17話.もう修復できない関係
清輝は駅からほど近い駐車場で足を止めた。目の前には、真っ赤なマツダ ロードスターが停まっている。その鮮やかなボディは、午後の日差しを浴びて眩しく輝いていた。流れるような曲線と低いフォルムが、どこか挑発的にすら見える。
「……すげぇ……。」
清輝は思わず息を呑み、その場に立ち尽くした。これが夢にまで見た「オープンカー」というやつか、と目を輝かせる。車に詳しいわけではないが、この圧倒的な存在感には心を奪われた。
「お前、そんなに見惚れるなよ。」
不意に声がかかり、振り返ると麗花が立っていた。カジュアルな格好にサングラスをかけ、どこか余裕のある笑みを浮かべている。
「これ、麗花さんのですか!?」
清輝の声には興奮が滲んでいた。麗花は軽くサングラスを外して頷く。
「そうだよ。最近買ったんだ。オープンカーってやつな。」
「マジっすか!?こんなの普通買えないっすよね。高かったんじゃないですか?」
「まぁ、それなりに。でも、欲しかったから買っただけさ。」
麗花は肩をすくめると、運転席に滑り込んだ。そして、ハンドルに手を置きながら、清輝に軽く顎をしゃくった。
「少し運転してみるか?助手席に乗りなよ。」
清輝は一瞬、目を輝かせたが、すぐに気づいたように言葉を返す。
「え、いいんすか!?でも夕方から雨降るらしいっすよ?」
麗花はふっと鼻で笑い、何かのボタンを押した。
「心配するな。見てろよ。」
すると、後部座席からヌッと屋根がせり出してきて、滑らかな動きで車体を覆い、ぴたりと閉まった。全自動開閉式のルーフだった。
清輝は目を丸くして感嘆の声を上げた。
「うおおお!これ自動で閉まるんすか!?ハイテクすぎる!」
「すごいだろ。これで雨も気にしなくていいってわけだ。」
麗花は軽く笑いながら助手席側のドアを指した。「乗れよ。赤城近辺まで流そうぜ。」
「マジっすか!?やったー!!」
清輝は躊躇することなく助手席に滑り込んだ。柔らかいレザーのシートに体を預けると、車内の高級感にさらに感動する。麗花がエンジンをかけると、低く心地よい音が響き渡った。
「そういやさ。」
麗花が視線を前に向けながら話し始めた。
「清輝、お前、うちに転がり込んできてもう三日目だろ?」
「……ああ、そうっすね。」
清輝は少しだけ気まずそうに笑いながら答えた。車が駐車場を出て道路に出ると、滑らかな動きで加速していく。
「なんでウチに来たのかは聞かないけどさ、初日には驚いたぜ。『一晩だけ泊めてくれませんか』なんて、いきなり言われるんだもんな。」
麗花は軽く笑ったが、その声にはどこか優しさが含まれていた。
「すみません……でも、本当に助かりました。」
「まぁいいさ。似たようなこと、私もやってたからな。」
「麗花さんも……?」
清輝が驚いたように問い返すと、麗花は小さく頷いた。
「家出してたんだよ。高校生の頃にな。親に反発してさ。まぁ、今思えばガキだったなって思うけど……。」
彼女の声はどこか遠くを見つめているようだった。
「でもな、清輝。」
麗花の声が少しだけ真剣なものに変わった。
「月曜日になったら、ちゃんと学校行って家に帰るんだぞ。いつまでも逃げてるわけにはいかないだろ?」
その言葉に、清輝は小さく息をつき、視線を下に向けた。
「……わかってますよ。」
その言葉に嘘はなかったが、どこか力が抜けたような返事だった。
「まぁ、それでいい。」
麗花は軽く笑い、エンジン音を楽しむようにアクセルを踏み込んだ。車はさらに滑らかに加速し、周囲の景色が次々と流れていく。
清輝は窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、自分の胸の中にくすぶる感情を噛みしめていた。助手席で感じる風景の動きは、彼にとって少しだけ心地よいものだった。
街中を歩いていた真希は、目の前を横切る真っ赤なスポーツカーに思わず目を奪われた。光を浴びて輝くロードスター。洗練されたフォルムに鮮やかな赤色は、街並みの中でひときわ目立っている。
「うわ……派手な車。これ、映画とかに出てきそうじゃん。」
小さな感嘆を口にして、その車を目で追う真希。けれど、その車が角を曲がって姿を消すと、彼女はハッと我に返り、足を早めた。今日は番場通りにある麗花の店を訪れる予定だった。
番場通りの商店街に差し掛かると、独特ののんびりとした雰囲気が漂っていた。少し古びた看板や、昔ながらの佇まいの店が並ぶ中、目的地のスナックが視界に入った。
「……あった!」
その手前に停まっている紫色の原付を見つけた瞬間、真希は思わず小さく声を上げた。見るからに目立つ色合いで、少し錆びついた部分がある車体は、烈志の言葉通りだった。
「本当に紫だ……。なんでこんな色を選んだのか、ちょっとセンス疑うけど……まあ、清輝くんらしいっちゃらしいか。」
真希は小さく笑いながら、店の入口に向かう。けれど、ドアに掛けられた「本日お昼 定休日」の札を見て、肩を落とした。
「ええっ、定休日……?」
仕方なくインターホンを押してみるが、何度待っても反応はない。冷房が動いている音が微かに聞こえるだけだった。真希は軽くため息をついて原付の方に目を向ける。
「この原付がここにあるってことは、清輝くんもここにいる……んだよね?でも、どうしよう……夜8時まで待つのはさすがに……。」
携帯を取り出して時間を確認していると、父親からLINEが届いた。
ごめん、今日仕事が遅くなる!だから自分で買ってください。
「えぇ……またかぁ。」
真希は小さく文句を漏らしながらも、すぐに気持ちを切り替えた。
「……仕方ないか。何か買って帰ろう。」
とりあえず駅近くのベルクに寄ることにして、真希は商店街を後にした。
ベルクの駐車場に入った真希は、店の入り口に向かおうと歩いていた。すると、ふと目の端に買い物袋を提げて歩いている女性が映った。
「あ……!」
その横顔に見覚えがあった。清輝の姉、奈緒だった。けれど、彼女の右目には眼帯があり、その周りには紫色の痣が浮かんでいるのがはっきりと分かった。
「清輝くんのお姉さん……!」
とっさに声をかけると、奈緒は驚いたように振り返った。紫色の痣を隠すように覆っている眼帯が、彼女の疲れた表情を余計に際立たせている。
「ああ、君は……真希ちゃん。」
奈緒は買い物袋を少し持ち直しながら微笑んだ。その笑顔にはどこか無理があるように見えた。
「はい……そうです。でも、あの……大丈夫ですか?」
真希は奈緒の眼帯に視線を向けながら尋ねた。奈緒は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに笑い飛ばすように言った。
「ああ、これ?ちょっとした事故みたいなもんよ。大したことないから気にしないで。」
その言葉に真希は少し気圧されるような気持ちになりながらも、食い下がるように尋ねた。
「でも……」
奈緒は軽く首を振り、さらに明るい声で続けた。
「片目だからさ、運転もできなくなっちゃった。まあ、こんな状態じゃ仕方ないよね~。あはは。」
笑いながらそう言う奈緒だったが、その声にはどこか張り詰めた響きがあった。真希はその様子に胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「奈緒さん……少しだけ、お話してもいいですか?」
真希が思い切ってそう言うと、奈緒は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく頷いた。
「いいよ。ちょうど時間もあるし、そこで話そうか。」
奈緒は御花畑駅近くの小さな公園を指さした。公園の隅には木陰に置かれたベンチがあり、二人はそこへ向かった。
ベンチに腰を下ろすと、奈緒は買い物袋を足元に置き、ゆっくりと深呼吸をした。公園は静かで、小鳥の鳴き声と風に揺れる木々の音だけが響いている。
「ごめんね、なんか疲れた顔してない?清輝の姉がこんなんじゃ、ちょっと恥ずかしいよね。」
奈緒は少し冗談めかしてそう言ったが、その言葉にはどこか自嘲のようなものが滲んでいた。真希は軽く首を振りながら答えた。
「そんなことないです……でも、本当に大丈夫なんですか?」
奈緒はまたも笑ってごまかすように言った。
「もう慣れてるから平気よ。それに、これくらいでへこたれるほど、私は弱くないしね。」
その声は明るかったが、真希には奈緒が無理をしていることがはっきりと分かった。彼女の右目を覆う眼帯と、その裏に隠された痣。その事実が何よりも奈緒の苦しみを物語っているようだった。
真希は少しの間、言葉を探していたが、意を決して尋ねた。
「清輝くん……最近、家で何かあったんですか?」
その質問に、奈緒は一瞬だけ目を伏せた。そして、小さくため息をつくように答えた。
「……そうね。ちょっと、清輝と喧嘩しちゃった。」
奈緒の声はどこか遠く、まるで自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。真希がもう一歩踏み込もうとしたその瞬間、奈緒は顔を上げ、無理に笑顔を作りながら付け加える。
「まぁ、いつものことだけどね。でも……今回はちょっと、ね。」
その言葉に、真希は眉をひそめた。奈緒の笑顔には明らかに無理があった。何かを隠しているのは明らかだ。けれど、どうしてもそれ以上踏み込む勇気が出ず、ただ黙って奈緒の言葉を待つことしかできなかった。
奈緒はふと視線を遠くに向け、どこか懐かしむような目をしていた。そして、ゆっくりと静かな声で続けた。
「清輝……家で印鑑を探してたのよ。アルバイトの書類とか、原付通学の許可とか、いろいろな手続きに必要なんだって。でもね……。」
奈緒の言葉が途切れる。その先にあるのは、決して軽くはない出来事なのだろうと真希には分かった。奈緒が沈黙を破るように、再び口を開く。
「その時、清輝……昔の写真を見つけちゃったの。」
その一言がきっかけとなり、奈緒の頭の中に過去の記憶が鮮やかに蘇る。
――数日前
家の中はしんと静まり返り、誰の気配もなかった。時計の針の音がやけに大きく響く。
「まあ、みんなも仕事だしな……。」
清輝はリビングに鞄を放り投げると、印鑑を探すために家中を物色し始めた。箪笥の引き出し、納戸の奥、押し入れ――思いつく限りの場所を次々と開けていくが、求めているものは見つからない。
「どこだよ、マジで……。」
苛立ちを募らせながらも、次々と探し続ける。そして、納戸の隅に置かれていた埃を被ったアルバムの山を見つけた。
「……なんだこれ。こんなもん取っとくなよ。」
呟きながらアルバムを手に取ると、その中から一枚の写真が滑り落ちる。それは、まだ幼かった清輝が写っている写真だった。隣には、高校生の制服を着た奈緒の姿。どこかぎこちない笑顔の彼女が、清輝の肩をそっと抱いている。
「……姉ちゃんも若ぇな。」
拾い上げた写真をじっと見つめ、清輝はタンスの下に腰を下ろして背中を預けた。そして、写真を手にしたまま、小さく息を吐く。
「……この頃が信濃家史上一番、荒れてたかもな。」
頭の中に、遠い記憶が浮かび上がってきた。
まだ中学生だった清輝は、リビングのソファに座り、ぼんやりとテレビを見ていた。けれど、耳に届くのはテレビの音ではなく、奥の部屋から響いてくる怒鳴り声だった。
「なんでそんなに頑固なの!?奈緒、進路のこと、ちゃんと考えてるの!?」
「考えてるわよ!でも、私の人生でしょ!?お母さんに決められる筋合いなんてない!」
奈緒の叫び声が家中に響き渡る。言葉の裏に、彼女の苦しみや苛立ちがにじみ出ているのが分かった。続いて、母親の怒りに満ちた声が返ってくる。
「筋合いないですって?親が子供のことを考えるのは当然でしょ!」
「親って……私にとっての“親”なんて、どこにいるのよ!」
奈緒の声はさらに大きくなり、次第に震えていく。それを聞きながら、清輝はソファに縮こまり、膝を抱えていた。テレビの音はもう耳に入らない。
「お母さんだって、清輝のことばっかり大事にして、私のことなんて――」
「奈緒!」母親が制止しようとする声が被さるが、それすら聞こえていないかのように奈緒は言葉を続けた。
「どうせ私は、あんたたちにとっちゃ“清輝のおまけ”なんでしょ!?清輝のついでの、赤の他人なんだよ!」
その瞬間、部屋の扉が乱暴に開かれ、奈緒が勢いよく飛び出してきた。顔を真っ赤にし、涙を浮かべた彼女の姿は、清輝の目に焼き付いた。
「姉ちゃん……やめてよ……」
清輝は小さな声で呟いたが、奈緒には届かなかった。彼女はリビングの真ん中で足を止め、清輝を睨みつけるように見下ろした。
「清輝、あんたはいいよね……お母さんに可愛がられてさ!私なんて……!」
清輝は立ち上がり、恐る恐る奈緒に近づこうとした。その瞳は不安と戸惑いでいっぱいだった。
「お姉ちゃん、やめてよ……。そんなこと言わないでよ……お姉ちゃん――」
「やめろ!お姉ちゃんなんて呼ぶな!」
奈緒が叫んだ。その声の大きさに、清輝は立ち尽くす。
「お前なんか……本当の弟じゃないんだよ!」
その言葉が突き刺さるように清輝の胸に飛び込んできた。奈緒の瞳には涙があふれ、怒りと悲しみが混ざったような表情をしている。清輝は、何も言い返せず、ただその場で泣き出してしまった。
「私なんか産まれなければよかった……!」
奈緒が最後にそう呟き、駆け足で階段を駆け上がっていった。家の中には、奈緒が去っていく足音と、清輝のすすり泣きだけが残った。
その後ろ姿を見送りながら、清輝は声を絞り出すように、小さく呟いた。
「…アイツ……」
しかし、その言葉は虚しくも空気に溶けていき、誰の耳にも届かなかった。
写真をじっと見つめていた清輝は、小さく鼻を鳴らして呟いた。
「……あの時、姉ちゃん、よくあそこまで言えたよな。あんな爆弾みたいなこと。」
目の前の写真には、笑顔を浮かべる幼い自分と、少し大人びた表情をした奈緒の姿が写っている。けれど、その笑顔が嘘くさく見えるのは、今になって知っているからだ。奈緒があれほど感情を爆発させた姿は、あの時が最後だった。そして、今の奈緒の明るい笑顔の裏には、あの頃の苦しみがまだ隠れているのだろう。
清輝はそっとアルバムを戻し、立ち上がった。そして、ふと呟く。
「結局、あの後どうにか親父の言う通りに進んで……大学受験も失敗してよ、親父のコネで市役所だろ?……クソダセェよな。」
その言葉には、奈緒に対する同情と、どこか拭いきれない蔑みが混じっていた。市役所の制服を着て真面目そうに働く姉の姿を見るたびに、清輝の中には言いようのない複雑な感情が湧き上がる。頑張ったのかもしれない。けれど、自分から見れば、それは親父の権力に乗っかる「妥協」にしか見えなかった。
「……親父の後ろに隠れて、何が姉貴だよ。」
清輝は皮肉っぽく笑い、タンスの引き出しをもう一度引っ張り出す。中身を無造作にかき回しながら、再びぼそりと呟いた。
「俺には、あんな風にはなれねぇな。……ってか、印鑑どこだよ。結局、見つかんねぇし。」
イライラした様子で引き出しを乱雑に閉め、清輝は肩を落としてリビングに向かった。その足取りは、少しだけ重たかった。
清輝はテレビ台の戸棚を乱雑に漁りながら、奥の方でカタカタと引き出しを開け閉めしていた。苛立ちが滲む動きは、探しているものが一向に見つからないことを物語っていた。
そのとき、不意に玄関の鍵が回る音が聞こえた。清輝は手を止めず、そちらを振り向くこともなかった。
「ただいまー。」
買い物袋を片手に持った奈緒がリビングに入ってきた。その声には、どこか気まずさを隠そうとする朗らかさが含まれていた。
「清輝、何してんの?」
奈緒は明るく声をかけるが、返事はない。清輝は戸棚の奥を漁り続けるだけだった。
奈緒は気まずい空気を振り払うように、少し調子を上げて話を続ける。
「疲れた?学校帰りでしょ。今日は暑かったから大変だったんじゃない?」
清輝は一瞬手を止めたが、答える代わりに戸棚の中をさらに乱雑に探り続けた。その態度に奈緒は肩をすくめ、買い物袋をテーブルに置いた。
ふと目に留まったのは、テーブルの上に置かれた一枚の写真だった。埃をかぶったアルバムの中から見つけられたのだろう、少し黄ばんだ紙の上には幼い清輝と、高校生だった頃の奈緒が写っていた。
「あら、懐かしい。こんな写真、まだあったんだ。」
奈緒は写真を手に取り、懐かしむように目を細めた。その表情には、過去を思い出す穏やかさが漂っていた。
「これ、あたしが高校生の頃のだよね……。あの頃、ほんといろいろあったなぁ。」
その一言に、清輝は顔を上げず、低い声で呟いた。
「……いろいろ、ね。」
奈緒は気にするそぶりも見せず、写真をじっと見つめながら話を続けた。
「清輝、覚えてる?あの頃、よく二人で母さんに叱られてたよね。あたしが何かやらかして、それに巻き込まれる形で清輝も怒られたりしてさ。」
軽い笑い声を交えながら奈緒がそう言うと、清輝の手が止まり、肩がピクリと動いた。
「喧嘩もいっぱいしたよね。覚えてる?あたしが清輝のノートに落書きして、清輝が泣きそうになって……でも、最後には母さんが仲直りさせてくれて。」
奈緒は写真を手にしたまま、ほんの少しだけ声を落として笑った。その声にはどこか懐かしさが含まれていたが、清輝にとっては耳障りな音にしか聞こえなかった。
「そういうのも、今となってはいい思い出だよね。」
奈緒が微笑んでそう言ったとき、清輝は勢いよく立ち上がった。そして、奈緒に向かって振り返りながら写真を指差した。
「……ふざけんなよ。」
奈緒は驚いて顔を上げた。清輝の目には怒りが浮かび、握りしめた拳が震えていた。
「いい思い出だって?喧嘩もいっぱいしたって?お前さ……何言ってんの?」
奈緒はその言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐに口を開こうとした。
「いや、そんなに怒ることじゃないでしょ。別に悪い意味じゃなくて――」
「悪い意味じゃなくて?お前が家の中でどれだけ迷惑かけてたか、忘れたのかよ?」
清輝は声を荒げながら、テーブルに置かれた写真を手に取ると、乱暴に丸め始めた。
「こんなの……俺にとっちゃ思い出したくもない過去だ!」
「やめて!」
奈緒は思わず手を伸ばし、写真を守ろうとした。けれど、清輝の手は止まらない。
「お前にとっては、ただの懐かしい話かもしれない。でも俺にとっては……」
清輝の声が震えた。そして、一瞬言葉を詰まらせたあと、声を荒げた。
「あの頃の家の空気、全部お前が壊してたんだよ!お前がいなけりゃ、もっと平和だったはずだ!」
奈緒の表情が一瞬こわばった。だが、すぐに目を伏せ、低い声で呟いた。
「……清輝、何も分かってないんだね。」
その一言が、清輝をさらに逆上させた。
「分かってないのはお前だろ!母さんと親父がどれだけ気を使ってたか、分かんねぇくせに!」
清輝の息遣いは荒くなり、肩を上下させながら写真を床に叩きつけた。
「家族だ?笑わせんな。お前がどれだけ家を掻き回してたか、知ってんのかよ!?」
その言葉とともに、清輝は感情のままに奈緒の肩を掴み、そのまま力任せに押し倒した。
奈緒は目を見開き、驚きと恐怖の入り混じった表情を浮かべた。
「清輝、やめ――」
その声を遮るように、清輝の拳が奈緒の頬を打った。乾いた音がリビングに響き渡る。
奈緒はソファに崩れ落ち、片手で頬を押さえた。そこには、赤く腫れた痕が浮かんでいる。
清輝はその場に立ち尽くし、荒い息遣いを繰り返していた。肩を上下させながら、拳を見つめている。
「……お前なんか……生まれてこなきゃよかった。」
そう呟いた声には、怒りだけでなく、虚しさと後悔の色も混じっていた。
奈緒は何も言わなかった。ただ静かに涙を流しながら、目を閉じたまま清輝を見つめていた。
清輝は、自分の拳を見つめていた。荒い呼吸が止まらない。目の前にいる奈緒の頬は赤く腫れ、彼女は痛みに顔をしかめながら、ソファの背もたれに体を預けていた。その瞳は、清輝をじっと見つめている。
「……あ……」
清輝は何かを言おうとしたが、声が出ない。ただ荒い息遣いが、静まり返ったリビングに響いていた。さっきまでの怒りが、胸の中で急速に冷めていく。その代わりに訪れたのは、罪悪感と恐怖だった。
「……姉ちゃん……」
奈緒は口を開かず、少しだけ息を整えるようにゆっくりと呼吸をしていた。そして、震える手で腫れた頬に触れながら、小さく呟いた。
「清輝……」
その声は驚くほど穏やかだった。怒りも悲しみも感じさせない。ただ、疲れ切った響きがそこにあった。
清輝は何かを言わなければならないと思った。謝らなければならないと、頭のどこかで分かっていた。だが、口を開こうとするたびに、喉の奥に引っかかるような感覚に襲われた。
「……姉ちゃん……俺……」
そのとき、奈緒が顔を上げた。その目には涙が滲んでいたが、どこか覚悟のような光が宿っていた。
「……全部……私が悪いんだよね。」
清輝はその言葉に、思わず息を飲んだ。奈緒は力なく笑いながら、ゆっくりと体を起こした。
「私がいなかったら、清輝は……もっと自由に、自分の道を歩いていけたのかな……」
奈緒の声は震えていた。まるで今にも消え入りそうなほど小さな声だったが、その言葉は清輝の胸を深く突き刺した。
「……私が、余計な存在だったんだよね。清輝にとっても、お母さんにとっても……」
清輝は何も言えなかった。頭の中が真っ白になり、ただその場に立ち尽くしていた。
奈緒は俯いたまま、震える手で腫れた頬を押さえ、続けた。
「もし私がいなくなったら……清輝はもっと、楽に生きられる?……自分の道を、ちゃんと見つけられる……?」
その言葉がリビングに響いた瞬間、清輝の中で何かが崩れるような音がした。彼女の弱々しい声、その無防備な姿が、彼の心を締めつけた。
「……ふざけんなよ。」
清輝は震える声でそう言いながら、頭を抱え込むように膝をついた。
「今更……そんなこと言うなよ……」
彼の声には怒りはなかった。ただ、苦しさと後悔が滲んでいた。自分がしたこと、言ったこと、そのすべてが奈緒をこんなふうに追い詰めてしまったのだと思うと、胸が押し潰されそうだった。
奈緒は力なく笑い、かすかに首を振った。
「……清輝、あんたがどんなに私を嫌ってても、私はあんたの味方だからね。どんなことがあっても……」
清輝は頭を抱えながら膝をついていた。奈緒の声が頭の中で何度も反響する。「私がいなくなったら……」という言葉が、まるで針のように胸に突き刺さる。
「……やめろよ……」
清輝の声は震えていた。奈緒のその言葉に耐えられなくなり、顔を上げると、彼女の表情が目に入る。腫れた頬を押さえながら、どこか諦めたような、それでもどこか愛おしげな視線で彼を見ている。
「やめろよ!!」
清輝は叫ぶように声を上げ、両手で頭を抱える。奈緒の声が耳をつんざくように残り続けていた。
視界が急に揺れるような感覚に襲われ、清輝は助手席で目を覚ました。外はもう真っ暗で、高速道路の灯りが窓越しに交互に流れていく。ロードスターのエンジン音が低く響き、走行中の振動が心地よく体を揺らしている。
「お、やっと起きたか。」
麗花の声が響く。清輝は目をこすりながら運転席を見た。麗花は片手で軽くハンドルを回しながら、視線を道路に固定している。
「すみません……寝てましたか?」
清輝は申し訳なさそうに言うと、麗花はため息をつきながら鼻で笑った。
「あったりまえだ。お前、ずっと隣で『はぁはぁ』息荒げてんだぞ。悪夢でも見てたんじゃねぇかと思ったわ。」
「すいません……いや、すいません。」
清輝は頭を掻きながら、なんとなく窓の外に視線を向けた。次々と流れていく街灯が、道路の路面に長い影を作っている。
ふと前方に設置された情報板が目に入った。電光表示で「寄居PA付近 事故 渋滞8km」の文字が流れている。
「おいおい……」
麗花が舌打ちをしながらスピードを緩める。
「寄居で事故だってよ。渋滞8キロとか、冗談じゃねぇな。」
そう言いながら麗花は腕時計に目を落とし、続けた。
「このままじゃ間に合わねぇ。上里で降りるか。」
清輝は少し目を丸くして、彼女の判断の速さに感心したような表情を浮かべた。
「それで間に合うんすか?」
「ギリギリだけどな。ま、降りた後は山道ぶっ飛ばすしかねぇだろ。」
麗花はウインカーを出し、スムーズに減速しながら上里スマートICの出口へ車を滑り込ませた。
インターチェンジを降りると、車は再び一般道に入った。周囲には夜の静けさが漂い、街灯の明かりがぽつぽつと点在しているだけだった。
「ふぅ……こうなると、まっすぐ長瀞抜ける道で行くしかねぇな。」
麗花がそう言ってアクセルを踏み込むと、ロードスターはスムーズに加速した。
「やっぱ、高速のほうが楽ですね。」
清輝がぼそりと呟くと、麗花はちらりと彼を見て鼻で笑った。
「楽に行けたらそれでいいけどよ、人生も道路も思い通りにはいかねぇんだよ。こういう時こそ、どうやって切り抜けるかが大事ってもんだ。」
清輝は麗花の言葉に小さく頷きながら、窓の外の景色に目をやった。車のヘッドライトが夜道を照らし、その先のカーブが次々と現れる。周囲は山間の静けさに包まれ、聞こえるのはロードスターのエンジン音だけだ。
「夜の開店、間に合うんですかね?」
清輝が恐る恐る尋ねると、麗花は苦笑いを浮かべながら答えた。
「正直、きっついな。でも常連連中には文句言わせねぇよ。店が開きゃ、それでいいんだよ。」
車は長瀞の街を抜け、秩父方面へ向かって滑らかに進んでいく。山道に差し掛かると、くねくねと曲がるカーブが続き、ロードスターは軽快な動きでそれを次々とこなしていった。
「……でも、麗花さんの運転、本当にスムーズですね。」
清輝がポツリと呟くと、麗花は軽く笑った。
「当たり前だろ。どんなに急いでてもな、焦って運転するほど馬鹿じゃねぇからさ。」
カーブを抜けるたびに、遠くの町の明かりがちらちらと見え隠れする。清輝はその景色を眺めながら、助手席で静かに息を整えた。どこか不安定だった心が、麗花の穏やかな運転と声によって少しだけ落ち着きを取り戻していくような気がしていた。
そして、秩父の街並みが徐々に近づいてきた頃、麗花は軽くハンドルを回しながら言った。
「さぁ、ここから本気で間に合わせてやるよ。」
彼女のその声には、ほんの少しだけ笑みが滲んでいた。