出家――1
宮殿へ戻ると、シッダールタは父の元へ赴いた。
居室でくつろいでいたシュッドーダナ王が、満面の笑みをたたえ、立ち上がって我が子を迎える。
「聞いたか。そなたに息子ができた。ナンダもいずれ妻を娶る。さすればゴータマ家もこれで絶えることなく栄えてゆくであろう」
かつて黒々としていた王の髭にも、白いものが混じるようになっていた。自らの老いを自覚するシュッドーダナ王にとって孫の誕生はこの上なく喜ばしく、先に光明を見た思いであった。
「……つきましては父上」
シッダールタが神妙な顔をして、ひざまずく。
「お願いがございます」
「何か」
シュッドーダナ王は、上機嫌で耳を傾けた。
「四つあります。その一は、私が決して老いぬこと。その二は、私が決して病にならぬこと。三は、私が決して死なぬこと。四は、それらすべての災いによって不幸にならぬこと。
この四つの願いをかなえていただけるのでしたら、私はこの国の王位を継ぎましょう。しかし、もしかなわぬというのでしたら、どうか出家するのを許していただきたいのです」
王の顔が、瞬時に怒りのため赤くなった。
「人の身には出来得ぬことを並べたて、たばかろうというのか。……許さぬ」
「いかにしても……」
「そうだ」
言い放った後、シュドーダナ王が嘆く。
「そなたには、どうしてこの父の気持ちが伝わらぬのだ」
「父上の慈愛の深さは、身に染みております」
「いや、そなたは何も分かっておらぬ。……しばらく宮殿の奥深く謹慎しておるがよい。その考えが変わるまでな」
「父上!」
それからは何をいっても取り合ってもらえず、シッダールタは自らの室へと退いた。
一日の疲れを癒そうとして宝牀( ほうしょう)へ身を寄せる。すると、数多の宮女たちが太子の心を慰めるべく樂を奏で歌をうたい、または調べに合わせて舞い始めた。
陽はすでに沈み、香油のそそがれた燈火が次々と灯されてゆく。窓から夜風がそよと吹き込み、いつしか太子は睡に落ちていった。
これを見た宮女たちは、舞い歌う力も抜け、樂をやめて自分たちも憩い、やがて寝入ってしまった。
静かな夜であった。香燈だけが揺れている。
そして真夜中を過ぎた頃、ふと眠りから覚めた太子は、室の様子に愕然となった。
普段、美しく装いつつましく人目を気にする宮女たちが、口より涎を流し、歯を噛み譫言を云い、衣装を乱し体を崩し、女のたしなみも忘れて、浅ましくも睡をむさぼっている。
華やかな宮殿も、闇の支配する夜は墓場のようであった。
(真実の姿というのは、表面からではわからぬものだ。とてもこの有様には耐えられぬ)
シッダールタは身震いして立ち上がり、直ちに宮殿を出ようと決意した。
密かに室を抜け出し宮門へ行き、そのかたわらにある厩舎で休んでいた御者のチャンナを呼んで馬の準備を命じた。
そして太子は再び戻って妃の寝室へ行き、扉を開けた。
淡い燈火の光の中、寝台にはヤショダラー姫と生まれたばかりのラーフラが安らかな寝息をたてていた。
(我が子を抱いて最後の別れを惜しんだなら、妃は眼を覚まし、出家を妨げるであろう。それよりは、覚を得た後にこの子を見るほうがよい)
そう考えたシッダールタは、静かに扉を閉め、門へと向かった。
「無理でございます」
チャンナはいいつけられた通り太子の愛馬カンタカ(犍陟)を引き出して待っていた。
そして、小声で主に告げる。
「宮殿の門はどこも鍵がかけられ、城の大門の前には兵士がおります。さらに、鋼鉄の大門は重く、おひとりでは開けることもかないませぬ」
「いや、そうでもあるまい」
シッダールタは、ふだんあまり使われていない小さな門の前に立った。
それを押すと意外にも動き、鍵がかけられていないことを知った。彼らはその門をくぐり、王宮を抜け出たのだった。
このとき、雲間に隠れていた満月が姿を現す。闇の中に沈んでいた街が白い光に照らされて、くっきりと目の前に浮かび上がる。
物音ひとつしないその街を、白鹿毛の馬に乗った太子とチャンナの主従のみが黒い影法師となって進んでゆく。
やがて街を過ぎ、カピラヴァストウの大門へ至ると、不寝番をしているはずの兵士たちがみな眠りに落ちていた。
シッダールタがカンタカの背より降り、門に両手をかける。
ぎいぃ……と重い音と共に、大きな扉がゆっくりと動いていく。
そして通り抜けられるほど開けると、シッダールタは再び騎乗し、一鞭あて、疾風のごとく都門を馳せ出でていった。
その後ろをチャンナが徒歩で追う。
(我が城……我が愛しのふるさと、そして一族たち……)
いまこそすべてを捨てるのだと思うと、ふいに眩暈がした。
俊足と名高いカンタカ。その背にあれば、耳元では風が渦を巻き、ごうと鳴る。
「太子よ!」
風の音に雑じって、人ならぬ声がする。
「愚かな出家をやめて花の宮殿へ還られよ。しか然らば、七日のうちに四天下を領する転輪王と為してやろう」
シッダールタはカンタカを駈けさせる手を緩めず、叱りつけるようにその声へ応じた。
「悪魔よ、去れ。失せよ。地上の権勢は私にとって何の用もない。私の願いは、ただ道を得ることだ」
しかし虚空の声はそれには何も答えず、哄笑を残して去っていった。
(聖なる種子を宿しておろうとも、しょせん人は欲望から離れられず、いずれ太子の心に憎悪が巣食うことがあろう)
と、悪魔は乗ずる刻をうかがい、このときから影のようにシッダールタのそば近く添うようになった。
一方、勇んで宮殿を出たものの、しだいにシッダールタの心は揺らぎ、遠ざかってゆく故郷をしみじみ眺めたいと思った。
けれども、そのような自らを叱咤して草原を越え、いくつもの林を抜けて、東へ二十余里まっすぐ進み、夜明けにはアノーマ川(阿奴摩河)の岸辺へといたった。
朝陽に照り映える砂の上へ、シッダールタは馬より降り立った。そして美々しい衣服を脱ぎ、これまで付き従ってきた忠実な御者へそれを与えて云った。
「チャンナよ、世の人には心にしたごうて身にしたがわぬものがあり、また身にしたごうて心に従わぬものがある。しか然るにそなたは、身も心も共に私にしたごうた。また世の人は富み栄えて地位高い者には競って仕えるが、貧しく賤しい者からは遠ざかる。それが常なる事というに、そなたは独り国を捨てた私にしたごうて、はるかここまで来てくれた。まことに殊勝なことである」
と、シッダールタは自らの髻を解いて摩尼宝を出し、続ける。
「チャンナよ、そなたは今より還ってこれを我が父なる大王に捧げ、次のように申してくれ。
太子は世の中のことには何も求めるものがない。人はみな恩愛の情に繋がれるが、ついには老病死を免れることが出来ぬ。どうかこのことわりを思うて憂を除いてください。太子は證を得ない間は決して帰りませぬと」
次に、瓔珞を脱いでチャンナに渡し、
「これは養母君に捧げてくれ、そして申してくれ。
欲は苦のもとである。太子は出家してこの苦のもとを断とうと思いたった。どうか憂を除いてくださいと」
さらに残りの装身具を渡して、
「これを妃に与えて伝えてくれ。
人の世には必ず別れの悲がある。太子はその悲のもとを断とうと思いたった。恋着の情に惹かれて憂に沈んではならぬと」
シッダールタの言葉が終わる間もなく、チャンナは地に伏し、その逞しい手足を震わせて泣き崩れた。
「やつがれは貴方さまがルンビニーの園でお生まれになったときより今までお仕えして参りました。ここまで従って来ましたのは、もしや太子が御心を翻し、王宮へ戻られるかと思ったのでございます。けれども、ご決意は固く……」
そこでチャンナは、がばと顔を上げた。
「……なれば、還れなどと情けなきことを仰せられず、やつがれも共に出家させて下されませ」
朴訥な男の必死の嘆願だった。しかし、シッダールタは許さない。
「その心は有難いが……ならぬ。戻って私の言葉を皆に伝えてくれ」
チャンナは声を放って泣いた。
太子の愛馬カンタカも前脚を折り、シッダールタの足を舐めて、悲しくいななく。
「カンタカよ」
シッダールタは愛馬のこうべをなで、慰めて云う。
「そなたの為すべきことは、もはや果たされた。決して悲しむに及ばぬ」と。
そして右手で剣を抜き、左手に髻を握って自らの髪を断った。用意してきた粗末な衣を身に着け、鉢を持ってシッダールタは東へと歩み去ってゆく。
残されたチャンナは涙ながらにその後ろ姿を見送り、太子の影が視界より消えてから、力なくカンタカの手綱を取ってカピラヴァストウへの道をたどり始めた。
ちょうどその頃、王宮では、太子がいなくなったと騒いでいるところであった。そこへカンタカを曳いたチャンナが戻ってきたので、すぐさま彼は宮殿の広間へと引き出され、詰問された。
玉座の前へ跪き、チャンナは、太子に云われたままのことを伝えた。
すると、
「ああ、我が子よ!」
王妃マハーパジャパティが叫び、泣き伏した。
「あの方は私を残し、ひとりでいってしまわれた……」
太子が身に着けていたなつかしい品々を胸へいだき、ヤショダラー姫は涙にくれている。
「チャンナよ、せんなきことだが、太子の出家を止めて欲しかった……」
と、シュッドーダナ王までも、怨み言を云う。
居並ぶ人々の嘆きは、チャンナの体を千の矢、万の矢ほどに射抜き、心に血を流させたが、彼は甘んじてそれを受け続けていた。
そのころ沙門の姿となったシッダールタは清々(すがすが)しい気持ちで河に沿い、マッラ(末羅)族の住む土地を通って東南へと歩を進めていた。
広い眼前の沃野には数人の子どもたちが牛を追い、彼方で農夫がひとりふたり田畑を耕している。
はじめ足どりも軽く歩んでいたものの、肌を焼く強い陽射しにシッダールタは喉の渇きを覚え、また空腹も感じた。
そこで、初めて食を乞うことにした。
彼が訪れた土壁の小さな家から出てきた老婆は、快く鉢に食物を分けてくれた。それは、この家の人々がいつも食べている雑穀の酸っぱい粥だった。出家者の供養には一番よいものを供するのが慣わしだったが、貧しい彼女にとってはこれが出来る限り精一杯のものであった。
そしてシッダールタは樹の下へいき、坐ってそれを口にしようとした。けれども、美食に慣れた体が受けつけようとしない。
ためらい、思わずそれを捨てようとするのだが、
(……私はもはや王子ではない。道を求むる出家である)
と思い返して居住まいを正し、鉢を再び押しいただいた。先ほどの老婆の荒れた手、深く刻まれた皺、そして笑顔に感謝を捧げて、粥を残さず食したのだった。
そして以後、彼は生涯一度として食物に思いわずらうことはなかった。