1章 クラウスの日常(2)
「ああ、そういえば、女と言えば『あの女』だ。てめぇに聞きたい話があったんだ」
レオンは突然、思い出しかのように切り出すと、探る様な視線をクラウスに向けた。
彼の態度の変化をクラウスはよく知っていた。彼が何かを企んでいる、もしくは他人の不幸を楽しんでいる、そんな時にする顔であった。
だからクラウスはただ微笑を浮かべたまま沈黙で話の先を促した。
しかし、二人の間に沈黙が降り立ったその時。まるでタイミングを見計らったかのよう室内にノックが響く。
クラウスは「どうぞ」とそれに応えると、部屋の扉を開け白いエプロンを身に着けた女性が部屋に入り丁寧な会釈した。
「失礼します、クラウス様。お茶をお持ちしました」
「ふぅ、待っていたぜ、ミス・コミット。今日も中々元気そうじゃないか」
「これはクロスフォード子爵様、ようこそおいでくださいました」
コミットと呼ばれた女性は、少し痩せた顔に貞淑な笑みを浮かべ、スカートの裾をもって貴族風のお辞儀をした。
レオンはするりと軽快な身のこなしで席から立ち上がると、彼女の前に片膝をついて首をたれる。
「あなたの淹れてくれたお茶は、山奥の泉から沸いたよりも清らかで美味です。どうか、このレオンめに、あなたの手へ接吻することをお許しください」
「そんな、私のようなものにそんなことをするなんて、もったいないですよ」
「いいえ、光栄の極みでございますですよ」
コミットがおずおずと手を差し出すと、レオンはそれを取って上目遣いのまま優しく接吻をした。
クラウスはその寸劇に長い溜息をついてから、そろそろいいだろうと声を掛けた。
「コミット、彼の遊びに付き合うのもいいが、お茶が冷めては元も子もないよ」
「あら、そうでしたね。せっかくレオン様の好きな茶葉を選んだのですから」
「さっすが、出来る女は違うぜ。こんな狭い事務所じゃなくて、オレの屋敷に雇われてくれないだろうか」
「申し訳ありません。私は今の仕事が自分の身にはあっておりますので」
コミットは上品な笑みを浮かべきっぱりと断りをいれると、廊下に戻り道具を運びながらお茶の用意を始める。
レオンは先ほどまで座っていた椅子に戻ると、授業をしていた時のように背筋をピンと伸ばしながら、彼女の様子を楽しそうに見物していた。
「まったく、女性のことばかり考えているのは君の方じゃないのかな? 遊び半分で僕の事務所の給仕を勧誘するのはやめてくれないかい」
「おいおい、オレは人なりだぜ。それに、今のどこに遊びが混じっているっていうんだ。オレ様は大まじめに提案しているんだぜ。優秀な人物を口説くことの何が悪い?」
「優秀だから困るんだろう」
「女は案外縛られるのを嫌う生き物だっていうぜ。なあ、コミットもそう思うだろう?」
「そうですね、レオン様のおっしゃることが最もだと思います。ですが、一人の女を取り合う殿方たちを見るのは、これはこれで愉快な気もしないではありません」
彼女はそう答えながら、レオンの手に皿を渡し、湯気の出ているカップをその上に乗せた。
レオンはすぐさまカップを手に取って口をつけると、満足げな表情を浮かべながら静かになった。
クラウスも目の前に置かれたカップを手に取ると、沸き立つ茶葉の匂いを堪能してから、ゆっくりと口の中を潤した。
「こいつは敵わねぇな」
「まったくだよ。お茶に関しては、僕はもう彼女を手放すことが出来ないのだからね」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
コミットは自らの小さなカップを取りだすと、部屋にあった背もたれのない椅子に腰かけ、主人たちと一緒にお茶を飲み始めた。
そうして、クラウスたちはちょっとした談笑を交えながらお茶を楽しんだ。
クラウスにとってこの事務所での仕事は彼の本業とはほど遠い、簡単な書類整理と商談、そして勉強といったごくつまらない事柄ばかりだ。
けれど、それらは彼が日ごろの喧騒から逃げるのに必要な休憩として不可欠なものであった。
やがてカップが空になり、身体も充分に温まったところで、クラウスは何気なく思い出したかのように言った。
「そういえばレオン、さっき言いかけたことはなんだい?」
「何の話だ……って、ああ、ルチアーノの件だったな」
クラウスはその名の意味することを考えるように自らの顎に手を当てた。
「おいおい、てめぇが知らねぇわけないだろ。グレゴリー・エル・ルチアーノ伯爵の名前を聞いたことがないのか?」
「さあ、どうだったか……名前ぐらいならどこかで聞いたことあるんだけど。思い出せないね」
「そりゃあ聞くだろうさ、今、酒場で一番話題になっていることはルチアーノのことだぜ。コミットも知っているだろう?」
「あいにく夜は外へ出かけませんので、存じ上げません」
「いったい、お前らは何を楽しみに生きているんだ?」
「私はもっぱらダンスとお茶ぐらいしか興味がありませんので」
コミットがはっきりと言うと、レオンはやれやれと呆れ返った風な顔でクラウスを見る。
クラウスは静かに首を振りお手上げだと両の手を広げた。
「たっく、人を使った仕事だろうが、もう少し人間様に興味を持たねぇと寝床で女に刺されるぜ。せめて貴族様の人脈や動静ぐらいは把握してないと、オレもお前も死活問題だろう?」
「そうだね、人の名前を覚えるのは得意じゃないと、いつまでも言っていられないのは分かっているよ。だけど、その伯爵はたしか亡くなったんじゃなかったっけ」
「死因については知らないのか?」
「さあ、僕はそういった話は苦手でね。聞いてもすぐに忘れてしまうようにしているんだ」
クラウスはきっぱりと拒むようにそう言い放つと、そっと目を逸らした。
彼の内心には時折、カビのような暗い影が知らないうちに生まれ出る。そして、頭の中がじっと湿り気を帯びるような感触に襲われた。
それは彼が経験してきた事の中で、忘れてしまいたい記憶が沸き起こる時に決まって現れた。
けれどレオンは、そんなクラウスの内情や態度とはお構いなしに、三日月のように口角を上げ、下卑た笑みでずけずけと土足で踏み込む男であった。
「おいおい、ヒントはもう充分に与えただろう? 少しはその頭を必死に動かす気にはならねぇのかよ」
レオンはそういうと、嫌味ったらしい笑みを浮かべた。
そして、教え子に話すように丁寧な口調で話りだす。
「アイビスだ。アイビス・ルチアーノ伯爵夫人の名前には聞き覚えがあるだろう?」
「…………」