温かい人たち
そうは言っても、探求心のある神流は
根拠を求めたり。
エンジニアらしく。
「あの映像は、どこかで見れますか?録画していると思います。」と
神流。
珠子は、不意に言われたので「え、ああ、あの・・アーケードの管理事務所」
ちょっと寄り道して。
管理事務所は、珠子の家のそば。
あの、寡黙なニット帽の喫茶店主の店の隣である。
アーケードに入ると、角のお店は
いつかの、お地蔵さんの所で会った
優しい、揚げ物のお店のおばちゃん。
「珠ちゃん、おかえり。あ、お友達?」と
ショーケースの向こう。
おいしそうなコロッケが揚がっている。
「良かったら持ってって。」と
揚げたてをくれた。
「ありがと、おばちゃーん。」と。珠子は楽しくなる。
いつもこうなので、何かを悩んだり、悲しむ時間がなかったりする。
それが、良かったの。
幼い頃から、お店をしていた珠乃家だから
珠子や、妹が
近所で遊んでいると、ご近所さん。いつも
揚げ物のおばちゃんが、相手をしてくれていたりしたし
時には、若い父母が喧嘩をしたり、珠子に八つ当たり、なんてするときも
珠子たちは、ご近所に逃げて。
事なきを得る。
逃げる場所がある。
父母だけでなく、頼れる人が近所にも居る。
そういう記憶があると、例えば揚げ物のおばちゃんは
珠子たちにとって、お母さんのように感じられる。
昔々の日本はそうだったし、もっと昔。
霊長類の隣人たちもそうである。
ヒトがその隣人たちから進化したとすれば、おなじ記憶が
どこかにあるのだろう。
客観。
大切である。
そういう人々が住んでいるのが、この町。
至極論理的な存在だ。
「こんちはー。」と、管理事務所のドアを開いて。
「おお、珠ちゃん。なんだ。」と日焼けの笑顔は
銭湯のご主人。
町内会長で、頼りになる方。
珠子が家出した時、たいてい行き先はこの銭湯で
少し年上のお姉さんが、珠子の事を妹のように愛でてくれていた。
今は、結婚して近くの町に住んでいる。
「あ、あのね。防犯カメラの録画を見たいの。」と、珠子は
そこまで言って、困った。
お母さんに似た姿を見た、なんて。
言っていいのかな。
騒ぎにならないかな。と。
そこへ、神流が率直に
「珠子のお母さんに似た人が通ったので。」と。
町内会長はちょっと驚いたが「え、そうか?お母さん美人だったからな。
お父さんも同じ事を言って、これを見に来たぞ。」
美人は、大抵類型的である。
珠子は安堵して「なんだ。お父さんも見たんだ。」
「ああ、見るか?」と、映像を見せてくれた。
夕暮れだったが、珠子が見かけた辺りには
別人が映っている。
「・・・・見間違いね。」と、珠子。
「ありがとうございます。お邪魔しました。」と神流。
いやいや、と。町内会長はにこにこ。「また、おいで。」
はい、と。珠子はにこにこ。
これで気が済んだ。
でも、神流は思索顔「・・・・同じ座標に違う人・・・。」
見間違いならそれでいいのだが、空間が多重、つまり
重なっていて。
別の時間が流れていれば、それは
此方の人には見えない。
写真を撮る時に、暗い時など
長い時間シャッターを開くと
映像が揺らいだりする。
そこに、別の人が重なると多重露光である。
もっと長い時間、シャッターを開くと
止まっているものしか映らない。
それと似た事が、時間の流れを変えれば可能なのだ。
あくまで、理論的には。
そんな事を、神流は考えていた。
「・・・・お母さんと珠ちゃんが、特別な時間の流れを持っていて。」
多重空間なら、入れ替わる事も可能。




