運命の赤い糸を、解く。
―――運命の赤い糸を、信じますか?
私には赤い糸が視える。
俗にいう、運命の赤い糸、というやつだと思う。
赤い糸は左手の小指に結ばれていて、その人の恋人や配偶者に繋がれている場合が多い。
恋人や配偶者以外の人に繋がっている場合ももちろんある。
私が視える赤い糸は、“今”のその人にとっての運命であって、一度結ばれたら千切れることがない、というものではないらしい。
“今”恋人に結ばれていても、“未来”では違う人に結ばれる可能性もある。
つまり、この赤い糸は、“今”両想いかどうかを知るためのものだと私は考えている。
そんな私には、恋愛相談が絶えない。
「あの人と私は、上手くいきますか?教えてください、環さま」
私が通う学園の、誰もない教室で私は彼女と向かい合っていた。
真剣なまなざしで私を見つめる彼女に私は微笑む。
「ええ、大丈夫よ。貴女と彼は赤い糸で結ばれているもの。きっと上手くいくわ」
「まあ!本当ですか?嬉しい……!ありがとうございます、環さま」
「お役に立てたようで嬉しいわ。またいつでも相談しにいらしてね」
「はい!」
彼女は満面の笑みを浮かべて、私にお礼を言って去っていく。
私はそんな彼女を微笑んだまま見送った。
少し前に見かけた彼女と、彼女の想い人の間にはしっかりとした赤い糸が結ばれていた。
きっと彼女は幸せな恋愛をするだろう。
どうか彼女のその恋が末永く続きますように。
私はそう祈った。
私が恋愛相談をされるようになったきっかけは、仲の良い友人たちとの雑談だった。
友人たちにはもうすでに婚約者が決まっている子も多く、その婚約者についての話で盛り上がった。
私にはまだ婚約者はいないので、彼女たちの話を微笑みながら聞いていた。
「彼と上手くやっていけるか、心配だわ…」
「大丈夫よ。なんとかなるものだって、お母様も、先に嫁いだお姉様も仰っていたもの」
「そうかしら…実は私、彼が見知らぬ女性と一緒にいるのを見てしまったの…」
「まあ…」
友人たちの間に気まずい空気が流れる。
私は彼女の左手の小指をじっと見つめて、赤い糸が結ばれていることを確認すると口を開く。
「なにか、事情があったのではないかしら」
私の発言に、友人たちは顔を見合わせる。
「どうしてそう思われますの?」
「いえ…特に理由はないの。これはただの私の勘だけれど、貴女とその婚約者の方は運命の赤い糸で結ばれている気がするの…確かめることは勇気のいることだとは思うけれど、勇気を出して確かめてみたらいかが?」
「運命の、赤い糸…ですか」
「素敵…」
「…わかりましたわ。彼に確認をしてみます」
決意をした目でそう言った彼女に私は微笑んで「頑張ってね」と言った。
その数日後、婚約者に確認をとった彼女が興奮した面持ちで私に報告をしてきた。
「環さまの仰る通りでしたわ!あの日彼と一緒に歩いていたのは、彼の妹さんでしたの」
「まあ、そうだったの」
「ええ!彼の妹さんは病弱で、私はまだ一回も会ったことがなかったので、誤解をしてしまいましたの…」
彼女は嬉しそうに頬を染めて、私に礼を言った。
それからだ。
友人たちが私によく恋愛相談をするようになった。
私の指摘は的確だと評判で、友人だけに止まらず多くの令嬢たちから相談されるようになった。
令嬢だけではなく、ご婦人方からも相談されるようになり、私の評判はお母様やお父様の耳にも入ったようで、夕食の時にお父様に聞かれた。
「環、最近おまえの評判をよく聞くようになったよ」
「評判…ですか?」
「そう。おまえに恋愛相談をすると想いが通じる、とね」
「…そんな。私はただ思った事を言っているだけですわ」
「それにしても的確な指摘をしているようだね。まるで人に視えないものが視えているように」
「…それは」
「環、正直に話してちょうだい。お父様もお母様も、貴女を心配しているのよ」
今まで黙っていたお母様が口を開く。
私はうつむき、考える。
お父様もお母様も私を愛してくれている。
だけど、人には視えないものが視えてしまう娘を不気味に思わないだろうか?
私が悩んでいると、お父様が「少し昔話をしようか」と呟く。
お父様の言葉に私は顔を上げると、お父様は優しく微笑んでいた。
「私の母…おまえのおばあ様の話だ。おまえはもう覚えていないのだろうけど、おばあ様はおまえをとても可愛がっておられた。おまえのその容姿、若い頃のおばあ様に瓜二つだよ」
「まあ…おばあ様と?」
「ああ。おばあ様には不思議な力があった。まだ私が幼い頃、私と安曇さんが出会う前の話だ。私と安曇さんは家同士で決められた婚約者だった。幼い私はおばあ様に、安曇さんと仲良くできるだろうか、と不安を口にした事があった」
安曇、とはお母様の名前だ。
お父様とお母様は家同士で決められた婚約者だったけれど、二人ともお互いを深く愛し合っている。それもう、見ているこちらが目のやり場に困るくらい、仲良しだ。
そんな二人の左手の小指には、太いしっかりとした赤い糸が結ばれている。
「おばあ様はそんな私に、優しく微笑んでこう言った。『大丈夫よ、貴方と安曇さんは赤い糸で結ばれた運命の相手なのですもの』と」
お父様の言葉に私は目を見開く。
おばあ様が幼いお父様に言った台詞。それはまるで私と同じく、赤い糸が視えているかのようだ。
「実際、私は安曇さんと出会い、一目で恋に落ちた。おばあ様の仰ったことは正しかった」
「………」
「おまえはよく、相談者の方に言っているそうだね?運命の赤い糸で結ばれた二人だと」
「そ、れは…」
「おばあ様はよく仰っていた。『わたくしには運命の赤い糸が視えるのよ』と」
お父様は微笑みながらも、その瞳は嘘を許さない、と言うように私を射抜く。
私はお父様から視線を逸らすことができずに、固まる。
「―――環。おまえは、おばあ様と同じように、運命の赤い糸が視えているのではないか?」
「お父様…」
ふるり、と体を震わせた私に、お母様が優しく肩を抱いてくれた。
そして優しく私の背中を撫ぜる。
「環。お父様は貴女を責めているわけではないのよ。だからそんなに怯えなくても大丈夫。斎さんも、環を怯えさせてないでくださいまし」
「…怯えさせるつもりはなかったのだが…。環、もしおまえがおばあ様と同じように赤い糸が視えているのだとしたら、少し、手伝って貰いたいことがあるんだよ」
「…手伝い、ですか?」
苦笑したお父様を見つめ、私は首を傾げる。
ただ赤い糸が視えるだけなのに、私にお父様を手伝うことがあるのだろうか?
「ああ。でも、大したことではないんだ。ある人物の赤い糸が誰に繋がっているか、確かめてほしいんだよ」
「それくらいでしたら…」
「助かるよ、環。詳しいことはまた追って話す。それまでは今までと同じように、ご令嬢やご婦人方の相談に乗ってあげるといい」
「はい、お父様」
私が頷くと、お父様は満足そうに微笑んだ。
*****
その日、私はとあるご令嬢の相談に乗っていた。
お父様公認となった恋愛相談は、現在は家の客間で行われている。
「辛いのです…あの人の心はもう私にはないとわかっているのに、この想いを捨てることができないのです…環さま、私はどうすればいいのでしょうか?」
私は彼女のその問いに戸惑った。
今まで私が受けてきた相談は、どちらかと言えば、気になる人と両想いなのかを知りたい、というものばかりだった。
しかし、今回の相談は毛色が違う。
私は戸惑ったまま、彼女の小指を見る。
か細い赤い糸が彼女の小指に絡んでいた。糸の先は切れてしまっている。
これは、行き場のない彼女の想いそのものだ。
私は少し悩んで、彼女を見つめた。
「…ごめんなさい、少し、左手の小指を見せて貰えないかしら」
「え?あ、はい…どうぞ」
彼女は突然の私の申し出に戸惑った顔をしつつも、素直に私に小指を差し出す。
白くきれいな指。そんな指にきつく絡んだ赤い糸。
私は試しに赤い糸に触れてみた。どうやらちゃんと触れるようだ。
ならば、この絡まった赤い糸をほどくこともできるのではないだろうか。
絡まった赤い糸をほどけば、彼女は前を向けるようになるのでは。
そう考えた私は、彼女の小指に絡んだ赤い糸をほどき始まる。
「あの…環さま?」
戸惑った彼女の声を無視し、私は赤い糸をほどくことに集中する。
私は手先が器用だ。だから、複雑に絡んだこの赤い糸をほどくことができる自信があった。
少しずつほどけていく赤い糸。
あともう少し。私は集中力をさらに高めて赤い糸をほどく。
するり、と赤い糸がほどけ、彼女の小指から消えた。
私はそれを確認したのち、戸惑っている彼女を見つめ、微笑んだ。
「…まじまじと見てしまって、ごめんなさい。とても綺麗な指ね」
「いえそんなこと…」
「ところで先ほどの相談の内容なのだけど…貴女、まだ彼が好き?」
「え…?あ、あら…?どうしてでしょう…先ほどまで彼を想うと苦しくて仕方がなかったのに、今はその苦しみがありません…」
「まあ、そう。きっと、貴女の小指に絡んだ赤い糸がほどけたのね。だからこれから貴女は新しく恋をして、先に進めるわ」
「そうでしょうか…」
「ええ、そうよ。だから、顔を上げて、しゃんと胸を張って歩くといいわ。だって、貴女はこんなにも魅力的なんですもの、今度こそ運命の赤い糸で繋がった方と出会えるわ」
「不思議ですね…環さまにそう言って頂くと、なんだかそんな気がしてきますわ。ありがとうございます、環さま」
「いいえ。またいつでも話をしにいらしてね」
少しすがすがしい顔をした彼女に、私は微笑む。
そして、貴女に素敵な出会いが訪れますように、と言った。
彼女を見送ったあと、私は急な眩暈を感じ、倒れそうになる。
それを慌てて私付きの侍女である青葉が支える。
「お嬢様!」
「青葉…ごめんなさい。少し眩暈が…」
「無理をなさらないでください。さあ、こちらへ」
青葉に支えられて、私はソファーに腰を下ろす。
私がソファーにもたれかかって休んでいると、青葉がハーブティーを淹れてくれた。
青葉にお礼を言って私はハーブティーを飲む。
ゆっくりとハーブティーを飲み終わると、気分の悪さがなくなり、大分楽になっていた。
「大分楽になったわ。ありがとう、青葉」
「いいえ、お嬢様。これくらい当然です。ですが、珍しいですね。お嬢様が眩暈を起こすなんて…」
「そうね…」
私は考える。
私は健康に気を遣っているので、滅多に体調を崩すことはない。
先ほどまではまったく具合も悪くなかったのに、突然起こった眩暈。
もしかして、これは赤い糸をほどいた反動だろうか。
そういえば、意識して赤い糸を視る時は疲れを感じる。
今日は意識して視るだけではなく、赤い糸をほどいた。だから、その反動で眩暈が起こった。
そう思えば納得できる。
私はその日以降、私は赤い糸をどうすることができるのかを見極めるべく、積極的に赤い糸を視て回った。
その結果、わかったことは3つ。
1つは絡んだ糸をほどくことができるということ、もう1つは切れかかった糸を触ると修正することができるということ。
そして、赤い糸を千切ったり、結んだりということはできないということだ。
ある日、私はお父様の書斎に呼び出された。
例のお手伝いの話だろうか。
私はノックをし、書斎に入る。
お父様は私を見るとにっこりと笑顔を浮かべた。
「お父様、お話とはなんでしょうか」
「ああ、手伝って貰いたいことがある、と言っただろう。その話だ。まずはこれを」
そう言ってお父様が渡してきたのは、夜会の招待状だった。
しかも、皇家主催のものだ。
日付は二週間後になっている。
「…これは?」
「おまえにはこれに参加してもらう。そこで、桐彦様とその婚約者であられる雪乃嬢に赤い糸が結ばれているか、確かめて貰いたい」
「桐彦さまというと…皇太子であられる、あの桐彦さまですか?」
「ああ、そうだ。最近少し桐彦さまの周りに不穏な気配があってね…」
「不穏な気配…?」
「ああ、どうやら桐彦さまとその側近になる予定の子息たちが一人の令嬢に懸想しているようなんだ…できればそのあたりの様子も見てきてほしい」
「わかりました」
「雪乃嬢も随分と心を痛めているようだ…あまり交流はないかもしれないが、彼女を励ましてあげてやってくれ」
「はい、お父様」
私はしっかりと頷き、お父様の書斎をあとにする。
―――雪乃さま、か。
私は雪乃さまの姿を思い浮かべる。
雪乃さまは伝統ある華族、それも公爵家のお生まれで、私と同じ公爵令嬢という身分だ。
もっとも、家格は雪乃さまの家の方が高い。
雪乃さまのご実家である、綾小路家は、皇族の流れを汲む家系で、先代の当主の妹君が皇家に嫁がれている。
桐彦さまと雪乃さまは従兄妹にあたるのだ。
お二人と交流はなかったけれど、よくお二人が仲睦まじく一緒にいる場面を度々見かけた。
―――最近はお二人が一緒にいる姿を見かけないと思っていたけれど、まさか、桐彦さまが雪乃さま以外の方に懸想をされているなんて…信じられないわ。
雪乃さまは女の私から見ても美人だ。
人望もあり、まるでお手本のようなお嬢様、という印象がある。
そんな雪乃さまを差し置いて桐彦さまが現を抜かす令嬢というのは、どのような方なのだろう。
二週間後の夜会が、楽しみなような、恐ろしいような、複雑な気持ちになった。
******
この国は数十年前まで鎖国をしていた。
しかし、時人たちによって開国したこの国はあっと言う間に西洋の文化を取り入れ、文明開化を遂げた。
その結果、元来より着ていた着物の他にドレスやスーツと言った西洋の衣装が取り入れられ、華やかになった。
中でも令嬢たちを虜にしてやまないもの、それはレースと呼ばれる繊細な布である。
このレースをさり気なく取り入れるのがお洒落なのだ。
レースの他にもリボンも令嬢たちを虜にしてやまない。
そんな私も、レースやリボンは大好きだ。
「お嬢様、素敵ですわ、その振袖」
「ありがとう、青葉」
我が公爵家では、お父様の「元来の伝統を受け継ぐべし」という思想のもと、服装は洋装ではく和装だ。
そのため、私はドレスを1着も持っていない。
だけど、レースやリボンへの憧れを捨てることはできず、振袖にレースを縫い付けてもらったり、リボンを付けたりしている。
完全は洋装でなければいいのだ。ちょっとしたあれんじにはお父様はなにも言わない。
私は山吹色の振袖に身を包んでいる。
菊の花が大きく刺繍された振袖は、公爵令嬢が着るに相応しい装いだと思う。
さり気なく袖口からのぞいた繊細な白いレースがお洒落だ。
普段は小袖に袴という女学生の服装をしているため、たまに着る振袖の帯の窮屈さが居心地悪く感じる。
髪は丁寧にまとめられ簪をさし、薄く化粧をすればどこからどうみても、大和撫子に見えるだろう。
私はお父様と共に公爵家所有の馬車に乗り込み、夜会の会場へ向かう。
皇家所有の館で夜会は開かれるそうだ。
「環。緊張している?」
「いいえ、お父様。お父様が一緒なのだもの、緊張なんてしませんわ」
「そうか。それは、良かった。今日は頼んだよ、環」
「はい、お父様。精一杯頑張ります」
「くれぐれも無理だけはしないように。おまえは私たちの宝なのだから」
「はい、お父様」
私がお父様の言葉に頷いた時、御者が目的地に着いたことを知らせる。
お父様が鷹揚に頷き、馬車から降り、私が馬車から降りるのを手伝ってくれた。
「環、会場に入ったら少しの間別行動だ。その間に、わかっているね?」
「はい、お父様。承知しております」
「では、行くとしようか。まだ桐彦様はいらっしゃらないようだ。桐彦様たちがいらっしゃるまでは、夜会を楽しむといい」
「はい」
歩き出したお父様の後に従い、私は歩く。
振袖は歩きにくい。普段の袴に慣れてしまった私には歩くことが大変だ。
だけど、そんなことは表情にはおくびにも出さず、優雅に見えるように歩く。
会場に入って少しすると、友人たちが私に挨拶にやって来る。
「環さま、ご機嫌よう。とても素敵な振袖ですわ」
「その簪も素敵だわ。さすが、環さまですわ」
「まあ、ありがとう、皆さん。皆さんも、とても素敵よ」
私は微笑んで、友人たちの賛辞を受ける。
いつもの事なので、賛辞には慣れている。今更照れたりはしない。
私たちは暫く友人たちと談笑をしていると、辺りがざわざわとしだす。
何事か、と思い辺りを見渡すと、皇太子であらせられる桐彦さまがいらしたようだ。
桐彦さまは甘い顔立ちの美青年である。
桐彦さまに微笑まれた令嬢は失神することもあるくらい、整った顔立ちをしている。
そんな桐彦さまの隣にいるのは、婚約者である雪乃さまではなく、見知らぬ令嬢だった。
その令嬢はとても可愛らしい顔立ちをしていて、庇護欲をそそるような容姿をしている。
桐彦さまが大礼服を着ているのに合わせたのか、彼女は薄い桃色のドレスを身に纏っていた。
「まあ…またあのお方を…」
「皆さん、彼女をご存知なの?」
「ええ、環さま。彼女、有名でしてよ。紺野男爵のご令嬢、凪さま。凪さまは桐彦さま以外にも、有能とされた貴族のご子息たちを侍らせ、骨抜きにしているそうですわ」
彼女――凪さまのことを語る友人たちの口調は刺々しい。
私はまあ、と口元に手を当て、驚いた風を装いつつ、彼女を観察する。
しかし、遠すぎてよくわからない。
近くによらなければ、と私が考えていたところで、桐彦さまの婚約者であられる雪乃さまがいらっしゃった。
桐彦さまと、桐彦さまに寄り添う凪さまを見て、一瞬悲しそうな顔をするも、雪乃さまは気丈な顔をする。
そのまま雪乃さまは桐彦さまたちの脇を通り過ぎようとしたとき、事は起こった。
「雪乃」
桐彦さまが雪乃さまを呼び止めた。
雪乃さまはさも今気づいたかのように、桐彦さまを見つめた。
「桐彦さま…ご挨拶が遅れて、申し訳ございません。桐彦さまにおかれましては本日もご機嫌麗しく…」
「そんなわけないだろう」
桐彦さまは冷たく雪乃さまを見据えた。
そんな桐彦さまの様子に雪乃さまは一瞬びくり、とするも、すぐに微笑む。
「まあ、そうですか。それはご無礼を…」
「雪乃。いや、綾小路公爵令嬢。貴様は、彼女、紺野男爵令嬢に数々の嫌がらせをしてきたそうだな?」
「嫌がらせ…ですか?」
「とぼけるな。証拠は挙がっているんだぞ」
「わたくしにはなんのことなのか、さっぱりわかりませんわ」
一発触発な雰囲気に、私はまずい、と思った。
とにかく早く桐彦さまに近づき、彼の赤い糸が誰に繋がっているのかだけでも見極めなくては。
私はそう考え、心配そうに成り行きを見守る友人たちからそっと離れ、桐彦さまたちに近づく。
「まずは、先日の夜会で凪のドレスに飲み物をこぼし、あげくに階段から突き落とそうとし、そして彼女に数々の暴言や彼女の名誉に傷がつくような誹謗中傷をした。間違いないな?」
「わたくしには身に覚えがありません」
「まだとぼけるつもりか!」
「桐彦さまっ…いいのです…!私が、悪いのです…桐彦さまを独り占めしてしまったから…婚約者である雪乃さまがお怒りになるのも無理はないですもの…」
「凪…」
「桐彦さま、わたくしが彼女に嫌がらせをした証拠を見せてくださいまし。証拠があるのでしょう?」
「…ああ、もちろんだ。これを」
そう言って桐彦さまは紙を雪乃さまに見せつけるように突き出す。
私の位置からは何が書かれているのかまではわからない。
「これが、証拠だ」
「…まあ、こんなものが、証拠?」
「こんなもの、だと…?」
「ええ、そうですわ。全部、状況証拠ではありませんか。飲み物を持って彼女の近くを歩いていたわたくしを見た、階段の近くにわたくしがいたのを見かけた、などと…どれもわたくしがやった、という決定的なものではありません」
「だが!凪は貴様がやったと…!」
「彼女だけの言葉を信じ、わたくしの言葉は信じられないと?そう、仰るのですか?」
「ああ、そうだ」
しっかり頷いた桐彦さまに、雪乃さまはとても悲しそうな顔をした。
見ているこちらの胸が痛くなるような顔だ。
「…見損ないましたわ、桐彦さま」
「見損なったのはこちらの方だ!綾小路雪乃!今ここで貴様との婚約…―――」
「お待ちくださいませ、桐彦さま」
私は雪乃さまと桐彦さまの間にするり、と割って入る。
二人とも突然現れた私に目を丸くしている。
「…なんだ、貴様は」
「申し遅れました。お初にお目にかかります。私、西園寺公爵の娘、環でございます」
「西園寺公爵の…。環、と言ったか。何用だ。こちらは見ての通り、取り込み中だ」
「ええ、存じておりますわ。その上でお待ちください、と申し上げたのです」
「…なに?」
桐彦さまが怪訝そうな顔をして私を見つめる。
私はそんな桐彦さまを無視し、桐彦さまの左小指を見つめる。
そこにはきちんと赤い糸が結ばれていて、結ばれた先にいるのは桐彦さまの隣にいる彼女ではなく、雪乃さまであることを確認した。
前にお二人の姿を見た時に、お二人が赤い糸で結ばれていることを私は確認していた。
だけど私の視える赤い糸は絶対的なものではない。
もしかしたら変わっているのかもしれない、とも思ったがそれも杞憂だったようだ。
―――では、なぜ桐彦さまは雪乃さまではなく、凪さまを選んだの?
私がじっと桐彦さまの小指を見ていると、桐彦さまの小指に赤い糸だけではなく、赤黒い糸が絡みついているのに気づいた。
これは、なんだろう。
私は赤黒い糸にそっと触れてみた。
すると、ゾワリ、と悪寒が走った。
これは良くないものだ、と私は直感的に感じた。
だけど、私に糸を断ち切る力はない。どうしたらいいのだろう。
私が考えていると、桐彦さまが痺れを切らしたように「おい」と私を呼ぶ。
「黙ってないで、さっさと要件を言え」
「…大変失礼致しました。では、私の質問に答えてくださいますか?」
「質問?」
「まずは、雪乃さま」
「…わたくし?」
「ええ、貴女です。貴女は、桐彦さまを愛していらっしゃいますか?」
「え…なにを…」
「重要なことなのです、どうかお答えください」
いきなりとんでもない質問をした私に雪乃さまも動揺を隠せないようだ。
そして暫く目を閉じたのち、観念したように目を開いて言う。
「…そんなこと…昔からわたくしが愛しているのはただひとり。桐彦さまだけですわ…」
「そうですか。ありがとうございます。お次に、桐彦さま」
「な、なんだ…」
「貴方は、凪さまを愛していらっしゃいますか?」
「そんなもの決まっ…」
「本当に?貴方は心の底から、凪さまを愛おしいと思っておりますの?」
私は不敬に値するとわかりながらも、まっすぐに桐彦さまの目を見て問いかけた。
「もちろん、俺は…俺は…」
「桐彦さま…?」
最初こそ勢いよく言った桐彦さまだが、次第にその勢いがなくなり、戸惑ったように俺は、と繰り返す。
そんな様子の桐彦さまを凪さまは訝し気に見つめる。
雪乃さまはただ諦めたように桐彦さまを見ていた。
「煩い…違う。違うんだ…俺は…俺が、愛しているのは…」
桐彦さまはまるで視えない何かを戦うように、頭を抱えだした。
そんな桐彦さまを私は冷静に見つめた。
そして、思う。
―――お願い、負けないで。
「俺が、本当に愛しているのは…凪じゃない…雪乃だ」
「桐彦さま…!?」
「桐彦さま…?」
凪さまが驚いたように隣にいる桐彦さまを見るのと同じように、雪乃さまも目を見開いて驚いたように桐彦さまを見つめた。
驚きを隠せない雪乃さまを、桐彦さま苦しそうに見つめ、呟く。
「雪乃…すまない。俺は、なにか変なものに……っ!?」
「桐彦さま!?」
凪さまが絶望して後ろにじりじり下がるのと入れ違いに、桐彦さまが苦しみだす。
そんな桐彦さまを雪乃さまが支える。
「雪乃…俺から…離れるんだ…」
「桐彦さま?」
突然離れろ、と言い出した桐彦さまを雪乃さまは訝し気に見る。
「…桐彦さま。私を裏切るのですか」
低い、妖艶な声が辺りを支配する。
誰の声、と声のした方を振り返ると、そこには顔を歪めて笑う凪さまの姿があった。
「凪さま?」
「ねぇ、桐彦さま。貴方は私が好きなのでしょう?私から離れては、だめですわ」
ゆっくりと凪さまは桐彦さまに近づく。
桐彦さまは顔を押えながら、近づいてくる凪さまを睨みつけるように見た。
「私を愛している、と仰ったでしょう?それも嘘でしたの?」
「ねぇ、桐彦さま」と凪さまは桐彦さまの正面に立ち、桐彦さまの瞳を見つめた。
「私を愛して」
そう凪さまが桐彦さまに囁いた時、凪さまの瞳が紅く光ったように見えた。
その瞬間、桐彦さまが呻き、桐彦さまを支えていた雪乃さまを突き飛ばす。
雪乃さまは小さく悲鳴をあげ、床に倒れ込んだ。
私は床に倒れ込んでしまった雪乃さまの傍に駆け寄る。
「大丈夫ですか?お怪我は?」
「…大丈夫ですわ。なんともありません」
雪乃さまは私を安心させるように微笑み、桐彦さまを見つめた。
桐彦さまは未だに苦しそうにしながらも、桐彦さまに寄り添う凪さまを追い払うことはせず、そのままにさせている。
「桐彦さま?私を愛してくださいますか?」
「…ああ」
「まぁ!嬉しい…」
「いけません、桐彦さま。惑わされてはなりません」
私が声を張り上げて桐彦さまに訴える。
桐彦さまと雪乃さまを繋ぐ赤い糸は、先ほどよりもか細くなっているように見えた。
このままではいけない、と私の直感が告げている。
しかし、桐彦さまはぼんやりと私を見つめるだけで、何も反応を示さない。
「桐彦さま…?」
「…あなた、邪魔だわ」
桐彦さまに掛けた声音とはうって変わって、氷のように冷たい声音で凪さまは私を見つめ、言った。
私は怯みそうになるも、ここで怯んではいけない、と自分を叱責し、凪さまを見つめ返す。
「あなたね?あなたが、邪魔をしたのね?私の邪魔をしないで」
「邪魔をしたつもりはありませんが」
「ああ、小賢しい小娘ね。おまえさえいなければ、すべて上手くいったのに…」
凪さまがギロリと私を睨む。
気のせいだろうか?
凪さまの背後に黒い靄がゆらゆらと揺らめいている気がする。
私が呆然と凪さまを見ていると、凪さまは桐彦さまを連れて私に近づく。
「…あら。おまえ、良い匂いがするわね。こちらから食べてしまおうかしら」
凪さまは自身の紅い唇を、血のように紅い舌で舐める。
それはまるで異形の者の姿のようで、私は恐怖に震えた。
「怯えているのね?可愛らしいところもあるじゃない。決めたわ。先に皇太子を食べてしまおうと思っていたけれど、おまえから先に食べることにするわ」
ちろり、と紅い舌を出し、まるで美味しそうな料理を目にしたかのような笑みを浮かべ、凪さまが私に手を伸ばす。
私は恐怖で震える体を無理やり動かし、凪さまの手から逃れる。
だが、バランスを崩し床に座り込んでしまう。
急いで起き上がり逃げようとするが、動きにくい振袖を着ているせいで思うように動けない。
「―――捕まえた」
獲物を捕らえた動物のような顔をして凪さまは私を見て嗤い、手を伸ばす。
私は恐怖のあまりに目をつむった。
そして次の瞬間、ギャッと低い悲鳴が起こる。
いつまで経ってもやってこない痛みや衝撃を不思議に思い、私が恐る恐る目を開けると、目の前に白い軍服を着た人が私を庇うように立っていた。
その手には、刀が握られている。
「やっと化けの皮が剥がれたな、この女狐め」
「き、きさまぁ…!」
少し掠れているが、しかしよく通る声で彼は凪さまに言った。
そんな彼を凪さまは鬼のような形相で睨んでいる。
最初に見た、可愛らしく守りたくなるような凪さまの姿は、もうどこにもない。
そこにいたのは、明らかな異形の者だった。
吊り上がった目は紅く、先ほどまで艶やかな黒髪だったものが金色になり狐のような耳が出て、そしてなにより、9本ものしっぽが生えている。
この姿は、本で見たことがある。
「これは…九尾?」
「そうだ。あれは紺野男爵令嬢に化けた、妖怪、九尾」
「ふ…ふふ。まさか妾の正体を見破られる日が来るとは…妾の変化の腕が落ちたか。それとも、その小娘の力故か」
そう言って、凪さま――いや、九尾が目を細め私を見つめる。
九尾の姿を見た者たちが慌てて逃げだす。
恐怖のあまりに、失神しまう人が相次ぐ。雪乃さまもそのうちの一人だ。
「皇太子を、返してもらおうか」
「はいどうぞ、と返すとでも?こんな上玉、手放せるわけがない。もっとも、そちらの小娘と引き換えに、と言うのなら考えなくもないけれど?」
私は九尾の言葉に、びくり、と肩を震わす。
大事なお世継ぎとただの公爵令嬢である私。
比べるまでもなく、桐彦さまの方が大事だ。
私が犠牲になって桐彦さまが助かるのなら、私はこの身を犠牲にするべきだ。
そう思い、九尾のもとへ行こうと立ち上がる。
「私…―――」
「君は黙っていろ。
―――九尾、おまえのその手には乗らないぞ。おまえは皇太子も彼女もどちらも手に入れるつもりだろう。皇太子は今やおまえの操り人形。おまえの呪術を解かない限り、皇太子はおまえの言うことを聞く」
私は彼の言葉に息をのむ。
九尾はそんな彼を見つめ、可笑しそうに嗤った。
「ふふ…少しは頭が回るようだ」
「今すぐ皇太子の呪術を解け」
「嫌だと言ったら?」
「無理やりにでも解かせる!」
彼は九尾に向かい、刀を振り上げる。
九尾はそれを綺麗に避けるが、彼はすぐさま追撃をする。
彼の刀が九尾を掠めた。
「なかなかやるな、小僧…この妾を傷つけるとは」
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた九尾も、彼の猛攻に余裕をなくしていく。
そして追い詰められた九尾は、桐彦さまを引き寄せ、人質にとった。
「動くな!おまえたちの大切な世継ぎに傷がついても良いのか」
「…チッ」
彼は舌打ちをし、攻撃の手を止めた。
しかし、いつでも九尾の隙をつけるように、刀を握り構えている。
「ふふ、形勢逆転のようね?」
「小賢しい真似を…」
九尾は余裕を取り戻し、笑みを浮かべた。
桐彦さまを人質に取られては、どう考えても彼が不利だ。
しかし、ただの公爵令嬢である私にできることなんてなにもない。
どうしたら、と私は必死に頭を回し、考え込む。
すると、視界の隅に九尾から出ている赤黒い糸が写った。
私はなんとなく、その赤黒い糸を辿ると、その赤黒い糸のうち、1本は桐彦さまに繋がっていることに気づく。
「…あの糸はなにかしら」
私がぽつりとつぶやくと、彼が私の言葉に反応する。
「君は、あの糸が視えるのか?」
「え、ええ…」
「そうか、なるほど…君が西園寺公爵の娘か。通りで九尾が君を欲しがるわけだ」
「…どういうことですか?」
「詳しいことはあとだ。君の能力を見込んで頼みがある。ほんの一瞬でいい、九尾の気を惹いてくれ。その隙に僕があの糸を断ち切る。しかし、あの糸はすぐに繋がってしまう。その前に、皇太子に結ばれたあの糸をほどいてほしい。頼む、もうこれしか皇太子を助ける手立てがない」
なぜ彼は私の力の事を知っているのだろう。
この力のことは、お父様にしか話していないのに。
疑問に思いつつも、私もそれが最善の策だと思ったので、しっかりと頷く。
「…わかりました。やってみます」
「…すまない。恩に着る」
「がんばりますわ」
私と彼がこそこそ話を終えると、私は九尾に近づく。
「お願い、九尾。私が人質になります。だから桐彦さまを解放して差し上げて」
「…ふん、いいだろう。ただし、おまえがこちらに来るのが先だよ。さあ、こちらへおいで」
私は頷き、ゆっくりと九尾のもとへ行く。
九尾は私を見て満足そうに微笑んだ。
九尾がほんの少し油断した、その一瞬だった。彼が踏み込み、九尾を攻撃すると見せかけて赤黒い糸を断ち切った。
私は糸が断ち切れたのを視界の端に捉えると、桐彦さまに絡まっている赤黒い糸をほどく。
しかし中々思うようにいかず、ただ焦りばかりが生まれる。
はやく、はやく!
私はもどかしい気持ちを堪えて、丁寧に糸をほどいていく。
しかし、その僅かな間でも、糸は繋がろうと伸びていく。
そして糸が繋がってしまう、と思ったその時、また彼が糸を断ち切った。
「焦るな!繋がりそうになったら僕が何回でも断ち切る!」
「は、はい!」
「まさか。この小娘…糸を?させぬ!!」
「そうはいかない!」
九尾が私に攻撃を仕掛けようとするのを、彼が防ぐ。
「本当に、邪魔な小僧だ…!妾の邪魔をするでない!」
九尾が9本の尾を使い、彼に攻撃を仕掛ける。
9本の尾は鞭のようにしなり、四方八方から彼を襲う。
しかし彼は丁寧に1本ずつ尾を防ぎ、私たちを庇う。
彼が凌いでくれている間に、ほどかなくては。
私は指先に集中する。
しっかり集中すると、中々ほどけなかった先ほどとは違い、今度はするするとほどいていくことができる。
そして最後の輪をほどき終わると、赤黒い糸は消え去った。
それと共に桐彦さまが立ち崩れたので、私が慌てて支えようとするが、私一人の力では男の人を支えるのは無理だったようで、一緒に床に倒れ込んでしまう。
幸いなことに、床は柔らかい絨毯が引かれていたので、大した痛みもなく、怪我もしなかった。
「ギャアアア!!よくも、よくも妾の呪術を破ったな、小娘め…!」
「ひっ」
赤黒い糸をほどいたことによって、呪詛返しのようなものが起こったらしく、九尾が悲鳴を上げて私を睨む。
あまりの迫力に私は情けない悲鳴をあげて尻餅をつく。
今にも私に攻撃をしようとする九尾に、白い軍服の彼がすかさず攻撃をする。
「おまえの相手は僕だ!呪術が解けた以上、手加減はしない!」
「このっ…小僧がぁあああぁああぁ!!!」
九尾が怒りの形相で彼に攻撃をしていく。
しかし彼はひょいひょいと華麗に避け、綺麗に攻撃を返していく。
はっきり言って、実力差が違う。
素人の私の目からもわかるくらい、彼が圧倒的に有利だった。
「これで、終わりだ…!」
彼が九尾の懐に入り、大きく刀を振るう。
大きく縦に斬りこまれた九尾が、断末魔をあげる。
「よくも…よくも妾を…!貴様に呪いあれ…!」
「…呪いなら間に合っている。闇に帰れ、化け物め」
そう言って彼が刀を鞘に収めると、九尾の姿が黒い影となりすっと消えた。
それを確認したのち、尻餅をついている私に彼は手を差し伸べる。
「怖い想いをさせてすまない。大丈夫か?」
「ええ…大丈夫ですわ」
私は彼の手を借り、立ち上がる。
せっかくの振袖がよれよれになってしまっている。
家に帰ったら青葉たちが驚くだろう。
「助けてくださって、ありがとうございます。えぇっと…」
私はお礼を言おうとして、彼の名前を知らないことに気づく。
すると彼も名乗っていないことを思い出したのか、名乗ろうと口を開きかけた時、大きな拍手が鳴った。
私と彼が拍手の聞こえた方を振り向くと、そこにはにこにこと笑顔を浮かべたお父様と、彼と同じ白い軍服を着た2人の男の人がいた。
「帷様。遅れて大変申し訳ありません。急いでやって来たのですが、どうやらもう解決したあとのようで」
「…西園寺公爵」
「さすが、帷様ですな。見事な腕前だ。私の出る幕はなかったようですね」
にこにこと言うお父様に、後ろの二人が苦笑している。
もしかして、わざと?
「お父様、この方はいったい…」
「ああ、環。怖い想いをさせてすまなかった」
お父様に彼の正体を聞こうとしたとき、桐彦さまが「うぅん…」と唸り声をあげ、目を覚ます。
「俺は…これは一体…」
「お目覚めですか、桐彦さま」
「西園寺公爵…これは、どういった状況だ?」
「それは僕から説明します」
帷、と呼ばれた彼が一歩前に進み出て、礼をとる。
そんな彼を見た桐彦さまが驚いたような顔をした。
「帷…久しぶりだな。元気だったか?」
「はい、兄上こそ。もっとも、兄上の堕落っぷりは僕の耳にも入ってきましたが、とりあえずお元気そうでなによりです」
「ぐっ…相変わらず容赦ないな…」
桐彦さまは顔をしかめる。
しかし、それは事実だとわかっているのだろう。否定はしなかった。
それよりも今、彼は桐彦さまのことを兄上、と呼ばなかっただろうか?
「あの…お父様?」
「なんだい、環」
「あのお方は…どういった方なんですの?」
「ああ…環は帷様に会うのは初めてだったね。帷様は桐彦さまの実弟で、とある事情により軍に所属している」
「軍に…?」
「ああ、まあ、いろいろ事情を抱えている方でね…私の直属の部下でもある」
「お父様の部下…」
皇子殿下を部下にしてしまうお父様の厚顔さに私は感服した。
私なら絶対にそんなことは恐れ多くてできない。
「兄上、今の状況を説明してもよろしいですか?」
「あ、ああ。頼む」
「まずは、兄上が惚れこんでいた紺野男爵令嬢ですが…」
惚れこんでいた、と言う帷様の台詞のところで、桐彦さまは盛大にむせた。
まあ、自業自得だろう。
「彼女の正体は、九尾でした」
「九尾?」
「はい。兄上は昔から憑かれやすい体質でしたが、今回は大物に憑かれましたね。まあ、兄上の他にも餌食になった子息はたくさんいたようですが」
「……」
「今回、兄上は九尾の呪術にかかり、九尾に惚れこんでいました。しかし、九尾の餌食になる一歩手前で彼女――環嬢により正気を取り戻したことが幸いして、なんとか餌食になることは免れました。それに、婚約破棄も言い渡す前に彼女が割って入ってくれたので、雪乃嬢との婚約は続行されるでしょう。良かったですね、兄上。彼女に大いに感謝してください」
「ぐぅっ…。だが…そうだな。礼を言わせてもらう。ありがとう、環嬢」
「いえ…お役に立てたようでなによりですわ」
桐彦さまは胸を押さえながらも、私に柔らかく微笑んで礼を言ってくださった。
私は目を伏せて、一礼を返す。
「―――今回、正直、環嬢の助けがなければ、兄上を救うことは叶いませんでした。僕からも改めてお礼を言わせてほしい。ありがとう、助かった」
「い、いえそんな…大したことはしていませんもの…」
「いいや、十分大したことだよ」
普段は桐彦さまとは違い、どちらかと言うと冷たい印象を与える帷さまだが、そう言って微笑んだ顔は、桐彦さまに似ている。さすが兄弟だ。
私が照れを隠すため俯くと、私たちの話を黙って聞いていたお父様が会話に割り込んできた。
「帷様。環の助けがどうと、私の耳には聞こえたのですが。それは一体どういうことでしょうか?ぜひ、ご説明頂きたい」
「あ、ああ。どうやら環嬢は呪術の糸も視ることができるようで、先ほど彼女に兄上に絡んでいた呪術の糸をほどいて貰ったんだ」
「―――ほう。そうでしたか」
お父様は綺麗な笑顔を浮かべて帷様を見つめた。
しかし、その目は笑っていない。
「確か、この会場に入る前、帷様は仰いましたね。『僕一人で片づける。誰の力も必要ない』と。ましてや私の娘の力など、借りる必要がないと」
「…確かに言った。だが、ああするしか兄上を救う方法が他になかったんだ」
「そうでしょう。聡明な帷様がそう判断したのなら、確かにそうだったのでしょう。しかし、この件で妖怪たちに環の力を知られてしまったのでは?今まで厳重に隠してきたものが水の泡になった私の気持ちを、わかって頂けますよね?」
「……」
黙り込む帷様に、お父様はため息を漏らす。
―――ちょっと待って。
今まで厳重に隠してきた、とお父様は仰った。
ということは、お父様は私が自分の力のことをお父様に打ち明ける前に私の力の事を知っていた、ということなのだろうか?
「…なら、僕が彼女の傍にいて彼女を守れば問題ないだろう」
「え?」
「帷様が、環を守ってくださると?それが何を意味するか、わかっていますか?」
「…ああ。わかっている」
帷さまは生真面目に頷く。
だけど、私には話の流れがまったく読めていない。
「あの…私、話がよく…」
「…つまり、だ」
黙って事の成り行きを見守っていた桐彦さまが、私にもわかるように、簡潔に教えてくださった。
「帷と環嬢が婚約する、ということだ」
「―――はい?」
私は自分の耳を疑う。
誰が、誰と婚約をすると言った?
「婚約者同士でもない男女二人がずっと傍にいるとなると、外聞が悪い。なら、婚約してしまえばいい、という訳だ。わかったか?」
「え、ええ…正直、わかりたくありませんが、わかりました」
「帷様は御年14歳になられる。対する環は今年16歳になったばかりだ。年回りはちょうどいい。身分も釣り合う。
―――いいでしょう。環との婚約を認めましょう。陛下にもそのようにお伝えしますが、よろしいですね?」
「ああ、異存はない」
きっぱりと帷さまが頷いたのをお父様は確認すると、「ではさっそく陛下にご報告に行って参ります」と言って、ビシッと敬礼をするとくるりと踵を返し歩き出す。
桐彦さまも未だに気を失っている雪乃さまを人に任せたあと、「俺も父上に報告に行く」と言って、お父様のあとに続いた。
私が呆然とお父様を見ていると、お父様の後ろに控えていた白い軍服の男の人のうちの一人が、私の肩に手を置く。
私はよく知ったその顔を、呆然とした顔のまま見つめた。
「おめでとう、環。これから大変になりそうだね」
「お兄様…」
「まあ、頑張りなよ。俺も出来る限り支援はするからさ」
じゃあね、とひらひらと手を振り、お兄様は去っていく。
なんて薄情な兄なのだろうか。
呆然とした妹を残して去っていくなんて。
仕事だから仕方ない、と頭の片隅ではちゃんと理解しているものの、お兄様への不満が私の中で渦巻く。
「―――環」
少し掠れた声が私の名を呼ぶ。
私は声の主の方を振り返った。
「これからは僕が君を守る。だから、安心して生活をするといい」
「い、いえそんな…恐れ多いですわ」
「言っておくが、これは決定事項だ。君に拒否権はない」
遠回しな断りをバッサリと斬られてしまう。
言葉に詰まる私に、帷さまは口角をあげて私を見つめた。
「君は黙って僕に守られていればいい。―――わかったか?」
「は、はい…」
帷さまの勢いに押されうっかり返事をしてしまい、しまった、と私が思った時、私と帷さまの間にすぅっと白い糸が通った。
そしてその糸は私と帷さまの左手の小指に結ばれた。
「これは…?」
「…縁が結ばれたか」
「縁、ですか?」
「そうだ。この糸は、人と人を繋ぐもの。どうやら僕たちは縁によって繋がれたようだ」
帷さまはなんでもないことのように仰るが、私にとっては大事だ。
私はただお父様の手伝いをするだけのつもりで夜会に参加したのに、それがなぜか皇子殿下との婚約に結びついてしまうとは、世の中なにが起こるか全くわからないものである。
私は帷さまに繋がった白い糸を見つめた。
今はまだ白い糸。白は何にでも染まる色。
この白い糸も、いつか違う色に染まるのだろうか。
縁で結ばれた白い糸に赤い色が着いたものが、運命の赤い糸と呼ばれるものなのではないだろうか。
ならば、縁こそが運命と呼べるのではないか。
その縁で結ばれた私と帷さまも、運命ということになるのだろうか?
私と帷さまを繋ぐ白い糸が、私の問いに答えるように、ゆらゆらと揺れた。
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短編で続きを書くか連載にするべきかで現在悩んでいますが、
続きはいずれ書くつもりではいます。
読んでくださる方は気長にお待ちくださいませ。
※連載始めました!
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