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余熱

作者: 叶 こうえ

ずいぶん前に書いた作品です。

描写、文章に拙さがあると思いますが、お読みいただけると嬉しいです。

 窓の外は淋しい。朝だというのに太陽は差さないし、窓の向こうには景色が無い。密着した隣家の白い壁は殺風景としか言いようが無くて、いつも私を窮屈な気分にさせる。

 朝のこの時間、周りは相当騒がしい。隣からは目覚まし時計の音が流れてくるし、上からはばたばたと子供が走っているような音が響いてくる。食事中だ。天井から何か降ってくるんじゃないかと気が気じゃなくなる。早く食べてしまおうと、手元の茶碗に視線を戻した。

 立地条件の悪さは越してきた時に分かっていたけど、数年住んでその間にお金を貯めれば、もう一ランク上の分譲マンションを購入できるだろうと思っていた。

「先立つものはあるのよね」

 私の独り言に、「何が?」と夫が聞いてくる。

「引越しの事」

「嫌だよ引越しなんて!」

 私の言葉を遮るように息子の悠が大声を出した。さっきから悠は機嫌が悪いようだ。食事中、一度も口を聞かなくて、やっと話したと思ったらこれだ。

「でもここにずっと住むわけにはいかないよ? 悠だっていつかは自分一人の部屋が欲しくなるだろう?」

 夫の意見に、悠は不貞腐れながらも言い返すことができずに俯いた。

「ああ、茜ちゃんと別れるのが嫌なのか? 茜ちゃんの家だって、いつかは引越しすると思うぞ?」

「なら、一緒に同じところに引っ越すんだ」

 ぱっと明るい表情になった悠は、勢い良く牛乳を飲み干して席を立った。

「お母さん、もう勝手に僕の物を捨てないでよ!」

 捨て台詞を忘れずに。

 悠が台所を出て行った後、夫が「何を捨てたんだ?」と尋ねてきた。

「え? 悠の机の上に冷たいホッカイロが置いてあったから捨てただけなんだけど」

 私はゴミ以外の物を捨てた覚えはなかった。

「ホッカイロか。君が買い与えた物じゃないんだろ? だったら茜ちゃんから貰った物かもしれないな」

 夫の言葉に、私は「なるほど!」と大声を出してしまった。そうだ、我が家にホッカイロのストックなんて無い。ちょっとした謎が解けた気がした。もしそうなら、私に非がある。

「悠にはかわいそうだけど、本当に引越しの事考えないか? ちょっと都心から離れれば、安い物件は沢山あるし」

 私は頷いた。ちゃんと家を買うべきなんだと思う。ずっとアパート暮らしでは落ち着かないし、私達は共働きをしているから、頭金程度のお金は貯まっていた。具体的な話にならないのは、私が戸惑っているからだった。大きな買い物前の怖気ではなかった。新居に移ったとしても、のびのびとは過ごせないと分かっていたから。夫の顔をちらっと見るが、彼はぼうっと窓の方を眺めている。

 私が夫と知り合ったのは、高校一年生の時だった。同じクラスになったけど、最初は全然話す機会がなかった。きっかけは些細な事。学年で行った健康診断で、私と夫の視力が同じ2、0だと知り、お互い親近感を持ったのだ。「今はいいけど老眼になるの怖くない?」なんて地味な話題で盛り上がり、いつの間にか毎日下校を共にするようになっていた。

 二、三年ではクラスが分かれてしまったものの、順調に付き合い続け、同じ大学に進み、卒業と同時に結婚した。

 今でも高校の頃を頻繁に思い出す。一番良かった時期だ。私は視力が良かったから、彼のクラスが体育の時には、こっそり教室からグラウンドを眺めていたものだ。他の子には顔まで分別がつかなかったようだけど、私には分かった。

 

 パソコンを使う今の仕事についてから、私の目は著しく悪くなった。2、0あった視力も今では0、3しかない。

「轟さん、今日で私、ここの会社終わりなんです。お昼ご一緒しませんか?」

 仕事の話が一段落した途端、派遣社員の後藤さんが不自然に明るい声で、話題を変えてきた。突然の彼女の申し出に、私は返事に窮す。私は今日という日を心待ちにしていたのだ。彼女の退社日を。そんな人とご飯なんか食べたくない。美味しいものだって不味くなってしまう。

 そんな私の気持ちを知っているかのように、後藤さんは両手を合わせ拝むような格好をした。一瞬、きらっと何かが光る。

「嫌なのは分かってるんですけど今日、どうしてもあなたと話がしたいんです。お願いします」

 そこまでされては、拒む事ができない。周りの目も気になった。


「で、話って何?」

 私は不愉快な気持ちを隠さなかった。

「ごめんなさい、本当に。わざとじゃないんです。奥さんがこの会社で働いてるって知ってたら、絶対この仕事断ってましたから」

 そう言って、後藤さんは頭を下げてきた。

「もう夫とは会ってないんですよね?」

 私が聞くと、後藤さんが勢いよく首を縦に振った。

「会ってないですよ」

 彼女は二年前まで、私の夫と不倫関係にあった人だ。私が感づいて夫に問いただした後、二人は別れたようだったけど、はっきりと夫から「別れた」と言われたわけではない。ただ、後藤さんが夫の勤め先で働くのをやめた事、夫はかかってきた電話にこそこそ出る事がなくなり、家に帰ってくるのが早くなった事から、終ってくれたんだろうと私がポジティブに決め付けていただけだった。それに、夫は私にばれた時、相当ダメージを受けていた。私の言葉にかもしれないけど。

 ――あなた、浮気ができるぐらい暇なのね。

 私が言ったのはその一言だけ。泣き喚いたり、恨み言を言う事は一切無かった。でも、彼にとっては、かなり辛らつな言葉だったのかもしれない。彼はその時からずっと不能だ。

「そう、じゃあ、他の人と不倫してるのかもしれないわ」

 私にはもう自信がなかった。あんなに好きになって結婚したのに、彼の気持ちも、自分の気持ちも分からない。夫は後藤さんと三年も不倫関係を続け、私を騙し続けた。今も私以外の女は抱けるのかもしれない。私に対してだけ、駄目で。だったら別れたほうが良いんじゃないか、なんて。ふと、捨ててしまった悠のホッカイロを思い出した。悠には悪いけど、余熱の残っていないホッカイロを持つほど、馬鹿げた事なんてない。私と夫の関係もまさにそれなんじゃないだろうか。もう、お互いに愛情はない。それなのに一緒に暮らしている。悠の事を考えると簡単には別れられないけど。

 思いつめてしまう私に向かって、後藤さんが「それはないですよ」と反論してきた。

「轟さんは、別れる時にこう言いましたよ。やっぱり大切なのは奥さんだけだって。自分が間違っていたって」

 二年前はそうでも、今は違うかもしれない。晴れない私の表情に、後藤さんは歯がゆそうに足踏みした。

「じゃあ、轟さんが私と付き合ったきっかけを教えてあげましょうか?」

「え?」

「会社の飲み会の帰りでした。轟さんが降りるA駅って、私の乗り換え駅なんですよ。それで、一緒にA駅に降りた時、轟さんが反対側のホームを歩く奥さんを見つけたんです」

「私を?」

「ええ、そうなんです。結構距離があるんですよね。それでも轟さんは、奥さんの姿をすぐに見つけることができたんですよ。ホーム、凄く混んでたのに。条件反射みたいに、彼はあなたに向かって手を振ってました。あなたは気が付かなかったようだけど」

 視力は五年以上前から悪くなっていた。でも、仕事や遠くを見る時以外裸眼で過ごしているから、多分その時も見えなかったのだと思う。

「なんか、変わっていくものを見ると淋しくなりません? 轟さんもそうだったんだと思います。轟さんと奥さんって、視力が良いカップルだったんでしょう? 彼、自分だけ取り残された気分になったんじゃないかと」

「でもそんな事で」

「そうですよね、凄いくだらないと思います。でもあの時に、彼の心に隙ができたんです」

 私があの時眼鏡をかけていれば、手を振る彼に気が付く事ができたのだろうか。夫は浮気しなかったのだろうか。

「何であなた、そんな話をするの?」

 私が尋ねると、後藤さんは少し照れたように笑った。

「今私……幸せなんです」

 そう言って膝に置いてあったであろう左手を私に見せてきた。薬指にはダイヤの指輪が嵌っていた。さっき光っていたのはこれだったのか。

「昨日貰ったんです。付き合っている人から。近いうちに籍をいれる予定です」

「……いい時なんて、いつまでも続かないわよ。私はあなたに壊されたんだから」

 後藤さんが急に私と話したがった理由が、分かったような気がする。彼女は幸せの絶頂で、幸せのおすそ分けがしたいのだろう。自分だけ幸せなのが、後ろめたいのかもしれない。

「あんな事、しなければ良かった。……今の仕事、やり甲斐があったんです」

 真剣な目で、後藤さんが私を見る。

「あなたみたいに、仕事が出来るようになりたいです」

 私だって、と心の中で呟いた。悔しいけど、後藤さんは有能な人だった。こんな因縁がなければ、ずっとこの会社にいて欲しい、と思うほど。

 いつの間にか、テーブルの上には二人分のパスタが並べられていた。ミートソースとカルボナーラ。

「あ、冷めちゃいますね。早く食べなくちゃ」

 もう言う事はないとばかりに、後藤さんは食事を始めた。

 私はお腹がすいているはずなのに、一口も食べる事ができなかった。


 夕方六時過ぎ。

 私はA駅に着いた電車を降り、階段に向かって歩こうとして、やめた。

 ――奥さんの姿をすぐに見つけることができたんですよ。ホーム、凄く混んでたのに。条件反射みたいに、彼はあなたに向かって手を振ってました。

 後藤さんの言葉が、忘れられない。

 私は後悔しているのだろうか。視力が下がったのは不可抗力、眼鏡をかけていないのも私の自由で、勝手に夫が感傷的になっただけ。それで心に隙ができたなんて、私の知ったこっちゃない。それなのに……!

 向かい側のホームに電車が滑り込んできた。あの電車に夫が乗っている確率は低い。

 それなのに私は、手に提げたバッグから急いで眼鏡を取り出していた。

 ――辛うじて、愛しているのかもしれない。

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