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オゼイユ中央病院312号室から

入院中のキール・デリの元に、リンデン氏とザイナスがそれぞれやってくる。リンデン氏はブラッキィを預かり、ザイナスはヴァイオリンを持ってやって来た。

キール・デリに会う前に、ザイナスは病室前で吸血鬼オラディア公の過去話を聞いていた。

 それからさらに二週間後、キール・デリは大量の書類を持ったリンデン氏の訪問を受けた。リンデン氏はベッドサイドに大きなトランクを置き、食事に使っている簡易テーブルを出すように言って彼にペンを渡した。

「悪いがこれに全部サインをしてくれたまえ」

 十枚以上ある書類にキール・デリは全部サインをした。曰く、権利放棄覚書だの賠償金額同意書だの振込手続き用紙だのといったものである。その中に「飼育スピリット手術同意書」があった。リンデン氏は彼にこう説明をした。

「ブラッキィ君のデータを読み出すための、チップの取り出しと埋め込み手術だ。よければ今日預かっていくが、どうするかね」

 キール・デリは了解した。リンデン氏は手術が終わって体調が落ち着いた頃に、またブラッキィを返しに来ると言った。

「データの読み出しをしたら、体調を見てすぐまた戻すことにしよう。中身はコピーを取ってそっちを見ればいい。あまり時間をかけても仕方なかろう」

 リンデン氏は十日ほどブラッキィを預かると言った。そのあとこう聞いてきた。

「不要なチップの代わりに迷子札を入れるかね。頼めばやってくれるが」

「そうするよ」

 では、と言ってリンデン氏はブラッキィを連れて帰っていった。

 しばらくして今度はザイナスが大きな荷物を持ってやってきた。今日は一人である。キール・デリはその時ベッドから起き上がって、リンデン氏が置いていったもろもろの書類を一生懸命読んでいた。

「スミスさんは?」

 彼は「飼育スピリット手術同意書」から顔を上げてザイナスに聞いた。ザイナスは難しい顔をしている。その顔のまま、彼は答えた。

「今日は休みだ」

 ザイナスはベッド横の丸椅子に座ると、持っていた荷物をベッド上の簡易テーブルに置いた。楽器ケースである。

「使え」

 キール・デリは驚いてザイナスの顔を見た。ザイナスの表情は変わらない。

「公から少し話を聞いた。最初から作り直しだからあと半年ぐらいはかかるそうだ。だから家から使えそうなのを持ってきた。それまで貸してやる」

 彼はうつむき、じっと楽器ケースを見つめた。

「いいのか」

 ザイナスはうなずいた。

「お前のやったことは正直許せない。けれど、そこまで追い詰められていたのを見抜けなかった俺も悪いんだ」

 先ほどまでの苦渋の表情は少し薄らいだようだった。

「リックと約束したんだろう。あんまりがっかりさせるなよ」

 キール・デリはおそるおそる楽器ケースのふたを開けた。中からよく手入れされたヴァイオリンと弓が出てくる。ザイナスのコレクションの一部だった。

「ラフィーネでもお前のことを待ってたぞ。お前の後が続かないんだそうだ」

「ラフィーネ? あんなところに行ったのか?」

 楽器から顔をあげ、キール・デリは言った。

「自分の勤め先に向かってあんなところとはなんだ」

 ザイナスに言われ、いや、そうだけど、と彼は答えた。

「まさかザイナスがあそこに行くとは思わなかった。いつもなら絶対近寄らない場所だろう」

 再び楽器に目を落とし、迷っているキール・デリを見ながらザイナスは言った。

「リンデンさんを探しに行った。ほかに何も手がかりがなかったからな。キール、お前の言っていることは嘘じゃなかったのが分かったよ」

 見つめてはいるが、いまだにキール・デリは楽器に触ろうとはしない。

「いらないのか」

 そう言われて、うつむきながら彼は答えた。

「俺、本当にラフィーネでホールでもやろうかと思ってた。楽器もなくしたし、音楽を何だと思ってるって言われて、本当にそうだと思った。いくら切羽詰っていたからって、あんなことはするべきじゃなかったんだ」

「ホールなんかやらせてもらえるわけがない」

 どうしてそういう結論が出るのか不思議になりながらも、ザイナスは言った。

「戻ってきたらまた弾いてもらうって言ってたぞ。公だって楽器の手配をしてくれてるんだ。そのくらい分かれよ」

 キール・デリはそっと手を伸ばし、四本の弦を触った。かすかな音を立てて弦が振動する。しかし、それ以上はためらいがあった。

「いいのか、本当に」

 全身の毛が逆立つような、あの時の感覚がよみがえってくる。どんなかすかな振動も見逃さない、どこか深いところから湧き上がってくる感覚だ。その感触に酔い、彼は楽器を武器へと変貌させたのだった。

「使わなければ持って帰る」

 病室に冷たい声が響く。

「俺は#5じゃないんだ」

 崩れ落ちるホールでの、最後の記憶を思い起こす。そのあと、自分は何と言っただろうか。

「俺はキール・デリだ」

「そうだ。他に何がある」

 ザイナスが言った。

 彼は夢中で弓と楽器をケースから取り出した。ほかのものはもう何も目に入っていなかった。楽器をひっくり返し、裏を確認する。つややかな照りが彼の目を刺した。表に返して弦を指で弾く。久しぶりの心地よい音が病室に響き渡った。

「いいのか、ザイナス。本当に」

 ふう、とザイナスはため息をついて椅子から立ち上がった。

「いいんだ。あんなことを言ったが、お前にやめられると俺が一番困る」

 キール・デリは楽器からザイナスに視線を移した。さっきとは違う、困ったような、あきれたような顔に変わっていた。

「ごめんな、ザイナス。ありがとう」

「気にするな」

 彼はまた視線を楽器に落とした。

「その代わり、絶対壊すなよ。分かったか」

「分かった」

 ザイナスはそう念を押して帰った。キール・デリはその日ずっと、ザイナスの置いていった楽器をながめて過ごした。


 ザイナスが病室に入る前に、こんな一幕があった。ザイナスは自宅から持ち出してきた楽器を持ったまま、病室の前にある長椅子に座っていた。どうにも気持ちの整理がつかなかったからである。そこへオラディア公が通りかかった。

「見舞いだろ。あいつ、起きてんぞ」

 ああ、とザイナスは中途半端に答えた。気分がいまいちなこともあったし、先日聞いた、オラディア公についての話が引っかかったからでもあった。

「お前、有名人だったんだな。俺ずっと山ん中にいたから全然知らなかったよ」

 彼は気さくに話しかけてきた。退屈なのかもしれなかった。

「なんであの半人と友達なんだよ。びっくりしたぞ」

 つい先日、同じようなことをザイナスはキール・デリに向かって言ったのを思い出した。しかも目の前にいる人間についてであった。いや、彼は人間ではないはずである。

「行かねえの」

「いや」

 またもや中途半端である。オラディア公はザイナスの前にある楽器ケースに気がついた。ザイナスは床に置いた楽器ケースをぼんやりと見ている。どうにも覇気がなかった。

「持ってきてやったのか。お前、いい奴だな」

 あまりに沈んだ様子のザイナスが気になったので、オラディア公は長椅子に並んで座った。

「あいつの楽器、作り直しだってよ。まだ半年以上かかるってじいさんに言われたよ」

 やっとザイナスは顔を上げた。

「じいさんって瑚老人のことですか」

 言葉が丁寧になったのは警戒したからである。オラディア公はどう見てもザイナスより年下にしか見えなかった。しかしキール・デリとリンデン氏の話が本当ならば、実年齢プラス五百歳以上のはずだ。ザイナスはあの日家に帰ったあと、ロニセラの吸血鬼伝説について少し調べたのである。

「そう。なんで俺が怒られなきゃならねえんだよ。俺のせいじゃねえっつうの」

 年相応の若者にしか見えなかったが、時おり不思議なほど古めかしい言い回しが混ざることに、ザイナスは気がついた。少しだったが訛りも入る。ロニセラ地方の言葉だろうとザイナスは見当をつけた。見た目はそうでもないのだが、言葉だけ聞いているとなんとも野暮ったいのである。

「あの、聞いていいですか」

「なんだよ」

 聞きたいことはたくさんあるのだが、とりあえず一番無難なものを選ぶ。

「瑚老人とどういう知り合いなんですか」

 ああ、とオラディア公は答えた。

「城に古い楽器がたくさんあるんだが、まともに修理できるのがあのじいさんしかいねえんだ。みんな変な改造をしたがって困る」

「古い楽器?」

 何があるのかとザイナスは興味を持った。

「どんなのがあるんです」

 オラディア公は著名な何人かの名工の名をあげた。ザイナスが衝撃を受けたのは言うまでもない。

「楽団があった頃に買ったんだ。少し金もあったしな。それがこないだ出てきたんだが、ほっぽらかしてあったから壊れてるし、埃だらけで使えやしねえ。で、メンテを頼んだらどいつもこいつも改造したがる」

「改造?」

 オラディア公はうなずいた。

「俺は元通りにしてくれりゃそれでいいんだが、このままじゃ音量が足りないからホールで使えねえとか抜かしてな。そのままの形での修理はあのじいさんしかやらねえんだよ」

 最近のホールは大きいので、古い楽器だと音量が足りないことも多い。たいていは音響設備で何とかするのだが、楽器そのものの改造も意外とあった。

「楽団があった頃って、いつなんですか」

 おそるおそるザイナスは聞いてみた。

「二百……二百五十年くらい前か。お前、あの時半人と話してたじゃねえか」

 なんということもなく言われてしまい、ザイナスは返事に詰まってしまった。

「えっ……はい」

 一応返事をしたもののなんとも間抜けな声である。もうやけっぱちで、あのう、とザイナスは言ってみた。

「吸血鬼って本当なんですか」

 さっきまで前の廊下を何人もの看護婦や入院患者が歩いて行っていたが、ちょうど途切れて今は無人である。それを確かめるとオラディア公はぐいっと巨大な牙をむき出しにして、ザイナスにその顔を近づけた。ザイナスが怯えたのは言うまでもない。

「助けっ……」

 悲鳴を上げそうになってザイナスはあわてて自分の口を押さえた。しばらくしてやっと動悸が収まったので、彼はそうっと隣にいるオラディア公のことを見た。気分的にはほとんど半泣きであった。

「すげえびびってやんの……面白え……」

 となりでオラディア公は笑いこけていた。キール・デリの言ったとおり本物ではあったが、まさかこんないたずらをされるとは思わなかったので、ザイナスは憮然としながら言ってしまった。

「なんてことをするんです。心臓が止まるかと思いましたよ」

 笑いながらオラディア公は言った。

「半人と二人でヘコんでるからよ。少しは気が変わったか」

 言われてザイナスは気がついた。もやもやした気分は少し吹っ切れたようであった。

「ええ、まあ」

 それでもまだ自分の中にわだかまっているものがあった。オラディア公はそれを見抜いたようであった。

「あいつが楽器を壊したのが許せないのか」

「いえ」

 ザイナスは自分が持ってきた楽器を見ながら答えた。

「楽器を使ってホールを破壊したのが許せないんです。音楽は武器じゃない」

 オラディア公が驚いた顔をした。

「そんなのできんのか」

「共振を使ったと言ってました。瑚老人の楽器と共振させたそうです」

 へえ、とオラディア公が感心する。

「あいつ、バカのくせにやるじゃん。考えつかなかったぜ」

「えっ……?」

 混乱した顔のザイナスにオラディア公は言った。

「ザイナス。お前さあ、魔物と廃人、どっちを選ぶ?」

「……何の二択ですか」

「じゃ質問を変える。生きながら切り刻まれるのと、化け物と呼ばれるのと、どっちがいい」

 あの会議室で、キール・デリは化け物にしたのは誰だと言ったのだ。ザイナスはそのことに思い当たった。

「誰だって死にたかねえよ」

 それはその通りなのだった。ザイナスも分かってはいたのである。しかし感情的に許せないのだった。ため息をつき、彼は楽器を見ながら言った。

「ところで、最初に二択は何ですか」

「あれか」

 目の前を通り過ぎる、どこかへの見舞い客を見ながらオラディア公は言った。

「あのちっぽけな国と爵位欲しさに、叔父貴は俺を隣国の変態エロジジイのところへ売りやがった。俺が二十三の時の話だ」

 ザイナスは最初、その言葉の意味が取れなかったが、隣にいるオラディア公の金髪と見事な青い目を見て気がついた。

「え、まさか……公って男ですよね」

 ザイナスの言葉にオラディア公はため息をついた。

「だから変態って言ったじゃねえかよ。ふざけんなと思ったぞ」

 その時からオラディア公の時間は止まる。隣国と共謀した身内からの計略に、爵位を継いだばかりの若い領主が取れる手段はそうそうなかった。

「どうにもならなくてリリアと手を組んだ。結果、このザマだ」

「リリアって誰です」

 オラディア公は返事をせず、長椅子から立ち上がった。

「まあいいや。つまんねえ話をしたな。お前はそういう目にあわなくてよかったよ」

 彼はそう言うとそこから立ち去っていった。ザイナスはまた、置いてある楽器をじっと見た。


 キール・デリのまわりは彼が回復するにつれて、だんだんと賑やかになっていった。その原因のひとつはいまだに山城に帰らないオラディア公であったし、体調がよくなるにつれて楽器をいじりたくてたまらなくなった、キール・デリ本人でもあった。時々やってくるザイナスも充分人目を引いたし、スタッフとしてついているルドワイヤン博士にいたっては、ホーバーの元へ他の入院患者から問い合わせが相次いだのである。

 個室をあてがわれていたものの、病室からヴァイオリンの音がするのはあまりほめられたことではない。そのたびにキール・デリはホーバーに叱られた。オラディア公は輸血バッグをほしがってホーバーを困らせたし、ルドワイヤン博士その人は物静かで問題がなかったが、なれない環境でたびたび体調を崩してやはりホーバーを困らせたのであった。

「センターに戻ります」

 キール・デリが入院して二ヶ月ほどたったある日、ホーバーは一同を集めて病室でそう宣言した。もう嫌になってしまったのであった。

「キールさんもだいぶよくなりましたし、転院しても大丈夫でしょう。それより伯爵です。もう薬のストックがありません」

 薬局からもホーバーに申し入れが来ていた。ルドワイヤン博士とキール・デリのために、ホーバーは薬局の在庫をずいぶん使ってしまったのである。請求はともかく、これ以上使用する場合は納入ケース単位ですべて引き取ってほしいと要望があった。

「病院からもそろそろ転院してほしいと言われてしまいました。緊急ということでキールさんを受け入れましたが、ある程度よくなったなら、亜人種専門の病院に行ってほしいそうです。つまりはセンターに戻れということですね」

 ここに来てからの間、ホーバーはことあるごとに病院関係者から嫌味を言われていたのであった。なぜ亜人種なぞ診るのかという言葉から始まって、ファンタジアのことやルドワイヤン博士についてなど、ずうっと言われ通しだったのである。ホーバーが今まで病院に対して怒り出さなかったのは、彼が案外に温厚であったからにすぎない。

「車の手配を取りましたので、あさっての朝十時に出発します。みなさん荷物をまとめておいて下さい。公はいかがされますか」

 スタッフみたいな顔をして混ざりこんでいたオラディア公に、ホーバーはたずねた。もっとも彼だけこの病院に置いていってしまうわけにもいかない。

「じゃあ俺、帰るよ」

 あっさりとオラディア公は言った。

「車でまっすぐ帰んだろ。俺がついてなくても大丈夫だよな」

 そう言ってちらっとルドワイヤン博士を見た。実に彼はこの病院にいる間中、ルドワイヤン博士が動けなくなるたびにホーバーのところへ運んでいたのだった。

「もう大丈夫でしょう。キールさんのこともありますから、車はセンターに横付けしますよ」

「ついたら連絡くれよ。楽器のこともあるからな」

 そうします、とホーバーは言った。ホーバーにとっての問題は、これでひとつ解決したのであった。

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