14話.アフターケア
あの騒動からしばらく経ったある日の昼下がり。図書室にはぽかぽかと暖かい日差しが差し込んでいて、静かな空気が流れている。その中で、佳苗が難しい顔をしながら分厚い栄養学の本を広げていた。
「……うーん、これもいいけど、こっちの方が烈志には合いそうか……?」
彼女はノートにびっしり書き込まれたメモを見比べながら、小さく唸っている。
そんな様子を、近くの席に座る柚子が腕を組みながらじっと見ていた。彼女は溜め息をつきながら椅子にだらりと寄りかかり、やれやれといった表情を浮かべる。
「ねえ、佳苗。真面目なのは分かるけどさ、こんなとこで弁当のことまで考え込むのってどうなん?別に烈志なんか、そこらのコンビニ飯でも食っときゃいいじゃん。」
柚子はわざとらしく言い放つ。すると、佳苗は顔を上げ、ジト目で彼女を睨んだ。
「見てらんないなら黙っててくれない?……というか、もといじめられっこが言うようになったじゃん、偉そうにさ。」
佳苗が意地悪く返すと、柚子は「うぐっ」と声を漏らし、顔をしかめた。
「いじめられっこって……もう過去の話じゃん!あたし、あの頃とは違うから!」
「そう?でも、泣きながら私に助けられてた姿、まだ覚えてるけどね。」
「それ言う!?今それ言っちゃう!?」
佳苗と柚子のやり取りに、真希は隣でクスクスと笑いを堪えられなかった。二人とも明らかに仲良しなのに、わざと口喧嘩をしているようなその様子が微笑ましかった。
「もうやめなよ、二人とも。佳苗も、そこまで本気でからかわなくてもいいじゃん。」
真希がなだめるように声をかけると、佳苗は「あはは」と肩をすくめ、柚子は拗ねたように頬を膨らませた。
そんな中、ふと柚子が真希の方に視線を向ける。そして、じっと見つめた後、ぽつりと口を開いた。
「そういえばさ、真希。最近、酸素ボンベ使ってないよね?」
その言葉に、佳苗も驚いたように顔を上げた。
「あ、本当だ。気づかなかったけど、もうしばらく見てないね……。体調、良いの?」
真希は少し驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「うん、最近は全然発作も出てないし、調子いいよ。でも、今日あたり病院には行こうかなって思ってるの。」
「へえ、いいじゃん。なんか調子良くなったって聞くと、私まで嬉しいわ。」
柚子が嬉しそうに頷きながら言う。その言葉に佳苗も「それなら良かった」とホッとした様子で頷いた。
その後、柚子は椅子に深く座り直し、腕を組んで天井を見上げるような仕草をした。そして、大げさにため息をついて一言。
「あー、彼氏いいなぁ。烈志にベッタリな佳苗見てるとさ、私もどっかに彼氏転がってないかなって思うわけよ。」
佳苗はその言葉に少し赤くなりながら、すかさず反論した。
「べ、別にベッタリじゃないし!烈志のために頑張ってるだけだってば!」
「いやいや、完全にベッタリじゃん。だってさぁ、朝も昼も弁当作って、学校でもずーっと気にしてるじゃん?」
「ちょっと、真希!何とか言ってよ!」
突然ふられた真希は、困ったように笑いながら言葉を返す。
「えっと……まあ、仲良しってことでいいんじゃない?」
佳苗は「仲良しって!」と慌てて反論しようとしたが、その声は柚子の大きな笑い声にかき消される。
「真希もさぁ、なんか彼氏できたりしないの?え、まさか私よりも先にできたりする!?」
「それはどうかな……でも、今は別に彼氏とかいらないかな。楽しいし。」
真希はそう言いながら微笑み、机の上に広げられた佳苗のメモ帳を指さした。
「それよりさ、佳苗。これ、すごく細かく考えてるんだね。烈志が見たら喜びそう。」
その言葉に佳苗は少し照れながら、でも嬉しそうに笑った。
「そ、そうかな……でも、喜んでくれるといいけど。」
三人で笑い合うその空間は、図書室の静けさと相まって、とても穏やかだった。青春の一コマは、今日もまた続いていく。
そんなとき、扉が勢いよく開き、清輝が現れた。少し乱暴に靴を引きずりながら入ってくるその姿に、三人は一斉に振り向いた。
「……なに?烈志と一緒じゃないの?」
佳苗が眉をひそめながら問いかけると、清輝は手をひらひらと振って答えた。
「烈志?アイツなら正樹と昼練やってるよ。俺は参加しないからサボり。あ、そうだ。柴崎の奴が今週の練習試合で必要なもん聞いてたぞ。」
「えっ、あたし忘れてた!」
佳苗は頭を抱え、慌ててノートを探し始めた。
「……というかさ、あんたも一応マネージャーなんだから、少しは関わりなさいよね!」
そう言いながら、佳苗はピシャリと清輝を睨む。
「おいおい、忘れてもらっちゃ困るが、俺の方がマネージャー歴は長いんだから、先輩だぞ?ほら、敬意を払えっての。」
清輝が得意げに胸を張ると、佳苗は呆れたようにため息をつく。
「その態度が先輩っぽくないんだけど……ほんと、いつものことね。」
佳苗がぼやきながらノートにメモを取る一方で、真希は微笑みを浮かべた。二人の軽口は見慣れたもので、どこか微笑ましい。
「おーい、佳苗さんよ。俺、中間試験が近いんだぜ?あんまマネージャー業やってると、ダブるかもなぁ。」
清輝が茶化すように言うと、真希は「あっ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
柚子が尋ねると、真希は手を合わせて苦笑した。
「数学の課題、中間試験までに提出だったの思い出した……。量も多いし、めちゃくちゃ難しいのに。」
その言葉に佳苗も「あー、あれ本当に大変だよね」と同意する。だが、柚子はどこ吹く風といった顔で、あっさりと言い放った。
「私はまだ手もつけてないけど?」
「……それ、ヤバくない?」
真希が心配そうに聞くが、柚子は「まー、なんとかなるっしょ」と肩をすくめた。
そんな中、清輝が自信満々に口を挟む。
「ふっ、もう俺は終わったぜ。あんなの、朝飯前だったけどな。」
その言葉に、佳苗が一瞬ギクリとした表情を見せ、すぐにバチバチした視線を清輝に向ける。
「アレでも頭だけはいいんだから、ほんと腹立つ。」
「なんだよ、それ?褒めてんのか、ケンカ売ってんのか?」
清輝も負けじと応戦する。二人の小競り合いに、真希と柚子は顔を見合わせて苦笑した。
そんな中、清輝は「ふん」と鼻を鳴らし、少し拗ねたような表情を浮かべながら立ち上がる。
「じゃあな。優秀な俺様はお先に失礼するわ。お前ら、がんばれよー。」
軽く手を振って図書室を出ていく清輝の後ろ姿を見送りながら、佳苗は呆れたようにため息をつく。
「ほんと、あの性格どうにかならないのかな……。」
佳苗がぼやく中、真希は静かに笑みを浮かべていた。清輝の独特な態度も、佳苗の突っかかり方も、そして柚子ののんびりした様子も、今ではすっかり彼女の日常の一部になっていたからだ。
そして、図書室の静けさが戻り、三人はそれぞれ課題に向き合おうとするものの、真希はノートを開いたまま困ったように呟いた。
「でもどうしよう、すっかり忘れてたんだよね……この課題。」
その言葉に、佳苗が軽口を叩くように微笑んだ。
「清輝以下じゃん。」
「それはちょっと言い過ぎじゃない?」
真希が苦笑いで返すと、佳苗は肩をすくめながら答える。
「でも、あいつって昔はさ……中学くらいまでは、ただの優等生だったんだよね。学年一位とか普通に取ってたし。」
その言葉に、柚子が興味を引かれたように顔を上げる。
「え?清輝って昔はそんなだったの?いつからあんな感じになったの?ていうか、誰か昔の清輝を覚えてる人いる?」
問いかける柚子に、佳苗は一瞬考え込むような仕草を見せた後、ボソッと呟いた。
「……お父さんが市議会議員になったでしょ?あれで調子でも乗ってるんじゃないの。」
佳苗の口から出たその言葉に、真希の胸には少し引っかかるものがあった。その話には心当たりがあったからだ。
「……すごいよね。お父さんが市議会議員だなんて。」
真希がそう口にしながら、ふと脳裏に浮かんだのは、以前清輝にその話をしたときのことだった。
「お父さんって議員さんなんだって?すごいね。」
何気なくそう言ったとき、清輝がこちらを睨みつけるようにして吐き捨てた言葉が今でも耳に残っている。
「やめろって言ってんだろ!!」
その瞬間の清輝の剣幕を思い出すと、真希の胸に軽い不安がよぎった。佳苗も、そんな清輝の態度に気づいているのか、冷たい口調で続ける。
「親不孝だよね。頭いいんだから、もう少し真面目にやって、いい大学でも入ればいいのに。」
佳苗の辛辣な言葉に、柚子は言葉を挟むこともせず、なんとなく気まずい空気が漂う。
真希は、そんな会話の中で何かを言いかけたが、結局黙ったままノートに目を落とし。清輝の話題はそれ以上出ることなかった。
夕陽が校舎を染める頃、図書室はすでに静寂に包まれていた。真希たちの姿もなくなり、場面はそのまま放課後の学校へと切り替わっていく。
真希は学校前のバス停で秩父市立病院行きの時刻表を眺めていた。バスが来るまで約10分。時間はあるが、時刻表を見て思わず苦笑いしてしまう。
「相変わらず、スッカスカだな……。」
都営バスと比べると圧倒的に本数が少ない。時刻表の空白部分を眺めながら、田舎らしいのどかさに少しだけ呆れつつ、近くのベンチに腰を下ろした。
でも、ふと気づく。最後にバスに乗ったのはいつだったのだろう、と。
これまでは1人でバスに乗ることすら難しかった。酸素ボンベを手放せなかった頃は、どこへ行くにも付き添いが必要だったからだ。
「……こうして1人でバスを待つのも、なんだか新鮮。」
そう呟きながら、真希は小さく息を吐き、夕焼けに染まる空を見上げた。
やがて、バスがゆっくりと停留所に滑り込んできた。ドアが開くと同時に、真希は小さく胸を弾ませながら乗り込む。
車内はガラガラで、乗客は数人だけ。真希は窓際の席に座り、ゆっくりと流れていく街並みに目を向けた。
バスの車窓から見える秩父の風景は、どこか懐かしさと趣を感じさせるものだった。川沿いに並ぶ古びた瓦屋根の家々、夕日に照らされて赤く染まる山並み、木々の間から垣間見える石段や神社の鳥居。小さな商店街には、閉店準備をしている店主の姿が見え、煙草を吸いながら談笑する地元の人々の姿もあった。
「……こういう景色も、悪くないかも。」
沈む太陽が街並みを黄金色に包み込み、その静けさが心を落ち着かせてくれる。真希は少しだけ背筋を伸ばし、窓越しの景色に目を奪われたまま、バスに揺られていった。
しばらくして、バスは秩父市立病院前に到着した。降りた瞬間、ひんやりとした空気が肌に触れる。真希は病院の正面玄関へと歩を進めながら、小さく深呼吸をした。
診察室に入ると、森田医師がカルテをめくりながら真希に目を向け、少し驚いたように声を上げた。
「……経過は非常に良好ですね。心肺機能も、まだ普通の人と同じとは言えませんが、それでも以前に比べれば断然良くなっています。」
森田医師は眼鏡をかけ直し、真剣な表情で続ける。
「ここまで回復するとは正直、驚きました。」
その言葉に、真希はほっと胸を撫で下ろした。
森田医師は真面目で丁寧な口調の人物だった。穏やかな物腰だが、少し堅苦しさを感じさせるその言葉遣いが、逆に信頼を抱かせてくれる。診察の合間に、ふと懐かしそうに微笑みながらこう付け加えた。
「そういえば、真希さんのお父様とお母様とは、私、高校の同級生だったんですよ。」
「えっ、本当ですか?」
真希が驚いて尋ねると、森田医師は懐かしそうに目を細めた。
「ええ。高校を卒業してからは一度も会っていなかったのですが、まさかこうして再会するとは思いませんでした。」
そして、小さく笑みを浮かべながら続ける。
「お母様とは特に仲が良くてね。……お父様から聞きましたが、最後まで本当に頑張り屋だったそうです。」
「……お母さんが……?」
真希が驚いた表情を浮かべると、森田医師は少しだけ頷いて、優しい口調で続けた。
「お父様がおっしゃっていましたよ。お母様は真希さんが生まれた時から、本当に愛情深く、何事も諦めない方だったと。お父様自身も、彼女からたくさんのことを学んだそうです。」
その言葉を聞いた真希の胸に、静かに熱いものが込み上げてきた。お母さんの笑顔や、どんなに忙しくても家族を大切にしてくれた記憶が鮮やかに蘇る。
「お母様の思いを、無駄にしてはいけませんよ。」
森田医師はそう締めくくると、静かにカルテを閉じた。その言葉には、強い信念と優しさが込められていた。
真希はそっと頷き、小さく「ありがとうございます」と答えた。その声は少し震えていたが、確かな感謝の思いが込められていた。
診察室を出ると、窓の外にはオレンジ色の空が広がっていた。病院の駐車場に止まる車や、行き交う人々を見下ろしながら、真希は胸の中で小さく呟いた。
「……お母さん、ありがとう。」
そして、再びバス停へ向かって歩き出した。その足取りはどこか軽やかで、病院へ向かうときとは少しだけ違っていた。
秩父駅のホームで電車を待っていると、スマホにLINEの通知が入った。画面を開くと、柚子からのメッセージだった。
柚子: 「中間試験までの課題どこまで進んだ?」
真希は、ため息をつきながら短く返信する。
真希: 「まだやってない。」
すぐに返ってきたのは、「やばいよね」の文字とともに、緊急事態を知らせる赤いパトライトのスタンプだった。そのスタンプの勢いに思わず苦笑する。
さらに間を置かず、次のメッセージが届いた。
柚子: 「誰かアテにできる人いない?」
真希は考えた末に、一人の名前を挙げる。
真希: 「1人いる。清輝とか。」
すると、すかさずクマのスタンプ――「えいえいおー!」と応援している姿の可愛らしいものが送られてきた。
柚子: 「まぁ、明日答え見せてもらおう。」
「相変わらずだなぁ……。」
真希は微笑みながら呟く。柚子の軽いノリには、いつも少し救われる気がする。
その後、真希は「とりあえず今日できるところまでやろうよ」と返し、スマホをカバンにしまった。電車の接近を知らせるアナウンスが響き、夕暮れの静けさを少しだけかき消した。
自宅に戻り、夕食とお風呂を済ませた真希は、机に向かって課題に取り掛かる。しかし、早速立ち止まる。
「……えっ、これどういうこと?」
教科書とノートを広げながら問題を眺めるが、内容の難しさに眉間にしわが寄る。授業で確かに習ったはずの内容だ。それでも応用問題となると、途端に訳が分からなくなる。
「こんなに難しいなんて……。」
ため息をつきながら、鉛筆を回して考える。しかし解答欄は一向に埋まらない。
「やっぱり清輝に頼るしかないかなぁ……。」
ぼそりと呟きながら、真希は教科書を再びめくった。やるべきことは多いけれど、何とか一つでも進めようと必死になる。
静かな部屋の中で、鉛筆の音とページをめくる音だけが響いていた。真希は難しい顔をしながらも、少しずつ問題に向き合い続けた。
真希が課題に向かって苦戦していると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。振り返ると、父親が顔を覗かせる。
「入ってもいいか?」
「あ、うん……どうぞ。」
真希は驚きながらも、軽く頷いて父親を迎え入れた。
父親は部屋に入ると椅子を引いて腰掛け、ふと真希の机の上を見やった。広げられた教科書とノートを見て、少し感心したように口を開く。
「学校、楽しいか?」
ありがちな問いかけに、真希は少し考えた後、「まあまあかな」と曖昧に答えた。
「そうか。」
父親は優しく笑うと、続けて言葉を紡いだ。
「さっき、森田先生から電話があったよ。経過がすごく良いって聞いて、本当に嬉しかった。」
その言葉に真希の胸が少し温かくなる。森田先生の報告を受けて、父親がほっとしているのが伝わってきた。
「それで……学校ではどんなことしてるんだ?」
父親の問いに、真希は少しずつ最近の学校の出来事を話し始めた。柚子や佳苗との話、清輝のバカっぽい言動、数学の課題のこと――他愛ない話ではあるけれど、父親は一つひとつ興味深そうに頷いて聞いていた。
「そっか……友達と仲良くやれてるみたいで安心したよ。」
父親が柔らかい声でそう言うと、真希は微笑んで「うん」と返した。
少し沈黙があった後、父親はふと遠くを見るような目をして静かに言った。
「真希……君には、病気に負けずに普通の人生を歩んでほしいと思ってるんだ。……お母さんも、きっとそう願ってた。」
その言葉に、真希の心が少しざわめいた。父親の声は穏やかだったが、その奥には切実な想いが込められているのがわかった。
真希は机に置いていた手を軽く握りしめながら、意を決して口を開いた。
「お母さん……幸せだったのかな?」
唐突な問いに、父親は少し目を見開いた。だが、すぐに真希の目をじっと見つめながら、静かに首を横に振った。
「……それは、お父さんにはわからない。でも、一つだけ確かなのは……。」
父親はそっと真希の肩に手を置き、優しい目で微笑む。
「君が生きていることが、お母さんにとって一番の幸せだったはずだよ。」
その言葉に、真希の目頭がじんわりと熱くなる。父親の手の温もりを感じながら、小さく頷いた。
「……うん。私、ちゃんと頑張るから。」
父親は満足げに微笑むと、「課題、無理しすぎるなよ」と声をかけ、部屋を後にした。
扉が閉まる音が静かに響き、再び一人になった部屋で、真希は窓の外を見つめる。沈みゆく月と静かな夜の風景が、どこか穏やかで優しく感じられた。
「……生きてれば、きっともっと幸せだったんだよね。」
真希は小さく呟くと、改めて机に向かい、難しい数学の課題に向き合い始めた。
翌日、屋上で清輝が真希の課題を手に取り、しばらく黙々と見ていた。
その視線の動きに、真希は「どうかな……?」と不安そうに問いかける。
清輝はペンを指先でクルクルと回しながら、軽く頷いて言った。
「まあまあだな。7割ってところか。惜しいとこもあるけど、頑張ったんじゃね?」
その言葉に、真希は少しほっとした様子を見せたが、清輝はペンを課題の紙に向けてカチリと音を立てた。
「でも、ほら、この(1)不等式がちょっとおしいな。」
清輝は「(1) x² + y² ≧ 2xy」の部分を指差して続ける。
「ここ、二乗してるから当然正の値になるよな。それを踏まえて考えれば簡単に証明できるのに、なんで途中で変な項を足してるんだ?」
「あ……本当だ……これ、いらなかったんだ。」
真希は清輝の指摘にハッとし、自分のミスに気づいた。
「んで、次の(2)。」
清輝は「(2) x² + 3xy + 3y² ≧ 0」の部分を指しながら解説を始めた。
「ここ、解の公式を使うパターンだな。二次式の判別式Dを調べりゃ、二次関数の軸が必ず正かゼロだってわかるだろ?だけど、真希……お前、途中でDが負だって計算ミスしてんぞ。」
「えっ!?どこで間違えたんだろ……。」
真希が紙を睨みつけるようにしながら、必死に間違いを探そうとするが、清輝はすでに答えを出している。
「ほら、ここの計算で-12を+12にしちまってる。符号をミスるの、よくあるやつだな。」
「ほんとだ……うわ、めっちゃ初歩的なミス……。」
「次の(3)は、ちょっと面倒だったか?」
清輝は最後の「(3) x² − 6xy + 10y² ≧ 4y − 4」を眺めながら言う。
「ここも惜しい。移項して平方完成すりゃ綺麗になるのに、無理やり展開し直して自分で難しくしてんじゃねーよ。」
「平方完成……あ、そうか!そっちのほうが早いんだ……。」
真希はようやく理解した顔で頷く。
清輝はペンを置き、腕を組みながら少し得意げに笑った。
「まぁ、頑張ったけどまだまだだな。等号が成立する条件もちゃんと最後に書いておけよ。こういう証明は、そこまでやって完成だ。」
真希は「なるほど……」と感心しながら、メモを取り始めた。
隣でそのやり取りを聞いていた柚子が不満そうに机に突っ伏して呟く。
「なんか……優等生っぽいなぁ。タダで私もやってくれないかなぁ。」
清輝はため息をつきながら柚子の方を向いた。
「おいおい、タダでやれって……代行料金が発生するんだぞ。焼きそばパン3日分くらい覚悟しろ。」
柚子はぷうっと頬を膨らませて抗議した。
「えぇぇ、ケチ!優等生なんだからそこはタダでやってよ!」
「優等生でも、ただの人間だからな。時間は有限だ。」
清輝が冷たく言い放つと、柚子は机に突っ伏して足をバタバタさせた。
「嫌だ嫌だ!焼きそばパンなんて嫌だ!」
その光景を横で眺めていた真希は、どこか楽しげに微笑む。
風紀委員が必ずしも頭がいいわけじゃないんだなぁ……。
清輝は腕を組んだまま、焼きそばパンの件で柚子と交渉を続けていた。
「3日分って言ってんだろ。そんくらい妥当なもんだ。」
柚子は机をバンッと叩きながら叫ぶ。
「1日分!それも1個だけ!焼きそばパンなんて毎日買ってられるか!」
「1個だぁ?ふざけんな、俺は労力と時間をかけてお前の課題をやるんだぞ。」
清輝が渋い顔をして返すと、柚子はさらに詰め寄った。
「じゃあ2個!2個でどう?ほら、真希が証人になってくれるよ!」
真希は突然振られて「あ、私?」と戸惑いながらも、苦笑いを浮かべて答える。
「うーん……まぁ、2個なら妥当かな?」
清輝はそれを聞いて肩をすくめながら大きなため息をついた。
「ったく……じゃあ2個でいいよ。お前も無駄に粘り強いな。」
「よしっ!」
柚子は満足そうに拳を握りしめたが、次の瞬間また真剣な顔になった。
「で、どこでやるの?今日、お前んちでいいじゃん。」
「はぁ?絶対嫌だ。」
清輝は即座に拒否する。
「なんでだよ!別にあたし、部屋に入ったりしないし、玄関先でやったっていいからさ。」
柚子が食い下がると、清輝はさらに険しい顔をして答えた。
「いやいや、お前が来たら絶対騒がしくなるし、うちの姉貴に見られたらめんどくせぇんだよ。」
「じゃあどうすんのよ!」
柚子が不満げに声を上げると、清輝はしばらく考え込んでからポツリと答えた。
「……武道館でやってやるよ。」
「武道館?また?」
柚子は少し驚いた様子で言うが、すぐに納得したように頷いた。
「あー、まぁいいか。どうせ清輝も烈志の相手で行くんでしょ?」
「そういうこった。」
清輝は軽く頷きながら立ち上がり、鞄を肩にかける。
「これで放課後の予定は決まったな。」
真希はその二人のやりとりを見て、微笑みながら小さく頷く。
それぞれ少しずつ違う個性を持ちながら、こうして一緒にいることにどこか安心感を覚えた。
屋上から階段を下りていく途中、真希は少し顔を上げて清輝を見ながら、柔らかく声をかけた。
「今日、課題見てくれてありがとう。」
清輝は階段を降りながら軽く肩をすくめて返す。
「別にいいよ。友達だしな。」
その言葉に真希は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。
「そっか、友達……だよね。」
少し沈黙が流れた後、真希は何かを思い出したように問いかけた。
「ねぇ、清輝のお姉さんってどんな人なの?」
その質問に清輝は一瞬足を止め、眉間に軽く皺を寄せた。
「姉貴?あー、別に……麗花みたいに癖はねぇよ。」
真希はその返答に少し笑いながら首を傾げた。
「そっか。でも、お姉さんがいるってってどんな感じなんだろうって、ちょっと興味あっただけ。」
清輝はふっと鼻を鳴らして笑いながら言った。
「おいおい、人の家の事情にズケズケ踏み込むもんじゃねぇよ。」
真希は少し慌てて手を振りながら謝った。
「あ、ごめん。気になっちゃって……。」
その後、真希は階段を下りながら静かに清輝の横顔を見つめ、少し躊躇いながら問いかけた。
「ねぇ……清輝って、お父さんのこと、まだ気にしてる?」
その言葉に清輝は一瞬だけ視線を外し、短く答えた。
「……別に。」
その言葉は冷たくもなく、ただ乾いた響きがした。それ以上何も言わない清輝を見て、真希はそれ以上聞くべきではないと悟り、静かに頷いた。