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再び、シャトーブリューンにて

ケガから回復したキール・デリはリックラックやザイナスと一緒にアルピニアの広場にいた。そこへオラディア公が新しい楽器と端末を持って現れる。

端末を受け取ったキール・デリは、そこに彼を追放したオーケストラの予定が組まれているのを見つけた。関係ないという彼にザイナスはオーケストラに戻れと言う。


今回最終話となります。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

 キール・デリはざわめきの真っ只中にいた。場所は去年と同じだ。ブラッキィがいるのも一緒だった。やがて人波をかき分けて、ギターケースをせおった人影が現れた。

「なんで初日から遅刻してくるんだ」

 人影はリックラックだった。いやー悪い、と彼は文句を言うキール・デリに謝った。

「単位を落としかけて追試だったんだ。すまない、キール」

「おまえ学生だったのかよ」

 去年と同じようにリックラックはキール・デリの隣に座った。ブラッキィが気がついて言う。

「おれをうさぎよばわりしたやつだな。ひさしぶりだ」

 リックラックは石畳の上をはねているブラッキィを見た。困った表情で頭をかく。

「相変わらずだな。なんだっけ、くろちゃんだっけか」

 ブラッキィが激昂したのは言うまでもない。

「くろちゃんとはなんだ。しつれいにもほどがある」

 ヴァイオリンを抱えてげらげらと笑っているキール・デリに、リックラックは助けを求めた。すっかり名前を忘れてしまっていたのである。

「なんだっけ、こいつ」

「ブラッキィだ」

 改めてリックラックはブラッキィに挨拶した。

「久しぶりだな、ブラッキィ。またよろしくな」

「それでいいんだ」

 やはりころりと機嫌を直し、ブラッキィはこう言った。そこへザイナスが楽器を下げてやってきた。後ろにはマネージャーがついてきている。キール・デリはマネージャーと簡単に挨拶を交わした。

「いや悪い。二週間休みを取ったら朝の六時まで仕事が入ってた。間に合わないと思ってスミスさんに送ってもらったよ」

 ちらっとザイナスはマネージャーを振り返った。キール・デリは思わず言ってしまった。

「ザイナス、スケジュールは大丈夫なのかよ。途中で帰ってもいいぞ」

 いや、とザイナスは言った。

「つまらない仕事をしているよりここで弾いていたほうがいい。だからスケジュールを空けて来たんだ。リック、またよろしくな」

「よろしくお願いします」

 マネージャーがなんとなく困った顔をしていることに、キール・デリは気がついた。こっそりと小声で聞く。

「スミスさん、大丈夫なのか」

 仕方ない、そうマネージャーは言った。

「ザイナスさんの唯一のわがままだ。自分も休暇が取れるからいいことにしたよ。キール君が何かしでかさなければ何事もないし」

「そういうことを言わないでくれ」

 マネージャーの唇の端がほんの少しだけ上がっていた。笑っていたようである。キール・デリはからかわれたのだった。

「もっともこの後が殺人的だが。じゃあザイナスさん、二週間後にまた迎えに来ます」

 ザイナスのマネージャーはそう言い置いて帰っていった。おのおの楽器を取り出し、セッティングにかかる。と、そこへまた誰かが現れた。今度は十六から十七くらいの数人の女の子たちである。しばらく石畳の向こう側できゃあきゃあやっていたが、そのうち意を決したようにこちらにやってきた。

「あの、去年もここにいましたよね」 

 そのうちの一人が、座って楽器を調整していたリックラックに声をかけた。キール・デリも顔を上げた。

「そうだけど」

 リックラックが答えるとその女の子はもじもじしながら彼に何かを手渡してきた。

「あの、応援してます。私たち二週間ずっと聴きにくるんで……頑張ってください」

「えっ」

 その女の子の後ろからもう一人出てきて、こちらはキール・デリにプレゼントを渡してきた。

「作ったんで食べてください。差し入れです」

 呆然としたキール・デリがきれいにラッピングされた包みを受け取ると、女の子たちはまたきゃあきゃあ言いながら逃げるように去っていった。

「今のなんだ」

「俺、路上で初めて女の子からプレゼントもらったよ」

 興奮しつつ包みを開ける二人の横で、一人ザイナスだけがつまらなそうであった。

「なんでお前らばっかりなんだ」

 キール・デリのほうにはけっこうな量のクッキーが入っていた。三人でぼりぼりクッキーをかじりつつ、無駄話をする。ブラッキィもひとつもらった。

「でも一番もらってるのってザイナスさんじゃないんですか」

 リックラックが言った。そうだよ、とキール・デリが同意する。

「ザイナスって年配の御婦人に人気なんだよな。マダムキラーだっけか」

 突然にとんでもないことを言われて、ザイナスはあせってしまった。

「キール、その言い方やめろ」

 頓着せず、キール・デリは話を続ける。

「誰だっけ、JJだっけ、そう言ったの」

 もはや興味津々といった表情のリックラックに、キール・デリは言った。

「一緒にオーケストラにいた時にさ、一人だけ毎回すげえ量の花とプレゼントをもらってくるんだよ。しかもおばちゃんばっかり。それでコンマスがそう言ったんだよ」

 この頃もうザイナスはある程度の名声があったために、その量について何か言う者はいなかった。しかし毎回毎回年上の女性ばかりとなると揶揄されるのは必然である。

「オーケストラって、どこにいたんだよ」

 リックラックは何気なく聞いた。何気なくキール・デリは答えた。

「ああ。シャトーブリューン」

 リックラックが聞き返せたのは、たっぷり十秒以上たってからであった。

「キール、今シャトーブリューンって言ったか」

「言った」 

 この時キール・デリは、ブラッキィにもう一枚クッキーをやっていた。あまり菓子をやるのはよくないので、彼はリュックを探して菜っ葉の束を見つけ出した。

「……なんでお前、流しなんかやってるんだ」

「えっ? 何?」

 キール・デリは全然話を聞いていなかったので、リックラックに聞き返した。ザイナスがうなずく。

「もっと言ってやってくれ。俺が言ったって聞きやしない」

 ブラッキィが満足そうに菜っ葉の束をかじりだした。しかしすぐかじるのをやめて後足で立ち上がる。そしてこう言った。

「きーる、かんりにんさんだ」

「かんりにんさん? 本当かよ」

 ふんふんと鼻息でブラッキィは返事をした。そしてすぐにまた菜っ葉をかじる作業に戻る。雑踏の向こう側から見たことのある、派手な金髪と青い目が見えた。

「やっと見つけたぞ、半人。広すぎだ」

 オラディア公である。やたらと大きい荷物を持っていると思ったら、なんと楽器ケースであった。他にも小さな手荷物を下げている。

「ザイナスもか。お前、忙しいんじゃねえの」

「公、久しぶりです。先日はお世話になりました」

 礼儀正しくザイナスは挨拶をした。リックラックが目をむくほどの礼儀正しさであった。

「なに、何の用だよ。城に帰ったんじゃなかったのか」

「ほんとにお前は口のきき方を知らねえんだな。なんでザイナスみたいに言えねえんだ」

 一方のキール・デリを見て、オラディア公はあきれた様子だった。

「いらねえのかよ、これ」

 彼の目の前に差し出されたのは楽器ケースである。キール・デリはあっ、と言った。

「じいさんが早く届けろってうるせえから持ってきてやった。有難く思え」

 差し出された楽器ケースを受け取ろうとキール・デリは身を乗り出した。手を伸ばし、体勢が斜めになったところでオラディア公はひょいと楽器ケースを後ろに下げた。

「ただし、条件がある」

 空をつかんでキール・デリは石畳に転びかけた。

「なんだよ」

 かろうじて頭からはいかなかったものの、ぶつけた膝が痛かった。オラディア公はそのさまを眺めて言った。

「夏に城に来い。お前が泥棒に入った地下倉庫を掃除してもらう」

 ザイナスがびっくりする。

「キール、今度は泥棒か? お前、本当になにやってるんだ」

「違う。理由があるんだ、ザイナス」

 オラディア公は横目でザイナスとキール・デリのことを見ていた。どっちもしょうがない、そんな表情でもあった。

「あとホーバーが血液バッグをくれるって言ったから、それを入れる冷蔵庫も買った。そいつの設置と荷物をしまうのを手伝え。ヘリで来るから練兵場の草刈りもだ」

「勘弁してくれよ。なんでそんなことしなきゃならないんだ」

 ほう、とオラディア公は言った。

「ならこいつはザイナスにくれてやる。お前、欲しがってたよな」

 オラディア公はザイナスに楽器を渡そうとした。ザイナスの顔が一瞬本気になる。もしザイナスに渡されたら彼の手元には戻ってはくるまい。

「ちょっと待て。それは俺のだ」

 あわててキール・デリは止めに入った。オラディア公が楽器を引っ込める。

「お前らの食料だって来るんだ。ガタガタ言うんじゃねえ」

 キール・デリはほっとした。一方のザイナスは残念そうであった。

「それからこれだ」

 オラディア公は小さな手荷物から端末をひとつ取り出した。病院で彼がいじっていたのと同じタイプのものである。こちらは素直にキール・デリに手渡した。

「楽器を届けようとセンターに連絡したらもういねえ。サーパスとホーバーもお前と連絡がつかないんで困って取り寄せたんだ。ここにいるってケンタが言うから来てみたんだが、いてよかった」

 リックラックが端末を見てびっくりする。

「キール、それサテライト機種じゃないか。なんでそんないいやつ貰えるんだよ」

 まったく、とオラディア公は言った。

「そこにスケジュールが全部入ってるから見とけ。また二ヵ月後に検査するって言ってたぞ。埋め込みカプセルの残量を見るってな」

 キール・デリはさっと画面を操作してスケジュール表を見た。いやになるほどびっしりと詰まっていた。

「俺、なんでセンターに一ヶ月もいなきゃならないんだ。こないだ精密検査したぞ」

 リックラックがまたびっくりする。どうも彼は久しぶりに会った友人に驚かされっぱなしであった。さらっと言われたシャトーブリューン・フィルのこともそうだったし、突然やってきていろんなことをしゃべる、彼の知り合いらしいこの若者もそうであった。

「精密検査って、お前どっか悪いのか」

「なんだ、教えてねえの」

 ちらっとオラディア公はリックラックのことを見た。何も知らないらしいと見て、オラディア公はこんな風に言った。

「そいつは煉瓦造りのホールで生き埋めになったんだ。よく生きてたもんだよ」

「ええっ」

 青くなったリックラックにザイナスが付け足した。

「ついでに楽器も壊した。瑚老人のヴァイオリンをな」

「そして新しいのがここにあるわけだな。じいさんにずいぶんと気に入られたもんだよ。普通は作ってくれねえぞ」

 二人がかりで言われ、キール・デリはいじけつつも言い返した。

「俺が死にかけたのはどうでもいいのかよ」

 しかし彼らの言葉は冷たい。

「どうでもいい」

「キール、自分がいけないんだろう」

 すっかりやっつけられてしまったキール・デリに、オラディア公は再びたずねた。

「で、楽器はいらねえのか」

「いる」

「じゃあ城に来い」

 どれだけひどい目にあわされるのであろうか。そう思いながら、仕方なしに彼は答えた。

「分かった」

 やっと楽器が渡された。キール・デリはさっそくケースを開け、中身を確かめる。弦を一本だけはじき、響き方をみた。ついで四本の弦を順次弾きながら調弦をしていった。さっきまでのことなど、もうすっかり忘れていた。

「こいつもたいがいバカだよな」

 オラディア公がキール・デリを見ながら言った。

「他に何にも見えてねえ。ここまでのバカはそうそういねえよ」

 調弦が終わった。ザイナスから借りた楽器をしまい、新しく渡された楽器を持って立ち上がる。周囲をすべて無視して、キール・デリは慎重に弓を動かした。ゆっくりとしたヴァイオリンの音が流れ出る。

「来る前に連絡しろ。それに連絡先が入ってるからな」

 聞いているのかどうか分からないながらも、オラディア公はそう言った。キール・デリはうなずいたので、ちゃんと話を聞いていたようだった。

「公、キールがどこへいくんですか」

「……お前もだ、ザイナス」

「え、どこです」

「ロニセラの城だ。こいつはともかく、お前は旧家の惣領息子だろうが。この間、チケットをもらってソレルに行ったが……あの格好はひどかったぞ。前ボタンは全部とまってるし、学校の制服じゃねえんだよ。そいつはそいつで礼儀を知らねえし、お前ら、なってなさ過ぎだ」

 キール・デリとザイナスは、なぜか二人まとめてオラディア公に怒られたのであった。

「ああいうものを着る時は飾りもんが必要なんだ。おやじさんとかじいさんが何か持ってねえか」

 そういえば、とザイナスは言った。

「親父の書斎に紋章の入ったバッジがいくつかあったような気がします。あれ、使うんですか」

 これだよ、とオラディア公は言った。

「少し教えてやる。そこの半人も宮廷楽士用の一式があったはずだ。出しておいてやるから持って帰れ」

 どうにも面白くなかったので、キール・デリは楽器を弾く手を止めてぶうたれた。

「俺、あんたの家来じゃないんだけど」

 しかしオラディア公からはこんな返事がかえってきたのだった。

「てめえみたいな物知らず使えるか。うぬぼれんな」

 キール・デリが彼に勝てたためしはないのである。一方のザイナスも、勝手を言うオラディア公に困ってしまった。

「あの、公。夏に休暇が取れるか分からないんですが」

「なら一週間でいい。半人と一緒に来い」

 マネージャーが不機嫌になるのが目に見えるようである。しかし今回、不機嫌になりつつも、マネージャーのスミスはしっかり自分の予定を立てていたのであった。

「調整してみます。もしかしたら三日程度しか行けないかもしれませんが、いいですか」

「それでもかまわねえよ。とりあえず来て手伝え。働きがよかったらお前らに城の楽器をいくつかくれてやってもいい」

 ザイナスの目の色が変わった。

「公、それ本当ですか」

「ああ。どうせあるだけだから好きなのを持っていっていいぞ」

「行きます。絶対行くんで待っていてください。なんでもやります」

 さっきまでとは気迫が違う。いきなり鼻息が荒くなったザイナスに、オラディア公は気圧されていた。

「なんだよ、こええよ。半人、こいつこんな奴だったか」

 ザイナスの豹変ぶりに困りつつも、キール・デリは言った。

「そいつ楽器オタクなんだよ。それもメインは古楽器。でかい部屋まるまる一つつぶしてすごい数の古楽器をしまい込んでる。使ってるのだって二百年くらい前のやつなんだ。あんたさ、もしかしてそいつになんか言わなかったか」

 オラディア公があきれ果てたのが分かった。

「ザイナスくらいまともだと思ってたんだが……お前らどっちもバカなんじゃねえか。まあいい、来たら好きなのを持っていけ」

 好き放題を言ってオラディア公は帰っていった。一日が終わった後、キール・デリはもらった端末でこれからのスケジュールを確認していたが、十一月頃のカレンダーに書かれている「シャトーブリューン・フィル定期公演会」の文字に目をとめた。

「なんだこれ」

 三週間ほど予定が組まれていた。

「関係ねえよ」

 彼がそう言ったので、ザイナスが画面を覗き込んだ。

「俺が入れた」

 思わずキール・デリはザイナスの顔を見た。

「JJにお前が見つかったと言ったら、連れてこいと言われた。お前が抜けた後、シャトーブリューンでもずっと欠員が続いている。今まではこの時期だけ俺が行っていたがもう無理だ」

「え……だって俺、追い出されたんだぞ」

 ザイナスはそこで居眠りを始めたブラッキィを見つけた。キール・デリが抱えて少し後ろの、上着の隙間にブラッキィを入れた。

「リチャードはいなくなった。シャトーブリューン・フィル中に金をばら撒いたのがばれてJJに追放された」

 リチャードとはキール・デリを告発したピアニストのことである。

「ヘンドリックのじいさんは息子に後を譲って引退した。理事長は後任のヴァイオリニストが見つからなくて四苦八苦している。戻れ、キール」

 ヘンドリックとは主宰の老人のことであった。キール・デリはズボンのポケットからプレートを出し、それをじっと見た。

「こいつはどうするんだよ」

 ザイナスは答える。

「堂々とかけて行ったらいい。お前は#5じゃなくてキール・デリなんだろう。やつらを納得させればそれでいいんだ」

 プレートをながめているキール・デリに、リックラックが後ろから声をかけた。 

「キール、聞いていいか」

「なんだ」

 キール・デリのとなりに座る。反対側にはザイナスが座っていた。リックラックはプレート表面の文字を見ながら言った。

「そこに書いてある、#5って何だ」

「これか」

「去年来た変なやつらが言ってたよな。ザイナスさんに聞いたけど知らないって言われた。でもザイナスさんは本当は知ってるんだろう」

 リックラックは反対側からザイナスの顔を見た。キール・デリはプレートの印字を見つつ答える。

「この話は長いんだよ」

 どうやって切り出そうかキール・デリは悩んだ。ザイナスは黙ってその様子を見ていた。 

「とりあえず#5って俺のことだ」

 けげんな表情のリックラックに、キール・デリは話し始めた。

「亜人種って知ってるか、リック」

 キール・デリはプレートを持ち、楽器をかたわらに話し続ける。日が暮れて空気が冷え込んできた。やがて夜になったが、キール・デリの話が終わるまで彼らはずっとそこに座っていた。


 

 挑戦的な階段をじっくりと歩いて登る。高速エレベータに飛び乗って事務局に行き、用件を伝えた。場所が告げられて彼はまた再び、あの高速エレベータに乗り込む。エレベータを降りてからはよく知っている場所だった。どこまでも続く長い通路を突っ切り、フロアの半分以上を占める練習用のホールに向かう。

 革張りの重たい扉をこじ開け、中央に向かって歩いていく。背中のリュックにはブラッキィが、右手にはケースに収められてヴァイオリンが下げられていた。いつもの格好で、いつものように歩いていく。

「おい、きーる」

 背中のブラッキィが話しかけてきた。いつになく不安そうな声だ。

「ここはきたことがない。だいじょうぶか、きーる」

 キール・デリは言う。

「なにが大丈夫なんだ」

 前方にはもう全員、オーケストラのメンバーが集まっている。見知った顔も見知らぬ顔もいる。おのおのの場所で楽器の調整をする彼らに、キール・デリは声をかける。

「よう、トニー」

 びっくりする相手にはかまわず、彼はその前を横切り、通過する。

「久しぶりだな、カイル」

 オーケストラの中にざわめきが広がる。静かな疑問の波が、彼を中心にさざめいていく。しかしそんなことには構わず、彼は目的の人物に向かって練習場を歩いていく。

「キール、お前辞めたんじゃなかったのか」

 胸元にはプレートが下がっている。どこからもよく見える位置だ。彼が歩くたびにちゃりちゃりと、そのチェーンが音を立てた。

「呼ばれた」

 堂々と彼は答える。やがて目的の人物の前についた。彼はその目上の人間に、子供っぽい粗野な言葉遣いではなく、山城で習った丁寧で優雅な言い回しで挨拶を述べた。

「お久しぶりです、JJ。いつぞやは大変お世話になりました。このたびは定期公演会に呼んでいただき、ありがとうございます」

 ざわめきがさらに大きくなった。

「立派になったな、キール君」

 コンサートマスターは彼に荷物を置いて、オーケストラのメンバーに加わるように言った。キール・デリは隅に置かれたパイプ椅子の上にリュックを置き、ブラッキィを中から出した。

「きーる、ほんとうにだいじょうぶなのか」

「どうしたんだ、ブラッキィ」

「いつもとちがう。こんなすごいところははじめてだ」

 楽器を取り出しながら、彼はいつになく不安そうなブラッキィにこう答える。

「俺はキール・デリだ。だからどこへ行っても大丈夫なんだよ」

 彼はブラッキィを安心させるように笑いかけると、楽器を持って指定された場所に向かい、歩いていった。

 

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