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16話.清輝学校辞めるってよ

 翌朝。昨日の雨が嘘のように、空は澄み渡る快晴だった。窓から差し込む朝陽がカーテンの隙間から部屋を明るく照らし、真希は目をこすりながらベッドから体を起こした。湿気の多い6月の空気が部屋にこもり、窓を開けると、少し生暖かい風がふわりと入り込んでくる。


「……ちょっと蒸し暑いかも。」


 布団を整え、寝癖のついた髪を手で押さえながら、真希は洗面所へ向かった。鏡の前で冷たい水で顔を洗うと、一気に目が覚める。ヘアブラシを手に取り、寝癖を直しながら、今日一日をどう過ごそうかと考えていた。


「これでいいかな……。」


 制服に着替えると、シャツの襟を直し、リボンが歪んでいないかを鏡で確認する。湿気が髪にまとわりつくような感覚に少し不快感を覚えつつも、鞄に必要な教科書やノートを詰め込み、軽く深呼吸をしてリビングへ向かった。


「おはよう。」

「おはよう、真希。」


 キッチンでは父親が朝食を用意して待っていた。テーブルにはトースト、目玉焼き、フルーツ入りのヨーグルトが並べられている。真希は椅子に腰掛けると、小さく「いただきます」と言って、トーストをかじった。


「今日は天気がいいな。これから梅雨になるから、合間の晴れは貴重だよな。」

 父親がヨーグルトをスプーンで掬いながら言う。真希は頷きながら、窓の外に広がる青空をちらりと見た。


「そうだね。でも、ジメジメしてるからすぐ暑くなりそう。」

「そうかもしれないな。水分はちゃんと取るんだぞ。」

 父親のその一言に、真希は軽く微笑みながら「わかった」と頷いた。


 玄関で靴を履きながら、真希は父親に声をかけた。

「行ってきます。お弁当、ありがとう。」

「気をつけてな。何かあったらすぐ連絡するんだぞ。」


 優しい声で送り出され、真希は軽く会釈をして家を出た。湿った空気が頬にまとわりつき、少し重たい空気を感じる。庭先では雨の名残の水滴が葉っぱからぽたぽたと落ちていて、その音がどこか心地よかった。


 電車に乗ると、通勤や通学の人々で車内は混雑していた。真希は吊り革を掴みながら、流れる窓の景色をぼんやりと眺める。昨日の雨で洗い流された街並みが、朝の光に照らされて輝いて見える。


「今日も長い一日になりそうだな……。」


 そんなことを思いながら、ふと清輝のことを思い出す。どこか憎めない性格の彼のことを考えると、自然と小さく微笑んでしまう。昨日の課題のやり取りや、お姉さんとの偶然の出会いが、心の中に鮮やかに浮かんでいた。


 学校に着き、教室に入ると、朝の空気の中でクラスメートたちの賑やかな声が響いていた。窓から差し込む光が机の上を照らし、真希は席に着くと、カバンから教科書を取り出して机に広げた。


「……今日は静かに過ごせたらいいけど。」


 そんな願いも束の間、授業が始まってしばらく経ったころ、不意に後方から何かが頭にポンッと当たった。


「……え?」


 驚いて振り返ると、教室の後方に座る清輝が片手を軽く上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。真希は少し眉をひそめながら、頭に当たった紙切れを拾い上げる。小さく折りたたまれたそれを広げると、そこには乱雑な字でこう書かれていた。


「屋上で待ってるぞ」


「……やれやれ。」


 真希は小さくため息をつき、後ろの清輝に向かって軽くOKサインを作り、そっけなく応えた。すると、清輝は「よし」とばかりに目を細めてニヤリと笑う。その態度に少し呆れながらも、真希は再びノートに目を落とし、授業に集中しようとした。


 休み時間になり、真希は教科書を閉じて軽く伸びをする。机の上に置かれたメモ紙をもう一度眺めながら、心の中で呟いた。


「……なにか用事でもあるのかな。」


 清輝の呼び出しに少し首を傾げながらも、屋上へ向かう準備を始めた。廊下を歩きながら、校内の活気に満ちた声を聞き流し、静かに階段を上がっていく。その足取りには、少しの疑問と、ほんの少しの期待が混じっていた。



 屋上に上がると、清輝は柵の近くに立ち、遠くの山々をじっと見つめていた。風が少し強く、制服のシャツが揺れている。空には黒っぽい雨雲がじわじわと広がり始めていて、時折その隙間から光が差し込んでいた。


 真希が足音を立てると、清輝は振り返り、少しだけ目を細めて笑った。


「お、来たな。ほら、あれ見ろよ。」

 清輝は指で山の方を指す。真希もその方向を見てみると、確かに遠くの空がどんよりと曇り始めている。


「雨雲が接近中だな。こりゃまた雨が降りそうだ。」


 そう呟きながら、清輝は屋上の床に腰を下ろした。そして、カバンからコンビニの袋を取り出し、中からパンを取り出すと、大きな口でかじりついた。


「……雨が降ると原付乗れねぇのが嫌なんだよな。つまんねーったらありゃしねぇ。」


 清輝の言葉を聞きながら、真希はそっと清輝の鞄に目をやる。その中に見えるはずの弁当箱の気配がないことに気づき、心の中で小さくため息をついた。


(やっぱり、家族が作った弁当は食べてないんだ……。)


 一瞬そう思ったが、口には出さず、自分のカバンから弁当箱を取り出して隣に腰を下ろした。そして、箸を取り出して弁当を広げ、食べ始める。


「……それで、何か用事があって呼んだんじゃないの?」

 真希が問いかけると、清輝はパンを飲み込むと同時に「あ、そうだった」と小さく頷いた。


「お前、皆野に住んでるんだろ?ダイソーって近いか?」

「うん、近いけど……。」

 真希が答えると、清輝は突然ポケットから小銭を取り出して、そのまま真希の手に握らせた。


「時間があったらさ、俺の印鑑がないか見てくれ。あったら買ってきてくれよ。アルバイトとか原付通学の許可にどうしてもいるんだよ。」


 真希は突然の頼みに驚きながらも、小銭を握りしめて清輝を見つめる。

「……なんで私が?」


「家探しても見つからなくてさ。んで、ふと思ったんだよ。皆野のダイソーにならあるんじゃねーかってな。」


 真希は少し呆れた表情を浮かべながら、握った小銭を見つめた。

「……それ、本当にダイソーで見つかるの?」


 清輝はパンをもう一口かじりながら肩をすくめた。

「知らねぇけど、試す価値はあるだろ。やっすいのでもいいんだ。」


 真希は短くため息をつきながら、ふと頭の中にある考えが浮かんだ。


(そういえば、清輝のお姉さん……。街中のヤオコーによく行くって言ってたな……。)


 昨日、奈緒と話したときの記憶がよみがえる。もしヤオコーに行けば、偶然彼の姉に会う可能性もあるかもしれない。そして、それをきっかけにして、清輝と姉の関係が少しでも改善できたら――。


 真希は清輝の横顔を見つめ、意を決して言った。

「あのさ、ダイソーもいいけど、ヤオコーに行けばあるかもしれないよ。」


 清輝は少し驚いたように目を細めた。

「ヤオコー?なんでまた?」


 真希は肩をすくめながら答えた。

「そこなら、印鑑コーナーみたいなのが充実してるかも。もし見つからなかったら、それこそ時間の無駄じゃないかな?」


 清輝は一瞬考え込むような仕草をしたが、すぐに「ふーん」と軽く鼻を鳴らした。

「まあ、そっちの方が確実なら、それでもいいけどよ……。」


 真希は少し笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「それに、一緒に探してあげるくらいはやってあげてもいいかな。いいでしょ?」


 清輝は驚いたように目を丸くして、少しだけ笑った。

「……おいおい、わざわざそこまでしてくれんのかよ。」


「だって、私が探すだけじゃ不安だしね。」

 真希は冗談交じりに言いながら、小銭をポケットにしまった。


 清輝は少し考え込むように視線を外し、やがて軽く頷いた。

「わかったよ。それなら頼むわ。一緒に行こうぜ。」


 真希は清輝の少し照れくさそうな表情を見て、小さく頷いた。そして空を見上げると、黒い雨雲がさらに広がり始めているのが見えた。


「……雨が降る前に行かないとね。」

 そう呟きながら、真希は弁当を食べ終え、カバンを閉じた。


 清輝もパンを食べ終え、立ち上がりながら軽く伸びをする。

「じゃ、放課後だな。予定、空けといてくれよ。」


 真希は「はいはい」と軽く答えながら、清輝と一緒に屋上を後にした。


 その日の放課後、真希は教室を出ると清輝が待っている昇降口へ向かった。外はまだ雨は降っていないものの、空には今にも泣き出しそうな雲が広がっている。


「おい、遅ぇぞ。」

 清輝は壁にもたれかかり、腕を組みながら軽く真希を見上げた。


「待たせた?悪かったね。」

 真希が少し呆れたように答えると、清輝は立ち上がり、軽くカバンを肩にかけた。


「んじゃ、行くか。ヤオコーな。」


 二人は並んで歩き出した。学校から街中にあるヤオコーまでは徒歩で少し距離があったが、清輝は特に気にする様子もなく歩いている。


 途中、真希がちらりと清輝の横顔を見た。

「ねぇ、どうしてそんなに印鑑が急ぎなの?バイトの許可と原付通学の許可だって言ってたけど。」


 清輝は足を止めずに答える。

「ああ、学校の先生にさっさと出せって言われてんだよ。手続きが遅いとめんどくせぇことになるからな。」


「先生に……。そうなんだ。」

 真希は少し納得しつつも、清輝の口調からどこか余裕のなさを感じ取った。


「それに、バイト代でガソリン代とか整備代とか、稼いどきたいんだよ。親の世話にはもうなりたくねぇしな。」

 清輝はわざとらしく明るい声で言うが、その裏に微かな影を感じた真希は、何も言わずにうなずいた。


 やがて二人はヤオコーに到着した。店内に入ると、真希は「文房具とか雑貨のコーナーにあるんじゃない?」と清輝に声をかけた。


「おう。探すのはお前の仕事だろ?」

 清輝が軽く笑いながら答えると、真希は「はいはい」と応じ、文房具コーナーへ向かった。


 しばらく棚を眺めていると、印鑑が並んでいるコーナーを見つけた。ひらがな、カタカナ、漢字の三種類があり、それぞれの名前が小さく書かれたパッケージが整然と並んでいる。


「信濃……あった!」

 真希が手に取った印鑑を確認して振り返ると、清輝が少し離れたところで店内を見回していた。


「これでいい?」

 真希が印鑑を見せると、清輝は近づいてきてそれをちらりと確認し、「おう、いいんじゃね?」と軽く頷いた。


「じゃあレジ行こうか。」

 真希がそう言うと、清輝は「俺が払う、ついでにチョコレートでも齧りながら帰りなさい、お駄賃だ」と手を出してきた。真希は印鑑を渡し、二人でレジに向かった。


 会計を済ませて店を出る頃には、空からぽつりぽつりと雨が降り始めていた。


「ギリギリ間に合ったな。」清輝がポツリと呟き、印鑑の袋を軽く揺らして見せた。


「ほんとに。傘持ってきてないんだから、早く帰らないと濡れるよ。」

 真希が少し急ぎ足で歩き出すと、清輝は笑いながら後ろからついてきた。



 二人がヤオコーを出ると、真希はふと立ち止まり、辺りを見回した。駐車場にはいくつか車が止まっているが、清輝の姉が乗っているハスラーの姿は見当たらない。


(……今日は来てないみたいだな。)


 心の中で少し残念に思いながらも、真希は「まあ、毎日買い物に来るわけじゃないか」と自分に言い聞かせるように呟いた。そして、歩き出した清輝の背中に声をかけた。


「ねぇ、アルバイトって何するの?」

「居酒屋のバイトだよ。夏休み中だけするつもり。」


 清輝は肩越しに軽く振り返りながら答える。その声はどこか淡々としていたが、真希は少し驚いた表情を浮かべた。


「居酒屋か……大変そう。」

「まあな。でも、マネージャーの仕事も佳苗に取られちまったし、夏休みなんて暇だろ?だったら稼げるうちに稼ごうと思ってさ。」


 清輝の言葉に、真希はふと思い立ったように声を上げた。

「じゃあ、私もやっていい!?」


 清輝はその言葉に一瞬足を止め、振り返ると真希をまじまじと見つめた。

「……そりゃ、別にいいけどよ。体は大丈夫なのかよ?」


 真希は胸を張り、少し得意げな表情で答える。

「あったりまえでしょ……たぶん。でも、親が許してくれるかどうかが問題かな。」


 その言葉に清輝は呆れたように軽く鼻で笑い、歩き出しながら小さく頭をかいた。

「親に許可もらうのが先だろ。それに……期末テストの結果もな。」


「うっ……。」

 図星を突かれた真希は言葉に詰まったが、すぐに「別に問題ないし!」と少し強がるように返した。


 清輝は真希の様子を見てニヤリと笑い、彼女の横を追い抜きながら軽く肩をすくめた。

「最近、行動力あるじゃねぇか。でもさ、バイトするなら勉強くらいちゃんとしろよな。……ま、俺が付き合ってやんよ。」


「本当に?付き合ってくれるの?」

 真希は少し驚きながらも、その言葉に内心嬉しさを感じた。


「おう、勉強だけな。他は知らねぇぞ。」

 清輝は後ろ手に軽く手を振りながら、前を歩き続ける。その背中を追いかけながら、真希は小さく微笑んだ。


(なんだかんだ言って、清輝って頼れるんだよね……。)


 本格的に雨の降り出しそうな空の下、蒸し暑い空気がじっとりと体にまとわりつく中、二人は歩き続けていた。道端のアスファルトには、昨晩の雨が残した水たまりがところどころ輝いている。


「なぁ。」

 清輝がふいに口を開く。

「親、厳しいのか?」


 唐突な問いに、真希は少し首を傾げながら答えた。

「厳しい……ってほどでもないけど、ちゃんとルールはあるよ。帰るのが遅くなるときは連絡しろとか、勉強もちゃんとしろとか。」


「そっか。」

 清輝は軽く頷きながら、目線を前に向けたままだ。

「まあ、お前なら真面目にやってそうだしな。」


 真希は少し笑いながら、彼の横顔を見た。

「それが急にどうしたの?なんか変なこと聞くね。」


 清輝は鼻を鳴らしてから、ふっと息を吐くように言った。

「いやさ、大事にされてるようで何よりって思ってさ。」


 その言葉に、真希の笑顔が少し引きつる。しばらく黙った後、真希は歩きながら視線を地面に落とした。

「……でもね、私のお母さんは、もういないよ。」


 清輝はその言葉に思わず足を止めた。

「え……。」

 少し間を置いてから、低い声で続ける。

「……悪い。聞いちゃいけないことだったな。」


「別に気にしてないよ。」

 真希は首を振り、軽く微笑んで見せた。だが、その表情にはどこか寂しさが滲んでいる。

「お母さん、私と同じ病気で死んだの。そんなに重く考えないでいいから。」


 清輝は口を開こうとするが、言葉が出てこない。少しの沈黙の後、真希が軽い声でからかうように言った。

「でも突然そんなこと聞くなんて、なに?不気味なんだけど。」


 その言葉に清輝は苦笑いし、肩をすくめた。

「だよな。気色悪いよな。」


 二人は再び歩き出す。だが、次の瞬間、清輝はふいに足を止めた。振り返ると、真希の方をじっと見つめる。


「……俺さ。」

 清輝は一呼吸置いてから、どこかためらうように言葉を続けた。

「お前には言っておこうかなって」


 その言葉に真希は驚き、彼の顔を見上げた。だがそのとき、踏切の遮断機が降りる音とカンカンという警告音が響き渡る。清輝の言葉はその音にかき消され、聞き取れなかった。


「えっ?」

 真希は聞き返そうとするが、清輝の口の動きを見て、彼がこう言ったことを読み取る。

「学校やめて、家を出ようかと思ってんだよね。」


 真希の心臓が一瞬止まったかのような感覚に襲われる。すぐに口を開き、大きな声で叫んだ。

「絶対ダメ!」


 清輝はその反応に少し驚いたような表情を浮かべ、苦笑いを浮かべた。

「いや、その反応……たぶん烈志に言わなくてよかったわ。同じこと言われそうだしな。」


 その声にはどこか力がなく、真希は彼の顔をじっと見つめた。遮断機の向こうには、列車が通り過ぎる音が鳴り響いていた。


「なんで……?そんなのダメだよ……。」

 真希の声は震えていた。絞り出すようなその声には、驚きと困惑、そしてどこか悲しみが混じっている。小さく握りしめた拳が、彼女の動揺を物語っていた。


 清輝は顔をそむけ、ため息をつきながら空を見上げる。どんよりと広がる雨雲が、そのまま彼の心を映し出しているようだった。


「……ウチの家族さ、表面上は何も問題ないんだよ。母さんだって、姉ちゃんだって、それなりに俺のこと気にかけてるし……いや、気にかけすぎてるのかもしれない。」

 清輝は静かな声でそう言ったが、その目にはどこか苛立ちが浮かんでいた。


「でもな、俺はずっと思ってるんだ。……親父は俺のこと、嫌っててほしいって。」


 真希はその言葉に思わず息を呑んだ。清輝の言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「だってさ、親父は俺みたいなガキを本気で愛するなんて無理だろ。俺はあの人にとっちゃ、ただの責任の残骸だよ。『清輝』なんて名前つけてさ、適当に作っただけのガキだ。」

 清輝の言葉はどこか投げやりだったが、その声には微かな震えが含まれていた。


「姉ちゃんだって、血は繋がってない。まあ、姉ちゃんは姉ちゃんで、母さんと違って親父に似すぎてるせいで……あの顔を見るだけで、俺は嫌になるんだ。」


 真希は一瞬言葉を失ったが、それでも必死に問いかけた。

「……でも、清輝君のこと、本当に嫌ってるのかな?それって、思い込みなんじゃない?」


 清輝はポケットから一枚の紙を取り出した。それは、進路希望書だった。だが、そこには何も書かれていない。


「いや、そう思ってなきゃやってられないんだよ。俺はあの人たちから嫌われてるって、そう思い込んでないと、耐えられない。」

 清輝は紙を軽く振りながら、苦笑を浮かべた。


「大学に行くのも金がかかる。親父に頼るなんて気も起きないし、そもそも払ってくれるとも思えない。それに、こんな俺が親父の金で高校通ってるって思うだけで、胸糞悪いんだよ。」


 真希はその言葉を聞いて、清輝の胸の内に溜まった感情の重さを初めて理解した。そして、握りしめた拳をさらに強くしながら、震える声で叫んだ。


「何もかもが軽すぎるんだよ!」

 その声には、彼女自身も驚くほどの強い感情が込められていた。


 清輝は一瞬目を見開いたが、すぐに小さく鼻で笑うような音を立てた。

「軽いだろうな。何も考えてないって、もう言われ慣れてるよ。」


 その言葉を吐き捨てるように言うと、清輝はその場にしゃがみ込んだ。そして、自分の拳をじっと見つめる。


「昨日、姉ちゃんを……姉ちゃんに手を上げちまった。」

 ぽつりと漏らしたその言葉に、真希は思わず息を呑んだ。


「……向こうも悪いんだよ。でもさ、俺……もう取り返しのつかないことをしたんだ。あれで、家族としての最低限のラインも越えた。いや、越えちまってたのかもな……。」


 清輝の声は震えていた。拳を見つめるその目には、いつもの軽口や皮肉は影も形もなかった。ただ、深い後悔と、自分自身への嫌悪感だけが浮かんでいた。


 真希はその言葉を受け止めながら、震える手を自分の胸元で握りしめた。雨が降り出しそうな空の下、二人の間には重い沈黙が広がった。


 重い沈黙が二人の間に広がる中、清輝はふいに立ち上がった。真希を振り返らず、軽く手を振りながらポツリと言った。


「わりぃ、やっぱなんでもねぇや。」


 その言葉と同時に、彼は踵を返し、足早に走り出した。真希はとっさに手を伸ばす。


「待って、清輝君!」


 だが、その声も、伸ばした手も、清輝には届かなかった。掴むべきだった清輝の背中は、あっという間に遠ざかり、踏切の向こう側へと消えていった。


 真希は伸ばした手をそっと下ろしながら、じっと立ち尽くしていた。胸の中に湧き上がる焦りと不安、そしてどうしようもない無力感。それらが押し寄せてくるのを感じながら、彼女は静かに目を閉じた。


 その夜、真希は机に向かい、教科書を広げていたが、ページをめくる手は止まっていた。視線は教科書の文字の上を滑っているだけで、何一つ頭に入らない。


(清輝君、どうしてあんなことを言ったんだろう……。)


 心の中に浮かぶのは、彼のうつむいた横顔と、震える声。そして「取り返しのつかないことをした」という言葉。真希の胸に鋭い痛みが走った。


(私、清輝君のこと、何も知らなかった……。)


 そう思ったとき、ふと奈緒の顔が頭に浮かんだ。数日前、彼女と偶然ヤオコーで出会ったときのこと。真希は一瞬だけ迷ったが、すぐに思い出した計画が胸を刺した。


(……あの時、私は……清輝君とお姉さんを無理やり仲直りさせようなんて、勝手なことを考えてたんだ。)


 その考えが胸の奥から沸き上がるたび、罪悪感が真希の心を締めつけた。


(清輝君にとって、姉との関係はそんな簡単なものじゃなかったのに……。)


 自分の軽率さに気づいた瞬間、真希は机の上で拳を握りしめた。


「……私、何をしてたんだろう。」


 小さく呟くその声は震えていた。どうすればよかったのか、何が正解だったのか――真希にはわからなかった。ただ、自分の中の「正しさ」を押し付けようとしていたことが、清輝を傷つけたかもしれないという思いが、彼女を苦しめた。


 真希は椅子にもたれかかり、窓の外に目をやった。雨が降る気配はなく、静かな夜が広がっている。でも、その静けさが、彼女の胸のざわめきを余計に強調するようだった。


 次の日、木曜日。真希は清輝を見かけることはなかった。いつもなら後方の席に座っているはずの彼の姿がない。クラスメートたちの雑談の中にも、清輝の名前は出てこなかった。


(……休みなのかな。)


 そう思いつつも、真希の胸には不安が広がっていった。


 翌金曜日。清輝の席は再び空いたままだった。


 放課後、真希は昇降口で靴を履き替えながら、ふと外の空を見上げた。梅雨の合間の晴れた空。けれど、彼女の心にはどんよりとした曇り空が広がっているようだった。


(清輝君、どうしてるのかな……。)


 その問いは空しく心の中でこだました。やがて真希は一歩踏み出し、学校を後にした。彼女の背中に、夏の湿った空気がじっとりとまとわりついていた。


 昼休みの教室。真希はちらりと烈志の席を見ると、彼は机に突っ伏して眠っていた。朝練の疲れだろうか、肩を上下させながら静かに寝息を立てている。


 少し迷ったが、真希は意を決して烈志の席へ向かった。近づいて声をかける。


「烈志くん……ちょっといい?」


 烈志はゆっくりと顔を上げ、寝ぼけた表情で真希を見た。そしてすぐに目をこすりながら「おう、どうした」と返す。


「清輝くんが……2日も学校休んでるんだけど、何か知ってる?」


 真希の真剣な表情に、烈志は大きく伸びをしながら軽くため息をついた。


「清輝か……困ったもんだな。まあ、別に初めてでもねぇよ。」


 その言葉に、真希は少し驚いた表情を浮かべる。「え?そうなの?」


「どうせまた親と喧嘩でもしたんだろうよ。アイツのことだ、いつものことさ。」


 そう言いながら烈志は肩をすくめた。その態度が、どこか突き放しているようにも見え、真希は不安げな表情で問いかける。


「親友なら、どうにかしてやろうって思わないの?」


 その言葉に、烈志は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに軽く鼻で笑った。そして、真希をまっすぐに見つめながら答えた。


「友達だから、何もしないのさ。」


 その言葉に真希は驚き、「そんなの卑怯だよ!」と声を上げた。烈志は少しだけ苦笑いを浮かべ、机に肘をつきながら真希を見上げる。


「じゃあ、お前は家族の喧嘩に親友が首突っ込んでほしいか?」


 烈志の言葉は的を射ていた。真希は何も言い返せず、視線を落とすしかなかった。


「俺にできることは、学校では変わらず接してやることだ。それで十分だと思ってる。」


 烈志は真剣な口調でそう言い切る。その声には、清輝への深い信頼と、変わらない友情が滲んでいた。


「……相談して損した。」


 真希はそう言って軽くため息をついたが、その表情はどこか悔しげだった。烈志はそれを聞いて少し肩をすくめたが、すぐに腕を組んで考え込むような仕草を見せた。


「……うーむ、困ったなぁ。」


 その声に、真希は少しだけ顔を上げて烈志を見た。その目は何かを期待しているようでもあった。


 烈志は少し間を置き、ふと唐突に言葉を紛れ込ませる。


「姉ちゃんの店に最近転がり込んだ馬鹿野郎がいるんだっけな。」


 その言葉に、真希は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。


「え……?」


 烈志の言葉の意図が掴めないまま、真希は続きを待った。その空気の中、烈志は腕を組んだまま、何かを考え込んでいるように見えた。

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