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四門出遊――2

 その後十数年、妻のヤショダラー姫と暮らす日々は夢のように過ぎていった。季節ごとに三宮殿を巡り、極上の品々と食事、そして華やかな舞姫たちに囲まれ、優雅に妃と遊ぶ毎日は天上界の生活もかくやと思われた。

 しかし、太子の心から憂いは去らない。

(私は今、健康この上ない。だが、いつか病むであろうし、こうしている間にも年老いてゆく。そのはてに死……)

 何不自由ない日々の中でも、病と老いへの不安と死に対する恐怖は拭い去ることができなかった。

 そしてあるとき、こう考えた。

(人が生きることは、せんじつめれば何かを求めることにほかならない。しかし、これには善い求めと悪い求めとがある。

 悪い求めとは、自分が生まれるものであって他の生まれるものを求め、自分が老いゆく身であって他の老ゆるものを求め、病む身体、死にゆく身体、うれいに沈みけがれに染むものでありながら自分と同じものを求めることである。

 生まれるものとは何であるか。

 妻子つまこ婢僕めしつかい、家畜、金銀等である。そしてまた、これらのものは老ゆるもの、病むもの、滅びゆくもの、うれいに沈むもの、けがれに染むものである。世の人々は自分等が滅びゆくものでありながら、それらの滅びゆくものを求めて執着し(まど)うている。

 善い求めとは何であるか。

 自分が生まれるものでありながら生まれるもののわざわいを見、生なくしてこの上なき安穏やすらぎ涅槃ねはんを求め、自分が老いゆくもの、病むもの、死ぬるもの、うれいにしずみ、けがれに染むものでありながら、それらのわざわいを見て、老いず、病まず、愁えず、(けが)れのないほうである無上の安穏やすらぎ涅槃ねはんを求めることである。

 ……考えてみれば、私も善からぬものを求めるひとり。何という愚かなことであろう。これからは、どうしても死とうれいけがれから離れたものを求めねばならぬ)

 こうして、移ろい滅びゆくものに執着せず、『善き求め』に心を向けようとしたシッダールタだが、その日常に変りはなく、宮殿での遊びにめば、侍者たちを連れて城外の林や園へ行き、遊興の限りを尽くしていた。

 その日も、幼友達のカールダーイ(迦留陀夷)と共に東の門から馬車を駆って宮殿を出た。

 シュッドーダナ王は太子が世を憂いて出家することを気遣い、我が子が外出する前には周囲の者に命じて、汚いものや醜いものが目に入らぬよう、道を清めまちをかざり、園林を掃かしめていた。

 王家に血筋の近い一族が住む一角を過ぎ、やがて馬車は市場の辺りへさしかかる。

 清められた街には、シャーキャ族の人々だけでなく、交易のためにカピラヴァストウへやって来た他国の商人たちが精力的に動き回っていた。このときは、ヴァイシャリー市のリッチャヴィ(離車)族が隊商を組んでやってきていたため、彼等の身につけている赤や黄、紫などの華やかな衣装があちらこちらで翻っている。シャーキャ族のほとんどは農耕を行い、城下には鍛冶屋や職人たちもいて日常の品々にはこと欠かなかったが、極上品といわれるカーシー産の布やマガダ、コーサラの金銀細工、そして新しい武器についての知識や他国の情報などは、このような遠来の商人がもたらしてくれる。

 けれども、その見聞広く経験豊かな商人たちも太子の馬車が通ると(あるじ)の姿に見惚れ、次にうやうや恭しく頭を下げた。

(それはそうであろう。我が太子ほど、優れて立派な御方は他におられまい)

 カールダーイは誇らしかった。

 眼前の太子はきらびやかな宝冠を戴き、身につけた耳璫じとう腕臂釧わんひせん、胸の瓔珞ようらくなどの宝玉が()にきらめき、優美でありながら侮りがたい気品に満ちていた。

 奇しくも太子と同日に生まれたカールダーイは、一族の中でもことに肌の色が黒く、そのため『黒きウダーイン』と名づけられた。そして何かと較べられるのだが、シッダールタを無上の人と尊敬するカールダーイにはそれすらも嬉しいことであった。

(ヤショダラー様も身ごもられ、これで太子も王位を継ぐ御決意を堅くなされるだろう)

 シッダールタ太子が王となったあかつきには、彼も父の大臣の後をついで忠義を尽くそうと決めている。

「あれは……」

 市場を過ぎたとき突然、太子が云った。

 その視線の先にカールダーイが顔を向けると、髪白く背を丸めてとぼとぼと杖にすがり、あえぎながら道を往く人影がある。

「老人……のようですが」

 答えてから、カールダーイは太子の憂い顔をみ、すぐに口をつぐんだ。

(シュッドーダナ王の御心配されていたことが起こってしまった……)

「私もあのようになるのであろうか」

 側に侍するカールダーイがこの問いかけに返事をしようとしないので、代わって御者(ぎょしゃ)のチャンナ[車匿しゃのく]が口を開いた。

「生あるものは、貴きも賤しきもみな、この苦しみを免れませぬ」

「そうか……」

 シッダールタはこの出来事によって園で遊ぶ思いも消え、すぐさまくるまを王宮へさし戻したのだった。

 そして数日後、次には方角を変えて南の門より出たのだが、今度は道の傍らに骨が浮き出るほど痩せた男が塵だめの中で苦しみもがいているのに出会った。

(これは、あってはならぬことを……)

 馬車に同乗していたカールダーイが慌てる。

 それは御者のチャンナも同様だった。

(今まで、見苦しき者がおっても上手く太子のお目に止まらぬよう道をそれておったのに……)

 このチャンナは眼鼻が大きく、頬骨が出た顔に針金のような黒い髭をはやしていた。そして、激しい労働で鍛えられた体は小柄ながら筋肉が盛り上がっている。魁偉(かいい)な風貌をしていても、太子に対する忠節を常に心から尽くしていた。

「私も……あのように病むことがあるであろうか」

 誰にともなく、太子が云う。

 カールダーイは、冷や汗を流すばかりだ。

(答え方によって、もし出家でもされたら……)

 しかし、チャンナが言葉を返した。

「どのような人でも、この苦しみを免れませぬ」

 それを聞いてシッダールタは黙りこくり、またもやくるまを返したのだった。

 カールダーイからこれらのことを告げられたシュッドーダナ王はますます憂え、以前よりもいっそう厳しく街を清めさせた。

 ところが、その次に太子が西の門より王宮を出たとき、はからずも輿に屍を乗せて悲しみながら送ってゆく人々と行き逢ったのだった。

(悩み多きこの世の姿を見せまいとしておるのに、何故なにゆえこうも偶然が重なるのだ……)

 カールダーイが心中、つぶやく。

 彼には何らかの意志が働いているとしか、思えない。

「ああ……」

 そして、太子が嘆息とともに再び問う。

「私も、ついにはあのようになるのであろうか」

「生あるものは、必ず死なねばなりませぬ」

 チャンナが答え、この日もくるまは戻っていった。

 しかし、打ち沈んだ気分がやがて晴れた頃、太子はカールダーイの他に宮女たちも連れて城外の園で遊ぼうと、宮城の北門から馬車を連ねて出ていった。

(今度こそは、妙なものに往き会うまいな……)

 この日も太子と同じ馬車に乗っているカールダーイは、注意深く四方に目を配っていた。

 しかし街中(まちなか)を過ぎ、カピラヴァストウを囲む城壁近くに来たとき、道端に柿色の衣を着けて髪や髭をそり落とし、手に鉢を持って威儀いぎおごそかに歩む人を見た。

「あれは何人なんぴとであるか」

 太子が問う。

「出家でございます」

 チャンナがそれに答えた。

 太子はくるまを止めさせ、降りると礼をした。そして、

「出家には、どのような利益がありますか」

 と、尋ねた。

 このときシッダールタ、二十九歳。見たところ太子より一回りは年上かと思われるその人は、軽く目礼して云った。

「私は世の老病死の無常をみて解脱しようと思い、親族を捨ててしずかなところで道を修めています。正しい法によって五官ごかんおさえ、大慈悲をもって人々を護り、そして世間のけがれに染まないのが出家の利益であります」

 その答えを聞いて、シッダールタは感ずるところがあったのか、うやうやしく出家を拝んだ。そしてくるまに乗ると、城外の園へ走らせたのだった。

 緑の園には花咲き乱れ、澄んだ池の水が陽にきらめいている。太子の一行がそこに着くと、驚いた水鳥たちがいっせいに飛び立っていった。

 カールダーイは池の端の草地にシッダールタのための座をしつらえさせた。

 宮女たちが、太子を遊びにいざなう。

「かまうな、と伝えよ」

 カールダーイに命じたシッダールタは、そこへ坐った。

 すぐさま側仕えの若者が天蓋(てんがい)を差しかけ、別のひとりは太子の背後から扇で風を送り始める。

 宮女たちは、気ままにしてよいといわれたので、あるものは花を摘んで仲間と笑いさざめき、また幾人かの女たちは池に入って互いに水を掛け合い、遊び戯れている。

 この光景を、シッダールタはぼんやりと眺めていた。そして、想った。

(私はこの上なく優しく育てられた。宮殿には数多く蓮の池が水をたたえ、青、赤、白など色とりどりの花が咲き誇っている。そして私はカーシー国の栴檀せんだんの香水でなければ身につけない。カーシー産の絹の肌着、下着に上衣、帽子を着けている。夜も昼も私の頭の上には白い天蓋がかざされ、暑さ寒さも身を冒さず、塵や草や露がかからぬようにしてある。

 また、私には三つの宮殿があって、雨期の四ヶしかげつ雨殿うでんに立てこもり、女たちに取り囲まれて下へは降りない。それは歌と舞と酒の歓楽である。他家よその召使の食物といえば、籾雑もみまじりの飯かい粥であるが、私の家では彼等にまでもきれいな白い飯が与えられる。

 私はこのような栄華のうちに、こうした優れた身体をもって暮らしているが、この生活がいま眼覚めようとしている私にとって何であろうか。世の人々は、自分がやがて老いてゆく身であり、病気やまいにかかる器であり、また自ら死にゆくべきものでありながら、老人としよりや病人や死人をみてさげすきろうている。私は、かような真似をしてはならない。

 私は今、青春のほこり、健康のほこり、生存のほこりをすっかり捨ててしまうであろう……)

 傍らに侍し、太子の様子を見ていたカールダーイには、その心中が手にとるように分かる。

(太子は、出家の決心を固められた。けれども、その若さで家を出られて沙門シュラマナとなることの、どこがよいのだろう。病み、老い、死んでゆく……この世では当たり前の出来事だ。

 バラモンたちは人生に四つの時期があると云う。師に仕え、ヴェーダを学ぶとき(学生期)、結婚して祖先を祀り子孫を養うとき(家長期)、家を子供に譲り、林に隠棲するとき(林住期)、そして托鉢遍歴してブラフマンを心に念じながら命をまっとうするとき(遍歴期)……。

 太子はいまだ学生(がくしょう)の身、これから王となり(くに)(たみ)を安んじ、御子を成し、家を整え、家長として家族を護らねばならない。そのすべての義務を終えてから出家しても遅くはあるまい。

 数多くのただ人に、バラモンたちの説くアートマンと一体になることなぞ、まず為し得ない。ブラフマンを瞑想し、すべてを捨て去って托鉢乞食(たくはつこつじき)の生活をするバラモンもいるが、多くはヴェーダの呪文を唱え、祭壇に火を焚き供物をそなえて祭祀を行い、また同時に祭祀を楽しみ、それで得た富によって豊かに暮らしている。このバラモンの教えに飽き足らず、解脱に向かって努力する沙門さもんは、世俗のえにしを断ち切ってじきをしながら修行を為している。所有せず、一切の殺生をせず、街や村を巡り歩き、人々の喜捨によって(かて)を得、聖なるものに近づこうとする尊い魂の人たち。まこと、世界を形創っている法はじつに人たる者のうちで最上のものである。俗世の位階の高低、富の多寡など何であろう。この世においても、また来世においてもまたしかり、真理の法こそこの上無きもの。それゆえ強権を持ち、世俗では高位にある王侯ですら彼等を丁重に遇するのだ。しかし、カルマより解き放たれ、涅槃ニルヴァーナへ至った修行者など聞いたことがない。いにしえには目覚めたる人――仏陀(ブッダ)がいたというが……。

 もし沙門となれば、心の安らぎは得られよう。けれども旅路のはてに惨めに死んでゆくのなら、苦しみ悩みながらも家族とともに生き、出家者や貧しい者たちを助けて徳を積んだほうがよほど善い。ましてや太子は争い多いこの世を平らかに出来る身分も能力もお持ちなのだ)

 幼い頃から遊び相手として側におり、太子のことはすべて分かっているつもりのカールダーイでも、シッダールタが出家しようと考えるこのことだけが、どうにも理解出来ない。

(何もご不満はないはずだが……。しかし太子はこの上なく慈しみ深い方でありながら、意志もお強い。希望を通されるのなら、王との衝突は必定……)

 カールダーイの想いをよそに、やがて()が傾きかけた頃、太子は立ち上がって池へ入り、沐浴をした。そして衣を取り替えながら、つぶやく。

「……先ほどの出家は、実にまどかな表情であった」

 着替えを手伝っていたカールダーイが、それとなく云う。

「さようでございましたな。……しかし、かといって太子がおのぞみになっても父君はお許しになりますまい」

 シッダールタは少し驚いたかのようにカールダーイを振り返り、

「……わかっている」

 と、答えた。

 ふたりがこのような会話を交わしているとき、カピラヴァストウの方角から馬を駈けさせてくるものがある。

 それは、シュッドーダナ王からの使者だった。

「申し上げます……」

 馬から下りて太子の前に跪いた男が、息せききって言上する。

「つい先ほど、ヤショダラー様が御子をご出産されました。王子様でございます」

「なんとめでたい」

(これで太子は、家に留まられるだろう)

 カールダーイが、愁眉を開く。

 けれども、シッダールタは冷ややかに云った。

「……私の破らねばならぬ、新たなラーフラ[障さわり]が生まれた」と。

 使者はこのとき、『ラーフラ』の言葉だけを耳にして王宮に立ち戻り告げたので、生まれた王子はその名の由来も知らず、ラーフラ[羅睺羅らごら]と名づけられた。

 そして身支度を終えた太子は、宮殿へと馬車を急がせた。その途中、街中(まちなか)に入ると、自分に歌いかける声が聞こえてきた。

「幸いなるは父かな、幸いなるは母かな、

 かかる子を持ちて、幸いなるかな、

 かかる夫にかしずく妻は、またいと幸いなるかな」

 くるまを止めて上を見れば、その屋敷の楼台たかどのにキサーゴータミーという一族の姫がいた。

 姫は太子の姿に心動かされ、誘惑のために恋の歌をうたったのだが、出家を決心したシッダールタは、それに(まど)わされることはなかった。

 しかし、この歌の『幸い(ニブタ)』ということばが、『涅槃ニルヴァーナ』ということばと似通っているので、歌すべてが真の平和な涅槃を詠うように思われた。そして、幸先よしと感じて、感謝の気持ちから首飾りを外して姫へ送り、王宮に帰っていった。





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