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13話.武闘会

「ひ、ひえぇぇぇっ!!」

 不良たちは悲鳴を上げながら、武道館の出口へ向かって全力で逃げ出した。その背中を見た清輝は、悪戯っぽく笑いながらポケットから2本目の熊よけスプレーを取り出す。


「おらおら!待てや、大馬鹿ども!!これでしっかり反省しやがれぇ!!」

 清輝はそう叫びながら、逃げる不良たちの背中に向けてスプレーを容赦なく噴射した。


「ぎゃぁぁっ!ちょっ、まだかけんのかよ!?」

「やめろって言ってんだろ!?顔が、顔があぁぁぁ!!」

 不良たちはスプレーの直撃を受けて転びそうになりながら、涙と鼻水を垂らして必死に逃げ惑う。


 清輝はさらに容赦なくスプレーを噴射しながら大声で追い打ちをかける。

「どうした、走れ走れぇ!顔洗って出直して来いや!ったく、根性ねぇ奴らだな!」


 武道館を飛び出していく不良たちの背中に、清輝の怒声とスプレーのシューッという音が追いかける。リーダー格の男は必死で目と口を押さえながら叫んだ。

「目が開かねぇ!口がくっつくぅ!うわぁぁぁ!!」


 正樹はその惨状を見て完全に青ざめ、ガタガタと震えながら清輝の腕を引っ張った。

「せ、先輩……これ、やりすぎじゃないですか!?完全に犯罪じゃないですか!!」


 しかし清輝は得意げにスプレーを振りながら答える。

「バカ言え!これは正当防衛だ!お湯で洗えば何とかなるだろ。それにしても……スプレーの効き目、最高だな!」

 満足げに鼻を鳴らす清輝に、正樹は怯えた表情を浮かべながら再び呟く。

「……清輝先輩、本当に何考えてるんですか……。」


 烈志はその二人を横目に見つつ、深くため息をついた。

「ったく、練習どころじゃねぇな……。」


 そんな中、不良たちは転げるようにしてバイクに乗り込み、ようやくエンジン音を轟かせながら去っていった。その背中を見送りながら、清輝が最後の追い打ちをかける。

「帰ったらちゃんとお湯で顔洗えよ!ほら、早くしねぇと一生開かなくなるぞぉ!!」


 正樹はその一言に再び震え上がる。

「な、なんですかそれ!?マジでヤバいやつじゃないですか!!」

 清輝はそれを聞いて肩をすくめるだけだった。


 武道館に再び静寂が戻ったが、その空気は一変していた。烈志がふと何かを察したように、背後に視線を向ける。そこには、腕を組みながら微笑む麗花の姿があった。


「……さて、どうしたもんか。」

 烈志が口を開くと同時に、場の空気は再び緊張感を帯びる。



 烈志がその存在に気づく前に、麗花は静かに腕を組みながら歩み寄った。その目は鋭く、烈志をまっすぐに見据えている。彼女が発する気配は圧倒的で、清輝も正樹も無意識に息を飲んでいた。


「……体だけ大人になっただけじゃねぇか。」

 麗花の低く冷たい声が、武道館の静寂を切り裂くように響く。


 烈志は一瞬その言葉の意味が分からず、ただ眉をひそめた。しかし、彼の身体は無意識に緊張していた。目の前の麗花にただの人間ではない何かを感じ取っていたからだ。


「お前は……誰だ?」

 烈志が低く問いかける。その声にはわずかな戸惑いと、敵を前にした武道家特有の警戒心が混ざっていた。


 麗花は答えず、静かに構えを取った。その姿勢は完璧で、隙一つない。烈志はその動きを見ただけで、目の前の人物がとてつもない実力を持っていることを本能的に悟った。


「……わかるだろう?お前の体は、もう俺を“最強”と認識しているんじゃないのか?」

 麗花の言葉に、烈志はごくりと唾を飲み込んだ。目の前の相手はただの道場破りではない。そう感じていた。


「俺の親戚か?こんなべっぴんさんが親戚にいたなんて知らなかったが……。」

 烈志は軽い冗談を言って間をつなごうとした。しかし、麗花はそれを無視するかのように口を開いた。


「門限は今も守っているのか?」

 その問いに、烈志は思わず表情を硬くした。胸の奥にしまい込んだはずの記憶が、急に呼び起こされる。


「懐かしいな。門限を守れなくて外に締め出されたお前を、俺がこっそり中に入れてやったっけな。」

 麗花は懐かしそうに微笑みながら語る。その声は優しさを含んでいたが、同時に烈志の胸に鋭く突き刺さる。


「それだけじゃない。お前、0点取った時も飯抜きになったよな。その時、俺が握ってやったおにぎり、覚えてるか?」

 麗花の声が続くたびに、烈志の頭の中に次々と記憶が浮かび上がる。自分がまだ幼かった頃、確かにそんな出来事があった。


「……なぜ、知っている?」

 烈志は困惑しながら麗花を見つめた。目の前の女性が誰なのか、まったく理解できない。しかし、どこか懐かしさのような感覚が胸を締め付ける。


 麗花は烈志の困惑を楽しむかのように、不敵な笑みを浮かべた。そして、その笑みを引き締め、低く響く声で言い放つ。


「――また締め落としてやろうか?」

 その言葉はまるで宣戦布告のようだった。瞬間、武道館全体が静まり返り、空気が凍りついた。


「……締め落とす?」

 烈志が困惑しながら問い返すと、麗花はふっと笑った。


「ああ、覚えてないのか?お前が俺に最後に挑んできた時のことを。」

 麗花の声にはどこか楽しげな響きがあったが、同時に鋭さも含まれていた。


「家を出る前、最後の最後に取っ組み合いをしたよな?お前が俺に勝てるとでも思っていたのか、懸命に挑んできたあの夜を……忘れたのか?」


 その言葉を聞いた瞬間、烈志の瞳がわずかに見開かれた。胸の奥深くに封じ込めていた記憶が、一気に解き放たれる。


 幼い頃の記憶――家の中で大声を張り上げ、必死に兄の背中を追いかけたあの夜のことが鮮明によみがえる。


 麗花はその様子を見て、さらに口元を歪めた。

「どうだ?今なら俺に勝てると思うか?」


 烈志は咄嗟に構えを取り、間合いを測った。目の前の相手がただ者ではないことは、すでに十分理解している。しかし、まさか……。


 声が震えそうになるのを押さえながら、烈志は静かに問いかけた。

「……お前、まさか……兄貴……なのか?」


 その言葉に、麗花はニヤリと笑った。瞳には懐かしさと、どこか寂しさが滲んでいた。


「ようやく気づいたか。大きくなったな、烈志。」


 麗花がニヤリと笑みを浮かべながら静かに構えを崩さないまま、一歩踏み出した。その気配に烈志は全身の毛が逆立つような感覚を覚える。


「……兄貴……本当に……兄貴なのか……?」

 烈志の声は震えていた。目の前の麗花――いや、兄だった人物は、確かに変わっている。しかし、その強さ、そしてこの独特の威圧感はかつての兄と同じだった。


「なら確かめてみろよ、烈志。体だけじゃなく、本当に大人になったのかどうかをな。」

 麗花は静かに腕を組み、烈志を挑発するように言い放った。


 その瞬間、烈志の体が本能に突き動かされる。立ち上がると同時に、力強い踏み込みで麗花に向かって襟を掴む。


「――なら、確かめさせてもらう!」

 烈志は叫ぶように言い放ち、そのまま全体重をかけて麗花を投げようとする。しかし、次の瞬間、烈志の体は空中に放り出された。


「なっ……!?」

 烈志の視界が反転する。彼が放ったはずの一本背負いは、逆に麗花の完璧な技に返されていた。背中から畳に叩きつけられる烈志。痛みに顔をしかめながらも、すぐに体をひねって立ち上がろうとする。


 だが、麗花の動きはさらに速かった。烈志が立ち上がる瞬間、麗花は体を滑らせるように回り込み、彼の後ろに回り込む。そして、その腕を烈志の首に巻き付けた。


「っ……!」

 烈志は声にならない声を上げた。麗花の細い腕からは想像を超える力が伝わり、呼吸を締め上げられる。


「……やっぱり、まだまだだな。体は大きくなっても、心も技も未熟なままだ。」

 麗花の声は静かだったが、どこか懐かしさが滲んでいた。その声に烈志は悔しさを隠せない。


 烈志が麗花の鋭い締め技に捕まり、息を詰まらせながら必死にもがく。しかし、麗花の腕は鋼のように硬く、逃れることができない。足をバタつかせる烈志の動きは徐々に弱まり、視界がぼやけ始める。


「くっ……ぐぁっ……!」

 烈志はかすれた声を絞り出すが、麗花は一切容赦しない。その目は鋭く、圧倒的な威圧感を放っていた。


「お前は勘違いしている。」

 麗花の静かな声が、烈志の耳元に響く。その声は冷たくもあり、どこか温かさも感じさせるものだった。


「1人で強くなったと思っているのか?そんなこと、あるはずがない。」

 烈志の体がわずかに硬直する。麗花の言葉が、意識が遠のく中で脳に突き刺さる。


「お前がここまでやってこれたのは、支えてくれた人間がいたからだ。親、友人、そして……」

 麗花の言葉が続くたびに、烈志の頭の中に断片的な記憶が浮かぶ。佳苗が笑顔で励ましてくれた瞬間。正樹が不器用に付き合ってくれた稽古。そして、どこか心の奥底で兄の存在を追いかけていた日々。


「本当の強さってのは、結果だけじゃない。支えてくれる人間への感謝を胸に刻み、それを返そうとする気持ちから生まれるものだ。」

 麗花の腕の締め付けが一瞬だけ緩むが、それでも烈志の体は動かない。息が苦しく、目の前が暗くなりかけている。


 そのとき――


「烈志!!」

 佳苗の叫び声が武道館に響き渡った。


 その声に、烈志はかすかな意識を取り戻す。ぼんやりとした視界の中で、入口に立つ佳苗の姿が見えた。


「佳苗……?」

 烈志は息も絶え絶えに呟くが、麗花の締め技はまだ解かれていない。


 清輝と正樹は、麗花に締め上げられる烈志の姿を見ながら、武道館の隅で抱き合うように震えていた。清輝は正樹にしがみつき、顔を青ざめさせながら叫ぶ。


「こ、殺される……!烈志、死ぬぞ……!もう俺ら終わりだぁぁ!!」

「清輝先輩っ!や、やめてくださいよ!僕まで怖くなるじゃないですかぁ!!」

 正樹もガタガタと震えながら、必死に清輝を引き剥がそうとするが、清輝の力はさらに強くなる。


 その時、武道館の入口から二人分の足音が近づいてきた。現れたのは柚子と真希だった。二人は少し息を切らせながら中に入ると、すぐに場の状況を目にして言葉を失った。


「……遅かったかぁ。」

 柚子が眉をしかめながら呟く。その視線の先では、麗花に締め落とされかけている烈志が必死にもがいていた。


「ねえ清輝!何してんのよ、これ!どういう状況!?」

 柚子が怒り交じりの声で問い詰めると、清輝は正樹からようやく離れて振り返る。


「なにって……お前ら、まさかこの刺客を差し向けたのか!?」

「はぁ!?刺客!?」

 柚子は目を丸くして叫びながら、勢いよく清輝の頭を平手で叩いた。

「違うわい!!」

 清輝は頭を押さえながら、「だってタイミングが良すぎるだろ……」とぼそぼそ言い訳を口にする。


 一方、真希は静かにその場を見つめながら、小さく呟いた。

「……根っからの武道家なんだ。」

 その声には驚きと同時に、どこか尊敬の念が込められていた。


 麗花の動き、烈志の全力の抵抗、そして圧倒的に麗花に制される様子――それは常人では理解できない、武道家特有の世界。


「烈志……本当に大丈夫かな……。」

 真希が不安げに呟くと、清輝が冷ややかに応じた。

「大丈夫じゃねぇよ。烈志、死にかけてるけどな。」


「ひえぇぇ!!」

 正樹はさらに震え上がり、柚子が再び清輝を叩く。

「ちょっと清輝!そういう言い方するなっての!」

「だって事実だろ?」

 清輝が肩をすくめて答えると、柚子は呆れ顔で深くため息をついた。


 その時だった。麗花の冷たい声が場の空気をピリッと引き締めた。


「烈志……お前、もう佳苗に対して答えは出てるんじゃないのか?」

 麗花は締め技をかけたまま烈志に問いかけた。その声には厳しさと同時に、どこか挑発的な響きがあった。


「佳苗……に……?」

 烈志が苦しげに呟くと、麗花はさらに語気を強める。

「いつまでもはぐらかしてないで、ガツンと言ってやれ!!」


 その瞬間、烈志の全身がビクッと反応した。そして、必死に息を絞り出すように声を張り上げた。


「俺は……佳苗が好きだ!!」


 その言葉が響いた瞬間、柚子と真希は息を呑み、顔を真っ赤に染めた。柚子は「な、なんで急にそんなこと言うんだよ……」と声を震わせ、真希は慌てて両手で口を押さえながら視線を逸らした。


 烈志はそんな二人の反応にも気づかず、さらに叫ぶように続けた。

「こんな怖い兄貴や家族の中で、口ウルセェけど一番優しく接してくれた幼馴染……嫌いなわけがない!!」


 その熱い告白に、場の空気が一瞬静まり返る。しかし、烈志の次の言葉が場の空気を大きく揺るがした。


「けど……俺は兄貴のことがもっと好きだ!!尊敬してるんだ!!」


 その一言に、麗花の動きが一瞬止まる。烈志は続けた。

「兄貴……本当はずっと前から悩んでたんだろ?自分が男として生まれたことに苦しんで……!」


 麗花の表情が揺れる。烈志は全力で言葉を投げかけた。

「兄貴が家を出て行った日、今でも覚えてる。締め落とされながら、兄貴が泣いてるのを見たんだ!」


 麗花の目がわずかに揺れる。その視線は、どこか懐かしさと痛みが混じり合っていた。


「俺が弱かったから、兄貴はずっと強くならなきゃいけなかった。それが兄貴にとってどれだけの重荷だったか……俺には分かる!」

 烈志の声は震えながらも熱を帯びていた。


「佳苗のことは好きだ……でも、俺は兄貴が自分の性で苦しんでいる姿を見て見ぬふりして、普通に生きていくなんて許せなかったんだ!!」


 その言葉に、麗花は烈志をそっと解放した。そして、一歩身を引き、彼をじっと見つめる。


「お前……。」

 麗花の声には、かすかな震えがあった。


 烈志は膝をつきながら、それでも麗花を見上げ、真剣な目で続けた。

「兄貴……俺は、これからも兄貴のことを尊敬し続ける。だけど、兄貴の背中を追うだけじゃなく、俺も兄貴に何か返せる男になりたい!!」


 その言葉に、麗花は一瞬視線を逸らした。しかし、次の瞬間――彼女は体勢を変え、突如として烈志に馬乗りになると、拳を烈志のすぐ真横に振り下ろし、畳に打ち付けた。


「馬鹿が……!!本気で言ってるのか……!!」

 麗花の声が震え、その表情には怒りとも悲しみとも取れる複雑な感情が浮かんでいた。烈志の頬に、ぽつりと麗花の涙が落ちる。


 その涙の温かさを感じた瞬間、烈志の目にも涙が溢れた。そして、震える声で絞り出すように言葉を紡いだ。


「……兄貴が……突然家を出て行った時、俺……ずっと後悔してたんだ……!」

 烈志の瞳からは次々に涙がこぼれ落ちる。その瞳はどこか幼さが残る少年のようで、真っ直ぐに麗花を見つめていた。


「なんでもっと兄貴に寄り添えなかったのか……なんで、もっと早く気づけなかったのか……俺、馬鹿だった……!!」

 麗花の表情が僅かに揺れる。その目は烈志をじっと見据えていたが、その奥には自分自身を責めるような光も見えた。


「俺も……不器用だけどさ……兄貴はもっと不器用なんだよ……!」

 烈志の声は震えながらも力強く響く。


「悩み事があるなら……自分のことどうにかする前に、兄貴のことをちゃんと解決してからだろう!?……それができるまで、ずっと俺が兄貴の背中を支えるんだって、そう決めたんだよ!!」


 烈志の言葉に、麗花は拳を震わせながら俯いた。そして、その拳が畳をまた強く打ちつけられる。


「……俺、寂しかったよ……兄貴がいなくなってから、ずっとずっと寂しかった……!」

 烈志は麗花を真っ直ぐ見上げ、声を震わせながら叫んだ。


「でもな……俺、兄貴が戻ってくるって信じてたんだ。いつか兄貴が帰ってきた時に、恥ずかしくない弟になれるように……ずっと強くなろうって決めてたんだ!!」


 その言葉を聞いた瞬間、麗花の体が僅かに震えた。そして――


「っ……ごめんなぁ……烈志ぃ……!!!」

 麗花は顔を歪め、涙をぼろぼろとこぼしながら叫んだ。その声には今まで押し殺してきた感情が溢れ出していた。


「お前に……そんな思いをさせてたなんて、私……いや、俺、本当に馬鹿だ……!」

 麗花の涙が烈志の胸元に落ちる。それを見た烈志は、彼女に向けて小さく微笑みながら、震える声で返した。


「馬鹿なのは……お互い様だろ……兄貴……。」


 そのやり取りを見ていた佳苗は、何も言わずに震えながら顔を覆った。そして、その場にしゃがみ込むと、堪えきれずに涙を流した。


 彼女の肩は小刻みに震え、その涙の雫が畳の上に落ちる。柚子と真希も、その場の光景に言葉を失ったまま、ただ立ち尽くしていた。


 真希はそっと手で口元を押さえ、胸の奥からこみ上げる熱いものを感じていた。そして、ぼそりと小さく呟いた。


「……本当に、強くて……優しい人たちなんだね……。」


 その言葉に、柚子は目を伏せながら小さく頷き、静かに涙を拭った。


 烈志は涙を流しながら、かすれた声で麗花に向けて言葉を続けた。


「……あの日の兄貴は、俺の中でずっと越えられない存在だった。でも……今の俺は、もうその兄貴を超えてるんだって思えるようになった。」


 麗花はその言葉に目を見開き、わずかに息を飲む。そして、烈志は拳を強く握りしめながら、顔を上げて言葉を続けた。


「お姉ちゃん……俺はもう、自分の幸せのために生きてもいいかな?兄貴のことも支えながら、俺自身も、俺のために……。」


 その問いに、麗花は驚いたような表情を見せたが、すぐにふっと柔らかな笑みを浮かべた。そして、静かにうなずきながら、烈志の肩に手を置いた。


「当たり前だろ。お前はお前の人生を生きていい。それが……お前の強さだ。」


 その言葉に、烈志は瞳を潤ませながら、ぐっと奥歯を噛みしめた。そして次の瞬間――烈志は雄叫びをあげながら、麗花に向けて巴投げを仕掛けた。


「うおおおおおおおっ!!」

 全力の巴投げが決まり、麗花の体が宙を舞い、畳に叩きつけられる。


「一本!」

 烈志は畳の上で息を荒げながら、勢いよく立ち上がった。そして、麗花を見下ろしながら、大きな声で叫んだ。


「兄貴……いや、お姉ちゃん!ありがとう!!俺……俺、これでいいんだな!!」


 麗花は仰向けになったまま目を閉じ、わずかに首を振りながら微笑んだ。その表情はどこか穏やかで、心の底から安堵したように見えた。そして、微かに頷きながら、小さく呟いた。


「それでいい……それでいいんだよ、烈志……。」


 その言葉を聞いた烈志は、大きく息を吸い込んで振り返る。そして、佳苗の方に向かって力強く歩き出した。


 佳苗はその場にしゃがみ込んだまま、涙を流しながら烈志を見上げていた。烈志が彼女の前で立ち止まり、静かに手を差し伸べる。


「……今までありがとう。そして……待たせてごめん。」


 佳苗は驚いたような表情を見せながら、その手をゆっくりと取った。烈志は佳苗の手をしっかりと握りしめ、真っ直ぐな瞳で彼女を見つめながら言葉を続けた。


「佳苗……俺、お前のことが好きだ。」


 その一言に、佳苗の目からさらに大粒の涙がこぼれ落ちる。声にならない声で何かを呟きながら、彼女は烈志の胸に飛び込んだ。


 その様子を見ていた麗花は、仰向けになったまま天井を見つめ、静かに目を閉じた。そして、わずかに微笑みながら、小さく頷いた。


「……よくやったな、烈志。」


 その言葉は静かに空気の中に溶け、武道館には一瞬の静寂が訪れた。烈志と佳苗の姿を見つめながら、柚子と真希はそっと口元を押さえ、頬を赤らめた。


「……あれが……烈志の……本気ってやつなんだね。」

 真希が小さな声で呟くと、柚子も頬を赤らめたまま頷く。


「……まじで……青春かよ……!」

 柚子が照れ隠しのように呟くと、真希は小さく笑った。


 麗花は仰向けのまま、静かに目を閉じた。そして、ふっと微かに息を漏らした後、突然声を張り上げた。


「ったく、馬鹿な弟だよ、全く……!!」


 そう言いながら彼女は大きく笑い出した。その高笑いは豪快で、武道館の天井に響き、壁にこだまする。どこか憑き物が落ちたような、晴れ晴れとした音だった。


 その笑い声と同時に、外から微かに聞こえてくる下校時のチャイムが重なる。穏やかなメロディーが風に乗り、夕焼け色の空気に溶け込んでいく。


 笑い声とメロディー、二つの音が不思議な調和を奏でる中、武道館の静寂が徐々に戻ってきた。



 あの日を境に、烈志は自転車での登校をやめたらしい。佳苗と一緒に電車で通学する姿を、私は何度か見かけている。駅のホームで、二人並んで談笑しているのを目にしたとき、少しだけ胸が温かくなった。あの二人がこうやって自然に笑い合えるのは、何かを乗り越えたからだろう。それを目撃しただけでも、あの日の出来事が報われた気がした。


 薙刀部のことを聞いたときは、少し驚いた。柚子は復帰しないと決めたらしい。その理由が「やっぱ私もあんな青春したいわ」だと言われたとき、私は笑ってしまった。あんな青春って、あの騒動のことなのだろうか。


 だからだろうか、薙刀部の部室には今も埃を被ったままの薙刀と道着が残っている。かつての部員たちが使い込んでいた道具の数々が、時が止まったように置かれている。それを見ると少し寂しくなるけれど、それも彼女たちの決断なんだと納得することにしている。


 その代わり、柔道部には新しいマネージャーが加わった。佳苗だ。烈志のそばで、いつも彼を支えている。佳苗が部室に入っていくのを目撃したとき、私は「そう来るか」と苦笑いしたけれど、結局彼女らしいなと思った。


 清輝と佳苗はいまだに微妙な関係らしい。なんだかんだでお互いに言い合いを続けているけれど、心の奥ではお互いを嫌っていないのは見ていればわかる。清輝も佳苗も、自分を偽らない人間だから、正直言って羨ましいくらいだ。


 一方で、柚子と佳苗はいつの間にか完全に和解していた。今度、私も一緒に3人で映画を見に行く約束をしている。柚子は「どうせ佳苗が選ぶ映画は真希が退屈しそうなやつだろ」と言いながら、結局佳苗の選択に任せている。その軽口が、以前よりも少し優しくなった気がして、私は心の中で微笑んだ。


 あの騒動の後、みんな少しずつ変わった。でも、それは悪い変化じゃない。むしろ前に進んでいる。青春は、騒がしくて、時に痛みを伴うものだけど、その中で自分たちなりの幸せを掴んでいく。


 駅のホームで笑い合う烈志と佳苗、薙刀部の部室に残された道具、柔道部で真剣に練習を支える佳苗。私はそれらの風景を思い浮かべながら、小さく息を吐き、これで良かったんだと確信する。


 これからも、それぞれの形で、みんなの青春は続いていくのだろう。そして、その一端を見届けられたことが、私自身のささやかな誇りでもある。


 ──そんなことを考えながら、今日も私は学校へ向かう。少しだけ軽い足取りで。

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