紅い実
物狂おしい夢から醒めると、世界はまだぼんやりとした闇に包まれていたが、夜明け前の凶々しい陰気な光が、既に秘めやかに息衝く大気をひっそりと満たし始めていた。頭の内部で消え去ろうとしている夢の断片が切れ切れに忙しなく瞬き、私は捕まえたそれらを長期のエピソード記憶に保存すべく混乱した半意識の中で手当たり次第にその内容を憶えようとしたが、丸太ん棒で海の水を掬って行く様なもので、気が付いた端から順番などお構い無しにそれらは忘れられ、意識の泥の底の奥へと潜り込んで行った。あの毒々しい奇怪な海原、あの有害で濃密な大気、あの悍ましい変容………それらは言葉や概念やイメージとして定着する前にどんどんと流れ去って行ってしまい、何れ私は、自分が何にあれだけ恐怖していたのか全く知らない、と云う異常事態に怯えなければならなくなるのではないかと云う危機感と、やはりどう足掻いてもそうなってしまうだろうと云う諦めが混在し、乱気流を成して荒れ狂ったが、それもやがて冷たい北風に蝋燭の火が吹き煽られ、その内に掻き消されてしまう様に、覚醒して行く意識の中で見る見る内に希薄になって行ってしまった。そうして記憶から逃れ去って行くものの中には、何か呪言めいた酷く古々しい一群が混じっていた様な気もしたが、それが決して忘れてしまってはいけないものなのか、それとも寧ろ私の記憶の底の底に烙印の様に深く深く刻み付けられているもので、単に先刻まで浮上していたものがまた元の場所に還って行こうとしているだけなのか、その判別は遂に出来なかった。
悪夢の残滓は黯黒の雲と成って頭上の死角から重く伸し掛かり、ぶすぶすと蟠っていたが、五感が外界に慣れて来るに連れ、先程から全身を覆っていた不快感が、大量の寝汗に因るものであると判って来た。酷く嫌らしい感触が私の肉体にへばり付いた皮膚を浮き上がらせ、私の境界面をなぞって不恰好な形を作り上げて行った。気懈く重い疲労の為に未発に終わってしまった溜息を鼻孔の奥でもごもごと動かしていると、淡い吐き気の様なものが、それでいて胸の辺りがすっかりからっぽのがらんどうになってしまったかの様な奇妙な感覚が、何処からともなく迫り上がって来た。私は濁った奔流となって押し寄せ溢れ返る嫌悪感にどっぷりと身を浸し、それが早く流れ去ってくれることを朦朧とした頭で希い乍ら、まだ再生可能な記憶の中に残っている、私が確かに経験した筈のことどもについて粗っぽく次々と思い巡らせた。悍ましく忌わしいものに触れた、或いは近付いた、目撃したと云う世にも穢らわしい感覚はまだ豊穣に残っていた。だが、全てに濾過していない糖蜜の様な濃密な不透明感が分厚く覆い被さり、描き立ての絵画の上にどろりとした油を注ぎ掛けでもしたかの様に、すっかりぐちゃぐちゃの台無しにしてしまっていて、何も判らなくなっていた。忘れ去られていたもの、見られていなかったものが、一度は復権を果たし、或いはその寸前のところまで行ったこと自体は判ってはいたが、ではその実一体何がそこで起きたのかと云う段階になると、途端に何もかもがあやふやになって、関係者全員が固く口を閉ざしてしまう根の深い陰謀事件の様に、強引に闇の底へ沈み込ませようとする巨大な力が働くのだった。私は、私が見た、或いは私の傲岸さが私に見たと思い込ませた内奥の深秘の化身の姿を、せめてひとかけなりとも思い出し、心に留めようと思ったが、努力は全て無駄だった。〈原理〉の謎を解く鍵と思われたものは今度も私の手からするりと抜け出し、追及を躱して、広大な未知の森の中へと逃げ込んでしまっていた。ふらつく頭を抱えて焦り、足掻いている内にも、時間は無情にも流れ去って行ってしまい、疲労感は徒労感を増大させ、空しさだけが募った。
水分を吸ってじっとりと重くなったタオルケットの上に座り込んで暫く凝っとしていたが、気分は一向に晴れなかった。空け掛けの空は明け掛けの儘ぱったりと変化を止めてしまったかの様に延々と薄暗い明るさを保ち続け、時間の発条が切れてしまって動かなくなってしまったかの様な光景が何時間も、何年も、何世紀も続いた。緩やかな崩壊が気の遠くなる様な陰微な風化作用を受けて始まり、幾つもの都市が、文明が、島宇宙が、興っては滅びて行った。神経叢同士の生殖活動によって生み落とされた無数の光芒が、或るものは数十年、或るものは一秒の数十分の一の期間、微妙な陰影を伴い、数多の変容を繰り返し乍ら瞬き、燃え、そして消えて行った。一度失われてしまえば最早二度と回復することの叶わない形を結んだ関係性達が、或るものは老衰の果てに四散し、或るものはまだ胎児の内に殺され、バラバラに分解され、また新たなる形を結ぶべくその質料として各地へ散らばって行ったが、それを目撃し証言する者、そしてそれを記憶する者と云えば、探し当てようとしても空しく、作り上げようとしても愚かなだけだった。私は、我々は、死につつあった。死に行くことを自覚していた。だがそこに注がれまたはそこから注がれる眼差しは何処迄も冷え切って、乾き切って、その焦点は余りにも遠くに結ばれていた。
死産となった夥しい数の眼差しの残骸が様々に交叉し、有り得たかも知れない時空間の残響を陰鬱な調子で響かせ合ったが、その幾つもの断絶によって隔てられた遙か背後に、更に莫大な可能性をみすみす時間も空間も生まれてはいない虚無の中に散らしてしまった無数の宇宙が控えていることを、私は常に気に懸けていた。ところが未だその余韻が微かな震動を収め切れていないでいると云うのに、私の脳裏からは既にほんの一片の星雲も、身を引き裂く様な生への意志も、葛藤と冷笑すらも姿を消しており、息詰まる窮屈な胸を塞いでいる空無は、一切を包み込む肯定の声などではなく、単に重苦しいだけの空ろな欠如に過ぎなかった。後悔にすら成らぬ激しい空虚感に苛まれて、私は身じろぎひとつせずに項垂れていることしか出来なかった。
と、舌の上に何か異和感があるのに気が付いた。乾いた口内の感覚が半ば麻痺してしまっていたので、場所を特定するのに、私は舌を何度もくるくると動かしてみねばならなかった。小さく硬い感触があり、舌の先にはっきりそれと判る丸い形が認められた。私は何度か試行錯誤した後、その形を舌の上に載せ、そっと外に出してみた。それは直径二ミリにも満たない、小粒の木の実を思わせる真紅の球体で、薄暗い部屋の中でも表面に極く微かにつややかな光沢が浮かんでいるのが見て取れた。私はそれがあの悪夢の精髄で、まだ何処かに隠れて残っていたものが真球の様に凝り固まったものだと、何故か直観した。それが今夜、私が私である限りに於て私が得た唯一の記憶の結晶なのだった。だが私はその中身がどんなものだったのか、幾ら頭を振ってみても思い出せなかった。