2章 審問会(2)
審問会の行われる建物内に入ると、レオンは人差し指を唇の前にあてて立っていた。
会場の表と違い中も同じように人で混雑していたが、廊下は耳の痛くなるような静けさに包まれていた。
クラウスがレオンのそばまでくると、彼は先ほどの啖呵とは打って変わって小さな声でしゃべりだす。
「もうすでに始まっているらしいぜ。乞食どもが締め出されてるのも頷けるな」
「聞いた予定よりも早いね。何かあったのかな?」
「いや、時間通りだがいくつか略式で行われたみたいだな。ついさっき議長様がアイビス・ルチアーノ伯爵夫人の罪状を読み上げたが、弁護人になってくれる貴族はいなかったな。糞長ったらしい貴族様の前口上がなかったからスムーズに進んでいるみてぇだ」
「それで、アイビスはどうなるのか話は出てたかい?」
「まだだ。だけど、そんなこと分かりきったことだろう?」
レオンはつまらなそうな顔で珍しく視線をずらし、躊躇してからぽつりと呟いた。
「当然、極刑だろうさ。だが問題はそこじゃない。ここにいる連中の関心は、女がどういった死に方をするかって話だ」
「どういうことだい?」
「貴族としてではなく、ただの罪人として扱われているみたいだぜ。つまり、普通の市民と同等の刑をかされる可能性があるかもしれねぇ」
「まさか、伯爵夫人に対してそんな厳しい判断がくだるはずない……」
「まあ、旦那を殺したんだから自業自得さ。貴族に楯突いた愚かな女として上は扱うつもりなのかもしれねぇな」
「…………」
審問会が開かれる以上、重い刑がかされることはクラウスも理解はしていた。
この国にはいくつか死に方がある。大罪人がどういう死を選ばされるのかは、身分によって異なっていた。貴族であればその名を汚さないように投薬や自死など好きな方法を選ぶことができる。もちろん理由によっては情状酌量を貰える場合があり、土壇場で刑罰が軽くなり、ほとぼりが冷めるまでは外国行きなどはよくある話であった。
しかし、その特権が機能しないとなれば、アイビス・ルチアーノ婦人が辿る最後については、審問会の議長らが宣告するまでは誰も知りようがなかった。
「ところでよ、オレ様はもう少し前に行ってみたいんだが、どうするよ?」
「ここまで来たんだ、当然僕も行くよ」
「そうこなくっちゃな。さて、次はどうやってこの壁を突破してやろうか」
「キミ、言うまでもないけど、さっきみたいな騒動はよしてくれよ」
「へっ、わかってるよ。次はてめぇの好みに合わせてやるぜ」
レオンは舌を出してふざけた顔でウィンクをしてみせた。
傍聴人たちの隙間をゆっくりとした足取りで進み、何度も頭を下げながら前列へと進むことで、二人は傍聴席の最前列に並んだ。
議長は一段高いひな壇に着席し、灰色の髭をたずさえ厳粛な視線を前に向けていた。その彼の左手には髪を油で固めた副議長が腰掛けており、クラウスたちが前列で落ち着いたのと同時に副議長は立ち上がり、高らかに罪人の名前を呼んだ。
クラウスは雰囲気にのまれまいと思いながらも静かに唾をのみ、この審問会の主賓の登場を待った。
やがて、議長席の右奥にある扉が悲鳴のような軋んだ音を立てながら開き、甲冑を来た四人の聖王国騎士が音を鳴らして入ってきた。
騎士たちは一挙手一投足、寸分たがわずに場内を闊歩する。そして、クラウスはその騎士に囲まれた美女の横顔を認め、釘付けになった。
アイビス・ルチアーノ。
茎の長い花のような痩躯をしたその女は、黒の喪服を纏って静かに現れた。
黒みがかった茶色の髪を頭の後ろでまとめ、顔の前には視線を誤魔化すようなレースがかけられている。その頬は痩せこけ少しだけ色を失ってはいたけれど、伏し目がちな横顔は、男であれば惹かれてしまうであろう寂しさをたたえていた。
そして、クラウスが何よりも心の内を乱したのは、彼女の血のように真っ赤な唇であった。それは唯一、この場に相応しくない異質な色を放っており、不敵な笑みを浮かべていた。
この罪人の登場に、観客が騒めいたのも無理はなかった。
アイビスが証言台に立たされると、議長は槌を鳴らしてその場をおさめる。
罪人の腕に架けられた枷が騎士によって解かれ、役目を終えた彼らはその場から一歩離れる。その時になって初めて彼女は顔を上げ、壇上に座している議長たちを見止めると天を仰いだ。
「これより、被告人への質疑へ入る。以下、被告人は聖ストゥエル王国国王の名に誓って真実のみを答えるべし。異論はないな?」
アイビスは旦那に従順な新妻のように静かに頷く。
「被告人、名前を述べよ」
「アイビスです。アイビス・ルチアーノ伯爵夫人と呼ばれていた者です」
「汝、今日この法廷に召喚された理由について、心当たりはあるか?」
「ええ」
「よろしい。ならば汝アイビス、貴殿への嫌疑は次の通り、『グレゴリー・エル・ルチアーノ伯爵の殺害』。これに関しても異論はないな」
「あら、それは間違いですわね」
まるで冗談話を否定するかのような明るい声で彼女は答えた。
「嫌疑ではなくて『事実』ですわよ議長様。私が主人を殺したのです。この手で間違いなく」
アイビスはそう言うと自嘲するかのように真っ赤な唇を歪め、くつくつと可笑しそうに笑う。
その言葉に場内が沸き立つのは無理もなかった。
罵声と悲鳴、観衆の感情が大波のように押し寄せ、議長が打つ槌の音は割って入れずに空々しく響く。
けれど、クラウスにはそのどの音も届いてはいなかった。
ただ、彼女のその鬱屈とした笑いに、彼は懐かしい昔のことを想起した。
クラウスは彼女を知っている。
いや、忘れることなど決して出来ず、彼の身体には彼女の名残が未だにある。
肌の暖かさ、燃えるような情の熱さ、内なる衝動とその快楽。
アイビスは、クラウスが初めて女の柔肌を知った相手であった。