序――2
しかし、覚ることが出来ないまま数十日が過ぎた。
このような自分に結集へ参加する資格があるのか、という後ろめたさと焦燥感ばかりが日々大きくなってゆく。その一方で、僧伽の総意に抗うすべはないという、あきらめの気持ちもある。
目を閉じれば、在りし日の師の姿が思い出され、悲しみを新たにする。その繰り返しばかりだ。
(他の人たちはどうなのだろう……)
彼は思った。マハーカーシャパは。アニルッダは。
(いや、覚の境地に至った方々は、いつまでもそのときの感情に囚われることがない。意志の強いカーシャパどのは、頭陀行をしながら今もどこかの山に登っておられようし、アニルッダどのは見えぬ瞳ですべてを見通し、それでも静かに禅定を為されていよう。それなのに私は、長く世尊のおそば近くにおりながら、何一つその御教えを分かっていない……)
さまざまな想いが交錯し、心乱れる。
このような日々を送りながら、アーナンダはその朝もいつものように托鉢のため、街へ出掛けたのだった。
白い靄がかすかに残っていた。
ラージャグリハの人々が起き出して間もない頃である。路地に動くものはない。
だが、アーナンダが旧知のバラモン、ゴーパカの家の近くまできたとき、ちょうど主人のゴーパカ自身が表へ出てき、彼を呼び止めた。
「アーナンダよ、私どもの供養をどうか受けてくだされ」
ゴーパカは働き者で、白い髭を短く刈っている。出家者に優しいバラモンだった。
彼はすぐに家の中へ立ち戻り、食物を携えてくるとアーナンダの持つ鉢の中へそれを入れた。そして礼をしたのち、
「世尊の入滅の後は、いかなことになるのでしょうな。世尊ゴータマと等しい方が今おりますか」
と、心配そうに訊いた。
アーナンダは月の光のように静かに清々しく佇みながら、答える。
「バラモンよ、それはありませぬ。世尊は無かった道をお起こされた方、知られない道を知らしめた方、道の教え手、道を知り道に巧みな方であり、弟子は今その道に従い、その道の後からついてゆくものであるから」
そのようにふたりが話しているところへ、将軍と兵士を従えたマガダ国の大臣ヴァッサカーラ(雨行)バラモンが通り掛かった。彼らはマガダ国をうかがう他国の王に対してラージャグリハの防備を堅くするため、部隊を増員して向かわせるところであった。
「つい耳に入ったのだが……」
しかし大臣はそんな火急の際であるとはおくびにも出さず馬を止め、散歩の途中でもあるような感じで軽やかにそこから降り、ふたりの前へやってきた。
「アーナンダ、私も聞きたいと思っていた。世尊亡き後、この人をたよりとせよと命ぜられた方があるのだろうか」
黒々とした顎鬚を整えた壮年。知恵の輝きと野心を狡猾にも慇懃な態度に隠し、それを筋骨逞しい体とともに美装に包んでいた。
ゆうぜんと礼儀正しく同じバラモンであるゴーパカに挨拶した大臣だが、その心底では自らの仕える王が次に帰依する相手を知りたいのだった。
「ありませぬ」
けれどもアーナンダは大臣の真意など知らず、かぶりを振った。
「ではアーナンダよ、教園の申し合わせによって、この人をたよりにしようと定めたかたはあるのか」
「それもありませぬ」
「なんと」
大臣はあきれたような声を出した。
「依るところなくして、教園はどうして和合するのであろう」
「バラモンよ」
アーナンダは、この強国の大臣を真っ直ぐに見つめた。
「私たちに依るところがない、ということは無いのです。法を依り所としております」
アーナンダの答えに、大臣はいぶかしげな表情を見せた。どこの教団であれ、後継者がいないというのは聞いたこともない。
「……バラモンよ、世尊は知者、見者、応供者、正等覚者にていらせられ、私たちは布薩の日に、その場に居るものは皆集まって懺悔し、犯す所があれば、法に従って処置を取ります」
「それはあなたがたが処置するのではなく、法が処置するのであるな。ではアーナンダ、教園の中に、あなた方が尊敬される方があるか?」
「あります。世尊が説き残してくだされた、十の歓喜の法をそなえておる人を、私たちはうやもうております」
「それは、いかような人か?」
大臣が耳をそばだて、答えを促す。
「はい。それは、一に戒めを正しくたもつこと。二に、多くを聞いて正しく記憶すること。三に、足るを知ること。四に、おもいのままにもろもろの禅定に出入りすること。五に、神通をもつこと。六に、天耳をもつこと。七に、ひとの心を知ること。八に、宿命を知ること。九に、天眼をもつこと。十に、けがれほろびを知ること……であります」
アーナンダは、ずっと以前から僧伽の内で定められていたことを述べた。だが、この十の条件に当てはまるのは一人ではない。正覚を得て、敬われるべき人、アラハット(阿羅漢)となった者すべてであった。
「ああ……」
大臣は内心、失望した。しかし、それを見透かされぬよう、後ろに従っていたウパナンダ将軍をかえりみていった。
「この方々は、実にうやもうべき人々を敬うて居られる」
将軍がうなずく。大臣は再びアーナンダに向かって尋ねた。
「尊者は今、どこに住まわれるか」
「竹林精舎におります」
「あそこは人里離れ、静かなところだ」
「まことに。あなたやゴーパカの守護によって、いっそう住み善い静かな所となりました」
「アーナンダよ」
大臣は彼に失望したものの、底意なく褒められて少し気を良くした。
(殺伐と忙しいときに、この善良で正直な出家と話すのも、悪くない)
そう思った。ささくれていた心が、いつの間にか穏やかになっている。
「竹林はまこと静かな所だ。そして尊者たちはまた、禅定を好んでいられる。私は以前、ヴァイシャリーの大林の重閣講堂に世尊ゴータマを御訪ねしたことがあるが、世尊はもろもろの禅定のことをお話し下された。世尊はあらゆる禅定を讃える方であった……」
「バラモンよ」
ヴァッサカーラ大臣が懐かしげに語ったことのうちに、アーナンダは聞き逃しがたいものを見つけた。大臣は師の教えを誤って理解していた。
正さねばと、彼は急いで言葉を継ぐ。
「世尊はあらゆる禅定を讃えられたのではないのです。すなわち、貪欲、瞋恚、睡眠、悼悔、疑を含む禅定をたたえられず、欲を離れ、不善を離れて入る四つの禅定をたたえられたのです」
一方、大臣は、そろそろ切り上げるべきだと思った。礼儀として故人を偲ぶ話題を出したつもりが真面目に受け取られ、これ以上この場にいたら、説教を受けそうだった。
「まことに、世尊はあげつらうべき禅定はあげつらい、讃えるべき禅定は讃えられた。……さて、尊者よ。我らはこれでおいとまいたそう」
そして大臣たちは再び馬上の人となり、去っていった。
「思いがけぬ御人と会いましたな」
ゴーパカ・バラモンが一行を見送った後、ぽつりといった。
「ところで、アーナンダ。私が尋ねたことに、まだ答えておらぬ」
アーナンダは老いたバラモンへ微笑みかけた。
「私はすでに、世尊に等しい方はないと云うたではないか。私ども弟子はその道に従い、その道の後からついて行くもの」
自ら言葉を吐きながら、アーナンダは心の奥底で何かがはじけるような感じがし、一瞬、胸がつまった。
(そうだ、私たちは師の示された『道』をゆくのみ……)
「ははあ、そうかのう……」
ゴーパカは、腕組みをして頭を振りながら家の中へ入っていく。
そしてアーナンダも、今来た路地をあしばやに戻り始めた。その頃には夜が明けきり、街は馬車や牛、人の往来でざわめいている。
(『道』とは。世尊の説かれた『法』とは……)
聞き覚えていた師の言葉ひとつひとつが、今までと違った輝きをもってアーナンダの精神をゆるがす。
(あなたの御言葉を耳にしながら、私は真実、聞いていなかった……)
忙しげに先を往こうとする人や荷駄をよけながら街を出で、アーナンダは山へわけ入ってゆく。
托鉢で食を得る必要があったが、今はただ、禅定に入りたかった。
(そうだ。世尊、あなたは法の中に生きている……)
うしなったと思っていた大切な人の存在が、身近に感じられた。体中に歓喜が満ちてくる。
師の息吹が、いま一度耳元に蘇る。
『アーナンダよ。みなの中には私が死んだら、それで我らの師はないと思う者があるやもしれぬ。だが、それは違う。私がこれまでに教え残してきた教法と戒行とが、これからのおんみらの師であるのだ……』
やがて雨期に入る。この間、アーナンダの消息を知る者は誰もいなかった。
(やはり自らを恥じて、身を隠したか……)
マハーカーシャパは、約束の場所へやってきた四百九十九人の比丘たちを見渡して思った。
マガダ国の都ラージャグリハ(王舎城)。その郊外にヴェーバーラ(毘婆羅)という岩山がある。中腹には彼らの約した洞窟、サッタパンナグハー(七葉窟)。その入り口あたりに国王を中心とした帰依者たちの手によって建てられた真新しい堂があり、彼らはそこに集まっていた。
師から譲られた黄褐色の衣をまとったマハーカーシャパが議長の席に立った。そして、ウパーリとアーナンダを呼ぶ。
ウパーリはすぐにやってきたが、アーナンダの答えはない。
比丘たちがざわめきはじめたとき、
「遅れて申し訳ございません」
堂の脇の扉が開き、アーナンダが姿を現した。
「……ただいま参ります」
「よろしい。では、こちらへ」
マハーカーシャパが手招きし、近づいてくるアーナンダとまなざしを交わす。そのとき、この老いたる比丘はすべてを察して、微笑した。
「阿羅漢果を得られましたな」
マハーカーシャパがいうと、アーナンダは小さく頭を下げた。
(私は師より齢上、この世に在る日もそう長くない。やがて誤った法を説く者があまた現れ、これこそが世尊の説き給うた法であると、世の人々を惑わすであろうが、正法の華は散らされることなく、確実に法灯は受け継がれてゆく。……それを信じよう)
そしてマハーカーシャパが中央の座に着き、その両脇へウパーリとアーナンダが坐る。これから二人の語る内容を確認し、それを一同が合誦して五百人の比丘たちの脳裏に仏陀の教えが刻み込まれてゆくのだ。
「僧伽よ、聞きたまえ」
マハーカーシャパが声を響かせた。
「時よろしくば、長老アーナンダに、われ教法について問わん」
比丘たちは、沈黙している。それは、カーシャパの言葉への承認を意味する。
「友アーナンダよ、仏陀の最初の説法はどこで説かれたか」
アーナンダが答えた。
「友よ。わたくしは、かように聞きました」
―――エヴァム・メ・スタム(如是我聞)………






