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1章 クラウスの日常(3)

「その女の名が世間に知れ渡ったのは丁度一か月前だ。グレゴリー・エル・ルチアーノ伯爵は根っからの貴族だ。堅物ではあるが社交好きで遊び方を心得ていて、仕事に関しては信頼のおける男というのが評判だったな。そんな男が、屋敷の寝室のベッドで死体となって見つかった。裸の女ではなく、腹のど真ん中に銀色の鋭いナイフを抱きしめている姿で……」

「思い出しました。誠実な貴族の方が殺されたと、ずいぶんと惜しまれたことを私も聞いた覚えがあります」


 コミットがそう答えると、レオンは満足そうにうなずいた。


「その通り、ルチアーノ伯爵はこの国でも珍しい真っ当な貴族様でな。黒い影や馬鹿みたいに目立つ噂が全くない、面白くないほどの善人貴族様だ。だからこそ、その伯爵様が殺されたとなれば、世間も沸き立つというわけだ」

「なるほどね。僕が忘れていただけで、それなりの事件だったわけだ」

「世間知らずにもようやくわかってもらえて何より。だけどまあ、ここまでなら我らのクラウス様が気にするようなことじゃない。貴族が殺されるなんて年に数度はある話だ。だから、話題になっているのは下手人の方。アイビス・ルチアーノ伯爵夫人の方だってことだ。どうだい、てめぇの本分に関わってきただろう?」


 レオンはそこで一息つくと、クラウスの反応を楽しむように口を閉じた。

 彼の遠回しで胡乱な言葉に、クラウスは苛立ちを感じたけれど顔には出さない。

「わかったよ、君がそこまでいうなら何かあるのだろう? そろそろはっきりと言ったらどうだい。残念ながら、このままだと僕は君を楽しませる反応が出来ないだろうしね」


 クラウスはデスクの上で両手を組み、前のめりになってレオンの方へ身体を寄せる。

 机越しのレオンは、それでもじっと口を閉じていたが、これ以上は時間の無駄だと思ったのか、あっさりと口を割った。


「アイビス・ルチアーノ伯爵夫人は本妻じゃない。五年前に後妻としてルチアーノの家に入った。えらく美人で器量のいい妻として装っていたそうだが、実の所どうやら狂人らしい。狂人は狂人らしくご丁寧に、自らの旦那にナイフを突き立てた。ひゅー、怖いったらありゃしないぜ。そして、どうやらその女の出自がはっきりとしていないらしい。聖王国の生まれでも、近隣の村や隣国の者でもないそうだ」

「出自のはっきりしている人間なら、この国は半分がそうじゃないかな。それのどこに問題があるんだい?」

「知れたことだろう。出自がないってことはつまり奴隷の生まれ、聖王国風に言えば『人畜』ってやつだな。そんな女が、どうして貴族と結婚できる? 誰が結婚の後見人になったと思うよ。仮にバックの人間がいるとなるとだ、選択肢は限られてくるだろう? ……クラウス・ウィリアム・エンブリー侯爵様よ」


 ざくっ、と心臓を切りつけられたような音がクラウスを貫いた。

 暗い影に覆われた彼の心は開いた傷口が強烈な痛みを伴うように、苦痛に顔を歪めるには十分な物であった。

 クラウスは組んだ手を解き、疲れた目をほぐすかのように目頭を押さえながら絞るように言葉を出す。


「父の仕事だ……。アイビス、彼女は……」

「ビンゴっ! 初めから俺はそうと睨んでたぜ」


 レオンは上機嫌に吠えると、手を叩いて今日一番の笑みを見せる。


「てめぇが知らないのは意外だったが、まさに世間様は、アイビスという狂った女がどこの出か気になって仕方がないみたいだぜ。当然、てめぇも気になってきたよなぁ。そして、朗報だぜ親友。今日は事件からちょうど一か月。つまり、これから審問会が開かれるわけだ」


 その言葉に、クラウスは背中が冷たくなっていくような気になった。


「いまさら、僕にはどうしようもない話だ」

「はっ、そりゃそうさ。だがどうだい、今から出て上手い昼食でも食ってから、散歩のついでに見物といこうじゃないか。せっかくだ、付き合ってやってもいいぜ」


 レオンは颯爽と立ち上がるとお茶のお礼を言いながらコミットに食器を手渡し、派手な色のコートと羽根つきの帽子を身に着け、杖を手に取った。

 そして、二つ年上の貴族であるクラウスに対して、まるで試すかのような嘲笑を向けていた。

 罠に捕まった野ウサギに対し、狩人が優しく声を掛けながら近づくような、圧倒的な優位者が見せる一種の滑稽さに近いものをクラウスは感じた。


「……わかったよ。君が一緒にいてくれるなら、僕も行こう」


 クラウスは自らの席を立つと、深く息を吐いた。

 立ったままの姿勢でもう一度目をつぶると、「どうしようもない事だと」自分に言い聞かせるように心の中で唱える。

 父がかつて、彼女を貴族に売ったことを、クラウスは否定することが出来なかった。仮に父が生きていたとしても、彼の父親は決して心を痛めるようなことが無いことも分かっていた。父ならば「くだらない」と一蹴することも容易に想像できた。

 そして、自分もまた同じようにしなければ、心が持たないとも気づいていた。


「祈るだけ時間の無駄だぜ。人の手に渡った商品に、同情するなんて馬鹿げてる」

「ああ、レオン。君の言う通りだ」


 クラウスは目を開くと、コミットに茶器を手渡し、今日はもう帰ってこないことを伝えた。


「へっ、それじゃあ、まいろうじゃないか本日の主役。聖王国で唯一『娼館』を持つことが許された大貴族。クラウス・ウィリアム・エンブリー侯爵様ってか」


 レオンは高らかにそう宣言し、惜しみない拍手をクラウスへ送る。



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