成道――2
かくしてシッダールタは菩提樹の下で證を開いて七日の間動かず、證の楽を味わっていた。
この七日の終わりの日の初夜[夕方から夜中まで]に、人生の苦によって生ずる縁起の理を順逆に思惟した。
「無明[根本無知]に縁りて行[行為]があり、行によりて識[精神作用]がある。識によりて名色[心と物]があり、名色によりて六処[感覚機能]がある。六処によりて触[接触]があり、触によりて受[感受]がある。受によりて渇愛[欲望]があり、愛によりて取[執着]がある。取によりて有[生存]があり、有によりて生[誕生]がある。その生によりて老死、憂、悲、苦、悩、悶がある。このようにして、すべての苦のかたまり[苦蘊]が起こる。
それゆえ、無明が残りなく滅べば行がなくなり、行が滅べば識がなくなる。識が滅べば名色がなくなり、名色が滅べば六処がなくなる。六処が滅べば触がなくなり、触が滅べば受がなくなる。受が滅べば愛がなくなり、愛が滅べば取がなくなる。取が滅べば有がなくなり、有が滅べば生がなくなる。その生が滅べば老死、憂、悲、苦、悩、悶がなくなる。この全体の苦のかたまりはこのようにして滅びるのである」と。
中夜[深夜]にも後夜[夜中から朝まで]にも同様に、シッダールタはこの無明から端を発する行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死に至る十二の因縁による縁起を順逆に観じたが、続いて次のようにも思考した。
「元来、総べての法は平等である。不変の性もなく特別の相もない。本来、煩悩に染まぬ清浄なものであるから平等である。道を修めるものは、総べての法の平等であることを観じて、大悲[絶対的な慈悲]を首とし大悲を増し世間の生滅のすがたを念じて、この思をなさねばならぬ。世間に差別あるものの生ずるは『我』に貪着するからである。もし『我』に執着することを止めれば、世に差別あるものを認めぬであろう。すべては、みな平等なのである。然るにすべての凡夫は、いつも邪な念を起して、愚痴のために目をつぶし、我に貪着していろいろに行い、はては生死の身を生むことになる。即ち業を田とし、識を種子とし、無明に覆われ、愛の水をもって潤し、『我』の心をもってそそぎ、邪の見を増して、ここに名色から成る『我』を生ずる。その名色によって眼、耳、鼻、舌、身、意の六処を生じ、六処によって触が起こり、触によって受を生じ、受によって愛が起こり、愛によって取を起し、取によって有が生ずる。そして有によって生があり、その生あるによって老があり死がある。この老死のために憂、悲、苦、悩、悶が集まってくる。しかし、十二因縁には集めるものもないし、散らすものもない。ただ縁が合うて有となり、縁が散じて無となるに過ぎない。
すべては相依性にして縁ありて起こるということであり、またそれに反して、すべての計を止め、すべての所依を捨て去れば、渇愛尽き、滅し尽くして涅槃に至る……」
今、シッダールタの心は静かに澄み、世界は明らかな姿を映していた。




