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2章 審問会(3)

 それは、まだ彼の父カインが生きていた頃の記憶。

 声変わりを終えたばかりの病弱な彼は、宵闇の中、自らのベッドで重たい咳を吐いていた。

 幼少からの持病が悪化し始めたのは、数年前に母が死んでからであった。

 父カインは忌々し気に、息子に病が乗り移ったとこぼした。

 クラウスにとってカインは尊敬できる父親ではなかった。傲慢で、短気で、酒を飲まなくても器量の狭い。些細なことで感情が昂るとしばらくそれが続き、目下の者に当たり散らし、他者を蔑むことを何よりの楽しみにしていた。

 そして、所有物である娼婦たちに対し、家畜に向けるような彼の冷たい態度は、クラウスが最も嫌悪する物であった。


 クラウスは毎晩ベッドで本を読みながら、自分はあとどれくらい生きられるのだろうと考えていた。

 暖炉で燃える炎を眺めながら、久しく会っていない友人や、死んだ母親の顔を思い浮かべ、外の世界のことを空想した。聖王国の街並みや、城壁の外の世界、あるいは新しく出来た外国へと続く街道などを思い描き、健康な姿で馬を走らせることを夢見た。

 そんな彼の静かな時間を破るのは、決まってカインであった。

 その日の晩も、父親はノックも無しに部屋に入ってくると、酒気を帯びた赤ら顔をクラウスに見せる。変わらない日常の中、どうでもいい愚痴を一方的に話すカインは、飽きると決まって暖炉の前の椅子に腰かけ、酒を煽るかいびきをたてる。

 けれど、その晩は顔を赤らめておらず、また一人ではなく少女を連れていた。

 クラウスは読んでいた本を閉じ、怪訝そうな顔を父親に向ける。

 カインは普段にはない無感情な声で「しばらくこの女がお前の面倒を見る」とだけ答えると、暖炉前のいつもの席へ腰を下ろし、やすりで爪の手入れを始めた。

 説明を求めるようにクラウスは眼前の少女へ視線を向ける。すると彼女は眼を逸らしながら静々とした態度で礼をした。


「あなたの侍女をさせていただく、アイビスと言います。どうぞよろしくお願いします」


 彼女は田舎訛りを微かに残しながらそう挨拶し、ベッドに脚をかけるとそのまま乗り上げてきた。その姿は侍女がする服装にしてはあまりにも薄着で、微かに花のような甘い香りが彼のベッドへ漂ってきた。

 クラウスはその近さに思わず身構え、不安な顔で父親の方へ視線を向ける。

 そして、自分よりも少しばかり年上に見えたアイビスは、その時初めて怯えた彼と視線を合わせ、鬱屈として、されど好奇に満ち満ちた笑みを浮かべた。

 その日から父カインが来るときは、必ずアイビスをともなってくるようになった。

 彼女は毎晩、違う花の香りを振りまきながら、ベッドに上がると鬱屈した笑みを浮かべた。

 しかし、彼女は献身的にクラウスに尽くし、侍女としての仕事をそつなくこなした。彼の

身体を拭き、夜食の用意や身の回りの掃除をし、話し相手として寄り添った。

 クラウスはそんな彼女と次第に打ち解けていき、そしてまた、彼女も態度を軟化させる。

やがて、親密になった二人はカインの目を避けるように天蓋から垂れるレースを下ろし、手を握れるほどの近さで肩を寄せ合い、囁くような小声で言葉を交わした。

 暖かなアイビスの手の感触はクラウスが病床に伏せていることを忘れさせ、彼の慰みだった空想を頭の中から綺麗さっぱりと追い出すのは当然の結果であった。


 そして。彼自身が自らの恋と情欲を芽生えさせ始めたある日。

 アイビスは父カインに付き従わず、単身で彼の部屋を訪れた。

 赤々と燃える暖炉の火を見つめていたクラウスは父の姿がないことに思わず不安がよみがえった。けれど、アイビスが普段と変わらずにベッドに乗り上げ、彼の身体を拭こうとする準備を始めたことで、いつも通りの冷静さを取り戻そうと努力した。


「父はどうしたんだい?」


 彼が尋ねると、アイビスは「今日からは私だけで」と当たり前に返した。


「何か不満でもあるの?」

「いや……珍しいと思って。父は、自分がいないときに僕へと人を近づけさせないから」

「私は言われた通り、世話するように言われてきたわ」

「ならいいんだけど。でも、その……」

「そう。もしかして、普段とは違うことをご所望なのね」


 彼はなぜか恥ずかしさが込み上げ、消え入りそうな声で意味のない言葉を繰り返す。

 その応えに、アイビスは初めて出会った時のような鬱々とした歪んだ笑みを浮かべ、自らの薄着に手をかけた。

 身体を拭くために上半身を晒していたクラウスは、彼女の行動に思わず自分の身体を隠すように両腕で覆った。けれど、アイビスは彼の手首に触れると強引な力でそれを引きはがし、なだれ込むようにベッドへ押し倒した。


「私は変わり者、でも、あなたは特別なの」


 彼女はくつくつと愉快そうに笑う。

 クラウスは混乱と恐怖に頭の中をかき乱された。直接触れ合った肌の熱と、唇の隙間から漏れ出る甘い吐息、煽る様な声が脳にこびりつき、彼の理性は溶かされていった。

 その晩、彼は憧憬と願望の入り混じった幻想を捨て去った。それからは、多くの男がそうであるように現実の肉の味に夢中になり、運命の奴隷のように彼女へ自ら服従を誓った。

 母親の手をつないで歩く幼子のように、クラウスにとってそれは一つの人生の幸福期だったのだろう。

 けれども、数か月の短い逢瀬の後に、アイビスは侍女の任を解かれた。父カインの所有物である彼女は煽情的なドレスを身にまとい、男を誘惑する娼婦として父の経営する娼館に送られていった。

 そして、半年もしないうちにルチアーノという伯爵の妻となり娼館を出る。

 別れの挨拶もなく、名残を惜しむような手紙もなく、あんなにも情を重ねたにも関わらず、彼女は幻のようにクラウスの元から去っていった。


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