1話.家という名の拷問部屋
秩父の山間に春の陽光が柔らかく降り注いでいた。冬の名残が風に漂う中、芦ヶ久保の氷柱はすっかり溶け、その観光地としての役目を終えている。静かな国道を、一台の原付が軽快なエンジン音を響かせながら駆け抜けていった。
新品の「ディオ50」。鮮やかな紫色が朝の光を受けて鈍く輝く。どこか垢抜けない色合いに、清輝の友人たちは揃って「ダサい」と笑った。だが清輝にとってはその批判もどこ吹く風だった。新聞配りのアルバイトでようやく手に入れたこの相棒が、彼にとっては自由そのものだったからだ。
イヤホンから流れる音楽が、風の音を完全に遮断している。清輝はスロットルをひねり、武甲山の稜線が視界に広がるカーブを軽やかに抜けた。その瞬間、背後から静かに迫る赤い光に気づくことはなかった。
パトカーの回転灯が山間に反射してちらつく。車内では柏木巡査がやる気のない目をしてスピーカーに手を伸ばしていた。
「……また清輝か。イヤホンしてて気づいてねぇな、こりゃ」
軽くため息をつきながら、スピーカーで声を発する。
「清輝ー、止まれよー。そこのダサ原付」
だがその声も、イヤホンの向こうで音楽に浸る清輝には届かない。柏木巡査は仕方なく車のスピードを上げ、赤い光をさらに強く清輝の背に浴びせた。
清輝が異変に気づいたのは、ミラー越しに赤い光が明確に映り込んだ瞬間だった。
「……あ?」
エンジンを緩め、清輝は素直に停車する。パトカーも数メートル後ろで静かに止まり、柏木巡査がゆっくりと降りてきた。
「おい清輝、自転車もそうだがイヤホンしながら乗るなって、何回言や分かるんだよ?」
紫色の車体を眺めながら、柏木巡査は頭を掻きながら続ける。
「買ったばかりだからって気分良く走ってたのは分かるけどよ、せめてミラーぐらい見とけ。俺も追うの面倒なんだからさ……てか学校の許可は?アルバイトだろ?」
清輝はヘルメットを取って肩をすくめた。
「……次から気をつけます」
「お前が素直に謝ると逆に気味悪いんだけどな……あーめんどくさ、着いてこい、今から学校行くぞ」
柏木巡査のぼやきが国道に響く中、春の風だけが二人の間を吹き抜けていく。その瞬間の静寂が、やがて秩父の山間の新しい物語と新学期早々謹慎生活の始まりを告げていた。
柏木巡査のパトカーを追いかけながら、清輝はスロットルを調整し、速度を一定に保っていた。イヤホンを首に掛け、耳に届くのは原付のエンジン音と、前方のパトカーが巻き上げる風の音だけだ。
「信濃清輝、16歳。秩父の進学校に通う高校一年生。……らしいけど、実感なんてないな」
自分のことをそう思いながら、彼はぼんやりと目の前の道を見つめる。
俺は別に特別な人間じゃない。周りは「頭がいい」とか「やればできる」とか言うけど、それが何だって話だ。努力しようがしまいが、俺の中には何も残らない気がしてならない。
家庭も――正直、居心地がいいとは言えない。
父親は市議会議員をやっているけど、俺には何の興味もなさそうだ。仕事が忙しいのか、家にいる時間もほとんどないし、俺に声をかけてくることなんて滅多にない。喧嘩すらしない。たぶん俺を無視しているだけなんだと思う。俺も別に話したいとは思わないし、それでお互いに成立してるんだろうな。
母親は心配してくれているのが分かる。でも、それが逆に俺を居心地悪くさせる。どう接していいのか分からないんだろうけど、かえってその曖昧さが俺には重い。
そして、姉の奈緒。父親の連れ子で、俺とは半分くらい血が繋がっていない。奈緒のことは露骨に避けている。理由なんてない。ただ、あの人が俺をどう思っているのか、考えるのが嫌だってだけだ。きっと、見下してるんだろうな。それでも、お互い何も言わずにいる方が楽だ。
結局、俺が「自由」だと感じられるのは、このディオに乗ってる時だけだ。
新聞配りで稼いだ金で買った、新品の紫色の原付。周りからは「ダサい」なんて笑われたけど、俺にとってはただの乗り物以上の意味がある。俺が自分で手に入れた、唯一のものだからだ。
そんな自由の象徴も、こうやってパトカーに引っ張られてるんじゃ話にならないけどな。
柏木巡査の車窓が少し開き、タバコの煙が風に乗って流れてくる。その匂いが顔に触れるたび、清輝は無意識に手で煙を払った。
「……マジでタバコやめろっての」
ぼやいても、巡査には届いていない。清輝は仕方なくスロットルを軽くひねり、一定の距離を保ちながら走り続けた。
「こうして俺の新学期は、謹慎生活からスタートすることになったわけだ。……まあ、俺らしいっちゃ俺らしいか」
軽く自嘲気味に呟きながら、清輝は学校の校舎が見えてきたのを確認した。
学校の校門前でパトカーが停まり、清輝は原付を押して後ろに続いた。柏木巡査は車を降りると、煙草をくわえながら面倒くさそうに声をかけた。
「清輝、ここで待っとけ。先生を呼んでくるからよ。」
「……はいよ。」
清輝は適当に返事をして、ディオの車体に寄りかかる。柏木巡査が職員室へ向かうのをぼんやりと見送った。
しばらくして柏木巡査が担任の錦堀先生を連れて戻ってきた。錦堀先生は開口一番、困惑した顔で清輝に話しかけた。
「え、えっと、信濃……君、原付なんて持ってたのか?」
清輝は何でもないことのように肩をすくめた。
「まあ、持ってますけど?」
「えぇ!? そ、それ親御さんの許可は……取ってるんだよね?」
「取ってないけど?」
その答えに錦堀先生は口を開けたまま固まり、柏木巡査を振り返った。
「え、えっと、この……警察の人が言うには、バイトも無許可でやってるって……?」
柏木巡査はため息をつき、話を引き取る。
「そうなんです。原付もバイトも全部無許可。先生も知らなかったんですか?」
「し、知らなかった……信濃、お前、どうしてそんなことを……?」
清輝は目線をそらし、気まずそうにヘルメットを持ち直した。
「いや、別に……大したことじゃないと思ってたし。」
錦堀先生は額に手を当てて、さらに混乱した様子を見せる。
「信濃、無許可で免許を取るなんて……本当にどういうつもりだ?」
柏木巡査が咳払いをして、真剣な声で言った。
「先生、ちょっと俺からこいつに話をさせてもらえますか?」
「あ、はい……お願いします。」
柏木巡査は清輝を校門の少し離れた場所に連れて行き、煙草を消して静かに語りかけた。
「おい清輝、お前さ、これがどれだけヤバいことか分かってるのか?」
清輝は目を伏せながら、小さく肩をすくめた。
「いや……別にそんなにヤバいことだとは思ってないし。」
柏木巡査は短く息を吐き、目線を清輝に固定した。
「そこが一番の問題なんだよ。何にも考えずに無許可で免許取って、原付乗り回して……そんなの、誰かが黙って許してくれるうちが華だぞ。ずっとそれで済むと思うな。」
「大げさすぎない?」
清輝は少し反発するように言ったが、その声にはどこか気まずさが混ざっていた。
「いや、大げさじゃねえよ。お前みたいなやつが何も考えずに動くと、どっかで本当に一線越えちまうんだ。お前が気づいてないだけで、周りは今ギリギリで助けてくれてる。それが切れた時どうなるか、分かるか?」
清輝は何も言わず地面を見つめた。柏木巡査は続ける。
「自由を手に入れるのはいいさ。でも、そのためには最低限のルールくらい守れ。それができない奴は、結局何も持てなくなる。」
「……急に大人ぶるなよ。」
清輝は小さく呟いた。それに柏木巡査は苦笑し、軽く肩をすくめた。
「まあな。でも言わなきゃダメな時ってのがあるんだよ。お前が取り返しのつかないことになる前にな。」
清輝は視線を上げて、少しだけ不満そうに柏木巡査を見たが、それ以上何も言わなかった。
戻った柏木巡査は、錦堀先生に軽く頭を下げた。
「俺から言えるのはこれくらいです。後は先生に任せます。」
「あ、はい……分かりました。信濃、この件は校長に報告します。とりあえず今日は帰ってもらいますが、明日から謹慎です。」
清輝は軽く頷くと、原付を押して歩き始めた。柏木巡査は彼の背中を見送りながら、静かに呟く。
「じゃあな、清輝。次は追いかけるのが面倒なことにならねぇようにな。」
清輝は振り返らず、小さな声で答えた。
「分かってるよ……多分な。」
学校を出た清輝は、原付に跨がりエンジンをかけた。軽快な音を響かせながら、街中へ向かう道を走り始める。
(柏木巡査……急に説教じみたこと言いやがって。)
頭の中で再生されるのは、校門前での柏木巡査の真剣な声。「自由を手に入れるにはルールを守れ」――その言葉が耳にこびりついて離れない。
(自由を手に入れるとか……お前みたいな奴に言われたくねぇっての。)
信号待ちで停車しながら、清輝は視線を街路樹の向こうに投げた。ふと、柏木巡査のヨレた制服やタバコ臭い車内が脳裏に浮かぶ。
(30にもなって巡査部長にもなれてないくせにさ。あのヨレヨレの制服で、タバコくせぇ車に乗って、何が「ルール」だよ。)
鼻で笑いながら、スロットルをひねる。車道沿いに並ぶ店の看板や観光客の姿が視界の隅を流れていく。
(あいつが大人ぶって偉そうに言ってきたところで、俺の人生に何か関係あるのかよ。どうせ自分の仕事だって適当にやってんだろ。)
軽く頭を振って、その考えを追い払おうとする。だが、柏木巡査の言葉はどうにも耳に残っていた。
(「考えろ」だって?あんたの人生が正しいと思ってんのか?)
清輝は小さく舌打ちをした。
(結局、他人に説教することで、自分の惨めさをごまかしてるだけだろ。)
街中へ入ると、信号待ちのたびに観光客がちらちらと原付を眺めているのが分かった。視線を意識しながらも、清輝は気にするそぶりを見せず、ただスロットルを調整して前へ進んだ。
(どうせ俺が何しようと、誰も本気で気にしちゃいないんだよ。)
観光地を抜け、見慣れた住宅街が近づいてきた。街路灯が夕方の光に照らされ、家々の窓から漏れる明かりがぽつぽつと見える。
清輝はスロットルを緩め、住宅街の狭い道をゆっくりと進み始めた。
原付を停め、清輝はヘルメットを外して玄関に向かった。家の前には奈緒の姿があった。電話をしながら玄関先で立っている彼女は、こちらに気づいていない様子だった。
「……そうそう、今度の観光案内の内容なんだけど……うん、もう少し具体的にした方がいいと思うのよね。」
奈緒の明るい声が耳に刺さる。観光課の仕事だろう。そんな様子を横目で見ながら、清輝は心の中で軽く舌打ちした。
(何だよ、まだ家の前で喋ってんのかよ。)
玄関に向かって歩いていくと、奈緒がふとこちらに気づいた。声のトーンが一瞬だけ変わり、ぎこちなく電話越しに言葉をつなぐ。
「あ、えっと……うん、じゃあ、その件はまた後で話そうか……はい、失礼します。」
通話を切った奈緒は、気まずそうに清輝を見た。
「……清輝、おかえり。」
微妙に震える声が清輝の耳に届いたが、彼は返事をするどころか奈緒を一瞥することさえしなかった。そのまま無言で玄関を開け、家の中に足を踏み入れる。
「……ただいま。」
奈緒がもう一度声をかけてきたが、清輝は靴を脱ぎながらまるで聞こえなかったかのように無視をした。
その背中を見つめる奈緒の気まずそうな気配を背中に感じながらも、清輝は振り返ることなく階段を上がる。
階段を一歩ずつ上るたび、奈緒の視線が遠ざかっていくのを感じていたが、清輝は気にするそぶりも見せず、自室の扉を開けるとそのまま中に入った。
ベッドに倒れ込むまで、玄関先の出来事を振り返ることは一切なかった。
部屋に入ると、清輝はそのままベッドに倒れ込んだ。カーテンの隙間から夕陽が差し込み、部屋の壁に柔らかな茜色の光が揺れている。
天井を見上げながら、清輝はぼんやりと思った。
「……まだ春休みなのに、明日から謹慎かよ。」
静かな部屋の中、その言葉が虚しく響く。誰に聞かせるでもなく、ただ自分自身に向けて呟いたその一言には、ため息のような重さが滲んでいた。
もう一度目を閉じると、清輝は夕陽の温もりを感じながら何も考えない時間に沈んでいった。
部屋に横たわり、清輝はイヤホンから流れる音楽に身を委ねていた。外はすっかり暗くなり、カーテン越しに街灯の光が微かに差し込んでいる。
(……眠いわけじゃないけど、何もしたくねぇ。)
時計を見ると、家に帰ってからすでに二時間が経っていた。軽く体を伸ばそうとした時、突然、扉をノックする音がした。
「清輝、いるの?」
奈緒の声かと思い、清輝は軽く眉をひそめる。
(……朝から疲れてるってのに……。)
立ち上がり、イヤホンを外して扉を開ける。だが、そこに立っていたのは奈緒ではなく母親だった。
「……何だよ。」
不機嫌そうに言う清輝に対し、母親は腕を組み、厳しい目で見つめ返してきた。
「何だよじゃないでしょ。さっき先生から電話があったわよ。『謹慎』ってどういうこと?」
清輝は小さく舌打ちをした。
「……言うと思った。」
「何なの、その態度!バイト無許可、原付無許可、それで警察まで出動って……本当に信じられない!」
母親の声が段々とヒートアップしていく。清輝は頭をかきながら、ため息混じりに答える。
「別に大したことじゃねぇだろ。そもそも俺が自分で稼いだ金でやったことだしさ。」
「大したことじゃないですって?学校に迷惑をかけたって分かってるの?」
母親の目は怒りを湛えながらも、どこか悲しげだった。
「これからの進路はどうするつもり?あんた、一応進学校に通ってるのよ。それでこんなことばっかりして……本当に将来のこと考えてるの?」
「……考えてないけど。」
清輝はそっけなく答えた。それがさらに母親の怒りに火をつける。
「何でそんな投げやりなことばっかり言うの!あんたのためにお父さんも奈緒も――」
「……父さん?関係ねぇだろ、あいつは。」
清輝の低い声が母親の言葉を遮った。その目には苛立ちと反発の色が滲んでいた。
「父さんなんて、俺のこと何も気にしてないじゃん。奈緒だって勝手にやってるだけだろ。俺に何か言う資格なんてねぇよ。」
母親は言葉を詰まらせ、しばらく黙り込んだ。清輝はそれを見て、再びため息をつくと、扉を閉めようとした。
「……もういいだろ。話すことなんてないし。」
「清輝!」
母親が叫ぶように名前を呼んだが、清輝は振り返らずに扉を閉じた。
扉の向こうで、母親が深い溜息をつく音が聞こえた。それが次第に遠ざかっていくと、再び部屋には静寂が戻ってきた。
清輝はベッドに腰を下ろし、顔を手で覆った。
(……進路、か。)
自分の未来について考えたことなんて一度もない。だが、母親の言葉がどこか心の奥底に引っかかるのを感じた。
音楽を再び再生し、イヤホンを耳に差し込む。その音が、母親の声や自分の心のざわつきをすべてかき消していくのを待つように、清輝は深く息を吐いた。
顔を手で覆い、天井を見上げる。柏木巡査の説教、姉の気まずそうな態度、そして母親の叱責――すべてが頭の中を巡る。
自分の未来について考えたことなんて一度もない。それなのに、周りは揃いも揃って口を出してくる。
(……なんだよ、どいつもこいつも。)
母親の心配も、柏木巡査の説教も、姉の気まずそうな態度も、清輝にとっては鬱陶しいだけだった。
(俺のことなんか何も分かっちゃいねぇくせに、勝手に口出しやがって。)
音楽の音量を上げる。それが少しでも苛立ちを紛らわせてくれる気がして、さらに音量を上げた。
外では街灯の明かりが静かに揺れていたが、清輝はその光景に気づくこともなかった。部屋の中には、音楽のビートと清輝の心の中のざわつきだけが残っていた。
しばらくして清輝は立ち上がり、部屋の隅に投げ出していた原付の鍵を手に取った。
(こんなとこでくすぶってても仕方ねぇ。ちょっと走りに行くか。)
椅子を蹴るようにして机を離れ、靴を履いて家を出る。夜の冷たい空気が、清輝の肌を突き刺すように感じられたが、気にするそぶりはない。
家の横に停めていた紫色の車体に跨がると、軽くスロットルをひねる。エンジンが軽快な音を響かせた。
「……どこ行くってわけでもねぇけどな。」
ヘルメットを被り、街灯がぽつぽつと並ぶ住宅街を抜け出すように走り出した。ひんやりとした夜風が頬を撫で、胸の奥に残る苛立ちが少しだけ和らぐ気がする。
(家にいると、余計にイラつく。どいつもこいつも……うるせぇんだよ。)
アクセルをひねり、住宅街を抜けると、見慣れた国道に出た。昼間は観光客の車で賑わう道も、この時間帯はほとんど通行がない。清輝はスピードを上げ、原付のエンジン音を夜の空気に響かせた。
武甲山が薄暗いシルエットを浮かべる。秩父の夜景が街灯に反射し、遠くの山影と交わっている。
(夜はこうして走るのが一番だ。)
ただひたすら走る。その感覚だけが、清輝にとって心を無にする唯一の手段だった。
原付のエンジン音を響かせながら、清輝は秩父大橋へと向かう国道を走っていた。
夜の冷たい空気が心地よい。昼間の喧騒が嘘のように、道路はがらんとしている。だが、橋に差し掛かると、車が路肩にずらりと並んでいた。観光客が夜景を見ようと車を停めているのだろう。
清輝は思わず舌打ちをした。
「……邪魔くせぇな。」
原付のスピードを緩め、慎重に車の間を抜けていく。窓から身を乗り出してスマホを構える観光客が、何かを叫びながら手を振っている。
「スカイツリーでも見てろよ、バカが。」
思わず口に出た罵倒に、自分で苦笑しながらスロットルをひねる。車の列を抜けた先、広がる夜空に山と工場のシルエットが浮かび上がっている。
(こんな田舎の夜景がそんなに珍しいかよ……わざわざ見に来るほどのもんじゃねぇだろ。)
ぼやきながら、橋を渡り切ると、道路沿いの街灯が途切れる。視界の先には秩父ミューズパークへの分岐点が見えてきた。
「さてと、そろそろ着くか。」
清輝は原付のハンドルを軽く切り、夜の公園へと向かっていった。
清輝は原付を駐車スペースに停め、ヘルメットを外すと展望台へと足を向けた。夜風が高台特有の冷たさを帯びていて、肌にじんわりと染みる。
「……やっぱこの時間だと誰もいねぇな。」
展望台から見下ろす秩父の街は、夜景がぽつぽつと輝いている。昼間は観光客で賑わう場所も、地元の人間にとってはこの時間帯がベストだと清輝は知っていた。
手すりにもたれかかり、夜景をぼんやりと眺める。
(だいたい、こうしてる時だけだな。少しだけマシな気分になるのは。)
イライラして家を飛び出し、ここでひと息つく――これが清輝のいつもの流れだった。
ふと、秩父大橋で見かけた観光客たちの姿が脳裏をよぎる。
「……あのバカどもも、どっか悩んでんのかね。」
独り言を呟くと、ふっと笑みが漏れた。別に馬鹿にしているわけじゃない。ただ、他人の事情なんて知る由もないことに気づいて、なんとなくおかしかった。
清輝は手すりをぎゅっと掴むと、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
「バカやろー!!!」
声は夜空に響き、秩父の山々に反射して消えていった。
手すりから手を離し、清輝はスッと肩の力を抜いた。
(少しはスッキリしたかな……。)
清輝は「バカやろー!」と叫んだ後、しばらく手すりにもたれて夜景を眺めていた。
(……少しはスッキリしたけど、なんかまだ足りねぇ気もするな。)
ふと肩をすくめ、口の端を引き上げると、軽く鼻で笑った。
「ついでに……クソッタレでも言っとくか。」
その瞬間、背後の茂みから複数の足音が聞こえた。
「てめぇ、今俺に馬鹿野郎って言ったかコラァ!!」
怒声と共に現れたのは、地元の実業高校の生徒らしい3人組。目つきの鋭い一人が前に出てきて清輝を睨みつける。
「……は?」
清輝は一瞬だけ呆然とし、次の瞬間には状況を察した。
(ヤバ……聞かれてたのかよ。)
実業高校の連中は明らかに喧嘩腰で、後ろの二人も肩をいからせている。
「おい、無視してんじゃねぇぞ。聞こえなかったのか?」
「いや、別にお前らに言ったわけじゃ……」
「ハァ?言い訳してんじゃねぇよ!」
清輝は背後に手を回して原付の鍵を握りしめた。
(これ以上関わるのはマズい……逃げるか。)
「……悪かったな。俺、もう帰るから。」
そう言い残し、清輝は一気に駐車スペースまで駆け出した。
「おい待てコラァ!!」
実業高校の連中の怒声が背後で響くが、清輝は振り返らずに原付に飛び乗った。
エンジンをかけ、スロットルをひねる。軽快なエンジン音が夜空に響き渡る。
「じゃあな、クソッタレども。」
小さく呟きながら、清輝はミューズパークの出口に向けて全速力で走り去った。
清輝は原付のスロットルを全開にしながら、後ろから響くやかましいマフラー音に耳を傾けていた。
(……まだ追ってくるのかよ。しつけぇな。)
後ろを振り返らずに走り続けていると、またもや後方から声が飛んできた。
「ダッセェ原付乗ってんじゃねぇよ!」
「男がスクーターでイキるなっての!」
清輝は鼻で笑い、ボソッと呟く。
「ったく……これだから底辺高校は。」
しかし、いくらスピードを上げても、連中の騒がしい声とマフラー音は遠ざからない。清輝は視線を下に向け、ディオのドリンクホルダーに目を留めた。
そこには、数日前にコンビニのゴミ箱からくすねたオレンジ色のカラーボールが入っていた。
(これ、まだあったか。)
思わず口元が歪む。清輝はスロットルを軽く緩め、片手でドリンクホルダーからボールを取り出した。
「遊んでやるか。」
ボールを手に取り、少しだけ後ろを振り返る。目を血走らせた連中の顔が、街灯の明かりに浮かび上がっている。
「ほら、これでも拾っとけ!」
清輝はボールを後方に向かって力一杯放り投げた。
夜空を描くように飛んだボールは、追ってくるバイクの前輪に命中する。
「うわっ、何だこれ!」
「あっぶねぇ!」
連中が慌ててブレーキをかける音が響き渡る。清輝はその隙にスロットルを再び全開にし、夜の街道を駆け抜ける。
(……効いたな。)
追ってくる音が一瞬で遠のいたのを確認し、清輝は勝ち誇ったように呟いた。
「オレンジ色がお似合いだぜ。」
胸の中に残っていたざわつきが、少しだけ和らいでいくのを感じる。冷たい風が頬を撫で、耳に心地よく流れていく。
(あのアイツらの顔……マジで間抜けだったな。)
ふと、後ろを振り返って慌てふためいていた実業高校の連中の顔が脳裏に浮かぶ。清輝は鼻で笑いながら、ハンドルを軽く握り直した。
(意外と、こういうやつらとやり合うのも悪くねぇな。)
喉元まで溜まっていたイライラが、少しだけ外に出た気がした。別に彼らに感謝するわけじゃないが、少なくとも自分の中にあった鬱屈はほんのわずかだが薄まっている。
清輝は視線を正面に戻し、夜道の先に広がる闇を見つめた。
(……俺にも、こうやってちょっとしたことで晴れる瞬間があるってことか。)
スロットルを少し緩めながら、深く息を吐いた。
(まあ、それでも人生が変わるわけじゃねぇけどな。)
ふっと口元に微かな笑みを浮かべながら、清輝は夜道を静かに走り続けた。
夜道を走りながら、自分のことを冷静に振り返ってみる。
小学生の頃、奈緒に言われたあの一言が今でも心のどこかに残っている。
「清輝なんて血が繋がってない他人なんだ!!」
喧嘩の理由は覚えていない。ただ、あの瞬間に感じたショックだけは、今でも鮮明だった。
(他人、か……まあ、事実だからな。あいつにとっても、俺にとっても。)
それ以来、奈緒とはどんどん距離ができた。かつては笑い合って話していたのに、今ではほとんど会話もしない。
(昔は、奈緒が一番好きだったんだよな。)
思い出すのは、小さい頃の記憶。奈緒はいつも優しかったし、自分にとって安心できる存在だった。なのに、あの一言がきっかけで、今では互いに避け合うようになってしまった。
(なんでこうなっちまったんだろうな……。)
清輝は軽くスロットルを緩めながら、ため息をついた。
父親のことも自然と思い出す。
(アイツが市議なんて立場になったせいで、家族ってのがただの形だけになった。)
家庭のことなんてどうでもいい――そんな態度が父親からはいつも感じられる。自分の進路にすら興味を示さない父親は、清輝にとってただの存在でしかない。
(喧嘩もしねぇし、顔合わせたくもないけど、いっそ本気でぶつかった方が楽なのかもな。)
そう考えつつも、結局それを実行する気力は湧いてこない。
さっきの喧嘩も頭をよぎった。母親の叱責が鬱陶しかったのは事実だが、それでも母親が一番苦労しているのは分かっている。
(……かーちゃんには迷惑ばっかかけてるよな。)
自分の問題行動を考えれば、母親にどれだけ負担をかけているかは想像がつく。それに気づきながらも、反発ばかりしてしまう自分がいる。
(でも、俺が一番かーちゃんのこと考えてるつもりなんだけどな。)
心の中でそう思っても、それをどう伝えればいいのか分からない。伝えられないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
清輝は視線を夜道の先に向けた。
――昔みたいに、何も考えなくて良かった頃に戻れたらな。




