止めた。

 ドアに背を向けたまま、無造作に手をポケットに突っ込み、ゆっくりともたれかかる。


「……そうなんだ」


 それだけ言うと、奈緒はふっと笑った。


「羊山公園、お父さん行きたがってたよ」


 俺は、しばらく言葉が出なかった。

 そんな話、これまで聞いたこともなかった。


「家族全員で行けるなんて、滅多にないことだから、喜んでた」


 奈緒の声を聞きながら、気づけば俺の頬を、一筋の涙が伝っていた。


 親父が……喜んでた?


 思わず袖で涙を拭いながら、顔を背ける。


 奈緒はふぅーっと息を吐き、座席に軽くもたれかかる。


「小学生以来だもんね、家族で行くの」


「……あぁ、そうだな」


 俺は涙の跡を誤魔化すように、もう一度袖を擦った。


「それで……?」


「お父さんさ、父親らしいことなんにもできてないからって……」


 奈緒は少しだけ言葉を詰まらせた後、クスッと微笑んだ。


「今日、お弁当作ってたよ」


「……え?」


「だから、絶対に今日は食べてね」


 奈緒の言葉が、車の中に静かに落ちる。

 まるで、何気ない日常の会話のように。


 けれど、俺の胸の奥に、その一言は深く突き刺さった。


 じわりと、また涙が滲んでくる。


「……グリンピース入ってたら、残してもいいか?」


 俺がそう呟くと、奈緒は小さく吹き出した。


「さぁね」


 まるで、何かを振り払うように、昨日までの曇り空が嘘だったかのように。


 どこまでも広がる青の向こうには、まだ知らない未来が待っている気がした。


 俺はゆっくりと空を見上げ、目を細めた。


 そして、校門へと足を踏み出す。


 そこにあるのは、何も変わらない日常のはずなのに――確かに、俺の中で何かが変わった気がしていて。

 少しだけ早く訪れた夏の気配に、蝉の声が、どこか遠くで鳴いていた。

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