久川さんと小さな足掻き
その晩、私たちは一睡もする事なく朝を迎えた。
結果としては、沙月と嵐山先輩の元へ”彼女”は現れた。
しかし二人とも過剰とも思える程のバリケードを拵えて、なんとか朝まで乗り切ったという物理的解決に落ちつたのである。
とはいえ、こんな事がいつまでも続けられる訳が無い。
それが分かっているからこそ、朝を迎えて希望的な感想を上げる人は誰も居なかった。
ただただ疲れ切った雰囲気だけが、そこには残っていた。
『俺、ちょっと出かけてくるわ』
『どこに行くって言うんですか、こんな時に』
一晩で疲れ果てただろう二人の声が飛び交う。
嵐山先輩に至っては先程”久川さん”が帰ったばかりである。
もはや限界だろうという程、疲れ切った擦れた声を上げている。
『さっきから調べてたんだけどさ、こういう……なんていうの? ”怨霊”? を祓う有名な人が居るんだってさ。 ちょっと遠いけど、日帰りで行けない距離じゃないし、頭下げてすぐにでも来て貰えないかなって』
『さっきまで”久川さん”に訪問されていたっていうのに、随分元気ですね……』
『だからこそだよ、もうこんなのゴメンだ』
ポツリポツリと繰り広げられる会話を聞きながら、ゆっくりと瞼が落ちていく。
ダメだ、流石に眠い……あんな事があって、警察とお話して、しかも昨日の出来事である。
多分また警察の人とお話する事になりそうだ。
神田さんがどうなったかは分からないが、多分アレって飛び降りたんだよね?
少なくとも怪我はしてる筈だ。
そして彼が行動に移した後、嵐山先輩がすぐさま2台目のスマホで救急車を呼んだ。
何故2台も持っているのかは謎だが、どうなったかの連絡は未だ届いていないらしい。
せめてその結果だけでも聞きたい所だが、そろそろ体力的に睡魔が限界だった。
『とりあえず嵐山先輩には急いでそっちに向かって貰うとして、私たちはどうする? 一回集まった方がいいかな?』
唯の言葉を聞きながら、消え入りそうな声で「そう、かも……」なんて返事を返した時だった。
——コンコンッ。
私の部屋の扉から、ノックの音が響いた。
え? 何で?
『ねぇ、今の音って……誰の部屋?』
『わ、私じゃない! 今さっき帰ったばっかりだよ!?』
『俺でもないぞ!?』
「……私だ」
多分、噂通りなんだろう。
彼女は1階から各部屋を回る。
その順番は、病室の番号順。
普段は記憶力が悪いと言うのに、この番号だけは覚えている。
109 沙月
203 嵐山先輩
208 私
407 唯
つまり、次は私の番だ。
『茜、バリケードとかは……』
「あ、あはは……まさか朝一で来るとは思ってなかったから、何もしてない……」
これは、終わったかも。
でも神田さんの言っていたことが正しければ、一回目はセーフなんだっけ?
だとしたら今日は何とか生き残れるかも。
なんて、ぼんやりとした頭で徐々に開く扉を見つめる。
スマホからは誰の者ともわからない叫び声が響いているが、もう判断が付かない。
もし駄目だったとしても、痛くないといいなぁ……なんて考えていた私に対して、来訪者は躊躇なく部屋に踏み入った。
「姉さん? まだ寝てる? 昨日から何か煩かったけど、一体何して……」
扉の向こうから現れたのは、不機嫌そうに半開きの目を向ける妹の姿。
「あ、あははは……良かった、久川さんじゃなかった……」
「またその人ですか? 来客の予定があるなら事前に……って、どうしたの姉さん。 隈凄いけど、大丈夫?」
慌てて駆け寄ってきた妹の手が頬に触れる。
暖かい、というか熱いと感じられる。
こんなにも私は体温が奪われていたのか、そんな風に改めて感じられる。
その温もりを肌で感じながら、私は目を瞑った。
「え、ちょっと姉さん? 本当に大丈夫!?」
「ごめん、ちょっとだけ寝かせて……近くに居てくれると、うれしい……」
「や、訳が分からないというか。 姉さん? おーい」
妹の声を聞きながら、睡魔に負けた体はベッドに突っ伏したのであった。
————
ふと目を開けると、窓の外には傾きかけた太陽が見えた。
あれ、私なにしてたんだっけ。
そんな事をぼんやりと考えている内に、昨日の記憶が戻ってきた。
飛び降りた神田さん、沙月と嵐山先輩の元に訪れた”彼女”。
そして今夜、もし彼女が来るとすればソレは。
『私の番だ』
ゾッと背筋が冷えた瞬間勢いよく体を起こした。
「うわっ!? きゅ、急に起き上がらないでよ! びっくりするじゃん!」
「へ?」
すぐ近くに妹が居た。
片手に本を持ち、ベッド脇に腰かける形で座っている。
何してるんだろう。
呆けている私に向かって不機嫌そうな瞳を向ける妹は、呆れた口調で言い放った。
「近くに居ろって言ったのは姉さんですよ? 忘れたんですか?」
いつもの敬語口調に戻ってしまった妹に、これでもかという程盛大にため息をつかれてしまった。
お姉ちゃんは悲しいです。
「起きたならもういいですよね? そろそろ夕飯の準備しないとですから、私は行きますよ?」
「えっと、もしかしてずっと居てくれたの?」
「ずっとじゃありません。 弟の食事を作る時だけは離れました」
ムスッとした様子の妹は、パタンッと読みかけの小説を閉じてから立ち上がった。
詰まる話、それ以外はずっと私の側に居てくれたんだろう。
お姉ちゃんは嬉しいです。
「ありがと、よく眠れた気がする」
「そうですか、なら顔でも洗ってきて——」
「——だから、ちょっと出かけてくるね」
「はい?」
よく眠ったお陰で、頭もスッキリした。
だからこそ、この事態をどうにかしよう。
妙案という程の物は思い浮かばないが、せめても抵抗くらいしてやろうではないか。
それにこのまま家に居れば、間違いなく”彼女”はここに来るだろう。
そしてこの家には、家族もいる。
二人だけは、巻き込みたくない。
「ちょっと、お姉ちゃんは久川さんと喧嘩してきます」
「……また警察のお世話になるのは勘弁して下さいね、ホント」
もう一度だけ大きなため息をついた妹が、背を向けて部屋から出ていった。
これでいいんだ、もしも何かあった場合巻き込まれなくて済む。
ベッドに転がったスマホを拾い上げて、件の2人に連絡を取る。
嵐山先輩から通知が来てない所を見ると、言っていた例の人はまだこっちに来る予定が立たないのだろう。
だったら私たちだけで今夜を乗り切らなければいけない。
せめて今晩だけでも、一人でも欠ける事のないまま。
『もしもし茜? 大丈夫?』
『途中で反応無くなったからびっくりしたよ! 妹さんが”寝落ちしたみたいですので一旦切りますね”って、速攻切っちゃうんだもん』
どうやら今の所無事らしい二人が、揃って声を上げた。
「ごめんごめん、流石に限界だったみたいで。 それでさ、ちょっと思いついた事があるんだけど、いいかな?」
『『 思いついたこと? 』』
二人して同じセリフを返し、困惑した雰囲気が伝わってくる。
正直私が思いついたのなんて、意味のあるかどうか分からない程度の物だ。
でも試してみたいと、そう思ったのだ。
「もう一回、あの場所に行こう。 それで、『患者リスト』から私たちの名前を消してみよう」
そんな簡単に終る訳がない、自分でもそう思う。
でも”久川さん”は入院患者に対して、投薬を行っているのだ。
だとすれば、入院患者のリストから私たちの名前が消えれば、彼女の行動から外れるのではないか。
安直ではあるが、可能性としては充分にあり得る気がする。
残り時間は少ない。
宿直当番に彼女の名前はあったのだ、なら彼女が動くのは夜勤の時間帯。
正確に何時からと分かる訳ではないが、もう日が傾きかけている。
だからこそ、急がなくては。
『本気なの?』
「うん。 またバラバラに”久川さん”を待つより、皆で一緒に居た方が対応できる事も多いだろうし」
『で、でもいっぺんにやられちゃうかもしれないんだよ!? そうなったらどうするの!?』
「ただ待つより、少しでも可能性があるなら私は賭けたい。 それに今日も一人だなんて、多分私は耐えられないし」
『で、でも……』
『いいよ、私は一緒に行く』
『ちょっと唯!』
私たちの中でも、沙月が一番あの場所に恐怖を抱いているだろう。
だからこそ、無理にとは言わない。
誰か一人でも行けば、全員分の名前を消す事なんて容易だろうし。
「嵐山先輩も御払いできる人を連れてくるって言ってたし、沙月は待ってても大丈夫だよ? ちゃんと全員分消してくるから」
『そうは言っても、先輩からまだ連絡来ないし、っていうか繋がんないし……』
「とにかく、もう時間ないからすぐ出ないと。 バスとかで向かう事になると思うから」
あの廃病院に着くまで正確にどれくらい掛かるというのは分からないが、今から出ても到着するは夕方……もしくは少し暗くなり始める頃だろう。
いくら何でも暗くなってからあの場所に踏み込む勇気はない。
出来る事なら明るい内にさっさと行って、パパッと消して帰ってきたい所だ。
『いく……私も、一人で残るの嫌だし』
ぽつりと、静かな返事が返ってきた。
「うん、わかった。 それじゃすぐ出発しよ」
結局全員で再びあの場所へ向かう事になった私たちは、急いで合流してから街はずれの病院へ向かった。
————
作戦は即実行とばかりに飛び出したまでは良かった。
しかし現実とはそうそう上手く行かないものである。
「ねぇ……まだ、つかない……?」
ぜぇぜぇと苦しそうな息を吐きながら、汗だくの3人が道路を歩いていく。
確かにある程度の所まではバス停があった、あったのだが。
「そりゃ、そう……だよね。 思い出してみれば、周りに山しかなかったもん。 こんな場所でバス、下りる……人、いないっしょ……あぁもう、完徹の後だから余計疲れる!」
「もうそろそろだと思うんだけど、多分」
私はさっきまでぐっすり眠っていたので、幾分か二人より体力が残っている。
とは言っても汗が噴き出すような気温に、足取りは重くなるが。
水分だけは持ってきておいて良かった、下手すれば”久川さん”どうこう以前に熱中症で倒れてしまう。
「まだ日が出てるからいいけど、出来るだけ早めに着きたいね。 帰りもココを通るって考えると余計に」
「言わないでぇ……」
あまりよく覚えていないが、多分あの夜道路に飛び出して、あの男性に拾われた所くらいには来ていると思う。
そういえばまだお礼の連絡を入れてなかった。
まぁ今はそれどころではないが。
「あ、ねぇあそこじゃない!?」
唯が叫びながら急に走り出した。
慌ててその後を追えば、そこには一か所だけガードレールの隙間が空いていて、奥には獣道としか言えない道路が続いていた。
あの夜は先輩の車に乗せてきてもらったからあまり記憶してないが、恐らくここで間違いなさそうだ。
「早く行こ、なんか雲行きが怪しくなってきたし」
「まさかとは思うけど、降らないよね? 傘とか持ってきてないんだけど……」
二人はそんな言葉を交わしながら、薄暗い道のりを進んでいく。
さっきまであんなに晴れていたのに、見上げた空には黒い雲が段々と広がっていくのが見える。
軽い夕立、くらいならいいんだけど……
「茜ー! 早くー!」
「う、うん。 今行く!」
こうして私たちは、再びあの場所へと踏み込んだのであった。
————
獣道に入ってからは、そう遠くない場所に廃病院は立てられていた。
とはいえ生い茂った草や木々のせいで、すぐすぐ建物が見つかったかと言われればそんな事はない。
2、3回くらい道を間違えながら、ようやっと建物前に辿り着いたのだ。
しかも……
「あぁもう最悪! タイミング悪すぎ!」
沙月の叫びを聞きながら、私達は建物内に走り込んだ。
その背後からは耳を劈きそうな大音量の雷が光っている。
そして数分で全身ずぶ濡れになるほど大豪雨。
予想していた最悪のケースにぶち当たってしまった。
もはやスコールだこんなの、いつも見てる夕立じゃない。
「やっと着いた……けど、なんていうか」
「うん、夕立のせいもあるんだけど……真っ暗だね」
「なにこれ本当に! まだ夕方くらいの時間だってのに! こんなの夜と変わんないじゃん!」
あんまり、その言葉は聞きたくなかった。
まだ昼間と認識してたからこそ廃病院に行こうなんて言い出したが、夜になってからこんな所にもう一度来ようとは流石に思わない。
とはいえ、目の前の光景は前回来た時と殆ど同じに思えるが……
「と、とにかく『患者リスト』の所に行ってみよう?」
玄関先で位置まで突っ立っていても事態は変わらない。
思い切って踏み出し、前回同様ナースセンターに足を向けた。
相変わらず散らかった室内。
壁の落書きも埃の積もった備品も、全部前に来た時のまま。
もしも違いを上げるのだすれば、ここには普通ではない”何か”が存在していると分かっている事だろうか。
スマホのライトで通路を照らしながら、いつか見たカウンターを見つけて、その奥へと進んでいく。
”関係者以外立ち入り禁止”と書かれた札の横を通って、件の『入院患者リスト』の前に辿り着いた。
「さっさと消して早く帰ろ! ホワイトボードだよね、コレ。 布か何かで擦って……って都合よくそんなの無いか。 あぁもうシャツでいいや!」
言うと同時に、沙月はびしょ濡れのシャツを戸惑いなく脱ぎ去ると腕に巻き付け、少し高い位置にあるボードに手を伸ばした。
上半身は思いっきり下着姿になってしまった訳だが、今この場には気にする人もいなければ隠さなくちゃいけない相手も居ないので、私も唯も何も言わずにその光景を見ていた。
「……あれ?」
ボードに向かって手を伸ばしていた沙月の体が、ビクッと震えたかと思うと動きを止めてしまった。
何かあったのだろうか?
唯と一緒に沙月の隣へ並ぶと、そのボードを見上げた。
「なんかの、冗談だよね? 私たち、こんな事書かなかったよね?」
震えた手で唯が指さしたその先には。
101号室 神田 正人 退院。
106号室 石田 哲也 退院。
なんて、ふざけた言葉が書き加えられていた。
「い、いいから早く消しちゃおう!」
慌てた様子の沙月が、今しがた脱いだ服でボード擦っていく。
廃墟にある物なので当然汚れも酷い。
拭いたそばから自分の服が真っ黒になる光景に眉を顰めながら、私たちの名前を消していく。
それを傍から見ていて気づいたが、ココに書かれている名前のほとんどに『退院』という言葉が書き足されているのだ。
石田さんと神田さんの名前にだけ書かれた『退院』の文字。
これが何を意味するのか、今の私たちであれば理解出来る。
考えれば考えるほどゾクゾクと背筋は冷え、体の温度を奪っていく。
濡れた服の影響もあってか、今では全員が歯を鳴らすほどに震えあがっていた。
「とりあえず、私たちの名前は消したよ……」
所々薄汚れた服を身に着けて、不安そうな顔で沙月が振り返った。
これで終わったのかは分からない。
でも、もうここに残る理由はないだろう。
「それじゃ帰ろっか、もう暗いけど……夜になる前には出ておきたいし」
そう言って三人でナースセンターを出る。
現在は17時半。
夕立のせいで殆ど真っ暗だし、外からは相変わらず大きな雨音や雷が響いている。
とはいえまだ夕方と呼べる時間だろう。
こんな所はさっさと退散して——
——ガラガラガラ……とカート押す音が、廊下に響いた。
「ねぇ、嘘だよね? まだ夕方じゃん」
震えた声が、隣から響いた。
一点に視線を固定したまま。
「暗くなっちゃえば関係ない、とか言わないよね? 嘘でしょ、しかも前からって……」
震えながら呆れた声を上げる唯は、壊れた様に乾いた笑い声を浮かべながら、前方を指さした。
目の前には玄関へと真っすぐ伸びる廊下。
雷が鳴り響く。
その光を背に浴びたナース服の女性が、薬品を乗せたカートを押しながら、こちらに向かって真っすぐ歩いて来ていた。
——黒家サン、オ薬ノ時間デスヨ。
次で最後になります。
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