誕生
天に向かってそびえたつ雪山、その麓にシャーキャ(釈迦)族というクシャトリヤ(武人)が住み暮らしていた。彼らにはチャトゥマー(車頭城)、コーマドゥッサー、メータルーパ、ナガラカ(都邑城)、サッカラ、サーマガーマ(舎摩迦聚落)、シラーヴァティー(石主釈子聚落)、ヴェーダンニャという町があり、弓矢の技に長け、旧き家柄であるその一族の都はカピラヴァストウ(迦維羅城)という。王宮と街の周囲へ壁と壕を廻らせ、小さくとも堅固な城市であった。
このとき人々を統べていたのは、シュッドーダナ[浄飯王]、ゴータマ家から出た聡明な人物である。真実であっても益ない事柄を語らず常に善を行うことで知られていた。そして彼に添う妃マーヤー[摩耶夫人]はローヒニ河を隔てた向こうのコーリヤ(拘利)国の姫であった。王にとっては従妹でもある彼女は、湧き出ずる泉の清らかさと輝くような美しさをそなえ、また心優しく、城中の誰からも慕われていた。
やがて児を身ごもり、産み月となったマーヤーは、実家で出産すべく侍女や医師などの供を連れ、輿に乗ってカピラヴァストウを発ち、コーリヤ族の都ディーバダハ[天臂城]へと向かった。
隣国とはいえ、コーリヤ族の都までは数日かかる。一行は身重の妃を気づかいながらゆるやかに歩を進め、郊外のルンビニー(藍毘尼)の園で先ず休むことにした。
それは、ヴァイシャーカ月(四―五月)の満月の日のことであった。
陽が暮れると、妃のためにつくられた幕屋の上を、丸い月が柔らかな光を投げかけて渡ってゆく。
静かな夜だった。
けれども夜半を過ぎた頃から、妃に陣痛が始まる。
そして明け方近くになったとき、警護の兵士たちが騒ぎ出した。
「何事です」
マーヤーに付き添っていた侍女が外に出てきた。
「光が……」
兵の一人が、空を指差した。
月はすでに西へ沈みかけている。その夜明け前の青い闇を裂くようにして、天上から一条の光が幕屋へ降り注いでいた。
誰もが、いま生まれ出ようとしている生命に畏怖を感じた。
(御子は、世界の聖なる意志を背負わされた子どもなのか――)
そのうちに東の方より金色の朝陽がさす。と同時に、産声が響き渡った。
「おお……お生まれになった」
人々の顔に喜びの表情が浮かぶ。
「お世継ぎでございますよ」
実家から付いて来た年かさの侍女が祝いの言葉を述べながら、嬰児をマーヤーの胸に抱かせた。
浄らかな水で全身を洗われたその児の重みを受け止めたとき、彼女の体中に愛があふれ、母となったことを改めて感じた。
「王子さまがお生まれになったのですから、ディーバダハへは行かず、カピラヴァストウへ立ち戻ることにいたしましょう。王さまもお待ちでございます」
侍女の言葉へ、マーヤーはうなずく。そして赤子を彼女に渡し、手を借りて褥から立ち上がった。
用意された輿に乗り、再び赤子を抱き取ったマーヤーの上へ、日照雨が降りかかる。
細かな雨は冷たく、また暖かく、さながら甘露のごとく思われた。
「龍王も御子さまの御誕生をことほいでいるのでございましょう」
侍女が微笑んだ。
それまで乳を求めて泣いていた赤子は、まだ出ぬ乳房を吸いながら、いつの間にかマーヤーの腕の中で眠ってしまった。
供の者たちが幕屋を片付け、輿が動き出す。
マーヤーは頭を廻らせた。
朝陽に洗われたルンビニーの園。
樹々は、色とりどりの花を咲かせていた。青い下草は、そよ風にゆらめき、あでやかな蝶が舞う。鳥たちが数多さえずり、その彼方には雪山の白い嶺が霞んでいる。
(天の園とは、このようなところであろうか……)
彼女は、ふと思った。見慣れた園がいまは光満ちあふれ、輝くばかりに美しい。
至福の想いに心が満たされ、反対に身体から力が抜けてゆく。
(吾子よ、すこやかであれ……)
マーヤーは赤子の守護を願い、知るかぎりの神々の名を唱え、祈った。
愛しさのあまり、出来ることなら、自分の持つ福運も寿命もすべて与えたかった。
やがて妃の一行を迎えたカピラヴァストウは喜びにわいた。嬰児にはシッダールタ――目的を達する人――という名が付けられ、吉報を聞いた祝客が城へやって来る。
その中に、老いた結髪の行者がいた。名を告げられた門番は驚き、この何も持たない老人を丁重に迎え入れた。
「おなつかしゅうございます、アシタどの」
広間へ入ってきた白衣の老人に対し、シュッドーダナ王はうやうやしく挨拶をした。
「大王もご健勝でなにより。こたびはまことにめでたいことでござりまするな」
王が笑み、
「師は雪山に庵を結ばれたと聞き及びますが、いかにも御耳の早い」
と、いう。
アシタ(阿私陀)老人は、かつてバラモン僧としてシャーキャ族の王宮に在り、即位前のシュッドーダナの学問における師匠であった。後に宮殿を辞し、いまは占星術の大家として名を知られるようになっていた。
「いや、そのこと。先夜、星見をしていたおり、奇瑞に出会いましてな。それで罷り越したしだい。ぜひ、この老人に御子を拝させて下されませ」
王は快くうなずき、侍女に王子を連れてこさせた。
赤子は黄色っぽい布にくる包まれていたが、それはまるで黄金をまとっているかのようであり、顔は神々しい光に輝いていた。
守り役の侍女から赤子を抱き取った仙人アシタは、機嫌よく笑うその児を見て、体の底から歓喜が湧き起こって来るのを感じた。心踊る想いなど、久しくなかったことだ。
「これは無上の方。最上の人です」
老人は感極まり、叫ぶようにいった。
「ああ……」
シュッドーダナ王が、そこでいかにも得心がいったという顔をする。
「この児を身ごもったとき、妻は六本の牙を持つ純白の象が胎内へ入る夢を見ました。また、私が狩り場へ行けば、獲物たちが親しげにすりよって来るため、狩猟を止めざるを得なくなりました。逃げぬものたちに矢などとても放てないからです。さらに、乾期になっても河の水は干上がらず、過ごしやすい日々が続きました。カピラヴァストウを狙った軍勢は蝗の大群に襲われて逃げてゆき、何ものかに護られているような、不可思議な出来事ばかりが起こったのです」
王の言葉に深くうなずいたアシタ仙人は、しかしすぐに、はらはらと涙を落とし、むせび泣く。
「何か……王子に障りがありましょうか」
不審に想った王が問うのに対し、仙人は赤子を侍女の腕へ戻して答えた。
「王子に不吉の相があるのを想ってのことではありませぬ。むしろこの御子は、仏の三十二相と八十の吉相を備えておられる。王よ、この御子がもし家にいませば、転輪聖王となって四天下を治められるでありましょうが、必ず出家して仏となられ、あまねく人々を恵みたもうことでしょう。けれども私は年老いて、たぐいなき力ある人の教えを聞くことができませぬ。そのためはからずも悲しみの涙にくれたのです」
シュッドーダナ王はこれを聞いて喜び、老行者を手厚くもてなした。
そしてカピラヴァストウから自らの庵へ戻ったアシタ仙人は、後継者として教え育てていた幼い甥のナーラダ(那羅陀)へ、こう語った。
「もしお前がいつか『目ざめた人あり、覚を開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこへ行って彼の人の教えを尋ね、その師のもとで清らかな行いを為すのだ」と。
けれども王子誕生より七日後、歓喜の絶頂にいたシャーキャ族の人々は大きな悲しみの淵へ突き落とされた。
王妃マーヤーが身罷ったのだ。
そして間もなくマーヤーの末妹マハーパジャパティ[摩訶波闍波堤]が妃として迎えられ、母に劣らぬ愛情で王子を育んだのであった。