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15話.清輝の姉

 夕方の武道館。清輝が机に広げた教科書を指しながら、柚子に課題を説明する声が響いていた。周囲にはクラス中から集められたパンやジュース、お菓子が山積みになっている。その異様な光景に、真希は思わず目を丸くしていた。


「……これ、どうしたの?」

 真希が尋ねると、清輝は肩をすくめ、得意げに答える。

「課題代行ビジネスの報酬さ。連中、答えを見せてやるだけで、ありがたがって貢いでくるんだよな。」

「闇市みたいだね……。」

 真希が呆れ気味に呟くと、清輝はニヤリと笑い、ペンをくるくると回してみせる。

「まぁな。俺の優秀な頭脳が、こんな形で役に立つとは思わなかったぜ。」


 その時、佳苗が山積みになったパンやジュースに目を向けて、眉をひそめた。

「ひょっとして、清輝……それ、毎日食べてるの?」

「ん? まあ、そんなとこ。」

 清輝があっさり答えると、佳苗は険しい顔で指摘する。

「それ、完全に栄養偏ってるよ。そんな生活続けてたら、いつか倒れるってば。」

「別に死なねぇだろ。」

 清輝が軽く言い放つと、佳苗は「ほんとに適当なんだから……」とため息をついた。


「まぁ、それよりあっち行けよ、佳苗さんよ。今は大事なお勉強会中なんだからな。」

 そう言いながら、清輝は柚子の課題に目を落とす。数秒見ただけで顔をしかめ、苦笑を浮かべた。

「こりゃひでぇ。小学生からやり直せ、風紀委員さんよ。」

「えー!?そんなに悪い!?」

 柚子が身を乗り出して課題を見るが、清輝は淡々と訂正を始める。

「ほら、ここの計算。途中で掛け算と足し算ごっちゃになってるし、このグラフの描き方も違う。公式、使い忘れてるだろ?」

「うっ……だってわかんないんだもん!」

 柚子が顔を赤らめて反論するが、清輝は「はいはい」と流しながら丁寧に説明を続けた。


 そんな中、武道館の奥から突然、大きな叫び声が響いた。

「ひえぇぇぇぇ!!!」

 叫び声の主は正樹だった。その声に反応して、烈志もすぐに叫び始める。

「うおおおおお!出たぞ!清輝、ゴキブリだ!」

「ゴキブリ!?どこだ!?」

 清輝が慌てて振り向くと、烈志は指差しながら後ずさりし、正樹は壁際に走っていってよじ登った。


「ひえぇぇええ!こっち来るなぁぁぁ!!」

 正樹は壁にしがみつきながら悲鳴を上げ、烈志は動き回るゴキブリを見て、顔を青ざめさせたまま後ずさる。


「……お前ら、いい大人がそんなビビんなよ!」

 清輝が呆れたように声を上げたが、二人のパニックは収まらない。


「……俺がやるしかねぇのかよ。」

 清輝がため息をつきながらゴキブリを追い払おうとしたその時、不意に足元のバッグに引っ掛かり、バランスを崩した。

「うわっ……!」

 ガタンッという音とともに、バッグが床に倒れ、中身が少し飛び出す。


「あっ、これ……。」

 真希はバッグから飛び出した弁当箱に気づき、それを拾い上げた。そして、中に何かが入っていることを確認すると、不思議そうな顔で清輝に尋ねた。

「清輝、これ弁当入ってるけど……食べないの?」

 その問いに、清輝は視線を逸らしながらそっけなく答える。

「別にいいだろ。」


「せっかく持ってきたんだから、ちゃんと食べなよ。」

 真希が少し困ったように言うが、清輝は肩をすくめて取り合わない。


「……で、そのゴキブリ、どうするんだ?」

 真希が呆れ気味に尋ねると、清輝は苦笑いしながら答えた。

「さっきから探してんだろ。お前ら、正樹、烈志!さっさと戻ってこい!」


 しかし、正樹は「ひえぇええ……!」と震えながら壁にしがみつき続け、烈志も動けずにその場に立ち尽くしている。


 清輝は再びため息をつきながら、目の前のゴキブリに向かって近づいていった。


「まったく、なんで俺がこんな仕事しなきゃなんねぇんだよ……よし、見てろよ。」

 清輝は教科書を丸め、ゴキブリをじっと睨みながら狙いを定めた。


「ほんとにやるの……?」

 真希が少し引いたような顔で尋ねるが、清輝は肩をすくめて自信満々に言い放つ。

「これくらい、余裕だっての。俺を誰だと思ってんだよ。」


 ゴキブリがわずかに動いた瞬間、清輝は「そこだ!」と叫んで教科書を振り下ろした。しかし、ゴキブリは軽々とそれを避け、ふわりと空中へ舞い上がった。


「うわっ、飛んだ!?」

 清輝は顔を引きつらせ、後ずさりする。


「ひぇぇぇぇっ!飛ぶのは反則ですぅぅ!」

 正樹が悲鳴を上げながら壁際に追い詰められ、烈志も「なんでゴキブリって飛ぶんだよぉ!」と恐怖に顔を青ざめさせていた。


 そのとき、ドアが開く音がして、スポーツドリンクを手にした佳苗が戻ってきた。


「何やってんの、あんたたち。」

 佳苗は冷静に状況を見渡すと、近くに立てかけられていた箒を手に取った。そして、飛び回るゴキブリを目で追い、狙いを定める。


「え、佳苗さん、まさか――」

 真希が驚いて声を上げる間もなく、佳苗は軽く息を吐き、「はいはい、どいて」と一言だけ言い放ち、「パシッ!」と箒を振り抜いた。


 ゴキブリは一撃で叩き落とされ、床を転がった後、佳苗によって外へと掃き出された。何事もなかったかのように箒を戻した佳苗は、手にしていたスポーツドリンクをテーブルに置きながら呟いた。


「ほんと、何やってんのよ。」


 清輝は唖然としながら佳苗を見つめ、ようやく口を開く。

「……さすがだな。廃部になっても薙刀部の元部長。動体視力だけはマジで天下一品だわ。」


「別に薙刀のおかげってわけじゃないけどね。ただの慣れよ。」

 佳苗がさらりと言うと、清輝は「いやいや、あれは慣れじゃできねぇよ……」と苦笑いを浮かべた。


 その横で、烈志が震える声を上げる。

「ひぇぇ……俺、柔道辞めようかな……。」


 佳苗はその言葉にピシャリと返す。

「そんなこと言ってるようじゃ、柔道どころか人生も続けられないわよ!」


「いやいや、ここの武道館にはあと500匹くらいゴキブリいるかもしれないって、清輝先輩が――」

 烈志が言いかけると、清輝がニヤリと笑いながら肩をすくめた。


「おい、冗談だって。そんなにいたら俺だって柔道部辞めるわ。」


「やめてよ、もう……!」

 正樹は壁に張り付いたまま、小さな声で泣きそうになりながら呟いた。


「男子がこんなんでどうすんのよ、ほんとに。」

 佳苗は呆れたように肩をすくめながら、箒を壁に立てかけた。


 そんなやりとりに、真希と柚子は思わず目を見合わせ、笑いを堪えることができなかった。



 武道館での勉強会がようやくひと段落し、柚子の課題も無事終了した。外を見れば、すでに日はどっぷりと暮れ、辺りは夜の静けさに包まれていた。


 烈志と正樹は練習試合に向けての基礎練習を終え、白珠高校の相手選手についてリサーチした資料を広げていた。正樹はその内容に目を輝かせながら、しっかりと耳を傾けている。


「おっす!烈志先輩!やっぱり勉強になります!」

 正樹が満面の笑みでそう言うと、烈志は少し照れたように「おう、ちゃんと覚えとけよ」と返しながら、真剣に資料を確認している。


 その光景を見た真希は、佳苗にぽつりと呟いた。

「烈志って、すごく研究熱心なんだね。」


 佳苗は少し得意げな表情で頷いた。

「でしょ?部活が終わっても、家に帰るだけじゃなくて、地区の武道館でさらに強い人たちと練習してるんだよ。ほんとタフだよね。」


 その言葉には、どこか誇らしさが滲んでいた。真希は「本当にすごいね」と感心しながら、烈志の真面目さに改めて感動していた。


 そんな中、武道館の入口から柴崎先生の大きな声が響いた。

「おい、もう下校時間過ぎとるぞ!ワシが鍵閉めるから、はよ片付けて帰れ!」


「おーい、早くしろよー」

 清輝が鞄を持ちながら、のんびりした声を上げる。その声に、佳苗は目を細めながらピシャリと返した。

「あんたが一番遅いんだけど!」


 清輝は「俺は最後に片付ける派なんだよ」と、どこか適当な言い訳をして笑った。佳苗は呆れたようにため息をつきながら、「ほんといつもそうだよね」とぼやく。


 それぞれ急いで支度を済ませ、武道館を後にすることに。駅を中心に皆が別れて帰ることになり、烈志と佳苗は肩を並べて先に去っていった。


 真希は、鞄を肩にかけながら駅へと向かう途中、スマホが振動しているのに気づいた。画面には「父親」の名前が表示されている。電話に出ると、父親の穏やかな声が聞こえてきた。


「真希、今どこだ?」


「武道館でみんなと勉強してて……ごめん、帰るの遅くなっちゃった。」

 真希は少し申し訳なさそうに答えたが、父親は気にする様子もなく、「そっか」と軽く受け流した。


「ちょうどいい。味噌汁を作ったんだけど、肝心の味噌が切れてたんだよな。」


 その言葉に真希は、思わず苦笑いを浮かべながら聞き返す。

「味噌がないのに味噌汁作ったの?」


「まぁ、具はあるんだ。味噌さえあれば完成する。」

 父親は少し笑い声を混ぜて返しながら続けた。


「立て替えるから、ヤオコーで味噌を買ってきてくれないか?」


「わかったよ。」

 真希は電話を切り、少し歩くスピードを上げた。


 夜の静かな街を歩きながら、頭の中には家で待っている父親の姿が浮かぶ。何気ないやり取りに、どこか温かさを感じながら、真希は足を進めた。


 ヤオコーの店内は、夕方の買い物客で程よく賑わっていた。真希は味噌売り場の前に立ち尽くし、ずらりと並ぶ様々な味噌を前に困り果てていた。


「赤味噌、白味噌、合わせ味噌……どれがいいのかわかんない……。」

 商品の裏に書かれた説明を読んでは首を傾げるが、決め手が見つからない。値段を見るとピンキリで、一層迷ってしまう。


「……もう、一番安いのでいいか。」

 そう呟いて、特売の棚にあったシンプルな袋入り味噌を手に取りカゴに入れる。お財布事情を考えればこれが一番だと自分を納得させた。


 レジに並んでいると、ふと目の前の客が何かを忘れていることに気づく。小さな小銭入れが、そのままカゴに置かれていた。


「あ、すみません!」

 真希は小銭入れを手に取り、慌てて声をかける。ちょうど袋詰めをしていた女性が驚いたように振り返った。


 肩につくくらいのセミロングの黒髪に、控えめなメイク。柔らかなアイボリーの制服に身を包み、華奢なメガネが知的な印象を与えている。穏やかな笑顔が印象的な、30歳前後の女性だった。


「あの、これ……忘れてましたよね?」

 真希が小銭入れを差し出すと、女性は目を見開き、自分のカゴを確認して「あ……!」と声を漏らした。


「ありがとうございます、すっかり忘れてました……助かりました。」

 深々と頭を下げるその仕草には品があり、真希は思わず「いえいえ」と微笑みながら返した。


「あの、もしかして……どこかでお会いしました?」

 女性が首を傾げながら真希をじっと見つめる。その視線に、真希もハッとある記憶を思い出す。


「……えっと、道の駅で……?お会いしたことありますか?」

 真希がそう尋ねると、女性の顔がぱっと明るくなった。


「そうです!思い出しました、あのときお話しましたよね。」

 女性は嬉しそうに微笑む。


「私、秩父市役所の広報課で働いているんです。取材で道の駅に行ったときにお会いしたんですよ。」

「広報課……。」

 真希は意外な縁に驚きながらも、女性の落ち着いた声に安心感を覚えた。


 そのとき、女性のスマートフォンが鳴り響いた。

「あ、すみません。電話みたいなので……。」

 彼女は軽く真希に会釈をし、スマートフォンを取り出す。そして通話を始めながら、真希に向けて足早に「ありがとうね」と一言だけ残し、その場を離れた。


 その瞬間、彼女の第一声が耳に飛び込む。

「もしもし、信濃です。」


 その言葉を聞いた瞬間、真希の中で何かが繋がった。

「信濃……?」


 頭に浮かんだのは、清輝の顔。あの女性の上品な仕草と穏やかな雰囲気が、清輝の粗野で飾らない態度とは全く結びつかなかったが、同じ名字を聞いた瞬間、疑いは確信に変わった。


「……あの人が……清輝の、お姉さん……。」


 真希は小さな味噌の袋が入ったカゴを抱えながら、彼女が去っていく後ろ姿をじっと見つめた。その足取りは優雅で、どこか凛とした佇まいがあった。


 レジの列が進み、真希は我に返るようにお財布を取り出した。会計を済ませて店を出たときも、心の中には小さな驚きと、不思議な縁に対する感慨が残っていた。



 帰り道の夜風は少し冷たく、真希は手に持った味噌の袋をそっと抱え直した。家にたどり着くと、玄関から漏れる暖かな光が出迎える。ドアを開けると、父親が台所から顔を出して声をかけてきた。


「おかえり。味噌、ありがとうな。助かったよ。」

 父親は受け取った味噌を見て、小さく笑った。真希は「どういたしまして」と笑い返しながら鞄を壁にかけた。


 キッチンでは、父親が味噌汁を作り直しているらしく、鍋の中から湯気が立ち上がり、ほのかに香ばしい香りが漂ってくる。真希は椅子に腰掛けると、テーブルに腕をつっぷして小さくため息をついた。


「疲れた……。」

 その言葉に父親は手を動かしながら振り返り、少しおどけた声で言った。

「そうか?でも最近、楽しそうじゃないか?」


 真希はその言葉に少し顔を上げて考えた。楽しそう――そう言われると、確かにそうかもしれない。佳苗や柚子、そして清輝たちと一緒に過ごす時間は、どこか賑やかで、自分でも気づかないうちに笑顔になっていた気がする。


「……そうかな。」

 曖昧に答えながらも、内心では少しだけその言葉が嬉しかった。


「弁当、毎日作ってくれてるよね。ありがとう。」

 ふと、父親の背中に向けて素直にそう言った。父親は少し驚いたように振り返り、照れ隠しのように短く笑った。

「いいんだよ。それくらいしかしてやれないからな。」


「そんなことないよ。」

 真希は椅子に座り直しながら、父親が包丁で具材を切る手元をじっと見つめた。ぎこちないながらも丁寧に作業する姿が、どこか愛おしく感じられる。


 やがて食卓には味噌汁とともに、簡単ながらも温かい夕食が並んだ。湯気の立つお椀を手に取りながら、真希は一口飲むと「おいしい」と小さく呟いた。それを聞いた父親は、照れ臭そうに笑みを浮かべた。


 夕食後、真希は自室に戻ると机に向かい、中間テストの勉強をしようと教科書を広げた。その瞬間、スマホから通知音が鳴り、画面を確認するとグループLINEからのメッセージだった。


 佳苗: 「週末、図書館で勉強会しない?」

 柚子: 「賛成~。佳苗、みんなに問題出すの禁止な?」

 佳苗: 「なんでよ!効率よくやるためでしょ!」

 柚子: 「はいはい、わかったから。真希はどうする?」


 真希は微笑みながら「いいよ、行く」と返信を打った。グループ内のやり取りはいつも賑やかで、自然と気持ちがほぐれる。週末の予定が決まったことで、少し気持ちが軽くなった。


 窓の外を見ると、ポツポツと雨粒が音を立ててガラスを叩いているのが見えた。真希は立ち上がり、窓を静かに閉める。その動作の途中で、雨に濡れる街灯の光や、暗闇の中で揺れる木々の影が目に入り、少しだけ切ないような、でもどこか心地よい感情が胸に広がった。


「週末、晴れるといいけど……。」

 小さく呟いて再び机に戻ると、窓を閉めたばかりなのに、外の雨音がほんの少し恋しく感じた。


 夜の静けさとともに勉強を始めた真希の心には、雨の音とともにどこか穏やかな時間が流れていた。



 机に向かい、真希は教科書とノートをじっと見つめていた。難しい公式や例題を何度も繰り返し読んで頭に叩き込もうとするが、集中力が少し切れてきたのを感じた。


「……一息入れよう。」


 立ち上がり、リビングに降りていくと、父親がテレビの前で野球中継を見ていた。夕食後のくつろぎの時間らしく、ソファに腰を下ろしながらビールを片手にしている。


 真希は冷蔵庫からミルクティーを取り出し、コップに注ぎながらふと父親に声をかけた。


「明日、帰りが早ければ、スーパーで何か買って作るよ。」

 その言葉に、父親は驚いたように振り返る。


「えっ?本当か?」

 思わずテレビを一時停止し、目を丸くして真希を見つめる。


「うん。献立、何でもいいよね?」

 真希は微笑みながら問いかけると、父親は少し戸惑いながらも頷いた。


「じゃあ、任せるよ。お前が作りたいものでいい。」

 父親の言葉に、真希は軽く頷きながらミルクティーを持ってリビングを後にしようとした。


 その瞬間、父親が何かを思い出したようにポツリと呟いた。


「……お母さんにも見せてやりたかったな。」


 その言葉は小さかったが、真希の耳にはしっかりと届いた。立ち止まり、振り返った真希の目に映ったのは、少し遠い目をしている父親の姿だった。


「……きっと、どこかで見ているよ。」

 父親は静かに微笑んでそう言った。その声はどこか優しく、真希への温かい想いが滲んでいた。


 真希はその言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「……うん。」

 静かに頷くと、ミルクティーを持って自室へ戻った。父親の言葉が、いつまでも心の中に響いていた。そして、その夜は静かに更けていった。



 雨が静かに降り続く翌日の午後。真希は学校から真っ直ぐ帰るつもりだったが、昨日と同じスーパーに立ち寄ることにした。父親に任された夕食の献立を決めるためだ。


「……さて、何を作ろうかな。」


 店内に入る前に、傘を畳みながら小さく呟いた。雨が肌寒く、思考もどこか鈍っていた。商品棚を見ていれば何かアイデアが浮かぶかもしれない――そう思って足を進める。


 ふと、駐車場に目を向けると、ハスラーがハザードを焚いて停車するのが見えた。その瞬間、真希の胸がドキリと高鳴る。昨日のことを思い出しながら「まさかね……」と頭を振る。


 しかし、運転席から降りてきたのは、やはり昨日会った清輝のお姉さんだった。小さな傘を開き、真希の方に気づいた彼女が優しく手を振る。


「また会ったね。」

 穏やかな声が雨の音に溶け込む。真希は思わず微笑みながら近づいた。


「こんにちは……偶然ですね。」

「ほんと偶然。こんな雨の日なのに、またここで会うなんて。」

 奈緒は軽やかに笑った。その声は昨日と変わらず落ち着いていて、品があった。


「毎日ここに寄ってるんですか?」

 真希が尋ねると、奈緒は首を軽く横に振る。


「ううん、仕事帰りに買い物が必要なときだけね。でも、真希さんはどうしたの?昨日もここに来てたけど。」

「父が味噌が切れたって言うから。今日は夕食の買い物です。」

 そう言いながら、真希はふっと肩を落とした。


「……でも、献立が全然思い浮かばなくて。」

「そう?」

 奈緒は少し考え込むように目を細めた後、微笑んで提案した。


「オーソドックスに焼きそばなんてどう?具材をたっぷり入れれば、それだけで立派なご飯になるし。」

「あ……それ、いいかもしれません。」

 真希はその案に思わず頷いた。


「弟がね、焼きそば好きだったの。ほら、清輝のことだけど。」

 さらりと話した奈緒だったが、清輝の名前を出した瞬間、自分で気づいて「あっ」と声を漏らした。


「……清輝君のことですか?」

 真希が尋ねると、奈緒は少し照れたように笑った。


「ええ。仲良いの?」

 奈緒の問いに、真希は少し考え込んだ後、小さく微笑んだ。


「えっと、仲良いというか……恩人というか、なんというか。」

「恩人?」

「いろいろ助けられてるんです、勉強とか……まぁ、あの人なりのやり方で。」

 真希が苦笑い混じりに答えると、奈緒は「そう」と短く頷きながら優しく目を細めた。


 そんなやり取りをしている間も、雨は止む気配を見せなかった。傘をさしながらふと真希の濡れたカバンに目を向けた奈緒が、少しだけ眉をひそめる。


「皆野でしょ?ここから少し距離あるし、雨も降ってる。送っていくよ。」

「えっ……でも、そんな。」

 真希は一瞬戸惑ったが、奈緒の表情は変わらず穏やかで、どこか強い意志も感じられた。


「気にしないで。それに、こういう日は早く帰った方がいい。」

 そう言われると、真希は軽く頭を下げて「ありがとうございます」と答えた。


 奈緒のハスラーに乗り込むと、車内には心地よい温かさが広がっていた。助手席に座った真希は、雨の音が車の屋根を叩く音を聞きながら、どこか落ち着いた気持ちになっていた。


 車内には、雨の音とともに、一昔前の懐かしい音楽が流れていた。奈緒は運転しながら、その曲に合わせて小さく口ずさむ。穏やかなメロディが、雨の日の少し暗い雰囲気を和らげていた。


 真希は助手席に座り、視線を窓の外に向けていたが、ふと奈緒が口を開いた。


「清輝、学校ではどう?……その、恩人って言ってたけど、どんなことしてくれるの?」

 その問いに、真希は少しだけ考え込み、静かに話し始めた。


「清輝君、結構お節介なんですよ。課題とか、勉強とか……ぶっきらぼうだけど、結局いろいろ助けてくれるんです。」

 真希は小さく笑いながら、先日も課題を教えてもらったことを話した。そして、その後のゴキブリ事件まで話すと、奈緒は驚いたように笑い声を上げた。


「へえ……そんな清輝、私からしたら想像もつかないな。」

「え?」

「家ではね、清輝はほとんど口をきかないの。まるで部屋にこもったカメみたいに、自分の殻から出てこないって感じ。」

 奈緒は、少し自嘲気味に笑いながら言葉を続けた。


「学校では楽しそうで良かった。でも……そうやって誰かの役に立つことをしてるなんて、全く知らなかった。」

「清輝君って、家族とはあんまり話さないんですか?」

 真希が問いかけると、奈緒は少し視線を遠くに向けるようにしながら、小さく頷いた。


「うん……絶賛反抗期中ってところかな。私が何を言っても聞かないし、母さんとも口論ばっかり。でも……まあ、そういう時期なのかもね。」

 奈緒の声にはどこか寂しさが滲んでいた。


 車が信号で停まると、奈緒は少し息をついて、話を続けた。


「清輝はね、父親と母親の子供。でも、私は異母兄弟でね。」

 真希はその言葉に少し驚いて、奈緒を見つめた。奈緒は小さく笑いながら続けた。


「気を使わせたくないと思ってた。でも……つまらない喧嘩をしてね。そのとき清輝に『本当の姉じゃない』って言ってから、私たち、少しギクシャクしちゃってる……ってところかな。」

 奈緒の言葉には、少し後悔のような感情が滲んでいた。


「……いつかきっと、清輝くんとも仲直り出来ますよ。」

 真希がそう言うと、奈緒は驚いたように真希を見つめた。そして、ふっと柔らかく微笑む。


「そう……かな。だといいけど。」

 車が再び動き出すと、奈緒はハンドルを握りながら言った。


「でも、こうして清輝が誰かに恩人だなんて言われる日が来るなんてね……少しだけ救われた気がする。」

 その言葉に、真希は静かに頷いた。


 やがて車は真希の家の近くに到着した。真希が降りようとすると、奈緒が小さな声で言った。


「清輝をよろしくね。」

 その言葉には、家族としての温かさと、少しの不安が入り混じっていた。


「……はい。」

 真希は短く返事をして、軽く頭を下げた。


 車が去った後、真希は家の前で雨の音を聞きながら立ち尽くしていた。肌に冷たい雨粒がかかるたび、さっきの会話が頭の中で何度も繰り返される。


 清輝のお姉さんの話を聞いて、清輝の抱えるものが少しだけ見えた気がした。でも、それははっきりと形にならない霧のようなもので、手を伸ばしても掴むことはできない。


「家族の問題って、そんな簡単に解決できるものじゃないんだろうな……。」


 清輝は学校ではいつも明るく振る舞っている。どこか皮肉っぽい言い回しをして、茶化すようにして場を軽くする。でも、その裏に隠れた何かに、真希は薄々気づいていた。清輝が父親の話をするときの冷たい目――あの嫌悪感を思い出すと、胸が少し締めつけられる。


「時間が解決してくれないなら、自分でどうにかしろよ。」


 以前、清輝がそう言った言葉が、頭の中でこだました。その時は何気なく聞き流したけれど、今になってその意味の重さがわかる気がした。


 ――じゃあ、どうにかするって、どうやって?


 真希はそっと自分の胸に問いかける。清輝は、何かを抱えながらもそれを解決する術を見つけられず、ただもがいているんじゃないか。もしかすると、それすらも諦めているのかもしれない。


「でも、どうすればいいの……?」


 清輝の抱えている問題に手を伸ばしたいと思う一方で、それができる自分ではないのだという無力感が真希の中に渦巻く。解決するための答えに辿りつきそうで、でもその先が見えないもどかしさ。それは、暗いトンネルの中を手探りで進んでいるような感覚だった。


「……私に、何ができるんだろう。」


 静かな雨音がその問いかけを飲み込んでいく。真希は小さく息を吐き、雨に濡れないようカバンを抱え直すと、家の中へと足を踏み入れた。その答えは、まだしばらく見つからないような気がしてならなかった。


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