優しいおじいさん
書物で得た知識とは、そういうものである。
実際に見ていないから、書物の表現を信じると
現実を誤認する事がある。
原子を見たことがなければ、球体のようだと
思っても不思議はない。
詩織のいる大学では
既存のジャンルに囚われない研究が盛んであったが
神流の出た首都の大学は
もう少し、普通な。
領域に限られた研究であったから
神流のようなタイプは、どちらかと言うと異端であった。
珠子は、詩織からの電話を受けて
安堵する暇も無く、お店の仕事。
未だ修行中である。
「お、珠子。明日の仕込みな。」と、珠子の父である。
ちょっと乱暴だが、元気で温かみのある職人。
筋を通す人物であるが
それも職人ゆえ。
良いものを作る。
客に謝礼を貰う。
そういう世界に妥協は無いし、嘘もない。
代わりに厳しい世界である。
それなので、ズルイ事は嫌いになる。
それも職業ゆえ。
アーケードの住人達も、モノを作ってお店をしているから
みんな、いい人になる....。
古くからある商店街なので、追われる事もない人々だ。
借金をして事業を続けると言うような事もない。
時間に追われたりする事もない。
それで、穏やかないい人で居られる。
ふつう、会社に勤めると
時間に追われたり。
会社が借金をしていれば、その為に
仕事を多くしなければならない。
利子を払う為である。
それで、ストレスになる。
そういう事がない人々は
詩織のような、大学の研究員と言う
恵まれた立場の者から見ても
いい環境の人と映るのであろう。
そういう環境で育った珠子は、ご近所さん
みんなに愛されて育った。
それなので、ずっとそこに居たいと思うのは自然....。
珠子の母や、祖母、曾祖母も
おそらくそうであったろうから
失踪と言うよりは、なんらかの理由で
居なくなったと思うのも、ひとつの推理である。
働きながら、珠子は思う。
「こうしてお店に居るのが、何よりも幸せだなー。」
妹には理解されない、仕事好きな珠子は
今風ではないタイプ。
珠子の母もそうだった。
今の珠子のように、忙しく働いて
一日を過ごしていたけれど
モノを作る仕事に魅力を感じていたのだろう。
命題=>人=>動作
これを繰り返しているのは、実は幸せである。
暇になると雑念が生じるのである。
それも、ヒトが進化の過程で得た性質のひとつである。
雑念とは、つまり「失敗しない為の」類推である。
過去の経験から、周囲の環境に危険がないか。を
考えるように人間は出来ている。
そのため、環境に慣れるようになっていて
例えば、音、振動、臭いなどの差異に
敏感に反応し、慣れる。
そうして、外敵を察知してきたのである。
今は、そういう必要も少ないから
珠子のように、仕事を続けている人の方が
むしろ平和である。
やる事がなくなると、不安を覚えたりするものだ。
今の珠子も、そんな感じ。
「私、普通なのかな・・・。」と。
見た目が若い事を、かなり気にしている。
検査の結果が問題なくても、何かあるのではないかと
根拠の無い不安を持ってしまったりする。
「・・・それでも、神隠しがなかったかどうかは
分からないね。」と。
未知の出来事に不安を感じる珠子だった。
・・・そうなったら、どこに行くのだろう。
・・・お母さんは、どこに行ったのだろう。
「・・・でも、そこに行ったらお母さんに会えるかな。」と。
珠子はそんな風に思ったりもした。
一方の詩織は、再び
社会生物学資料室で、先程の資料を
眺めていた。
その様子に、声を掛ける年配の男。
「熱心ですねぇ。」
にこにこと微笑む丸顔の彼は、資料室に良く居る人。
時々、詩織も廊下や食堂で見かけたりする。
「あ、すみません。」と、詩織。
男は、
研究をしなくてはならないと言う切迫感がない
おだやかな表情。
ゆっくりと手を振って「いやいや、いろんな事に
興味を持つのは良い事ですね。」と。
「何か、ご不明の点でもありますか?」と。
詩織は率直に「この町には失踪が多いようですね。数値で見ても。」
分布図を見ても、データでもそう見える。
男は「うーん。この場所が
海と山に近い盆地だと言う事もありますね。平野が狭いから。」
詩織はなるほど、と思う。
人が移動して失踪するのだから、山の中や海の中では起こりにくい。
客観的にはそうなんだ。
詩織の先入観で「神隠し」だとしていたけれど。
詩織は「先生、私は神隠しのような、不思議な現象だと思っていました。」と
率直に。
男は
いやいや、僕は先生ではありません。と、笑顔で前置きしてから
「そういう可能性も有りますね。実際に人が失踪してしまう。
どこにも居ない。
まあ、今なら海外に行ったとか、考えられますが。」と、にこにこ。
「その原因を考えておりました。」と、詩織。
男は、天井を見上げて「うーん。今の科学では分からない事、の
可能性もありますね。
推理小説なら、拉致とか、そういう方向に行くんでしょうけれども。」と
笑顔。
そのユーモアに詩織も微笑んで
「そうですね。」と。言ってから
「小説、空想小説にある、タイム・リープとか。」と
少しお茶目に言った。
彼は、笑って、でも「そういう可能性もあるでしょうね。」と。
否定されなかった事に、詩織は少し驚いた。
・・・柔軟な発想の方だなぁ。と。
そう思っていると、資料室に若い研究員が入ってきて
男に「先生、こちらにいらしたのですか。」と。
詩織は驚き「すみません、存じませんで。
お邪魔してしまいました。」と。
男は、いやいや、と、手を振り「綺麗なお嬢さんとお話できて
楽しかったです。 あ、今の話。続きがあったら
暇な時に来てね。」と、にこにこ。
ポケットから名刺を出して、詩織に渡す。
それから、にこやかに
資料室の外に。
若い研究員は、後について。
詩織の手元に残った名刺には 名誉教授、とあった。
教授さんだったのね、と
詩織は微笑んだ。




