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11話.憧れ、願い

 真希は帰りの電車を待ちながら、この一週間のことを思い返していた。


 普通に登校して授業を受けて、昼休みには烈志と清輝と屋上で駄弁る。何気ない日常の中で、烈志の豪快な冗談や清輝の皮肉交じりの軽口に何度も笑わされた。そして、最近仲良くなった柚子とは放課後に雑誌を広げて、俳優の顔がかっこいいだの、最新のコスメが気になるだの、女子高生らしい話題で盛り上がった。


「こんなに楽しい日々が訪れるなんて、思ってもみなかったな……。」


 真希は電車を待ちながら、自然と微笑んでしまう。もちろん佳苗のことが気になる瞬間もあったけれど、その疑問も上塗りされてしまうほど充実した日々だった。


 その日の帰り道、清輝と一緒に駅へ向かっていた。


「最近、結構楽しそうじゃん。」

 清輝が歩きながら言う。


「……まぁね。普通の高校生活、想像よりいいかも。ちょっと普通とは呼べないかもだけど」

 真希は照れ隠しのように笑いながら答えた。


 清輝はそんな彼女の様子を横目で見ながら、ふっと笑う。

「そりゃよかった。でも結局、俺らみたいな変な奴らと一緒にいた方が気楽なんだろ?」


「変な奴ら、ねぇ。」

 真希は思わず笑いを堪えながら応じた。


 二人が駅前の広場に差し掛かった時、ふと真希の視線が止まった。駐輪スペースのすぐ横に、やんちゃそうなバイクが数台並んで停まっていた。その中でも目を引いたのは、フロントが真っ黒のオレンジ色に塗りたくられたバイクだった。


「あ……あれって……?」


 真希が立ち止まると、清輝もそれに気づいた。


「やべ……!」

 清輝が低い声で呟くと、すぐに踵を返した。


「実業高校の連中だ……!なんでここにいるんだよ!」

 清輝の声には焦りが混じっている。


 真希は驚きながらも清輝の背中を追った。

「どうしたの?あの人たちがなんなの?」


「いや、なんでもねぇよ!」

 清輝は慌てて振り返りもせず、早足でその場を去る。


「また明日な!」

 清輝はそれだけを残し、駆けるように駅を離れていった。


 残された真希は不安と好奇心が入り混じる中、駅前に停められたオレンジ色のバイクを再び一瞥し、足早に電車の改札へ向かった。



 電車が来るまでの時間、私は駅の構内のベンチに腰を下ろし、ぼんやりとホームを眺めていた。夕焼け色に染まった空の下、何台もの電車が通り過ぎる音が遠くに聞こえる。時計の針は次の電車の到着まで、あと少しを指していた。


「おい、あれ、あいつの高校の制服じゃねぇか?」

 不意に聞こえてきた男の声に、私はぎくりと肩を震わせた。声の方向をちらりと見ると、制服姿の私をじっと見つめる3人の男たちが立っていた。


 3人とも、いかにも「やんちゃ」という雰囲気をまとっていた。

 1人は金髪をワックスで無造作に立たせ、制服のシャツをはだけさせている。タバコを指でくるくると回しながら、不敵な笑みを浮かべている。

 もう1人は坊主頭で、体型はがっしりしている。革ジャンを肩に羽織り、腕には学校名の刺繍が入ったバッグをぶら下げている。

 最後の1人はやや細身で、茶髪を無造作に伸ばしている。フードを深く被り、顔の表情は読みにくいが、視線は冷たい。


「おい、ちょっと聞きたいことあんだけどさ。」

 金髪の男が、私に近づいてきた。足元にタバコの灰が落ちるのが見え、私は咄嗟に視線をそらす。


「お前、近くの高校だろ?この辺の奴らなら知ってるはずだ。」

 金髪の男が、馴れ馴れしい口調でそう言う。


「……何のことですか?」

 私は曖昧に答えた。できるだけ関わりたくない、そう思って距離を取ろうとしたが、彼らは一歩また一歩と詰め寄ってきた。


「清輝ってやつ知らねぇか?ダッセェ原付乗ってる生意気な奴だよ。」

 その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。やっぱり清輝を探してる……どうして?


「……知らないです。」

 私はできるだけ冷静を装い、はぐらかすように言った。だが、男たちは納得しない様子だった。


「嘘つけよ。制服同じなんだろ?」

 坊主頭の男がにやりと笑いながら言う。その時、茶髪の男が私の酸素濃縮器に目を留めた。


「なぁなぁ、それ、なんだよ。ダセぇ機械背負ってんじゃん。もしかして酸素ボンベかよ?」

 その言葉に、私の心がざわつく。馬鹿にされるのには慣れているはずだったのに、どうしても許せない気持ちが湧き上がる。


「……なんですって?」

 思わずきつい口調で言い返すと、男たちは「おっ、怒った怒った」と嘲笑を浮かべた。


「やべぇよ、お前、酸素吸わなきゃ喋れないんじゃねぇの?」

「おいおい、そんな体で外出るとかチャレンジャーだな!」

 彼らの言葉が耳に刺さる。


「やめてください!」

 私は立ち上がって強く言い返した。だがその瞬間、金髪の男が私の肩をつかみ、押し倒した。


「おいおい、ちょっと強気じゃねぇか。」

 私はバランスを崩して倒れかける。地面にぶつかる――その瞬間。


「……ちょっと、あんたたち、やりすぎじゃない?」

 冷たい声が響き渡った。


 背中に感じたのは地面ではなく、しっかりとした腕。私を支えてくれたのは、スラリと背の高い女性だった。派手な服装に身を包み、長い黒髪が風に揺れている。


「な、なんだよお前……」

 金髪の男が女性を見上げる。その瞬間、彼女はサングラスをゆっくりと外した。


 鋭く、冷たい視線が男たちを射抜く。彼女の瞳には、圧倒的な迫力が宿っていた。


「なに見てんだよ……!」

 坊主頭の男が虚勢を張るように言うが、その声はどこか震えている。彼女は一歩前に進み、静かに口を開いた。


「君たち、楽しいの?そんなことして。」

 その言葉に、男たちは一瞬動きを止めた。


「大人しく消えなよ。そうじゃないと――」

 彼女は言葉を区切り、無言で鋭い視線を送り続ける。その威圧感に耐えきれなくなったのか、金髪の男が舌打ちをしながら仲間を促した。


「行くぞ!」

 3人は互いに顔を見合わせ、そそくさとその場を立ち去っていった。


 彼女は私を支えながら微笑んだ。その笑顔は、さっきまでの威圧感とはまるで別人のようだった。


「大丈夫?」

「……はい。ありがとうございます。」

 私は震える声で答えた。


「……田舎者って変な奴多いからさ、気をつけて」

 彼女はそう言うと、再びサングラスをかけ直し、駅の出口へと向かっていった。


 そして出口に向かって歩き出した麗花の背中に、私はとっさに声をかけた。


「待ってください!」

 彼女の足が止まり、振り返る。その表情には、少しばかりの驚きが浮かんでいた。


「名前だけでも……教えてください。改めて御礼が言いたいんです。」

 私の声は緊張で少し震えていたが、それでもなんとか言葉を絞り出した。


 麗花は一瞬黙り込んだ後、口元に微かな笑みを浮かべる。そして、肩をすくめながら軽く首を振った。


「麗花。それだけ。」

 彼女は短くそう告げると、ふっと笑い、また背を向ける。


「別に覚えなくてもいいけどね。」

 その言葉とともに、彼女の長い黒髪がさらりと揺れた。


(かっこいい……!)

 私はただその後ろ姿を見送ることしかできなかった。都会的で洗練された佇まい、そして圧倒的な存在感。心の中で、何度もその名前を繰り返した。


 麗花……。


 しばらくして、電車がホームに滑り込んできた。私はまだ興奮気味の気持ちを抱えながら車内へと足を踏み入れる。座席に腰を下ろし、少しずつ落ち着こうとしていた。


 車窓の外をぼんやり眺めていると、ふとした瞬間、視界に見覚えのある姿が入ってきた。数メートル離れた席に座っているのは……佳苗さんだ。


(え……なんでここに……?)

 動揺で心臓が早鐘のように鳴り始める。視線をそっと向けると、佳苗さんもこちらに気づいたようだった。


 だが、佳苗さんは一瞬だけ私を見て――すぐに視線を逸らした。その動きはあからさまで、まるで「話しかけるな」と言わんばかりだった。


(気まずい……。)

 私は視線を足元に落とし、できるだけ目立たないようにじっとしていた。佳苗さんが何を考えているのか分からない。だが、昨日のことが頭をよぎり、不安が胸の中に広がっていく。


 車内には電車特有の静かな振動音だけが響いている。その音が、余計に気まずさを強調しているようだった。


 しばらくすると、電車が和銅黒谷駅に停車した。佳苗さんが立ち上がり、私をちらりと横目で見た。だが、声をかけるでもなく、またすぐに目を逸らし、駅のホームへ降りていく。


 私の目の前で扉が閉まり、佳苗さんの後ろ姿が遠ざかっていく。その姿は、どこか苛立っているようにも、悩んでいるようにも見えた。


(佳苗さん……。)


 複雑な気持ちが胸の中で渦を巻く。さっきの麗花さんの出来事で高揚していた気持ちが、すっかりしぼんでしまった。電車はまたゆっくりと走り出し、私はただ静かに座ったまま、次の駅を目指していた。



 夜、部屋のカーテンを閉めてデスクの前に座ると、スマホの画面をタップして柚子にメッセージを送った。

「明日、ウニクス行くの何時にする?」


 しばらくして、すぐに返信が返ってくる。柚子らしい、少しぶっきらぼうな口調だ。

「10時に道の駅前集合な。絶対寝坊すんなよ。」


「うん、わかった。」と返事を打ち、最後にスタンプを送ると、私はスマホを机の上に置いて深く息をついた。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。薄暗い部屋に、夜の静寂がじわじわと染み込んでくる。

(明日は、どんな1日になるんだろう……。)


 目を閉じると、佳苗さんのあの少し苛立ったような表情が浮かんだ。あの一瞬の気まずさは、まだ心のどこかに引っかかっている。だけど、それ以上に楽しい日々が上書きしていく感覚があった。

「最近、本当に……普通の高校生活みたいだな。」

 自分の呟きが部屋の中に溶けて消えていく。


 ふと、視界の端にデスクの上が映る。そこに置かれた、小さな薬瓶――発作を止める薬。

(あれ、最後に使ったの、いつだっけ……?)


 考えてみると、ここ最近、薬に手を伸ばした記憶が全くない。あの息苦しさや恐怖に襲われる瞬間が、まるで遠い昔のことのように感じられた。


 もし、このまま病気が治ったら――。


 そんな考えがふっと胸に浮かび、心の中に小さな灯がともったような気がした。

(病気が治ったら、どこへ行こう?何をしよう?)


 まだ行ったことのない場所。まだ見たことのない景色。これまで避けてきた普通のこと――それらが一つ一つ頭の中をよぎる。


 けれど、それと同時に、心の奥底から湧き上がる不安が顔を出す。

(そんな日が本当に来るのかな……。)


 考えすぎてしまいそうになる自分を振り払うように、ベッドから少し身を起こし、そっと机の上の薬瓶に手を伸ばした。小さな瓶を持ち上げ、揺らしてみる。中の薬がカラカラと音を立てた。


(使わない日が続くって、こういうことなんだ。)


 微かに笑みを浮かべながら、薬瓶を元の場所に戻す。そして、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


 手を伸ばして部屋の明かりを消すと、暗闇が静かに私を包み込んだ。


「明日が楽しみだな……。」


 そんな小さな呟きとともに、私は静かに目を閉じた。



 道の駅秩父に約束の10分前に着いた私は、少し肌寒い曇り空の下、辺りをぶらぶらと歩いていた。柚子からは「すまん、ちょっとだけ遅れる」との連絡。仕方なく、時間を潰しながら周りを眺める。


 曇っているにもかかわらず、山々はくっきりと輪郭を描いていて、美しい景色が広がっていた。大きく息を吸い、吐く。冬の名残が微かに感じられる冷たい空気が肺を満たし、少し気持ちが落ち着く。


 そんな時、ふと広場の方を見ると、何やら取材が行われているのが目に入った。派手なスーツに身を包んだ男性タレントが、秩父市役所の観光担当と思われる女性と楽しげに会話をしている。女性はきちんとしたスーツ姿で、一見柔らかな雰囲気を纏いながらも、どこか凛とした表情が印象的だった。


「なんだろう、取材?」

 私は遠巻きにその様子を見ていると、背後から軽快な足音とともに声が聞こえた。


「待ったー!遅れてごめん!」

 息を切らしながら駆け寄ってきたのは、柚子だ。


「大丈夫。ちょうど暇つぶししてたところだから。」

 そう言って取材班を指さすと、柚子は興味津々な顔でそちらを見た。


「へえ、ほんとだ。あー、あの男、どっかで見たことあるなー。テレビで観たことある気がする。」

 柚子は目を細めて確認しながら、軽く鼻を鳴らした。


「でもさ、こんなチャンス滅多にないんじゃない?映りたいなら行ってみれば?」

 唐突に言われ、私は慌てて首を横に振る。


「いやいや、絶対無理!」

「冗談だってば。」

 柚子はクスクス笑いながら取材の様子を眺めていた。


 そんなやり取りをしていると、取材班の一人であるカメラマンが観光担当の女性に何やら耳打ちをしていた。そして、男性タレントがこちらを見てにっこり笑い、手を振ってくる。


「ちょっと、あそこの女子高生たちにもインタビューしてみませんか?きっといい絵になりますよ。」

 カメラマンの提案に、タレントはノリノリで頷き、こちらに向かって歩いてきた。


「え、私たち!?」

 驚く私の横で、柚子は「おお、いいじゃん!やるぞ!」と嬉しそうに肘で軽く小突いてきた。


 気づけば私たちはカメラの前に立たされ、男性タレントがマイクを向けてくる。


「こんにちは!今日は秩父にお住まいの女子高生に、地元の魅力を聞いちゃいましょう!」


「やっぱり、自然と温泉ですかね!それに地元グルメも最高だし!」

 柚子は自信満々に答え、さらにはカメラに向かって両手でピースサインをしながら、「ご視聴ありがとうございましたー!いえーい!」と叫んだ。


 一方、私は引きつった笑顔を浮かべるのが精一杯で、小さく手を挙げて「い、いえーい……」とぎこちなく声を出す。


 撮影が終わると、市役所の観光担当の女性が私たちに近寄り、深々とお辞儀をした。


「今日はご協力いただき、本当にありがとうございました!とても助かりました。」


 その礼儀正しい様子に、私たちは思わず「いえ、楽しかったです」と同時に答えた。


「高校生のお二人、すごくしっかりしていて感心しました。私、実は同い年の弟がいるんですよ。二人を見てたら、なんだか弟にももっと地元を楽しんでほしいなって思っちゃいました。」


「弟さん、高校生なんですか?」

 私が聞くと、女性は頷いて、微笑んだ。


「ええ、地元のことにあまり興味を持っていないみたいで、ちょっと寂しくて。でも、お二人みたいな明るい子たちがいてくれると、彼もいい影響を受けるんじゃないかな。」


 そんな何気ない会話だったが、その言葉に私はじんわりと温かい気持ちになった。


「さて、そろそろ行こっか。」

 柚子が肩を回しながら言うと、私はカメラの方を最後にちらりと見てから歩き出した。


 曇り空の下で、秩父の山々がどっしりとその存在感を放っている。その光景を胸に焼き付けながら、私たちは次の目的地へ向かって歩き始めた。


「ねぇ、真希って映画館でポップコーンとか買う派?」

 道を歩きながら柚子がふと尋ねてきた。


「え?どっちかというと買わないかな……映画に集中したいし。」

 そう答えると、柚子は「えー、もったいない!」と笑いながら手を振った。


「映画館の醍醐味はさ、あの暗い中でポップコーンを食べることなんだよ。分かってないな~。」

「……じゃあ、柚子は絶対買う派?」

「もちろん!映画よりポップコーン目的で行ってるようなもんだし!」


 その言葉に、私は思わず苦笑した。柚子の話を聞きながら、なんだか次に映画を観るときは、ポップコーンを買ってみようかな、なんて考えていた。


 やがて建物の前にたどり着くと、目の前には映画館の看板が目に入った。ポスターには新作のロマンス映画が大きく貼られていて、周りには映画を楽しみにしている人たちのざわめきが聞こえてくる。


「さ、今日はこれを観るんでしょ?」

 柚子がポスターを指差しながら言う。


「うん、楽しみだね。」

 軽く頷いて映画館の扉をくぐり、甘い香りの漂うロビーへと入っていく。少し冷たい空気が肌を包み、これから始まる時間への期待がふつふつと湧き上がった。



 映画館を出ると、ロマンス映画の余韻がまだ心に残っている。真希は「よかったよね」と小声で感想を漏らすが、隣を見ると柚子が大きなあくびをしている。


「いや~、悪いけど途中で寝ちゃったわ。ああいう映画、なんか眠くなるんだよね。」

 柚子は気まずそうに笑いながら肩をすくめる。真希は思わず苦笑しつつ、「でも、途中で寝るなんてひどいよ」と軽く文句を言う。


「だってさ、恋愛モノってリアルじゃないじゃん?もっとアクションとか派手なやつがいいんだよ、私には。」

 柚子の言い分に真希は「まぁ、たしかにね」と頷きながら、映画館のポスターを一瞥する。そこには次回上映予定のアクション映画の広告が貼られている。


 その後、ショッピングモール内を歩きながら服屋を覗く。セールの文字に惹かれた柚子が真希を引っ張るように店に入ると、カラフルなワンピースやシンプルなトップスが並んでいる。


「これとかどう?真希に似合いそうじゃない?」

 柚子がラックから取り出したのは、淡いピンクのブラウス。真希は「えっ、そんな派手なの?」と驚きながらも、鏡に当ててみる。意外と悪くない。


「ほら、いいじゃん。こういうの着ないと損だって!」

 柚子の強い勧めに、真希は「うーん……でも、ちょっと高いし」と首を横に振る。


「じゃあ次!こっちはどう?」

 次々と服を選んでくる柚子に押され気味の真希だが、それでも二人であれこれ試しながら笑い合う時間は楽しい。


 さらに、コスメショップにも立ち寄る。柚子は「新しいリップが欲しいんだよね」と言いながら棚を眺める。その視線は真剣で、店員に声をかけて色味やテクスチャーを試している。


「これ、めっちゃ良くない?」

 柚子が手にしたのは、華やかなレッドのリップスティックだ。真希は「いいけど、ちょっと派手すぎない?」と心配そうに言う。


「いやいや、派手なくらいが丁度いいんだよ!特に今のうちにな!」

 柚子はそう言いながら、「よし、奮発して買っちゃおう」とレジに向かう。真希は「そんなに高いのに……すごいね」と呟きつつ、少し羨ましそうに見ている。


「真希もなんか買えば?ほら、これとか似合いそうじゃん。」

 柚子が差し出したのは、淡いピンクのチーク。真希は「いや、私はいいよ」と笑って断る。


 ショッピングモールを一通り回った後、二人はフードコートに向かう。お腹が空いているのか、柚子はフードコートのメニューを見回しながら目を輝かせている。


「私は……タピオカドリンクと……あ、やっぱりポテトも!」

 柚子は早速、フライドポテトとタピオカドリンクを注文する列に並ぶ。真希はその様子を見ながら、「なんでそんな組み合わせなの?」と笑う。


「いや、これが私の定番なんだよ。真希は何にする?」

 真希は「うーん……まだ決めてない」と迷いながらメニューを眺める。


 柚子は注文を終えると、「じゃあ、席取っとく!」と足早に空いている席を探し始める。真希はその背中を見送りながら、「ほんとに元気だな」と小さく呟いた。



 その後、フードコートで頼んだハンバーガーやポテトを食べながら、私たちは次の予定について話していた。


「ねえ、ウニクス出たら秩父神社にお参りしない?」

 私がそう提案すると、柚子は一瞬驚いたような顔をした後、飲み物を飲みながら軽く笑った。


「秩父神社?あんた、まだ行ったことなかったの?」

「うん。有名だって聞いたけど、まだちゃんと行けてなくて。」

 そう答えると、柚子は肩をすくめながら言った。


「そりゃあ観光客だって真っ先に行く場所だし、地元民としては一度くらい行っとかないとね。」

「じゃあ、柚子は何お願いするの?」

 私が聞くと、柚子はポテトを一本手に取りながら少し考えるふりをして、軽く言った。


「都会に出られますように、かな。」

「都会?」

 思わず聞き返すと、柚子は頷いて言葉を続けた。


「そう。東京でも大阪でもどこでもいいけど、もっと都会に住みたいんだよね。」

「そうなんだ……。」


 柚子の言葉に少し驚いた。秩父は自然が豊かで落ち着く場所なのに、それでも都会に行きたいって思う人もいるんだな、と。


「だってさ、秩父ってつまんないじゃん。自然がきれいなのはいいけど、店も少ないし、遊ぶ場所だって限られてるでしょ?」

「私はそれがいいと思うけどな。」

 私がそう返すと、柚子はニヤリと笑ってきた。


「ふーん。真希は秩父派なんだ?」

「うん。空気はきれいだし、山や景色もすごくきれいだし、静かで落ち着くし……そういうのって都会にはない良さだと思うよ。」

「……まあ、それはそうかもね。でも私はやっぱり都会に憧れるなあ。もっと刺激的で楽しいことがたくさんある気がするし。」


 柚子は少し遠くを見るような目でそう言うと、またポテトをつまんで口に入れた。


「でも、都会って人が多いし、ずっとあの賑やかさにいると疲れないのかな?」

 私が尋ねると、柚子は笑いながら肩をすくめた。


「疲れたら田舎に戻ってくればいいじゃん。そういうとこ、贅沢だと思うよ。どっちも行ったり来たりできたら最高じゃん?」


 その言葉に、私は少し納得するように頷いた。柚子の都会への憧れは、私には少し眩しく見えた。


「で、真希は何お願いするの?やっぱり健康成就とか?」

「まあ、それもあるけど……。」

「ぷっ、そりゃ呼吸器つけてお願いしたら神様もびっくりだわ。」

 柚子が笑いながら言うと、私もつられて笑った。


「でも、秩父で暮らしてると、自然と健康のありがたみを感じるんだよね。だからお願いするなら、今の楽しい毎日が続きますように、かな。」

「そっか。真希らしいお願いごとだね。」


 柚子はそんなことを言いながら、飲み物を飲み干して立ち上がった。


「じゃ、そろそろ行こっか。秩父神社で地元のパワーでももらってくる?」

「柚子、結構秩父好きなんじゃない?」

「どうだろうね。都会に行きたいのは本気だけど、まあ秩父も悪くない……のかも?」


 そんな会話をしながら、私たちはフードコートを後にした。曇り空の下、少し冷たい風を感じながら秩父神社へ向かって歩き出した。


 秩父神社に着いた私たちは、参道をゆっくりと歩いて本殿へと向かった。参拝客が多く、静かなイメージだった神社も今日は賑わいを見せている。観光客の話し声や、写真を撮るカメラのシャッター音が響く中、私たちは人混みに揉まれながらもなんとか本殿の前へたどり着いた。


「さて、何をお願いしようかなー。」

 柚子は財布から小銭を取り出しながら、軽い調子で言う。その横顔を見ながら、私は先に一礼をして鈴を鳴らし、そっと目を閉じた。


(今の楽しい毎日がずっと続きますように。)


 短くそう願いを込めて手を合わせる。心の中で唱えた願いはささやかだけれど、今の私にはそれが何よりも大切だった。


 目を開けると、隣の柚子が何やら楽しそうに微笑みながら祈っていた。そして手を合わせ終えると、満足そうな顔でこちらを見てきた。


「私、彼氏に困りませんように!ってお願いした!」

 柚子が堂々とそう言うので、思わず目を丸くする。


「えっ、都会で暮らす願いじゃないんだ?」

 内心そう思いつつも、「柚子らしいな」と微笑んでしまった。


「だって、都会に行くのは自分次第じゃん?でも彼氏は運命でしょ!神様の力が必要なの!」

 柚子はそう言いながら肩をすくめて笑う。その軽やかな態度に、私はまたつられて笑ってしまった。


 神社を出る頃には、参拝客の流れに逆らうように人混みを歩く羽目になった。柚子は人の波に押されながら「あー、待ってぇ!」と叫びつつも、必死に私の後を追いかけてくる。


「これじゃ都会は歩けないよ。」

 振り返らずに、理路整然とそう言うと、柚子は「ぐぬぬ」と言いたげな顔をして追いついてきた。


「都会なんて、秩父の神社よりもっと混んでるんだから。」

 そう付け加えると、柚子は少し悔しそうな顔をしながらも「確かに」と苦笑いする。


 神社を出て駅に向かう途中、ふと時計を見ると、電車の時間が迫っていることに気づく。


「やば、急がないと間に合わない!」

 柚子が言うと、私たちは足早に駅に向かって歩き出した。秩父の街並みを横目に、道を急ぐ二人。曇り空の下、風が少し強くなってきた。


 だが、駅が見えてきた頃には無情にも電車がホームを発車していくのが見えた。


「……終わった。」

 柚子が息を切らせながら呆然と立ち止まる。私も肩で息をしながら、電車の後ろ姿を見送り、「次の電車まで……しばらく待つしかないか」とつぶやいた。


 仕方なく駅から少し離れ、番場通りに立ち寄ることにした。立ち並ぶ古い商店や、どこか懐かしい雰囲気を持つ街並みが広がる通りを歩きながら、私たちは少しだけ立ち止まり、周囲を眺めた。


「なんか、こういう時間も悪くないね。」

 柚子が少し肩をすくめながら言う。その顔には、どこか満足そうな表情が浮かんでいた。


「うん、そうだね。」

 私はそう答えながら、曇り空の向こうに広がる山々を見つめた。その光景が、少しだけ心を穏やかにしてくれる気がした。

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