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八日目からのできごと

キール・デリは昏睡から覚めないでいた。

ルドワイヤン博士は主治医であるホーバーに対し、人体実験とも思える量の投薬を勧める。反対するホーバーに「彼は亜人種だから死ぬことはない」といい、その根拠として自分自身を使った実験結果を提示する。

そのかいあってキール・デリは八日目に昏睡から覚めたのだった。

 キール・デリが眠り続けてそろそろ一週間になろうとしていた。病室にはホーバーと、伯爵ことルドワイヤン博士が毎日のように詰めている。オラディア公のおかげで昏睡に陥っている原因は分かったのだが、手を尽くしてもどうにもうまくいかない。キール・デリの手足に二ミリほどの黒い斑点が大量に浮き出てくるのを発見した時に、二人の煩悶は頂点に達した。

「これは……」

 放置しておけば組織が細長く伸びてきて、黒っぽい昆虫の翅に変化するだろう。そのくらいの見当は二人ともついた。そしてそれ以後、内臓や骨格に変化が起きれば間違いなく彼は死ぬ。

「ホーバーさん、黒斑の組織検査を。それからスキャン室の予約をお願いします」

 ルドワイヤン博士はそう言うと、自分の持ってきた荷物から古びたノートを数冊取り出した。ページをめくり、該当する箇所を探し出す。手持ちのノートパソコンにそれを見ながら、いくつもの薬品名と数字を打ち込んでいった。最後にプリントアウトのキーを押し、印字された感熱紙のきれっぱしを破り取る。

「これでやってみましょう」

 ホーバーはその紙を受け取った。見ているうちにだんだんと表情がけわしくなっていく。

「伯爵、これは……」

 古いノートをめくりながらルドワイヤン博士は言った。

「処方をお願いします。私ではできませんから」

 しかし、とホーバーは言った。

「これは……これでは人体実験です。確かにこの量と薬品が必要かもしれませんが、うまくいってもキールさんは死にますよ。死ななくても後遺症が出るかもしれない。そんな危険な橋を渡ることはできませんよ」

 対するルドワイヤン博士の答えはこうだった。

「死にません。大丈夫です。後遺症も出ません」

 何を根拠にそう言うのかと、ホーバーが疑問に思ったのも無理はない。

「伯爵はそうお思いかもしれませんが、実際にやってみて失敗したらどうします。もしキールさんがよくなったとしても、半身不随ではしようがありませんよ。リスクが高すぎます。私には人体実験としか思えません」

「そんなことにはなりません。大丈夫です。ホーバーさん、やってください」

「私がこれをやるんですか」

「そうです」

 強情なルドワイヤン博士に、ホーバーは苛立ちを覚えた。もっともこれほど理不尽な発言を聞いたのも初めてではあった。

「この処方で大丈夫です。実証済みですから」

「どこでですか」

 いらいらとホーバーは言った。黙ってルドワイヤン博士は古いノートを一冊、ホーバーに手渡した。ホーバーはその鉛筆書きされた表紙をざっと見て、中をめくった。

「終わりのほう、数ページです」

 言われたとおりにホーバーはノートの後ろ側を見て、薬品名と数字が細かく書き込まれた表を見つけ出した。

「人造種の耐性データですか。ずいぶんとやったもんです。理論値ぎりぎりまでやってますね。これ、被験者はたまったもんじゃないですよ」

 くるりとノートをひっくり返し、表紙を再確認する。実験期間の年数と被験者の年、それに下のほうに小さく実験者の署名があった。ホーバーはそれを見てあっ、と声を上げた。

「伯爵、これはもしかして……」

 ルドワイヤン博士はうなずいた。

「私のです。ドクター・サイモンが亡くなった時に全部持ち出しました。あまりいいものじゃありませんからね」

 他にも大量の実験データが書き込まれている。ホーバーはそれをながめているうちにだんだんと苛立ちも忘れ、気分が悪くなってしまった。

「ここまでするんですか」

 ルドワイヤン博士は違うノートを見ながら言った。

「実験体とはそういうものです。まだたくさん、こういうノートが家にはありますよ。よく生き延びたものです」

 ホーバーはノートをぱたん、と閉じた。ルドワイヤン博士に返却する。

「現状のデータとしてはとても有益です。ここまで細かく人造種に実験を行っている文献はありませんから。しかし……吐き気がしそうです」

 ルドワイヤン博士はそのノートをほかのと一緒にし、病室に置かれた小さな本棚に置いた。

「もしかして使うかと思って少し持ってきました。これがあれば、ホーバーさんはだいぶ助かるんじゃないかと思いますよ」

「たしかにその通りですが……」

 見舞い客が持ってきた花を見ながら、ルドワイヤン博士は言った。

「キールさんのほうが耐性値が大きいんです。亜人種ですからね。だからその量を処方しても死ぬことはありません。それにやってもやらなくても、このままだったら彼は死ぬんです」

 しかしホーバーにも踏ん切りはつかないのだった。

「そうかもしれませんが」

 ホーバーはためらいながら言った。

「通常の実証値からも大きく外れています。ここまでやっている実験データはほかにありません。ほかで実証できていないのに、そんな無茶は私にはできません」

「ホーバーさん、キールさんで、いや#5で実証するんですよ。それがここでのあなたの仕事のはずです」

 冷酷とも言える言葉が響く。ホーバーは返事ができなかった。

「私もキールさんも実験体です。ホーバーさんが失敗しても罪には問われません。死体は墓ではなく焼却処分です。ホーバーさん、あなたがやる限り、何があっても問題にはならないんです」

「伯爵、そういうことではありませんよ」

 青ざめたホーバーに、いいえ、とルドワイヤン博士は色違いの目でまっすぐ彼を見た。

「そういうことです。だから、おやりなさいと言うんですよ。私がこの投薬をすることはできません。ホーバーさん、あなたはフリークスの技術者を補佐に使っている人間の医者なんですよ」

 ホーバーはここでの立場の違いを思い出した。そうでなければルドワイヤン博士を、このファンタジア外の病院に、スタッフとして入れることはできなかったのだ。

「そう……でしたね。亜人種の研究者としてサラティア社の実験体を処置する。そういうことでした」

 ため息をつき、ホーバーは先ほど本棚に置かれたノートを取り上げた。

「やりましょう。何もしないよりは確かにましです」

 ページをめくり、もう一度数字を確認する。ルドワイヤン博士が出してきた、印字されたプリント用紙をそれと見比べた。

「ここは変えます。もう少し副作用の弱い薬があるはずです」

 書き込みを入れて訂正をしたプリント用紙を見ながら、ホーバーは薬剤師に電話をした。電話の向こうで「間違いではないですか」と確認をする声が聞こえた。

「いいんです。それでお願いします」

 電話が切られた。ほどなくして頼んだ薬が運ばれてくる。ホーバーはルドワイヤン博士に手伝ってもらって、それを輸液に混ぜ込み点滴の管につないだ。そして一言、こう言った。

「効かなかったらどうしますか」

 ルドワイヤン博士は答えた。 

「また何か考えましょう。諦めることはありませんよ。まだ生きているのですから」

 あとは待つしかないのだった。ベッド際で青白いキール・デリの顔を見下ろしながら、ホーバーはまたため息をついた。

 

 八日目になった。キール・デリがうっすらと目を開けたときに最初に飛び込んできたのは、ものすごく近くにある、ブラッキィの真っ黒な顔だった。キール・デリの顔にふんふんと鼻息をかけながら、ブラッキィは彼のことをのぞきこんでこう言ったのだ。

「おい、きーる。いつまでねてるんだ。おきろ」

「……近すぎだ、ブラッキィ」

 真っ白い天井をバックに、黒いウサギの輪郭がはっきりと見える。病院のベッドに寝かされていることに彼は気づいた。では、自分は死ななかったのだ。顔を動かし、周囲を見渡す。左側に二本、白い点滴の管が見えた。彼は体を起こそうとしてブラッキィが胸に乗っていることに気づき、右手で少し奥へ押しやった。

 次の瞬間、とてつもない痛みが横腹を走って彼は大声を上げてしまった。病室の奥にいたホーバーが小走りでやってくる。ブラッキィがそっちを向いた。

「おこしたぞ、ほーばー」

 ホーバーが面食らった表情になる。

「起きましたね」

 そしてすぐキール・デリに声をかけた。

「キールさん、気分はどうですか」

 対するキール・デリは涙目であった。

「ブラッキィをどけてくれ。すげえ痛い」

 ああ、とホーバーは気がついてブラッキィを彼の枕横に移動した。

「そこ、肋骨が折れてますから。それにしても気がついてよかったですよ」

 ついで点滴の残量を確認し、ホーバーは病室の外へ出て行った。呼ばれてルドワイヤン博士がやってくる。

「効きましたね」

「ええ。抑制剤のほうもやっと効いてきたみたいですね。発生が止まりました」

 ルドワイヤン博士はキール・デリの着ている長袖の病院着のそでをめくった。見たことのある真っ黒な虫の翅が彼の腕に無数に生えており、彼はまたここで悲鳴を上げてしまった。

「ホーバー、これ取ってくれ。気持ち悪い」

「むしると血が出ますよ」

 その隙間からホーバーは彼に注射を一本打った。

「手足四本ともこの状態です。薬が効いてきたら自然に取れてくるはずなので、しばらく待ってください。いいですか、むしっちゃ駄目ですよ」

 キール・デリはげんなりする。

「しばらくって、どのくらいだ」

 うーん、とホーバーは答えた。

「おそらく一週間くらいですかね。なにしろ一から十まで初めての現象なので、私もはっきりしたことが言えないんです。でも骨折と打撲もひどいですから、そちらのほうが治るのに時間がかかると思いますよ」

 ホーバーの言うとおり、少し体を動かすと全身が痛んだ。ブラッキィの毛皮が間近に見える。彼はそれを見ながら、ホーバーとルドワイヤン博士に言った。

「俺、死ななかったんだな」

 即座にホーバーが答える。

「死なれたら困りますよ。どれだけ苦労したと思ってます」

「……そうか」

 キール・デリはそう言った。そしてまた眠ってしまった。


 次に目覚めた時には、ザイナスが病室にいた。彼が起きたのを見て、ザイナスは開口一番にこう言った。

「今度は何をした、キール」

 まだ痛むが、それでもなんとか上半身を起こすことはできた。ブラッキィは足のほうで毛布の上を跳ね回っていた。

「音楽ホール潰した」

「どうやって」

「じいさんの楽器を使って共振させた。できるかどうかは分からなかったけど」

 ふう、とザイナスは病室の丸椅子に座ったまま言った。

「そんなことにあの楽器を使ったのか。もうやめちまえ。音楽を何だと思ってる」

 キール・デリはあ、と言って、ザイナスの顔を見て悄然とうなだれた。コンコン、と病室のドアがノックされて、ザイナスのマネージャーが顔を出す。

「ザイナスさん、そろそろ行かないと間に合いません」

「分かった。今行く」

 ザイナスは立ち上がった。キール・デリはそれを見送り、またベッドに横になった。


 だいぶ回復してきて、一日数時間はベッドから起き上がれるようになった。しかし歩き回れるようになるのはまだまだだ。そんな時期にキール・デリはオラディア公と会った。

「なに、お前生きてたの」

 彼は思わず叫びだしそうになってしまったが、なんとか黙っていることができた。

「なんであんたがここにいるんだよ」

 オラディア公はずかずかと病室に入り込み、ベッドサイドまで来た。勝手に丸椅子に座る。

「においが収まったな。だから生きてんのか」 

「何の話だ」

 今日は機嫌がいいらしい。あの物騒極まりない、豪華な長剣もなかったので彼はほっとした。

「お前さあ」

 しかしキール・デリはちらっとではあるが、間近であの牙を見てしまった。背筋が寒くなりながらも、彼は毛布に丸まっておとなしくその場で話を聞いていた。動けなかったせいもある。

「俺、ホーバーとサーパスには悪いけど、絶対にダメだと思ってたんだよな」

 思わず彼はオラディア公の顔をまじまじと見た。相変わらず牙も見えていたが、気にしている余裕はなかった。

「微かだったが死臭もしてたからな。生きてるのを見てびっくりしたぞ」

 話を聞いているキール・デリの毛布の隙間からブラッキィが出てくる。んん、と来客を見上げて言った。

「かんりにんさんじゃないか」

 オラディア公が目を丸くする。

「このバカウサギ、まだいたのかよ」

「ばかとはなんだ」

 ぶーぶーと鼻を鳴らしてブラッキィは抗議したが、相変わらずの扱いである。

「うるせえな、本当に」

「おれにあやまれ」

「やかましい。ウサギはウサギだ」

 キール・デリは少し落ち着きを取り戻したので、彼にこう聞いてみたが無駄であった。

「それで、何しに来たんだよ」

「ちっと待ってろ。このバカウサギ、どついてやる」

 そこへオラディア公を探し回っていたルドワイヤン博士が、彼がキール・デリの病室にいるのを見つけて中に入ってきた。

「公、端末はどうされます」

「あっ、そうだ」

 オラディア公はブラッキィをかまうのをやめて、ルドワイヤン博士のほうを向いた。どういう組み合わせなのかキール・デリには分かりかねたが、どうやらオラディア公がルドワイヤン博士に頼みごとをしたようだった。ルドワイヤン博士は電源の入っていない通信端末を渡し、ここがこうで、と説明をしている。

「初期設定で通信が必要なので、ここではなくてドクタールームに行きましょう。充電もしなくてはいけませんし」

「入力もすんのか。けっこう面倒だな」

 もうブラッキィのことなど放ったらかしだ。端末に夢中になっているオラディア公に、ルドワイヤン博士は作業手順を丁寧に説明していた。

「そうそう。お前の楽器な、じいさんのところに預けてあるからな。墓に供えるつもりだったが、生きてるから祝いだ」

 オラディア公が思い出したように言った。

「じいさんカンカンだったぞ。直すとは言ってたが。俺の顔をつぶすんじゃねえよ」

 またもやキール・デリはうなだれてしまった。その様子にオラディア公のほうがびっくりする。少しあわてたようだった。

「そんなにヘコむなよ。直してくれるって言うんだからいいじゃねえか、なあ」

 ルドワイヤン博士が声をかける。

「公、もう行きましょう。キールさんもまだまだですから、休ませてあげないと」

「そうだな。邪魔をした」

 端末を持ったまま、オラディア公は丸椅子から立ち上がった。おかしな組み合わせの二人を見送った後、ブラッキィが言った。

「きーる、あれはかんりにんさんの1と2なのか」

「どういう意味なんだよ」

「しんせつなのが1でそうじゃないのが2だ」

 相変わらずよく分からなかったが、横にいるブラッキィの体温は暖かかった。キール・デリは毛布にもぐりこみ、ブラッキィを抱えてまた眠った。

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