四門出遊(しもんしゅつゆう)――1
シッダールタ太子は七歳のときから師について、語学、算数、論議、天文、地理、射術などを学んだ。その賢さは人々を驚かせたが、同時に感じやすい心を持った少年でもあった。
大人たちの噂話から、いま母と呼んでいる女性が自分を産んだ母ではなく叔母であると知るのも、この頃だった。
(母上は、私を産んだために亡くなられたのか……)
その事実は太子の精神の奥深くへ重く沈み、物静かな少年がさらに思索にふけるようになっていった。
やがてこの年も耕耘の祭が行われる時期となった。
よく晴れたその日、シュッドーダナ王は家臣を伴って城外の野へ出た。そこで人々の見守るうちに、黄金の鋤を土に入れた。これは豊作を願う儀式であり、そのあと樂の鳴らされる中、農夫が深く耕してゆく。
シッダールタ太子も席を与えられて、その場にいた。
太子が鋤の先を見ていると、耕された土の中から小さな虫が現れた。しかし、何処からか飛んできた一羽の鳥がそれをついばみ、飲み込んでしまう。
と、次の瞬間、小鳥は上空から飛来した隼に襲われ、その足に捕らえられて視界から消えていった。
「なんということだ」
他の人間にとって、取るに足らぬであろうありふれた一瞬の出来事が、少年の心に大きな波紋を投げかけた。
「生き物たちが、互いに食いあっている。……いったい生きるということは、何なのだろう……」
シッダールタは悲しみのあまり人目を避け、近くの林へ入っていった。そして大きな閻浮樹[ジャンブー樹]の下へ座り、深い物思いに沈んだ。
しばらくして太子の姿が見えなくなったことに人々が気づき、捜しながら林の中へやってきた。そのとき、少年の身に起きている不思議を目の当たりにし、みな沈黙する。
かたわらの樹々が陽に従ってその影を移しているのに太子のいる樹の影のみは少しも動かず、涼しげな木陰をつくっていた。
「虚空に澄む月のようであるな……」
シュッドーダナ王は、我が子ながら侵しがたいその姿を見て声をかけるのがためらわれ、そのまま人々を引き連れて城へ帰っていった。
この出来事以来、シッダールタは、たびたび閻浮樹の下へ行き、瞑想に耽るようになった。
「王子は近頃、城外へ行かれるようだが、何かあるのですかな」
学問の師であるバラモン僧が講義が終わった後、尋ねてきた。
「あの樹の下にいると、落ち着くのです」
シッダールタはヴェーダ聖典に定められた作法通り、座席から立ち上がって礼儀正しく答えた。
「城内は、騒がしいと」
白い顎髭をきれいに整えた老人は、目元で笑い、続けて問いかけた。
「では、そこで何を考えておられる」
シッダールタは顔を上げ、少し迷ったあと心の内に長く留めていた疑問を初めて口にした。
「生きるとは、いかなることでありましょうか。人も……いえ、生きているものたちはみな、奪いあい、殺しあい、そして老いて死んでいきます。これには何の意味があるのでしょう」
「ほう……」
バラモンは意表をつかれた。
(この年頃の子どもの悩みなど、普通たわいないものだが、王子は一風変わっておる)
と、思ったが、師として教え諭さねばならぬとも考え、威儀を正した。
「さて王子、この世界の始まりは、いかなものであったかな」
問われてシッダールタは、暗記していた一節を唱えた。
「太初、世界には何も存在せずして暗黒に蔽われたりき」
「さよう」
師は、にこりともせず話し続ける。
「ヴェーダ聖典では、まず初めにその暗黒の内に満ちていたブラフマン(梵)――この世界を成り立たせている根本的な原理ともいうもの――が熱の力[タパス]によって産まれたと語られている。やがてブラフマンは、森羅万象生きとし生けるものを形創った。王子が今、目にしておる空も大地も、そして雨風などの現象、また虎や象、鳥から虫に至るすべての生き物、さらに目に見えぬ神々や神霊、夜叉、羅刹や悪魔までのう……。
そのブラフマンの創造物の中で、我ら生あるもの、人の内にはアートマン(我)というブラフマンと同じ永遠なるものが存在しておるのだが、愚かしいことに人々はおのが欲望のためにそれを汚しておる。そして自らの行為によって作り出した業に基づき、天界地界四つ足飛ぶもの這うものなど生まれ変わり死に変わりして輪廻転生し続けるのだ。この輪廻から逃れる[解脱]方法は、内なるアートマンをこの世のもとであるブラフマンと同じくすることのみ。[梵我一如]
……王子よ。そなたの問うている『生きる意味』とは、この世界において何であろうか。旱魃、洪水、蝗の害は何故あるのだろうか。生き物は何故、生まれ、喰らい、子を成し、死んでゆくのだろうか。また、楽しみ喜び、憂い悲しみ苦しむのは、何故か。近頃、世を徘徊する沙門たちはさまざまに思考し、おのが考えを主張しておるが、我らバラモンは生あるものどもの個々の存在意義など見出さぬ。この世のすべては、ブラフマンによって創られたものであるからだ。だが、もし人の生に目的があるとすれば、世界の真理たるブラフマンとひとつになり輪廻から解き脱がれること、唯それだけである」
「では師よ、ヴァルナ(カースト)は何故あるのでしょう。階級が異なっても、みな手を切れば赤い血が流れます。そして同じように痛みが走ります」
「それは……」
バラモンの老人が、苦い顔をする。
「姿形が同じで、ともに赤い血が流れようとも本質が違う。バラモン[波羅門・祭官]は神々の末裔、人に生まれ変わるべきものの中で、前世において徳を積んだ者たちなのだから最も尊い。そのため、神と人とを取り結ぶ祭祀を行い得るのだ。次に良き血統は王子の属するクシャトリヤ[刹帝利・武人]、そしてヴァイシャ[昆舍・庶民]、シュードラ[首陀羅・隷民]、あと人外の者、チャンダーラ[旃陀羅・屠殺人]やブックサ[汚物清掃人]となる。……しかし人々の神を信ずる心が薄れてきておるのかのう。近頃ではバラモンでも野を耕す者、商人となる者がおり、反対にヴァイシャより豊かなシュードラもおる。嘆かわしいことだ」
師はそこで言葉を切り、押し黙った。
シッダールタには、とても満足できる答えではなかったが、不機嫌そうな老人の様子を見て礼をいい、部屋を辞した。そしてまた、閻浮樹のもとへ向かった。
老いたバラモンが不快になる理由が、彼には解っていた。老人は精神世界でも現実の物質世界でもバラモンが頂点に立った秩序ある世の中を理想とし、またそれを欲していたのだろうが、実際はそうではない。遠くの国々との交易が盛んとなった近頃では、ヴァルナの上下区分よりも富をどれほど持っているかで人々の扱いが違った。たとえシュードラでも、職人として腕がよく、富者となったものには王族も一目置く。バラモンたちは祭祀の供物で富裕であったり、またその学問の深さによって領地を得る者、帝師となって尊敬と富を受ける者などがいた。けれどもその一方、祭祀による収入だけでは暮らしていけず、農作業に汗を流し、あるいは身に剣を帯びて世を彷徨うバラモンもいた。
また、バラモンの教えが深く生活に浸透している恒河上流の地方にくらべてデリーから東は四姓の区別よりもいまだに部族の繋がりの方が強く、野蛮であると見なされていた。シャーキャ族もその例外でなく、王を戴いているものの政は公会堂で一族が論議して定めていた。その上シャーキャ族の人々は内心バラモンを軽んじており、それも老人には気にいらないことであった。
やがて城を抜け出したシッダールタは、郊外の林へとやってきた。
樹霊が宿るといわれるほどその巨木は歳ふり、伸ばした枝葉を涼やかに揺らしている。
樹の根方に立ち、シッダールタは上を見あげた。
木洩れ陽が、きらきらとまぶしい。
鳥が鋭い声で鳴き、飛び立っていく。
「樹が口をきけたなら……」
この世を形創っている真理について、何か語ってくれるだろうか。
けれども閻浮樹は、葉ずれの音を聞かせるばかりだ。
太子が十六歳になると、シュッドーダナ王は夏、冬、雨期それぞれの季節が過ごせるよう三殿を作って我が子の住居とした。そこでは芸人、楽人、舞姫が太子の気を引き立てようとするのだが、宮の主は若者らしい遊びに興味を示さない。
この様子を見た父王の脳裏には、太子誕生の折りに語られたアシタ仙人の言葉が蘇ってきた。
(アシタどのはかつて、シッダールタが力でなく正義で世を治めるという転輪聖王になるか、出家するか、どちらかだろうと云われた。世の楽しみをさして喜ばないということは、いずれ家を出ていってしまうのではないか……)
そこでシュッドーダナ王は太子に妃を娶らせることにした。
王が第一に選んだのは、コーリヤ国スッパブッダ王の姫で母方の従妹、ヤショダラー[耶輸陀]。清楚な美しさを持つ少女だった。
そして風習に従い、日を選んで『聟選び』の場が設けられた。
シャーキャ族の若き諸王子たちが王宮の中庭へ集い、相撲、弓術、そのほか様々な武芸を太子と競ったが、誰ひとりかなう者はない。ことに力くらべの際、先代の王、シンハハヌー(師子頬)の弓を引いたときには、一族の者たちからどよめきが起こった。
そして、
(あれは勇猛で知られた父君の強弓。亡くなられてからは引く者がいなかった。それを……。やはりシッダールタには、シャーキャ族の王というだけでなく、世を統べる転輪聖王になってもらわねばならぬ)
と、我が子の勇姿を目の当たりにしたシュドーダナ王は思いを強くした。
すべての競技で勝者となった太子に称賛の声が降りしきる。そのとき、シッダールタは父王に伴われて席に着いていたヤショダラー姫へ、初めて目を向けた。
物静かな少年から凛々しい若者へと成長した今のシッダールタは好ましく姫には映ったのか、瞳をきらめかせ、こちらを見つめている。
(この人が、我が妻となるのか……)
太子も姫に悪い印象を持たなかった。
ふたりの視線がからみあい、人々の祝福を受けて、ここに妃が定められたのだった。
太子の婚礼から数ヶ月後、城ではもう一つ慶事があった。王妃マハーパジャパティが王子を産んだのである。児はナンダ(難陀)と名づけられた。
シッダールタは知らせを聞いて、すぐさま後宮にいる養母を見舞った。
寝室に通されると、褥に横たわる養母とナンダのかたわらには既に父がいた。太子は両親へ祝いの言葉を述べ、寝台へ近寄っていった。
嬰児は母の横で、安らかな寝息をたてている。
「幼い頃のあなたに、そっくりです。シッダールタ、この児もあなたのように美しく賢い王子となることでしょう」
姉マーヤーの面差しを宿したマハーパジャパティが微笑み、優しく赤子の口元を布で拭く。
(ああ、養母上はこのように愛情深く、私をも育てて下さったのだ……)
シッダールタは思い、生まれたばかりの異母弟を再び見やった。
ナンダがかすかに身動きし、眠ったままでにっこりと笑っている。
(人は死を厭い、生を喜ぶが、誕生とはその日から死へ向かって歩み始めることでもある……)
そう考えると、目の前の嬰児に愛しさだけでなく、哀しさを感じる。
「父上には、いまひとり頼もしい後継ぎが授かったのですね」
「いや、シッダールタよ」
シュッドーダナ王が重々しく口を開いた。
「ナンダが生まれたからとて、そなたがこの国の太子であることに変わりはない」
王の顔は父親からシャーキャ族の長となっていた。
「我が国は小さく、コーサラ国に主従の礼を尽くして面目を保っておる。この国には、そなたの智勇が必要なのだ。私はそなたにこの世の転輪聖王となってもらいたい」
「……私にそのような器量はありませぬ」
「そうかな。そなたはこの国のことより、ほかへ心を向けておる」
「先のことなど考えも及びませぬ。なにより、父上は若く、お元気であられる」
「遠いことではない。これは……」
「父上」
シッダールタは、父王の言葉をさえぎった。
「お声があまり大きいので、ナンダが起きてしまいます」
両親が赤子に注意を向ける。そのとき、
「お話は、またの機会にでも。母上、お体をおいといくださいますよう」
と、太子は身を翻して室を出ていった。
足の向くままに城内を歩き、後宮の高殿へとたどり着く。
そこは、南に向かって開いていた。
城下の街並みを護る煉瓦造りの壁の向こうには、耕地と緑の草原が広がっている。やがてそれは途切れ、赤茶けた大地の続く彼方に、シッダールタが名のみで知る幾多の国々があった。
南東にマッラ(末羅)、マガダ(摩竭陀)、ヴァッジ(跋耆)、アンガ、南にカーシー(迦尸)、そして南西に境を接するコーサラ(拘薩羅)国に、ヴァンサ、チェーディ、アヴァンティ、アッサカ。北西には、クル、パンチャーラ、マツヤ、シューラセーナ、ガンダーラ、カンボージャ。王権の強い国あり、シャーキャ族のように王の下で会議を行う国、また王を戴かず貴族たちの話し合いで政治を行う国などさまざまである。なかでもマガダ、コーサラ、ヴァンサ、アヴァンティという四つの国の勢力は大きく、マガダとコーサラは覇を競っていた。
「父上は、私を買い被っておられる」
シッダールタは、つぶやいた。
父の云うようにシャーキャは小さく、コーサラに朝貢して国を保っていた。強大なコーサラ国はシャーキャだけでなく、アヨーディヤーやカーシーを支配し、弱く小さな国々を隷属させている。
何か事あれば、あの地平からコーサラ国の象軍が湧くように群がり出てカピラヴァストウなど瞬時に踏み潰してしまうことだろう。
(小さな、愛しい郷よ……)
しかし太子という立場にありながら、父のようにこの地を治める未来の自分の姿を想像することが出来ない。
「私は……」
何を求めているのだろう。
シッダールタは、自らに問うた。
けれども答えがわからぬまま、太子はしばらくその場にたたずんでいた。