序――1
大正14年発行、新約仏教聖典普及会刊『新譯佛教聖典』をもとに、教えの部分を加筆・修正・再編。歴史的な部分は、仏教学者の中村元博士の春秋社刊の選集を参考にしました。
肌を焼く陽射しの中、草木もまばらな平原にひとつの道が東西へと延びていた。
その乾いた大路を五百人ほどのひとむれの比丘[僧]たちが東の方、パーヴァー(波婆)からやってくる。やがて彼らは疲れを覚えたのか、木陰を探し、みちはたの木々の根元に分かれて座ったのだった。
正午の光は、白くまぶしい。
しかし行き先である西の彼方に目をやれば、小さな人影が蜃気楼のようにゆらめくのをマハーカーシャパ(摩訶迦葉)は見た。
近づいてくるにつれ、それは裸形のアージーヴィカ行者であるのを知った。杖を携え、手には蓮の花を持っている。
「友よ――」
悲しい予感に囚われながらも、マハーカーシャパは立ち上がり、行者に声をかけた。
「あなたは、われらの師を知っておられるか」
「まことに」
行者は歩みを止め、この痩身に粗末な糞掃衣をまとった老人へ目を向けた。
「今日から七日前、修行者ゴータマはクシナーラのまちはずれ城外、沙羅の林の雙樹の間で亡くなりました。そのため、人々は競って供養しております。この華も、そこで得たもの」
行者の言葉が終わる間もなく、比丘たちの口から悲鳴にも似たな哭き声が湧き起こった。
「われらは、間に合わなかった!」
「あまりにも早く師は……幸いな方は、お亡くなりになった。あまりにも早く世の中の眼はお隠れになってしまった」
「われらは師を失って、これからいかにすればよいのか……」
地に伏してどうこく慟哭する者たち。その中の幾人かは、
「つくられたものは無常である。どうして滅びないことがあろうか」
と、悲しみをこらえ、耐え忍んでいる。
人々の騒ぎを一瞥し、アージーヴィカ行者は無言のまま立ち去って行った。
一方、
「悩んではならぬ」
マハーカーシャパは、嘆く同朋たちへいった。
「諸行はみなつねなきもの。なんびともこれを免れることは出来ぬ。迷いの世に平安はなく、ただ涅槃だけが楽である。汝等も勉めて世の苦を離れるがよい」
「しかり。友よ、悲しむな」
そのとき、ひとりの老いた比丘が勢い良く立ち上がり、声を張り上げた。それはスダッタ(善賢)という、年を取ってから弟子となった者であった。
「これ以上、嘆くことはない。我らは今や、かの大沙門より脱することを得た。かの大沙門は常に我らを叱って、これはやってよい、あれはならぬと口やかましく、我らはほしいままに出来なかった。しかし今、我らは自らの思い通りにすることができるのだ」
老人は、晴れやかな顔つきで仲間を見回している。
(なんということだ……)
マハーカーシャパは、苦いものが体の中を降りていくのを感じた。哀しみのうちにも、それとは別の感情として肝が冷えていくようだ。
(世尊がお逝れになってわずか七日しか経たぬのに、かようなことを言い出す者がいる。これでは正法の花は、つないでない花が風に散らされると等しく、これらの人の手で乱されてしまう……)
そして、あることを思い定めた彼は、スダッタに対して厳しく云い渡した。
「今の言い様、心得違いである。スダッタよ……」
マハーカーシャパの顔は彫り深く、いかつい。さらにその上へ、これまで生きてきたあかしの皺が刻まれていたが、彼のおもてが怒りの色に染まることはなかった。
しかし、このときばかりは、長年側近くで彼を見知っている者にも初めてみるような激しい感情が渦を巻き、溢れ出ようとしていた。
「……かつて世尊がなんじ汝の高慢な供養をお受けにならなかったことを未だ恨みに思っておるのか。今の言葉は、善き人々の集まり、僧伽の和を乱すものである。なんじは老いてから御弟子となり、修行浅く、心が暗い。だからそのようにいうのであろうが、とはいえ、いかにも許しがたい」
そこで言葉を切ったマハーカーシャパは、湧き起こった怒りの感情と闘い、やがて打ち勝ったようだった。顔に、いつもの柔和な表情が戻ってきた。けれども、次に放った言葉には容赦がない。
「……スダッタよ。汝を教園より追い放つ。さあ、どこへなりともゆくがよい」
マハーカーシャパは、地平線の彼方を指差した。
「汝は、自由だ」
人けのない平原には、陽炎が揺れている。
「そのようなこと……」
予想外の反応をカーシャパから返され、あっけに取られたスダッタだが、すぐに気を取り直して弁解しようとした。しかし仲間たちの沈黙と、マハーカーシャパの断固とした態度を見て取り、悄然とその場を離れていった。
その後ろ姿を見届け、マハーカーシャパは他の弟子たちをせ急き立てる。
「早く衣と鉢を整えて、クシナーラへ行き、われらの師を拝まねばならぬ」
五百人の比丘たちはそれに従い、泣きながら走るように道を急いだ。
それより以前、クシナーラではマッラ(末羅)族の老若男女が、仏陀――目覚めたる人と、多くの人間から呼ばれたシャーキャ(釈迦)族のゴータマ(瞿曇)・シッダールタ(悉達多)のなきがら亡骸を新しい浄らかな綿で包み、それをこがね黄金のひつぎ棺にうつ遷して、美しい花々とかおり香を散らし、樂をかな奏で、たたえうたを歌って供養していた。
そして七日を経たのち、荼毘に付すため、人々は棺を担いで彼らの祠堂であるマクダバンダナ(天冠寺)へと運んだ。中庭に栴檀やその他の香薪を積み、黄金の聖棺をそこへ下ろす。
悲報を耳にし、集まってきている弟子や信者たちの嘆きの声がひときわ高まる。
樂の音、散らされる花びら――。
その中で身を清め、新しい衣をつけたマッラ族の四人の長老が薪に火をつけようとするのだが、できない。幾度、試みても炎は燃え上がらなかった。
「これはいかに。どうしたことか」
不思議に思った人々が、仏陀の弟子であり従弟でもあるアニルッダ(阿那律)へ尋ねる。
「我らの善き友、マハーカーシャパをお待ちになっておられるのだ」
老いたとはいえ、清らかな面差しは昔と少しも変わらぬ彼は、めしいた瞳を閉じたまま東の方へ顔を向けて答えた。
「尊者カーシャパが今、世尊にお別れしようとここへ来かけている。ために世尊は、火がつかないようにされているのであろう」
人々が待つ間、正午をいささか過ぎた頃に、アニルッダの言葉どおりカーシャパと比丘たちがマクダバンダナへ到着した。
「世尊――」
マハーカーシャパは流れ落ちる汗を拭いもせず中庭へ入ると、立ちすくんだ。
聖棺がすでに香薪の上にあるのを見て、さすがの彼も堪え難くなり、すすり泣いた。
(……以前、お供したときに、世尊は御衣を私のと替えて、その御衣を私につけさせ、『カーシャパよ、私の滅くなった後には、私の正法を清らかに伝えてくれ』と仰せられた。それゆえ、必ずまことの仏弟子を集めて、法と律の中に保たれている正法の真義をきめなくてはならぬ。それが私のつとめ……)
決意を新たにした彼は涙を収め、近寄っていった。そして御遺体を拝してからみたびその周囲を廻って御徳をたたえた。
このとき、薪からにわかに火が燃えいでて聖棺へと移った。
人々の口から、ため息にも似たどよめきが起こる。そして比丘たちが次々と聖棺を礼拝し、その周りを巡るうちにも炎は勢いづき、すべてを覆い尽くした。
すすり泣きの声の中、長く燃え続けた炎もやがて勢い衰え、御遺骸の肉は少しも残さず、そこにはただ白い骨のみが残っていた。
いつの間にか地には夕闇が忍び寄っている。しかし、いまだ明るい空の一角に黒雲が湧き起こり、それが時ならぬ雨を降らせて通り過ぎてゆく。すると、火葬の炎は完全に静まったのだった。
短い雨が大地を洗い、すべてが終わってしまったのを知ると、人々は師が亡くなったときよりもさらに痛ましく悲しい想いにとらわれた。
そして、マッラの人々は金の甕に遺骨を入れ、城へ帰って彼らの公会堂へそれを安置し、香をたき、華を捧げて手厚く供養したのであった。
シャーキャ族のシッダールタが亡くなったことは、すぐに他の国々へと伝わり、ゆかりある国や民は、使いの者をクシナーラへ遣わした。
先王の頃から熱心な後援者であったマガダ(摩竭陀)国、そのアジャータシャトル(阿闍世)王は、
「世尊は、私の師でいらせられる。そして王族の出身であり、私もまた王族。そのため、私は御遺骨の一部を分けてもらえる資格がある」
と、使者の大臣にいわしめた。
また、カピラヴァストウ(迦維羅城)のシャーキャ族は、
「世尊は、私たちの一族であるから、舎利を与えてほしい」
と、いい、
他にも、アッラカッパ(遮羅頗)のブリ(跋離)族、ラーマガーマ(羅摩伽摩)のコーリヤ(拘利)族、ヴェータディーパ(毘留提)のバラモン、ヴァイシャリー(毘舎離)のリッチャヴィ(離車)族、パーヴァー(波婆)のマッラ族が、それぞれ遺骨の分配を要求してきた。
それに対してクシナーラのマッラ族は、
「世尊は、我らの土地で亡くなられた。だから、我々が供養いたそうとおもうので、御遺骨の一部分たりとも与えることはできない」
と答えた。
「礼を尽くして求めているのに、だめだというのなら、武をもって要求を通すしかあるまい」
城の外で、七カ国の使者とその供の者たちが怒って云った。
「ならば」
と、クシナーラの人々も城門の内から言葉を返す。
「おんみらが兵力を用いるのなら、いつでも応えよう。少しも畏れはしない」
城壁の内と外では、荒々しい空気が流れていた。
このとき、城内にドーナ(徒蘆那)というバラモンがいた。
「誇り高きマッラの人々よ――」
彼は弓矢を取り、戦支度を始めた人達に向かって、声を張り上げた。
「もし戦を起こせば、双方ともに傷つくのは目に見えている。我らの仏陀は慈しみの人であった。かの御方が世にあられたとき、あなた方はその教えにしたごうていたのではないか? なのに何故、御遺骨のために争うというのか。まことにあなた方が世尊を供養したてまつ奉ろうと思うのならば、仏の教えにしたごうて忍ばねばならぬ。ましてや今、闘おうとしている彼らは同じく法の中の兄弟ではないか。ともに心をひとつにし、世尊のみたまを供養しまつるべき間柄。財を惜しむことのみが過ちの大きなものではない。法を惜しむこともまた罪の極みである。すべてのほどこしの中で法のほどこしが最も勝れておる。おんみらは舎利を惜しんではならぬ。よろしく相やわらいでこれをわかつがよい。これこそ世尊の御教えにもかない、汝等もまた、さちのあと善果をうることにもなるのだ」
「そうであろうか……」
ドーナの言葉を聞き、殺気だっていたマッラの人々の手が止まった。
「では知恵深きバラモンよ。汝が御遺骨を平等に分けてほしい」
一族の者たちの心が解けたのを見て、マッラの長老がいう。
それを快諾したドーナは城門から出で、各国の使者たちに会って説いた。
「汝等が兵を興す必要はもはや無くなった。この地の人達はすでに和らいでいる。汝等は宝の甕を持ってくるがよい。私がわけ与えよう」
人々は喜び、それに従った。
ドーナは七つの国とクシナーラの民に舎利を分け、自らにはそれを収めてあった金の瓶を請うた。これに遅れてやってきたピッパリ林のモーリヤ族は遺灰を持ち帰り、そのため各地に合せて十のストゥーパ(舎利塔)が造られ、まつ祀られたのだった。
「類い稀なる御方……我らの仏陀が入滅せられた今、友よ、私はかように思うのだ」
師の葬儀が世俗の人々の手によって行われた後、マハーカーシャパはマクダバンダナ(天冠寺)に集まっていた長老たちへ語りかけた。
「我らがまず為すべきこと――それは、やがて来たるであろう、非法起こりて正法衰え、非律起こりて正律衰えるとき。つまり、非法を説く者が強く、正法を説く者は弱くなり、また非律を説く者強く、正律を説く者弱くなるそのときに先んじ、教法と戒律を結集[編集]することではあるまいか」
「汝の云われることは、もっともである」
詩人として名の知られたヴァンギーサ尊者が賛同し、他の長老たちもそれぞれうなずく。
「しからば友よ、結集のために比丘たちを選択せよ」
同朋の言葉に、マハーカーシャパは答えた。
「けつじゅう結集に参ずるは正覚を得た者たち、それは――」
と、彼は次々と比丘たちの名を挙げていく。これに対して、長老たちは沈黙を以って肯定の意を表した。
そして、マハーカーシャパは四百九十八人の比丘を選び出した。
「さて、結集するにあたって法と律を最も記憶している者は――」
「律においては、長老ウパーリ(優波離)であろう」
並み居る同朋の中から、カーシャパの言葉を継ぐように声が上がった。
「まことに」
彼が満足そうに頷く。
「かの者ほどよく知り、またよく実践する比丘はおらぬ」
人々は沈黙によって賛同を示した。こうして守るべき戒[規則、シーラ]とそれをまとめた律を誦出するのはウパーリと決まった。
「では、法においては……誰にいたそうか」
マハーカーシャパが一同を見渡す。
少しの間のあと、
「若き人、アーナンダ(阿難)を」
と、声が挙がった。
「なんと」
返ってきたこの答えに、カーシャパは眉根を寄せる。
「かの者は長く世尊の侍者を勤め、一番その御教えを耳にしておるが、いまだ阿羅漢果を得ておらぬ。ために、結集に参加する資格はない」
「しかし友よ」
それまで沈黙していたアニルッダが、静かに口を開いた。
「あなたも認めるように、アーナンダほど法に詳しい者はいない。この者を除いて、正法の結集は出来ぬ」
「確かに、そうではあるが……」
マハーカーシャパは同朋たちに異存がないのを見極め、末座にいたアーナンダへ瞳を据えた。
「このような次第である。友、アーナンダよ、雨期の初めに、ヴェーバーラ(毘婆羅)へ参れ。そこで汝の記憶する御教えを他の比丘たちの聞き覚えしそれと照らし合わせ、合誦いたす。そして、長老ウパーリ……」
マハーカーシャパの痛いような視線がウパーリへと移ったとき、アーナンダは体が震えた。
「……あなたも、きっと参られよ」
ウパーリに語る言葉を上の空で聞きながら、アーナンダは重責を負った自分に戸惑った。
(その資格もないのに、私が……)
齢五十を越えたばかり。アニルッダと同じく釈迦牟尼世尊の従弟でもある彼は、ゴータマ家特有の秀麗で穏やかな容貌をしている。そのため、実際の年齢よりはるかに若く見えた。
しかし、同朋たちから『若き人』と呼ばれるのは、見かけからでなく、精神が稚く未だ覚の境地にほど遠いからであると、彼自身よく解っていた。
そして話し合いが終わると比丘たちは寺を出で、再び修行を為すために托鉢をしながら各地へと散ってゆく。
(世尊……)
野に歩き出したアーナンダは、天を仰いだ。
「……私はあなたをうしなって、いかようにしたらよいのでしょう」
強い陽射しにあふれる宙はひたすら蒼く、白い雲がひとつふたつ悠々と流れてゆくばかりだ。
しかし、胸には哀しみだけがある。
(虚しい……)
二十五年の間、侍者として常にそば近く在った。ただ師の身の回りの世話を焼き、いかに快く一日を過ごして下されるかと、そればかりを考えて生きてきた。
(だが、師は亡くなられた……)
父ほどの年齢の人に対して幼な子を気づかうように毒虫や蛇に注意し、涼しい風を送り、自分なりに守ってきたつもりだった。しかし、
(……護られていたのは、私だったな)
今更ながらそれを思い知った。迷い子のように心もとなく不安だった。
そして再び歩き出したアーナンダの足は、自然に懐かしい思い出多いマガダ国のラージャグリハ(王舎城)へと向いた。
ひたすら歩いて十日め、その都市の郊外にある竹林精舎へ着く。
街の北門近くには清らかな水を湛えた池があり、その傍らに精舎は在った。林の緑に包まれ、仏陀を慕う人々から寄進された建物が涼やかに点在している。
(すぐに御声がどこからか聞こえてきそうだ。あの物陰から御姿を現されるかのようだ……)
けれども師はいないのだと、彼は知っている。
あまたの弟子たちが集い、坐禅を行っていた精舎も今はひとけがなく、林に放し飼いにされている栗鼠の鋭い鳴き声がときおり聞こえるだけだ。
ひとしきり嗚咽をもらした後、アーナンダは木陰へいって禅定に入った。そして、師の教えを反芻する。