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12話.柚子が核心を突く

 番場通りを歩きながら、私たちは財布の中身をちらりと確認していた。今日のショッピングで気づかないうちに使いすぎたことを思い出し、軽くため息をつく。


「もう金欠気味だね。あんまりお金使いたくないな。」

 私がそう言うと、柚子は頷きながら口を開いた。


「ほんとだよね。せっかくのお小遣い、だいぶ減っちゃったし。」

 そんな他愛もない会話をしていたときだった。柚子が急に「しっ!」と私を制し、素早く路地の影に隠れた。


「え、なに?」

 驚いて小声で尋ねると、柚子が指を口に当てて黙るように示し、そっと通りの方を指差した。


 そこには、佳苗さんが大きな荷物を抱えて歩いている姿があった。その荷物はまるで引っ越しでもするのかと思うくらい大きく、遠目から見てもかなり重そうだった。佳苗さんの後ろ姿に私たちは目を奪われた。


「……なんか業者さんかと思った。」

 思わず呟くと、柚子は「いやいや、佳苗だよ、あれ。」と小声で言う。


 幸い佳苗さんはこちらに気づいていない様子で、そのまま大きな荷物を抱えたまま通りを進んでいく。私たちは息を潜めて様子を伺っていた。


「なに運んでるんだろう。てか、あの荷物の大きさ、やばくない?」

 柚子が興味津々な顔で言う。その目線の先で、佳苗さんはひょいっと居酒屋スナックと書かれた古い看板の扉を押して中に入った。


「……えっ。」

 その瞬間、私は言葉を失った。


「居酒屋スナック……高校生が?」

 柚子がぽつりと呟く。驚いたように眉を上げながら、彼女は私を見た。


「アルバイトかな?でも、居酒屋スナックって……危なくない?」

 柚子の声には、明らかに困惑が混じっている。


「そうだね、あの荷物も気になるし……。」


 佳苗さんが入っていった居酒屋スナックの扉をぼんやり見つめながら、私たちはその場で右往左往していた。中を覗くつもりなんてない、ただ気になって仕方がないだけ。でも、この状況はどう考えても不審者に見えるよな……と自分でも思う。


「どうする?」

 柚子が小声で私に問いかける。私は首を傾けたまま返事に詰まった。


「……でも、あの荷物……何だったんだろう。」

「さあ。でも高校生がスナックって、普通じゃないよね?」

「うん……。」


 二人でささやきながら目の前をうろついていると、不意に背中に軽い衝撃が走った。そして同時に、肩にぽんっと手が置かれる感覚。


「こらぁ!店の前でなにしてんの!」

 明るく響くその声に、驚いて振り返ると、そこには長い黒髪にサングラス、派手な服装をした麗花さんが立っていた。


「……麗花さん?」

 私が目を丸くすると、麗花さんはニヤリと笑った。


「あー、やっぱりあのときの子だ!覚えてるよ、ほら、駅で変な奴らに絡まれてた。」

 麗花さんは私の肩を掴んだまま、気さくに話し始めた。その親しげな様子に、私も少し緊張がほぐれる。


「いやぁ、あの子が自分の店の前でうろうろしてるからさ、何事かと思って声かけたのよ。」

「こ、ここ……麗花さんのお店なんですか?」

 私が驚いて聞くと、麗花さんはサングラスをずり上げて笑う。


「そうそう、ここ、うちの店なの。まあ夜はお酒も出すけど、昼間は普通の喫茶店みたいなもんよ。」

 麗花さんの言葉に、柚子が「ほー」と興味深そうな顔をする。


「で、あんたたち、何してたの?」

 問いかけられた私たちは、一瞬言葉に詰まる。どう説明しようか悩んでいると、柚子が口を開いた。


「あの、友達がここに入って行ったんですけど、その……高校生が来るような場所じゃないって思って、ちょっと気になって。」

「友達?」

 麗花さんは首を傾げて考えるような仕草を見せた。


「ま、何にせよ店の前でうろうろするのは怪しいから、入るなら入る、帰るなら帰る!ほら、どうする?」

 そう言いながら、麗花さんは私たちを軽く促す。私は柚子と目を合わせながら、一瞬考え込んだ。


  柚子が「ど、どうする?」と小声で聞くと、私は答えに詰まりながらも、「えっと……」と口を開いた瞬間、麗花さんが笑いながら私たちの背中を押した。


「あー!!もう!!ほらほら、悩むなら入ってからにしな!」


 そうして麗花さんに半ば強引に店内へ連れて行かれた私たちは、驚くべき光景に息を呑んだ。半地下に広がるおしゃれな空間は、どこか異国情緒が漂う。壁に掛けられたヴィンテージのポスターや間接照明が、柔らかな明かりを灯していて、まるで映画のセットのようだ。


「……ここ、本当にスナック?」

 柚子が目を丸くして言うと、麗花さんがカウンター越しににやりと笑った。

「昼間はこんな感じだけど、夜になるともう少し賑やかになるのよ。」


「でも……私たち、あんまりお金持ってないんですけど。」

 真希が申し訳なさそうにそう言うと、麗花さんは手を振って笑った。

「いいの、今日はお友達価格でサービスしといてあげるわ。さ、座って。」


 促されるまま、私たちはカウンターの席に腰を下ろした。真希は少し緊張しながら店内を見回し、隣の柚子に小声で話しかけた。

「ねえ……この雰囲気、なんか佳苗さんのお姉さんとかじゃない?」

 柚子は驚いた顔をして一瞬考え込んだが、すぐに肩をすくめて答えた。

「え、姉妹?そんな話聞いたことないけど……まあ、言われてみれば似てるかもね。」


 そんな話をしていると、背後から聞き慣れた声がした。

「……あんたたち、ここで何してるの?」


 振り返ると、そこには佳苗さんが立っていた。少し険しい顔で、腕を組みながらこちらを見下ろしている。肩にはさっき見た大きな荷物を抱えていた。


「え、佳苗さん?」

 柚子が驚いて声を上げると、佳苗さんはため息をつきながら隣の席に腰を下ろした。

「で、何してるの?」

 その問いに、私たちは答えに詰まった。


「いや、その……偶然通りかかって、なんとなく……。」

 真希がしどろもどろに言い訳をすると、佳苗さんは眉をしかめて呆れた様子を見せた。

「偶然ね……。」


 その様子を横で見ていた麗花さんが、楽しそうに微笑む。

「佳苗、あんたの同級生だったのね。にしても、この子たちったら面白いわね。ずいぶんと興味津々なお客さんじゃない。」


 佳苗さんは麗花さんに向かって短く頷くと、再び私たちに目を向けた。

「……で、何が目的なの?」


 冷たい視線に、私は内心ひやりとしながら、何か言おうと必死に言葉を探していた。隣では柚子も小さく肩をすぼめている。佳苗さんと麗花さんがどんな関係なのか気になりつつも、今はその場の空気に耐えるだけで精一杯だった。


 麗花さんはその気まずい空気を、突然の大笑いで一蹴した。

「ガハハハ!いやー、なんかいいじゃない、こういうの。若いって感じでさ!」


 その豪快な笑い声に、私も柚子も一瞬圧倒されて、何も言えなくなる。佳苗さんだけがムッとした表情を浮かべ、麗花さんをじっと睨みつけていた。


「だいたいさ、こういう時って佳苗が悪いんだよね?」

 麗花さんがわざとらしくからかうような口調でそう言うと、佳苗さんはさらにムスッとして口を尖らせた。

「……だって……。」


 その後、しばらく言葉を探していた佳苗さんだったが、観念したように柚子の方を向き、少しだけ目を伏せながら言った。

「……ごめんね。私に何か至らないことがあったから、部活やめたんでしょ?」


 柚子は急に詫びられて、返答に困ったように目を泳がせる。

「いや、違うの……その……烈志が――」


 柚子がそう口にしかけた瞬間、佳苗さんが勢いよく手を上げて声を張り上げた。

「烈志のことは無し!!」


 その突然の叫びに、場の空気が一瞬止まる。そして、麗花さんの目の色が変わった。さっきまでの陽気な態度とは打って変わり、その眼差しに鋭い光が宿る。


「……烈志?」

 麗花さんが低く呟きながら佳苗さんを見据える。その声には、どこか底知れない威圧感があった。佳苗さんはその視線を受け止め、硬直したように口を閉ざした。


 その場には妙な緊張感が漂い、私は何も言えずに成り行きを見守るしかなかった。


 場の張り詰めた空気の中、柚子が小さく息を吐いて、突然佳苗に向かって口を開いた。


「ずっと思ってたんだよね。」

 その言葉に、佳苗は眉をひそめながら柚子を見た。


「なに?」


 柚子は少しだけ身を乗り出し、言葉を続ける。


「佳苗ってさ、中学のとき烈志に告白して、はぐらかされて、実質フラれたんでしょ?そのくせ、高校に入ってマネージャー抜けたかと思えば薙刀部を始めたりさ。やること壮大すぎるんだけど、結局は烈志が白黒つけるのが怖いんでしょ?」


 その言葉に佳苗の顔色が変わった。一瞬、何か言い返そうとしたが、柚子がそれを遮るようにさらに畳みかける。


「烈志の邪魔したくないとか、もっともらしいこと言ってるけどさ。結局、怖いだけなんじゃないの?烈志に本気で『無理』って言われるのがさ。」


 佳苗は唇を強く噛みしめ、視線を落とした。その反応に、柚子はため息をついて肩をすくめる。


「……そんなに本気なら、もっと正面からぶつかりなよ。私だって、部活やめたのは佳苗のことが嫌いになったわけじゃないんだよ。ただ……あんたがずっとグルグルしてるの見るの、しんどくてさ。」


 その言葉に、私も何かを言いたかったけれど、うまく言葉にできなかった。ただ、佳苗が肩を震わせているのを見ていることしかできない。


 場の空気は、まるで針で刺せば崩れ落ちるような緊張感に包まれていた。佳苗は俯いたまま、震える声で言葉を紡ぎ始めた。


「そうだよ……好きなんだ。」


 佳苗の声は感情に押し流され、わずかに震えていた。その言葉に、私も柚子も息を飲む。


「烈志のことが好きなんだ。ただ、直向きに生きる烈志が……弱くたっていい、将来有望じゃなくたっていい。ただ、あのまっすぐな姿が、いつだって私の胸に刺さるんだよ。」


 佳苗の声は徐々に熱を帯びていった。その瞳には涙が浮かび、彼女の心の中に溜め込んできた感情が溢れ出しているのがわかった。


「でも……烈志は違った。彼は私とは違う。あの人は、自分の弱さと向き合い続けて、少しずつ強くなった。私がくすぶってる間に、あの人はどんどん先へ進んでいった。」


 佳苗は拳を強く握りしめ、その感情を必死に抑え込もうとしていた。


「いずれは日本を代表する武道家になる……そんなのわかってる。大学からたくさんオファーが来ていることだって知ってる。だから……正直、本当は嫌だった。」


 佳苗は顔を上げ、涙が頬を伝い落ちる。その目は、どこか悔しさと悲しさが混ざり合っていた。


 佳苗は唐突に立ち上がり、目の前の机に手を叩きつけた。その音が部屋中に響き渡り、私も柚子も思わず肩を震わせた。


「……あの日、告白した時、私、ほんとにダサかったんだよ。」


 佳苗の声は感情で揺れていた。悔しさと、どこか自嘲するような響きが混ざり合っている。その表情には、いままで見たことのない切実さがあった。


「幼馴染だからいけるなんて……勝手に思ってた。近くで支えてるんだから、私が一番分かってる、なんて……全部、私がそう思い込んでただけだったんだよ。」


 佳苗の瞳には涙が浮かんでいた。それでも、強く唇を噛みしめながら言葉を続けた。


「本当は、ただ釣り合ってなかっただけだったんだ。烈志の真剣さや努力に、私なんて何も応えられてなかった……。なのに、あの時の私は、自分が何様のつもりだったんだろうね。」


 その言葉は、佳苗自身を責めるように吐き出された。彼女が机に置いた手は小さく震えていて、私と柚子は何も言えずにその場に立ち尽くしていた。


「……結局、私が支えてたなんて、ただの自己満足だったんだよ。烈志は、私がいなくたって、もっと遠くへ行ける人だった。それを認めたくなくて……だから、マネージャーを辞めたんだ。」


 佳苗は俯いたまま、一息ついて小さく笑った。それはどこか自嘲的で、胸が締め付けられるような響きだった。


「ほんとに、ダサいよね……。」


 麗花は佳苗の言葉を黙って聞き終えると、無言でポケットからタバコを取り出した。火をつけると、ふっと煙を吐き出しながら、ゆっくりと佳苗に視線を向けた。


「ダサくなんかないよ。」


 低く、しかしどこか温かみのある声だった。その言葉に、佳苗は一瞬目を見開き、麗花を見上げた。


「……麗花さん……。」


 麗花はタバコを軽く指先で弾きながら続けた。


「烈志のことなら、佳苗よりずっと前から知ってる。あいつが生まれた時からずっと見てきたからね。」


 その言葉に、私と柚子は驚き、思わず顔を見合わせた。麗花さんが烈志を知っている?そんな素振り、これまでには一度もなかった。


「……あいつはどうしようもなく馬鹿でさ。ひたすらまっすぐで、馬鹿で、馬鹿で……馬鹿で……。」


 言葉を重ねるたびに、麗花さんの声がどこか優しくなっていく。佳苗もその言葉に耳を傾け、息を飲んでいた。


「でも、私のことをずっと尊敬してくれてたんだよね。どんなに馬鹿でも、あいつの目はいつだって私を追いかけてた。」


 麗花はタバコを吸い込み、再びふっと煙を吐き出した。その仕草はどこか寂しげで、切なさが滲んでいた。


「だから、あいつがまっすぐ進んでいくのを見ると、私も複雑になる時がある。でも佳苗……お前があいつを想う気持ちを、誰もダサいなんて思わない。烈志だって、そんなふうには絶対思わないよ。」


 麗花はそう言うと、タバコを灰皿に押しつけ、真希と柚子に向き直った。その目は真剣で、どこか懇願するような色を帯びていた。


「……ねえ、あんたたちも佳苗を許してやってよ。いろいろあったみたいだけど、佳苗は佳苗なりに必死にやってきたんだ。……そうだろ?」


 突然のお願いに、私は戸惑いながらも、麗花さんの熱意に圧倒される。柚子も何か言いかけて口を閉じ、少しうつむいた。


「いや、それは別に……私たちが許すとか、そういう話じゃ……。」

 私がそう言うと、麗花さんはふっと小さく笑った。


「そりゃそうだな。でもさ、佳苗をこれからも支えてやってくれるとうれしい。」


 その言葉に、佳苗が顔を赤らめながらうつむき、何も言えずにいた。


 その時だった。柚子が、ふと眉をひそめて麗花さんをじっと見つめる。


「……ねえ、麗花さん。なんか、佳苗と烈志のことやけに詳しくない?」


 その問いに、麗花は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐにサングラスを外してニヤリと笑った。


「そりゃ、詳しいに決まってるさ。だって、私……昔、烈志の“兄”だったんだから。」


「えっ……兄?」

 柚子が驚きの声を上げると、私も思わず麗花さんを凝視した。兄?麗花さんが?


「まぁ、今じゃこうなってるけどね。」

 麗花は自分の長い黒髪を軽く指で巻きながら、さらりと告げた。その仕草は、女性らしさを際立たせていたが、その言葉の重みが私たちの心を強く揺さぶった。


「昔の名前は烈花。烈志よりも数倍強い武道家だった。でも、自分の性の差異にずっと苦しんでた。厳しい家系でさ……親には勘当されて、烈志とももう何年も会ってないよ。……仮に会ったとしても、私がこうなってることには気づかないだろうね。」


 麗花の声には、どこか遠くを見つめるような寂しさがあった。


「でも……。」


 麗花は佳苗に向かってそう告げると、静かに席を立った。カウンター裏に消える姿を見送りながら、私たちは言葉を失ったまま、ただそこに立ち尽くしていた。


 真希は思い出したかのように、佳苗の方を向いた。そして、一瞬ためらった後、問いかけた。


「……佳苗さん。麗花さんが烈志のお兄さんだったって、知ってたの?」


 その問いに、佳苗は目を伏せ、手元を見つめるようにして静かに頷いた。


「……うん。でも、最初は気づかなかった。偶然会って話すまでは、全然……。」


 佳苗の声には、戸惑いと複雑な感情が混ざり合っていた。


「それで……烈志には話したの?」

 真希がさらに尋ねると、佳苗は首を横に振った。


「話そうと思ったけど……麗花さんの今の姿を、私が言うべきじゃないって思ったの。」


 佳苗の言葉が静かに落ちたその時、背後の襖が音を立てて開いた。驚いて振り返ると、そこには道着姿の麗花さんが立っていた。柔らかな照明の中、道着の白さが凛とした存在感を際立たせていた。


「……お前たち、まだここでごちゃごちゃしてんのか。」

 低い声でそう言いながら、麗花は道着の襟を整えた。その仕草は、隙のない洗練された武道家そのものだった。


「麗花さん……道着なんて着て、どうするんですか?」

 真希が戸惑いながら尋ねると、麗花は道着の袖を軽く叩いて整えながら、不敵に笑った。


「決まってんだろ。烈志のところに行って、私が白黒つけてやる。」


 その言葉に、一同は固まった。麗花の目には迷いのない決意が宿っている。まるで冗談ではなく、本気だとわかる瞳だった。


「ったく、あの野郎……ませやがって……。」

 麗花はそう言い切ると、片手で軽く道着の袖を引き上げ、手首を回してみせた。その動きは滑らかで力強く、長年の鍛錬を感じさせた。


「……そんなことして、何になるんですか!」

 佳苗が驚きの声を上げるが、麗花は振り向きもせず、道着の帯をきゅっと締め直した。


「何になるか?それは烈志が決めることだろう。私はただ、あいつに覚悟を決めさせるだけ。」


 その言葉に、佳苗は息を呑んだ。真希と柚子も、麗花の圧倒的な雰囲気に言葉を失っている。


「門限は変わってないか?」

 麗花がふと問いかける。佳苗は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。


「……変わってないと思う。」


「なら、間に合うな。」

 麗花はそう呟くと、わずかに笑みを浮かべた。その笑みはどこか冷たく、同時に情熱的でもあった。


 彼女が一歩足を踏み出すと、その場の空気が揺れたように感じられた。まるで、その迫力だけで周囲を圧倒するような存在感だった。真希は思わず息を詰め、柚子もまた硬直していた。


「行くぞ。これ以上、あいつが逃げるのは許さない。」

 麗花の声には、覚悟と決意が込められていた。その目には、烈志への深い思いと強い意志が宿っている。


 その場にいた誰もが、その迫力に圧倒されて何も言えなかった。ただ、麗花の後ろ姿を見送りながら、それぞれの心に複雑な思いを抱えていた。





 休日の昼下がり、武道館の薄暗い洗濯室に清輝の怒りが炸裂していた。洗濯機に押し込んだ道着の重さと臭気に、ついに堪忍袋の緒が切れる。


「だからさ!! 俺はマネージャーだって言っても、土日は休みなんだよ! それが社会のルールだろ!」


 清輝は道着を乱暴に放り込みながら叫んだ。柔道部員たちの汗と泥が染みついたその道着は、見た目も匂いも凶器のようだった。鼻をつまみながら、洗剤をぶち込んで洗濯機のフタを乱暴に閉める。


「練習するのはいいけど、少しは自分で洗えっての!」


 その頃、道場では正樹と烈志が汗を飛ばしながら組み合っていた。武道館に響き渡る柔道着の擦れる音、足が畳を蹴る音、そして互いに気合を入れる声が緊張感を漂わせていた。


「烈志先輩、次行きます!」

 正樹は荒い息を整えながら構えを取る。その目は真剣そのものだった。


「いいぞ、正樹。どんどん来い。」

 烈志の声にはいつになく張りがあった。その瞬間、正樹が鋭い動きで烈志に攻め込む。烈志は一瞬驚いたような表情を見せるが、すぐにその攻撃を受け止め、畳の上で体を反転させながら正樹を投げ飛ばした。


「くっ……!」

 正樹は投げられた痛みよりも、自分の技が通用しなかった悔しさに拳を握りしめる。


「正樹、悪くない攻めだったぞ。ただ、お前はもう少し間合いの取り方を意識したほうがいい。」

 烈志がアドバイスを送りながら手を差し伸べると、正樹はその手を取りながら立ち上がった。


「はい、ありがとうございます! もっと練習します!」


 そのやり取りを、洗濯室から戻った清輝が冷ややかに見ていた。腕を組み、怒りを通り越した無表情でつぶやく。


「お前らさぁ……。俺が洗濯してる間にそんな青春してんじゃねぇよ。」


 正樹は気まずそうに笑い、烈志は清輝を見て少しだけ肩をすくめた。


「いや、清輝。お前もマネージャーなら、たまには俺たちの練習を見て、参考にしたらどうだ?」

「はぁ? 参考もなにも、俺は試合に出る気ないんだけど?」

 清輝が呆れた顔でそう言うと、烈志はにやりと笑い、再び正樹と向き合った。


 その後も、正樹の挑戦は続いた。烈志は全てを受け止めるように動き、技の一つ一つを正確に正樹に叩き込んでいく。清輝は渋々その様子を眺めていたが、いつしか彼の目にも変化が現れていた。


「……正樹、やるじゃん。」

 清輝の呟きは誰にも聞こえないほど小さなものだったが、そこには確かな感嘆が滲んでいた。


 烈志もまた、正樹の成長を実感していた。正樹の動きには、かつての不器用さや迷いが消え、技に自信が宿っていた。力強さと柔軟性が混ざり合ったその姿は、来月の練習試合でも十分通用するだろうと烈志は確信していた。


「正樹、お前……マジで試合に出せるな。」

 烈志のその一言に、正樹は驚きの表情を見せた後、嬉しさを堪えきれないように笑みを浮かべた。


「本当ですか!? 烈志先輩、僕、頑張ります!」


 その笑顔を見た烈志も、思わず小さく笑った。清輝はそんな二人の様子を見て、洗濯室での自分の怒りがどこか薄れていくのを感じていた。


「ったく、熱血バカどもが。まあ、少しは応援してやるか。」

 清輝はそう呟きながら、再び洗濯機のスイッチを押し直した。汚れた道着がぐるぐると回る音が、静かな武道館に響いていた。



 しかしその直後、駐車場からエンジンの爆音が響き、武道館の静けさがかき乱された。その音に烈志は足を止め、清輝は「あーあ、また面倒なのが来たな」と呆れ顔を浮かべた。正樹はすでに怯えた表情で烈志の後ろに隠れている。


「何だこの音……バイクか?」

 烈志が低く呟き、道場の扉をちらりと見ると、予感が的中した。扉が勢いよく開かれ、3人の男たちが顔を見せた。そこには、以前清輝がカラーボールを投げつけた実業高校の不良たちがいた。


「よう、清輝!やっと見つけたぜ!」

 リーダー格の男がにやりと笑いながら清輝を指差す。

「この前の……たっぷり礼を返してやるから覚悟しろよ。」


 清輝は肩をすくめ、飄々とした態度を崩さない。

「あー、そんなこともあったっけ?まぁ、ジョークだろ?大人気ないって気づけよな。」


「はぁ?ジョークだぁ?てめぇ、どんだけふざけた口叩いてんだ!」

 リーダー格の男が怒りを込めて一歩前に出ると、清輝は冷静にポケットを探った。そして、得意げに熊よけスプレーを取り出して掲げる。


「見ろ!これが俺の最終兵器だ。追われる立場ってのは、準備が命なんだよ。」

 その言葉に不良たちはポカンとした表情を浮かべた後、腹を抱えて笑い出した。


「ははっ!マジかよ!スプレー1本で何とかなると思ってんのか?」

「おいおい、清輝、もっとマシな武器ないのかよ!」


 清輝は鼻を鳴らしながら得意げにスプレーを振りかざした。

「スプレーだけだなんて言ってないだろ。俺は卑怯に物言わせたら無敵なんだぜ!」


 その一言に、不良たちは一瞬唖然としたが、すぐに再び爆笑を始めた。

「お前、正気かよ!卑怯を自慢する奴なんて初めて見たぜ!」


 そんな中、正樹は清輝の後ろで小さく震えながら、おそるおそる声を上げた。

「ぼ、僕、清輝先輩なら……いくらでも差し出します!だから、僕の命だけは……!」


「おいおい、正樹!俺を売るのかよ!」

 清輝が抗議すると、正樹は必死の形相で叫ぶ。

「だ、だって……僕、清輝先輩ほど立派じゃないですし……!」


「褒めてるのか貶してるのかわかんねぇよ!」

 清輝がツッコミを入れると、烈志が低い声で二人を制した。


「黙れ、清輝。」

 その一言で場が静まる。烈志は一歩前に出て、不良たちに向き直った。


「全員で来い。相手してやる。」

 その堂々とした態度に、不良たちは一瞬ひるんだが、リーダー格の男が冷笑を浮かべる。


「強気だなぁ。でも、お前一人で俺たちを相手にできるのかよ?」


 その挑発に烈志は応えず、ただ鋭い視線を向けた。その目には迷いも怯えもなく、まるで不良たちを圧倒するような迫力が漂っていた。


 リーダーの合図で、1人の不良が烈志に向かって突進した。しかし、烈志はわずかな動きで相手の攻撃をかわし、そのまま相手の腰を掴んで投げ飛ばした。


「ぐはっ!」

 鈍い音と共に、不良が畳に叩きつけられる。その光景に正樹は口をあんぐりと開けた。


「せ、先輩……すごいです……。」

「当たり前だろ。次はどっちだ?」

 烈志が冷たく言い放つと、残りの不良たちは顔を見合わせた後、同時に飛びかかった。


 烈志は一人目を軽々とかわし、二人目の腕を掴んで投げようとしたが、後ろから羽交い締めにされてしまう。


「チッ……!」

 烈志が振りほどこうとするが、力が入らない。


「烈志先輩、危ない!」

 正樹が叫ぶ中、清輝が悠然とスプレーを構えた。


「チッ……最終兵器!!熊よけスプレー!!いっきまーす!!」

 シューッという音と共に、不良の顔にスプレーが直撃。


「うわっ!目がぁ!」

 羽交い締めしていた不良が苦しみ、手を離した隙に、烈志は身をひねって相手を投げ飛ばした。


 残るリーダー格の男は、怒りに震えながらポケットからスタンガンを取り出した。

「ふざけやがって……これで終わりだ!」


 スタンガンを構えるリーダー。その瞬間、何かが彼の手首を掴んだ。


「……!」

 リーダーは目を見開いた。次の瞬間、激しい音が響き渡り、彼の体が宙を舞った。


「うわああっ!」

 リーダーは武道館の扉ごと吹き飛ばされ、外の地面に叩きつけられた。


 呆然とその光景を見つめる一同。そこに立っていたのは、道着姿の麗花だった。


 腕を組み、凛とした佇まいで烈志たちを見下ろすように立っている。その目にはどこか懐かしさと鋭さが宿っていた。


 そして、静かな声で一言。


「……よう、大きくなったな。」


 烈志はその声を聞いた瞬間、全身が強張った。


「な……誰だ、お前……?」


 麗花は答えず、ただ不敵な笑みを浮かべて烈志を見つめていた。

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