みちのくラーメン わらべうた
ぶった切ったような怒号で目を覚ました。激しい雨に水たまりを踏むびしゃびしゃいう音が混じって、深夜の路地は冷たく沸き立ちかけている。3人、4人……私は布団の中で人数を数えた。喧嘩か? どうでもいい。続く怒声。溜息が出る。仰向けに見上げると、カーテンのない窓に稲妻のような雨垂れが走っていて、都会の埃を吸った水は、外灯の光に白く脈々と輝いていた。そこに一瞬、烏の翼のような黒い影がよぎった。
喧噪が消えた。
私は布団から起き上がると、そっと窓から外を窺った。浴びせかけるような雨に打たれて、泥の上に二人の男が横たわっている。地面はあばたのような水たまりを作り、古い魚のように平たく弛緩した二人の人間を、いまにも呑み込まんばかりだ。白熱灯の光が、いかにも弱々しくこの光景を覆っていた。男らの衣類が雨粒を受けて、餌を求める下等生物の体のように震えているのが見て取れた。
ふと私は手前の男のさらに手前、雨滴に沸く水たまりの上で、一枚の紙片が水すましのように回転しているのに気がついた。
私は遠目にもそれがなんであるか、すぐにわかった。
「みちのくラーメン わらべうた」のサービスチケットだ。
暗い暗い水の中を泳いでいる。頭上につけた水中ライトの光だけが、この闇を照らす唯一の手がかりだ。褪せた桃色の珊瑚をかき分け、私はある構造物に辿り着く。フジツボだらけの鉄板……沈船の、一部だ。
私はバールを取り出すと、ハッチにとりついてこじ開けにかかる。堅牢なハッチも既に腐食し、私が体重をかけると、周囲の壁もろともぐらぐらと揺れた。頃合いをみて足で押すと、ハッチは内側にぼこりとへこんで、そのまま中へと落っこちてゆく。ひと呼吸おいて、暗闇の奥から無数のごみが舞い上がってきた。私は気にせず、中へ入る。
そこは死者の雑居房だ。肉が落ち、骨だけとなった難破者の死骸が、ばらばらになって折り重なっている。5人、6人、いや……。数えてなんになるだろう。人の形をとどめているものは希だ。水中ライトの光を受けて、虚ろな髑髏は眩しそうに目をそらした。小さな魚が壁に沿って銀鱗を閃かせている。私は脆い床を踏んで、船室の奥のドアに進もうとした。そのとき、ひときわ大きな魚が私の目の前を横切った。いや……。
それは、床から舞い上がったごみの一枚、何かの樹脂でできたポイントカードだった。
もちろん「みちのくラーメン わらべうた」のカードだ。
私は建物の上のほうから、灰色の街路を見下ろしている。汚いガラス越しに見える町並みは暗く翳って、いまにも大雨が落ちてきそうな気配だった。道にはもう人っ子一人いない。
左手のほうに、一区画を占める竹藪がある。そこに二匹の犬がいるのに気がついた。犬たちはしきりに藪に潜っては、また現れてを繰り返している。あそこに何かあるのだろうか。すると、二頭の犬が急にぴんと耳を立てた。
街路の右手から中年の女性が歩いてくる。どこかからの帰りだろうか、太り気味の体に、ブルーチーズのようなワンピースが華やかな色を添えている。片手に黒いハンドバッグ、もう一方の手には大きな紙袋を抱えていた。
女性がちょうど正面に来たとき、にわかに犬どもが藪から走り出た。女性は少し驚いた様子だったが、犬が横を駆け抜けられるよう、すいと動いて道を空けた。だが、犬たちは女性の前で足を止めると、つま先立ちに跳ねながら、激しく相手に吠えかかった。
女性はハンドバッグを振り回すと、半身に警戒しながらその場を立ち去ろうとした。ところが、振り回したハンドバッグに犬の一頭が噛みついた。女性は何か叫び声を上げ、紙袋を取り落として、両手でハンドバッグの紐を掴む。革紐がぴいんと伸びて、腰の引けた女性と腰を落とした犬との間に、二本の平行線を描いた。
この隙を見逃さず、もう一頭の犬が、女性のふくらはぎに喰いついた。女性はハンドバッグの紐を放し、犬の頭を殴ろうとする。だが、目をむいた犬はその一撃に耐えた。ハンドバッグを奪った犬はすかさずそれを地面に落とし、今度は中腰になった女性の肘に食らいつく。そのまま顎の力で中肉の腕にぶら下がった。パニックに陥った女性が悲鳴を上げる。
助けなければ! 私は窓辺を離れて、階段を探した。そこはかつて自分の通った小学校だった。私もいつの間にか小学生に戻っていた。階段を駆け下りると、踊り場の窓から犬に襲われる女性の姿が見えた。
下の階に駆け下りるとき、女性はまだ両足で立って、必死に犬らを振り払おうとしていた。
その下の階に駆け下りるとき、女性は膝をついていた。ふくらはぎに喰いついていた犬は、顎の位置を喉笛に変えていた。
その下は一階だった。ここからはもう女性の姿は見えない。私は校舎の前庭に駆け出そうとして躊躇した。校門を出たとき自分一人ならば、今度は私が襲われるかもしれない。
だが、校舎の反対側から、大人の男が何人か、校門に向かって駆けてゆくのが見えた。私はそのあとに続いた。
路上に倒れた女性の周りには、まっ黒い血だまりができていた。投げ出された紙袋から、なにか四角い紙包みが飛び出している。男たちが近づくと犬は犠牲者を離れ、耳を伏せて激しい唸り声を上げた。だが、果然怯まない男らを見て、犬はもときた竹藪の方に退散していった。大人たちが何か叫んでいる。私はその全てを戦慄して見ていた。と、黒いハンドバッグの口が開いて、血溜まりの上に何かを吐き出しているのが見えた。その大きさと形から、私はそれが何であるのか、すぐに分かった。
「みちのくラーメン わらべうた」の割引券である。
私は目を覚ました。店の中は静まりかえっている。スープを煮込む古ぼけたヒーターだけが、ときおりカタカタと小さな音を立てていた。私は伸びをした。
カウンターの上に、からになったドンブリが置いてある。スープは半分残してあった。そういえば、さっきまでここに客がいたのだ。あたりを見回しても、代金を置いていった様子はなかった。私が寝込んだのをいいことに、またもや食い逃げされたのだ。
外は雨だった。昭和の頃から使っている古い暖簾はくすんだように黒ずんで、店の前に雑巾を垂らしたようになっている。23時を回っていた。今日はもう店じまいでいいだろう。私はぐしょぐしょの暖簾を店内に入れると、それを乾かすためにテーブルの上に広げた。もう何が書いてあるのか全然分からない。
私はスープにガラを足し、水を加えると、加熱器の温度つまみを80度に調整した。スープは24時間煮込み続けるのである。洗い物を終えて、くしゃくしゃになったキャスターの箱から一本取りだす。備え付けのマッチで火をつけた。煙はやがて店の隅々にまで広がって、ヤニに汚れた壁に新しい薄膜を作るだろう。
不意に電話が鳴った。
「はい」
「あ。わらべうたさんですか? 出前をお願いしたいんですが」
まただ。まただ。うちにかかってくる電話のほとんどは、この電話なのだ。
「違いますよ。番号をお間違えじゃありませんか?」
そういって、有無を言わさず電話を切る。二、三度続けてかかってくることもあるが、二回取ることは絶対にしない。無駄なことだから。
「わらべうた」は、近所にあるらしいライバル店である。らしいというのは、正確な場所を私も知らないからだ。もっとも、何度か見たことはある。この界隈は路地が複雑に入り組んでいて、壁の向こうが一体どんな区画になっているのか、一向に分からない古い土地なのだ。こんなところにあるラーメン店なのだから、客が混同するのも無理はない。
――いちど、行ってみたらどうだろう。ふと、そんなことを思った。
うちは定休日のない店だ。休んだところですることもないから、とにかく店は開くことにしている。客はあまりやってこない。固定客に至っては一人もいない。どうして暮らしていけるのか自分でも不思議だが、ともかくもどうにかなっているのである。ここで一日休んだところで、どうということはないだろう。
そうだ。明日、いってみよう。その「みちのくラーメン わらべうた」に。
翌日の昼前に、私は店を出た。記憶を頼りに狭い路地を徘徊する。だが店は見つからなかった。やがて私は交番の前に出た。そこで警杖を突いた若い警官に道を尋ねることにする。
その店は、私の店と同じ区画にあるようだった。壁を接しているかもしれないほど近くだ。だが驚くほどのことでもない。こういう土地では、実際にどのような建物と軒を交えているか、把握することすら難しいものだ。
やがて、それと思しき店の前に出た。暖簾は黒ずんで、なんと書いてあるか判読できない。昼時だというのに店内は暗かった。私は入り口の取っ手に手を掛けた。が、それはガタガタ揺れるだけで開かなかった。休業日なのだ。
暖簾を下ろしたまま、本日休業しますの告知もしないで休んでいるのか。おまけに定休日なども書いていない。私は怒りを覚えた。この数十分をどうしてくれる。この間にも、私の店には新しい客が来ていたかもしれないのに。
私は汚れきった店のガラスを透かして、そっと中をのぞき込んだ。
カウンターの上に、だらしなくタバコの箱が放り出してあった。
店に帰ると、ドアの前に置いている絨毯が丸まっていて、誰か留守中の訪問者が踏んだのだと知れた。客だったかもしれない。残念なことだ。私は「みちのくラーメン わらべうた」の主人に対し、深い憤りを感じた。
その日、ほかに客は来なかった。ふと気づけば、スープに足すガラが切れている。前回注文したのはいつだったろう。私は記憶を辿ろうとした。何も思い出せない。やがて頭痛を感じはじめた。いつもこうだ。いつもこうなのだ。
いらついた私はスープ鍋のふたを開けると、しゃもじで荒っぽく掻き回し始めた。白く不透明なスープの底で、重い骨の堆積がしゃもじに絡みついた。
私はいらついている自分にいらついた。少し落ち着こうとして、軽く鼻歌を歌い出す。それは名前も忘れた古いメロディ、わが古里のわらべうただ。歌にあわせてしゃもじを回す。
重い鍋がごとごとと揺れ、下手くそな私の歌に、あくまでも不規則に唱和した……。