10話.女友達(悪友?)
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を柔らかく照らす。窓を開けると、冷たい朝の風が肌を撫で、清々しい空気が肺に広がった。
「今日は、晴れるかな……」
そう呟いて、ぼんやりと空を見上げる。どこまでも青く澄んだ空に、雲がゆっくりと流れている。少しの間その景色に見とれてから、思い出したように鏡の前に立った。
歯ブラシを口にくわえながら、髪をとかす。ミントの香りがふわりと広がる中で、髪の跳ねを整えていく。制服に袖を通しながら、視界の端に薬のボトルが映る。
「これも持っていかないと……」
手慣れた動作で、薬をひとつひとつポーチに詰めていく。それから酸素濃縮器の状態を確認し、問題がないことを確かめると、鞄にきちんと収めた。この作業はもうすっかり日常の一部だ。ため息をつきたくなるときもあるけれど、慣れた手つきでそれを終える自分が、どこか少しだけ誇らしい。
玄関を開けると、小さなメモ紙が目に留まった。ピンクの花柄がついたメモ用紙には、丁寧な字でこう書かれている。
「鍵は植木鉢の下に戻しておいてね。気をつけて。――お父さん」
私はそのメモを手に取り、思わず笑みを浮かべる。私が家を出る準備をしている間に、ちゃんとこうしてメッセージを残してくれている。
「……うん、わかってるよ。」
小声で呟きながら、メモ紙を丁寧にたたんでポケットにしまい込んだ。
靴を履き、玄関を出る。顔を上げると、朝日に照らされた通りが広がっている。ひんやりと冷たい風が吹き抜け、私の髪をそっと揺らした。
「よし……行こう。」
玄関の鍵をかけ、植木鉢の下にそっと戻す。それから鞄を肩に掛け直し、静かな道を歩き始める。
道すがら、他の学生たちの姿がちらほら見える。制服を着た女の子たちが楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていくのを横目に、私は一人で通学路を進む。彼女たちの声が耳に届くけれど、どこか遠く感じる。
鞄の中で酸素濃縮器が小さな音を立てている。その音に耳を澄ませながら、昨日のことをふと思い出した。清輝君の言葉、烈志君の明るさ、そして佳苗さんの怒り……。
「……なんとか、ね。」
誰にともなく呟いたその言葉は、風に乗って遠くへ消えていった。
坂道を下りる途中で、また冷たい風が頬を撫でる。その風を受けながら、私は一歩一歩進んでいく。今日も学校でどんなことがあるのか分からないけれど、少しだけ胸が高鳴っている自分に気づく。
静かな朝の通学路は、いつもと同じようで、どこか違う。昨日の出来事が心に何かを残しているからだろう。そう思いながら、私は歩き続けた。
秩父鉄道の車窓から眺める風景は、まるで映画のワンシーンのようにゆっくりと流れていく。皆野駅を出て間もなく、窓の外に広がるのは低い家々とポツポツと点在する畑。朝の光が斜めに差し込む中、まだまばらな通勤・通学の人たちが歩いている。
車両には、それほど多くの人はいない。肩を寄せ合うように座る学生や、一人静かに本を読む会社員が目に入る。時折ガタン、ゴトンという音が響き、鉄道のリズムが心を少し落ち着かせてくれる。
和銅黒谷駅が近づくと、車窓の景色が少しだけ賑やかになっていく。畑の隙間に小さな商店が現れ、家々が集まる間隔が徐々に狭まるのがわかる。昨日まで感じていた、どこかひっそりとした風景が薄れ始めている。
電車がホームに滑り込むと、ふと視線が止まった。ホームの端に、佳苗さんが立っている。スカートの裾が朝の風に揺れ、スマホを手にしたまま何かを見つめているようだ。自分と同じ制服ではないけれど、どこかキリッとした佇まいが目を引く。
「……佳苗さん。」
小さく胸がざわつく。昨日の出来事が思い出され、喉の奥が少しだけ詰まったような感覚に襲われた。
幸い、佳苗さんは別の車両の列に向かって歩き出した。こちらには気づいていないようだ。ホッと息をつきながらも、心臓はまだ少し早いリズムを刻んでいる。
(毎日電車で通ってるのかな……。)
そんなことをぼんやりと思った。駅のホームにいる彼女の姿は、いつもの朝の風景の一部のように溶け込んでいて、特別な違和感はなかった。でも昨日のやり取りがあったせいで、自分にとって彼女は少しだけ「特別な存在」になってしまっている。それがいいことなのか悪いことなのか、まだわからない。
電車は再び動き出し、和銅黒谷駅を離れるにつれて建物がさらに増えていく。住宅街の一角や、小さな工場、看板の古びた商店が連なり始めた。朝の光を浴びて街が目覚めていく様子が車窓越しに見えてくる。
秩父駅に近づくと、さらに人が増えてきた。電車を降りると、改札口には通学鞄を肩にかけた学生たちの姿が目に入る。同じ方向に歩いていくその光景が、どこか心を温かくしてくれる。
改札を通り抜け、制服姿の学生たちと一緒に歩き出す。今までずっと一人で過ごしてきた通学時間が、少しだけ賑やかになった気がした。
(……なんだか嬉しいな。)
自分と同じ生徒が学校に向かって歩いている。それだけなのに、胸の奥にじんわりとした幸福感が広がった。普通の生徒として通学している――そんな実感が、これほどまでに嬉しいなんて、思いもしなかった。
背中に酸素濃縮器の小さな音が規則的に響いている。でもそれすらも、今は気にならない。人波に溶け込みながら歩く自分が、少しだけ「普通の高校生」に近づけた気がした。
教室に入ると、朝の光が窓から差し込み、ざわざわとした声が響いていた。その中で一際目立つのは清輝だった。彼は知らない生徒たちと談笑しながら、何か武勇伝のような話をしている。
「ったく、実業高校の連中がよ、しつけぇんだわ。」
清輝がそう言うと、周囲の生徒たちが興味津々に身を乗り出す。
「なんでも、カラーボールをぶつけてやったとか?」
「それで逃げたって、ほんとかよ?」
清輝は肩をすくめながら、気の抜けたような声で答えた。
「あっちから絡んできたんだろ?そんで、やかましいからオレンジ色のボールで挨拶してやったんだよ。」
教室中が笑いに包まれる。
「で、そいつら今どうしてんだよ?」
生徒の一人が半ば呆れたように尋ねると、清輝は涼しい顔で答えた。
「知らねぇよ。探してんじゃねぇの?でも、仮にばったり会ったとしても、また撒いてやるさ。」
その言葉に、周りの生徒たちは一層盛り上がり、笑い声が広がった。
そんな光景を目にした真希は、少し戸惑いながら自分の席に向かった。みんなが笑い声をあげる中、自分はまるで別世界にいるように感じてしまう。昨日、清輝と話して感じたあの距離感が、一瞬遠くに思えた。
しかし、清輝は真希に気づくと、ふいに会話を切り上げ、真希が座った席の机に腰掛けた。
「よう、転校生。」
彼は片手を軽く挙げ、いつもの気怠そうな笑顔を浮かべる。
「遅刻しなかったな。」
「まぁね。」
真希は肩をすくめて答える。そして少しだけ躊躇いながら、昨日のことを切り出した。
「それより……昨日の話……」
その言葉に、清輝は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑いながら言った。
「あれか。間に受け取るなよ、バーカ。」
「……そんな言い方しなくてもいいでしょ。」
真希は軽く頬を膨らませながらそう言うが、その表情にはどこか安心感が漂っている。
清輝は椅子の背もたれに肘を置きながら、どこか気の抜けた声で続けた。
「ま、考えすぎんなよ。お前はお前らしくやってりゃいいんだ。」
そんな彼の言葉に、真希は自然と微笑んだ。会話が次第に弾み、教室のざわめきの中で二人だけの空間が出来上がっていくようだった。
(素敵な一日が始まりそうだ――)
そんな予感が胸の奥に広がる中、真希は小さな笑顔を浮かべた。昨日までとは少し違う、穏やかな時間が流れていた。
一日はあっという間だった。授業の内容はやっぱり難しいけれど、ひとりでやるよりも断然いい。周りに同じ時間を共有する人がいる。それだけで、こんなにも違うんだなと思った。
数学の授業では、清輝が黒板の問題をいとも簡単に解いてみせる一方で、真希はノートに式を写すのに必死だった。そのたびに、清輝が「ほら、そこ違うだろ」と囁いて指摘してくれる。ちょっと癪だけど、そのやり取りもどこか楽しい。
昼休みは清輝と烈志と一緒に屋上で過ごした。清輝は「実業高校の連中が追いかけてきたらどうする?」と笑いながら話し、烈志は「そん時ゃ俺がまとめて投げ飛ばしてやる!」と豪語していた。その軽口の応酬に笑いが絶えず、真希も自然と笑顔になっていた。
放課後。クラスの生徒たちが次々に帰り支度を始める中、真希は荷物を片付けながら少し迷っていた。佳苗さんを探してみようか――そんな思いが胸に浮かぶ。
自分の行動が余計なお世話かもしれないという不安もあったけれど、昨日の佳苗さんの言葉がどうしても引っかかっていた。このまま放っておくのは、どこか心に棘が残る気がしたのだ。
廊下を歩き、別のクラスを覗いてみるが、佳苗の姿は見当たらない。時計を見ると、もうかなり遅い時間だった。諦めて帰ろうかと足を止めた時、不意に背後から声をかけられた。
「あぁ、アンタが噂の……」
振り返ると、そこには少し小柄な女の子が立っていた。髪を肩のあたりで切り揃えたその子は、どこか挑発的な笑みを浮かべている。
「あ、えっと……」
真希が戸惑いながら返事をする前に、その子は勝手に話を続けた。
「あたし柚子。荻柚子って名前。で、風紀員やってる。」
そう一方的に名乗ると、柚子は真希をじっと見つめた。
「で、佳苗を探してるんでしょ?」
唐突な質問に驚きながらも、真希は頷く。
「うん……ちょっと話したいことがあって。」
柚子は腕を組んで、少し考え込むような素振りを見せる。
「佳苗ならさぁ、今頃もう帰ってるんじゃない?あの人、あんたが思うよりずっとマイペースだからさ。」
その言葉に真希は「そっか……」と肩を落とす。佳苗を探すのは、やっぱり無駄だったのかもしれない。
しかし、柚子はそんな真希の様子を気にも留めず、ふと顔を上げて続けた。
「それよりさ、貴方いま特段委員会とか入ってないんでしょ?」
「え?」
突然の話題に戸惑う真希。柚子はにやりと笑いながら肩を軽くすくめた。
「風紀員に入りなよ。環境美化のポスト、空いてるんだよね。」
唐突すぎる勧誘に、真希は慌てて首を振る。
「きょ、興味ないです。なんか……難しそうだし。」
すると柚子はさらに笑みを深め、真希の肩に片腕を回してきた。
「まぁまぁ、そう言わずにさ。実はね、あたし、薙刀部抜けてちょっと暇になってんだよね。」
その言葉に、真希はぎょっとして肩をすくめる。
「だからさ、風紀員やれば、いろいろ面白いことあるかもよ?」
柚子の声にはどこか含みがあって、真希はその言葉にどう答えればいいのか分からず、ただ曖昧な笑みを浮かべていた。
廊下には、夕陽が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。
そして……。
「とほほ……なんでこんなことになっちゃったんだろう……。」
環境美化のポスターを貼るため、私は柚子さんに半ば強引に付き合わされていた。脚立を支えながら頭の中でため息をつく。柚子さんは、脚立の上から私を見下ろして指示を飛ばしている。
「おーい、転校生!しっかり脚立支えろって!揺れたら私が落ちるだろ!」
「は、はい……。」
私は小さく返事をしながら、脚立を両手でぎゅっと掴む。作業に集中しようとしても、どうしてこんなことに巻き込まれたのかと考えずにはいられない。
「でもさぁ、ほんと久しぶりにポスター貼るわ。委員会なんて暇だと思ってたけど、意外とやること多いんだよねー。」
柚子さんはポスターを貼りながら、軽い調子で話しかけてきた。
「委員会も忙しいんですね……。」
「まぁね。ほら、私は薙刀部の副部長だったからさ、そっちのほうが大変だったけど。」
「えっ、副部長だったんですか?」
私は驚いて柚子さんを見上げた。薙刀部の副部長なんて、すごくしっかりした人しかできないようなイメージがある。
「え、知らなかったの?まぁ、もう辞めたから関係ないけどね。」
柚子さんは気にする様子もなく、手を動かしながらさらっと言った。
「でも、副部長なんてすごいですね……!やっぱり薙刀も上手なんですか?」
「うーん、まぁ普通にやってたってだけだよ。でも県大会まで行ったんだよね。」
「県大会……!すごいじゃないですか!」
私はさらに驚いた。副部長で県大会まで行くなんて、相当な努力と実力がないとできないはずだ。
「いやいや、そんな大したことないって。ほら、佳苗――部長がさ、めちゃくちゃ頑張るタイプだから。ついていかないといけなくて大変だったのよ。」
「佳苗さんって……飯田 佳苗さんですか?」
「そうそう。あの人の理想が高すぎるんだよねー。」
柚子さんはため息混じりに言葉を続ける。
「県大会で良いところまで行ったら、全国大会がどうのって言い出してさ。練習もどんどん厳しくなるし、正直ついていけなくなったっていうか。」
「そ、そんなに……。」
私は佳苗さんがどんな部長だったのか想像がつかず、ただ呆然と話を聞いていた。
「でもまぁ、それだけが理由じゃないけどね。」
柚子さんはそう言いながら、一瞬だけ視線を遠くに向けた。何か別の理由があるように感じたけれど、それ以上は話したくなさそうだった。
「ほら、もう終わるよ。あと少しで完璧だ!」
柚子さんがそう言って、ポスターの端をペタペタと押さえる。脚立の上でバランスを取る姿はなんだか危なっかしい。
「でも……こんな高いところに貼らなくてもいいんじゃないですか?」
私は思わず口に出した。
「はぁ?どうせやるなら、目立つ場所に貼らないとやった気にならないだろ?グラウンドの端っこの壁に貼るとか、そんなの意味ないって!」
柚子さんは自信満々に言い放ち、ポスターの仕上がりを確認する。
「よし、これでバッチリ!」
そう言って、脚立の上で軽く伸びをすると、そのまま飛び降りる準備を始めた。
「危ないからゆっくり降りてくださいよ!」
私が慌てて声をかけると、柚子さんは「大丈夫だって!」と笑って返す。
「よっと!」
軽やかに脚立から飛び降りた柚子さんは、地面にしっかり着地すると両手を腰に当てた。
「どうだ、転校生!これで委員会の仕事も完璧だろ?」
私は少し呆れながらも、苦笑いで「はい」と答えた。柚子さんの元気な姿に少しだけ安心しながら、彼女が話さなかった本当の理由について、心のどこかで気になっている自分がいた。
脚立を倉庫に戻す道中、柚子がふっと息をついて言った。
「これで今日の環境美化活動も終わり。疲れてない?」
真希は脚立を抱え直しながら首を横に振る。
「全然平気。柚子さんは?」
「柚子でいいってば。」
柚子は軽く笑って答えると、脚立を持ち上げ直しながら肩をすくめた。
「これくらい、薙刀部の練習に比べたら楽勝だよ。」
「薙刀……柚子って部活やってたんだ。」
真希が興味を示すと、柚子は「うん」と少し照れくさそうに頷いた。
「ちょっと前まではね。でも今はもう辞めた。」
倉庫に脚立を戻し終えると、2人は学校の校門に向かって並んで歩き始めた。夕陽がゆっくりと沈む中、2人の影が校舎の壁に長く伸びていた。
少しの沈黙の後、柚子が何気なく言った。
「ねぇ、真希。まだ友達とかいないんでしょ?」
「え……?」
真希は驚いた顔で柚子を見上げる。
「いや、転校したばっかだしさ。」
柚子は前を向いたまま続けた。
「男友達はいるみたいだけど……。」
「清輝とか烈志のこと?」
真希が聞き返すと、柚子はすぐに首を振った。
「それは友達にカウントしないでしょ。普通は。」
柚子が軽く笑って言うと、真希は困惑したように首をかしげた。
「そんなの初耳だけど……。」
「まぁ、女子同士で話すほうが楽しいこともあるってことよ。」
柚子はさらりと返すと、ふと思いついたように話題を変えた。
「でもさ、都会の女子高生って休日何してるんだろう。ウニクスみたいなショッピングモールに行ったりするの?」
「ウニクスって……?」
真希が聞き返すと、柚子は少し得意げに答えた。
「こっちのショッピングモールだよ。映画館とかカフェとか、まぁ一応あるんだけど、そんなに大したことはないの。」
「そうなんだ。東京にもそういう場所はあるけど……私、あんまり行ったことないかな。」
真希が言うと、柚子は驚いたように足を止めた。
「えっ、そうなの?都会っ子なのに?」
「うん、病院に行くことが多かったから……。」
真希がぽつりと答えると、柚子は少し表情を曇らせたが、すぐに明るい声で切り替えた。
「あ、そうなんだ……。まぁ、私も休日はずっと部活ばっかりだったしね。」
少しだけ笑みを浮かべてそう言った柚子の横顔には、どこか寂しげなものが滲んでいた。
「青春なんてさ、私には縁がなかったんだよな。」
そう呟く柚子の言葉に、真希は何も言わずに耳を傾けた。
(友達が欲しかったんだな、柚子。佳苗みたいな上下関係のある仲じゃなくて、もっと対等な……。)
真希は柚子の本心を感じ取ったが、それを口にするのは気が引けて、ただ隣を歩き続けた。
「でも、これからは違うよ。私も友達作るから。」
柚子は軽く拳を握って宣言すると、真希もそれにつられるように微笑んだ。
校門を抜ける頃には、沈みかけた夕陽が2人の後ろから静かに照らしていた。影は長く伸び、まるで少しずつ近づき合っているように見えた。
校門を出てしばらく歩いていると、柚子がふと思い出したように口を開いた。
「そいやさ、佳苗って、アンタとはウマが合わないと思うよ。」
唐突な言葉に真希は少し戸惑いつつも、素直に返した。
「……そんな気がしてる。」
柚子は肩をすくめると、ゆっくりと歩きながら話し始めた。
「佳苗ってさ、正義感が強いし、すごく真面目な子なんだよ。同じ女から見ても、ほんと『大和撫子』って感じ。」
真希は少し頷きながら、佳苗のそんな一面を想像しようとする。
「私が佳苗と仲良くなったのはね、小学校の頃。男子にいじめられてた時、佳苗が助けてくれたんだよ。『やめなさい!』って間に入ってくれてさ。」
柚子は少し照れくさそうに笑う。
「あの時はマジでカッコよかったなぁ。それからずっと、なんだかんだで仲良くしてもらってる。」
「助けてくれたんだ……。」
真希は少し驚いたように呟く。
「でも、佳苗って幼馴染の烈志のことになると、別人みたいなんだよ。」
柚子は軽く笑いながら続けた。
「小さい頃から、ずっと烈志のマネージャーやってたんだよね。烈志も感謝してたみたいだし、佳苗も頑張ってた。でもさ……。」
柚子はここで一度立ち止まり、少し遠くを見るような視線を向けた。
「中学の終わりに佳苗、烈志に告白したんだって。」
「えっ、それで……?」
真希は思わず身を乗り出すようにして問いかけた。
「結果は、保留だってさ。烈志、『だはは……ま、県選抜が終わったら考えるよ』とか言ったらしいよ。」
柚子は苦笑しながら続ける。
「それが烈志なりの誠実さだったのかもしれないけど、佳苗には堪えたんだろうね。それからマネージャーを辞めたんだよ。」
「……辞めた?」
真希が驚いたように聞き返すと、柚子は軽く頷いた。
「そう。自分のやってることが烈志にとって支えじゃなくて、むしろ負担になってるんじゃないかって気づいたんだって。」
柚子は少し寂しげに笑う。
「で、私を巻き込んで薙刀部を結成したの。佳苗なりに新しい道を作ろうとしたんだろうね。でも、振り回されたこっちは大変だったけど。」
「佳苗……そんな思いで薙刀部を作ったんだ。」
真希は佳苗の行動の背景を想像しながら、小さく呟いた。
「ほんとに好きなら、ちゃんと問い詰めて白黒つければよかったのにね。曖昧なままズルズルいくの、見ててイライラする。」
柚子は少し苛立った様子で言葉を続けたが、その表情にはどこか心配そうな色も混ざっていた。
真希はそんな柚子の言葉を聞きながら、佳苗の抱える想いの深さを感じ取った気がした。そして、柚子の苛立ちの裏には、佳苗に対する友情と理解があるのだろうと思った。
駅前の広場に差し掛かると、柚子がふと足を止めた。周りは夕方のラッシュ前の静けさで、ちらほらと学生たちが帰宅の準備をしている。彼女はしばらく黙った後、軽く息をついて口を開いた。
「薙刀部ってさ……正直、しんどかったんだよね。」
突然の言葉に、真希は驚きつつも耳を傾ける。
「練習がハードだったのもあるけどさ……佳苗、目標高すぎるんだよ。県大会でいいところまで行ったら、それで満足しときゃいいのに、全国行くって本気で言い出してさ。」
柚子は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「けど……佳苗には感謝してるんだよね。あいつがいなかったら、私なんて今頃どうなってたか分からないし。」
「感謝してる……?」
真希は少し意外そうに尋ねた。
「うん、佳苗がいじめられてた私を助けてくれて、それからずっと面倒見てもらってる。だからあいつには頭が上がんないんだよ。」
柚子は肩をすくめながら、照れ隠しのように笑った。
「でもさ……もし佳苗が烈志に告白して、その答えが白黒ついたらさ。部活ももうちょっとゆるくなるかもなって思ってる。」
軽い口調で言いながらも、その瞳にはどこか期待するような色が浮かんでいた。
「部活がゆるくなる……?」
真希が問い返すと、柚子は小さく頷いた。
「ほら、今の佳苗ってさ、自分の感情を抑え込んでるところあるじゃん?ずーっと烈志に振り回されてる感じ。それがスッキリしたら、きっとあいつも肩の力抜けるんじゃないかなって。」
「……そっか。」
真希は考え込むように頷きながら、柚子の言葉を噛み締めた。
柚子はふと目を細めて空を見上げると、軽く笑って言った。
「まぁ、そんな日が来たらさ……私もまた副部長として舞い戻ってもいいかなって思ってる。」
冗談めかした言い方だったが、その声には少しだけ本気の響きが混じっているのを、真希は感じ取った。
「そんで、そうなったらアンタも薙刀部入れよな。絶対いい青春になるぞ?」
柚子がニヤリと笑いながら軽く肘で突いてくる。
「えぇ……私にそんなの無理だよ。」
真希は困惑しながら苦笑いを浮かべる。
「だよな。」
柚子はあっさりと引き下がると、肩をすくめて駅前の時計を見上げた。
「それよりさ、次の休み空いてる?」
「え?あ……空いてるけど。」
真希は戸惑いながらも答える。
「よっしゃ。じゃあ、ウニクスで映画でも見ようぜ。なんか、青春っぽいことしたくてさ。」
柚子は嬉しそうに笑いながら提案する。
「映画……いいけど、何見るの?」
「ラブコメとかどうよ?あんた、そういうの好きそうじゃん。」
柚子がからかうように言うと、真希は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……まぁ、嫌いじゃないけど。」
「だろ?じゃあ、それに決まりだな。」
柚子は満足げに頷き、スマホを取り出して上映時間を調べ始めた。
「次の休みが楽しみになってきた!」
柚子が明るく言いながら手を振ると、真希もそれに応えて小さく手を挙げた。
「うん、楽しみにしてる。」
柚子は「じゃあまたね!」と言い残して人混みの中に消えていく。その背中を見送る真希は、彼女の言葉を思い返しながら、自分も少しずつこの街に馴染んできているのかもしれないと感じた。