2章 審問会(5)
「今日、この場にお集まりの皆様方はこの審問会の証人となります。もし、異論があれば今この時に限り、発言を許可します。よろしいですか?」
その場にいる者たちに異論などなかった。これはあくまで形式的な問いかけであり、ここから下された罰が覆ることはないと皆知っていた。
クラウスは隠れるようにそっと視線を下に向けた。やはり、彼女に対して特別な衝動は起こらなかった。話しかけたいとも、不憫だから助けたいとも、今ある立場を脱ぎ捨てるほどの興味は生まれない。それが真っ当で常識的な態度であると彼は合理的に判断することが出来る大人に成長していた。
身体も精神も、彼女と出会った頃とは大きく様変わりしたのであった。
だから、静寂を破る突発的な騒音に、内に向いたクラウスの思考は現実へと引き戻される。
「おっと、これは失礼いたしました」
隣にいた男は、審問会にそぐわないにやついた微笑を浮かべ、床に転がっている自らの杖を拾い上げる。
悪戯が成功した悪ガキのように、レオンは悪びれることなくその場の視線を一身に集めた。
彼は大胆にも被っていたハットを取ると役者のように深々とお辞儀をして見せ、下卑た声で不敵に笑った。
「…………クラウス?」
そして、その視線の中には当然、罪人の物も含まれている。
アイビスは初めてそこに旧知の者がいることを認め、驚きに目を見開き声を漏らした。そして、何を感じてそうなったかは定かではないが、顔を赤らめ目頭からじわりと涙をにじませた。
幼き日に聞いた母の子守歌のようなその呼びかけに、クラウスはふと普段通りの笑みをこぼす。それは彼が娼婦たちに向ける主人としての微笑みであり、父が子に向けるような慈しみを含んだものであった。
クラウスは一歩を踏み出す。
境界線となっている柵に手をかけるとそれを容易く払いのけ、ある種の聖域と呼ばれる審問会の場に一人で踏み込んだ。好奇の視線が彼の全身に突き刺さる。けれども、彼は臆することはなく堂々とした態度でそれを受け止めた。
その場は、彼が思っていた以上に寒々と感じられた。アイビスはその場でただ一人立ち、詰問を受けていたと考えると、彼は今更ながらに自分が薄情者に思えた。
だからこそ、精いっぱいの親しみを込めて、彼女に親愛の笑みを向ける。
「久しぶりですね、アイビス」
「…………ええ」
「このような場で、再びまみえることになるとは思いませんでしたよ。こんなことなら社交場にもっと顔を出すべきですね」
クラウスがそう話しかけると彼女はいたたまれなくなったのか、ふと目を伏せた。
そして、呼応するように騎士たちはクラウスを近づけまいと彼女を守るように取り囲む。それは見ようによっては、一国の姫君を守る騎士のようにクラウスには感じられた。彼は腰の剣を抜こうと手をかけた騎士たちに向かって手を上げて制止させ、この中で一番偉い人物の方へ向き首を垂れた。
審問会の議長を務める貴族は、険しい目つきをクラウスに向けていた。
「どうした騎士たちよ、すぐさまこの者を捕らえて牢へ連れて行かないか」
「議長、ご無礼を承知で発言を許させていただきたい」
クラウスは通りのいい声ではっきりと発言した。
「それは許可できない。すでに貴殿は侵入者だ。発言はおろか審問会に土足で踏み込むことは何人たりとも許されていない」
「いいえ、発言もこの場にいることも、議長自ら許可を出されたではありませんか。異論がある場合に限りますけれど」
クラウスは世間話をするかのようにそう返した。
けれど、観客からすればそれはずいぶんと挑戦的な言葉であり、議長から見れば充分に挑発的な物言いに聞こえたのも無理ない物であった。
「貴殿、若い貴族のようだが理解が足らないようだな。いまこの場では私の発言こそが絶対なのだ。もうすでに若気の至りでは済まされない」
議長の男は威圧的に木槌を打ち据える。その音に目が覚めたかのように騎士たちは応じると、今度こそ侵入者を排除しようと取り囲んだ。
しかし、クラウスはその場に立ったまま、手に持った杖で床を強打する。
議長の木槌とはまた異なる、主導権を得るための一手としてそれはまた強烈な音であった。
「若輩者だと思って奢るのはもうよいでしょう。あなたがこの場で絶対の発言力を持っていたとしても、この国ではまた別のお話です」
「貴殿、それはどういう意味だ。私を愚弄しているのか?」
「いいえ、私が先に名乗っておくべきだったというだけのことです。私の名前は、クラウス・ウィリアム・エンブリー侯爵。今更になって恐縮ですが、ここにいるアイビスの後見人に立候補したく参上いたしました。以後、そう便宜を図っていただけると存じます」
彼は柔和な笑みをアイビスに向けた。彼女にとってそれは、紛れもなく立派な貴族として成長した男の姿であった。