深層の少女
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天も地も、音も光も、生命も死さえも。
なにも感じる事のできない、それは、どこか深い場所。
押し潰されるような重さと、ただ漂う不安定さを合わせ持った、海の底を思わせる場所。
彼女の意識は、そこに沈んでいた。ただぼんやりと有るだけ。
そこに
ゆらり、と、波紋は突然現れた。
その波紋と共に光が近づいてくることに、彼女はようやく気がつく。どんどん大きくなる輝きは、この場所がいかに暗かったのかを知らしめる。露になったのは、長い長い鎖のようなものに絡みつかれている自分の姿。
彼女は、自分の姿をさらけ出した光を、ただ見つめる。その中心には、翼をもった人の姿があった。
ーー美しい
ーーあの御方も素晴らしく美しいと聞く。……このような姿をしているのだろうか。
そんなことを考えていると、巻き付く鎖で意識が更に重くなる。
ーー……あの御方、とは、誰だっただろう。
翼をはためかせ、すぐ目の前に、輝く人は降り立った。
透き通る白い肌に、金糸のような髪。印象的な碧い瞳。
ただ、波打つ水面に映されているように、はっきりとは見えない。
霞んだ視界では、見ることができない。
『お前は何者だ』
朧気な意識にも、その声は届いた。届いてはいるのだが、答えようにも思考が働かない。
ーー私は……何者でも、ない
なんとか答える間にも、鎖はさらに重くのし掛かってくる。
『ーーを、ーーーよう、し……るのか』
押し潰されて、聞き取れない。
『殺そうとしているのか』
意識が完全に沈む直前、その言葉だけははっきりと響き、彼女の思考を引き戻した。
ーー殺さない。誰も殺さない、殺させないと、彼と……
『彼』。
その言葉が出てきたとたん、ずるずると鎖が伸びて、一瞬だけ浮上していた彼女の意識を淵に落とした。
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ディークリフトは、眠り続けるラスカをただ見ていた。ルイは命に別状はないと言っていたが、あれから朝になり、夜が訪れ、それが三回繰り返されても彼女の意識は戻らなかった。淡々と、生命活動を繰り返しているだけ。
そういえば、聖域に落ちてきた時もこうだった、とディークリフトは回想する。あの時も数日間目を覚まさなかった。今回で二度目のはずなのに、なぜ時間が長く感じられるのかが分からなかった。
最初にラスカが目を覚ました時の事を、今でもディークリフトは覚えている。
あの日、彼女は一瞬戸惑うような様子を見せたが、驚くほど冷静だった。じっとこちらを見るその大きな目に、見定められている、とディークリフトは感じた。
彼女は、自分の置かれた状況と立場を、すぐに分析しようとしていたのだ。
騒いだり、弱さを見せたりはしない。
面白い奴だ、と思った。
それから少女は居候することになり、ディークリフトはしばらく観察することにした。
一見、普通の少女なのだが、その身のこなしは細かな体重移動に至るまで無駄がない。素性が分からないということもあり、念のため数日は見張っていたのだが、彼女は敏感なようだった。最初に目覚めて以来彼女の寝顔は見たことがない。何かの気配を感じると、すぐに起きるのだ。
『食事ができましたよ』
ディークリフトの部屋まで、彼女がそう伝えに来た事があった。
『持ってきてくれ』
もともと、食事は自室で摂っていた。それに対し、彼女は一緒に食べないのか尋ねてきた。
『なぜだ』
食事を共にする理由が分からず聞き返すと、少女はこう答えた。
『ディークリフトさんは、部屋にいる事が多いので……食事くらいは一緒にしたいです。』
ディークリフトは屋敷にいる間、ほとんど自室で魔法の研究を行っていた。食事まで自室でとなると、他者との関わりは少ないどころか無いに等しい。
『それに、食事を持ってきても、ディークリフトさんはいつ食べるのか分からないですから。料理は、作りたてがおいしいですよ。』
その時の彼女の言葉に、自分が観察していたはずが、こちらも観られていたようだと気がついた。
部屋に食事を持って来ても、ディークリフトは作業をしている事が多く、没頭しているうちに冷めたり、時には食べそこねたりしていた。それを見抜かれていたのだ。
『分かった。ダイニングに準備してくれ。』
それから皆で食事を共にするようになり、互いに力を高め合うようにもなった。
『かっこいいと、おもいました。』
『すごく綺麗でした!』
彼が巷で最強と噂されていた魔道士だと知った時も。
人形を喰べるのを目撃した時も。
彼女は無垢なのか、彼を恐れ、距離をとろうとすることはなかった。
かえって、その距離は縮まっていった気がする。
そして今は。
ラスカは再び長い眠りについている。
沈黙の中、部屋のドアがノックされる音が響いた。
「ディーク?」
『はいっていいー?』
どこかへ出掛けていたレイとルイが帰ってきたようだ。
「ああ。」
二人が入室するのを確認すると、ディークリフトは視線を少女に戻す。
「……おい。」
もう何度目かになる、その言葉。
「……起きろ。」
ぴくりと、初めて反応を見せた後、少女はゆっくり瞼を開いた。大きな瞳は側にいたディークリフトを最初に映す。あの時と同じ、冷静すぎる瞳。
まだ血色の悪い唇が、動く。
「……誰ですか。」
ふうっと息を吐き、まどろむように目を閉じる。再び開いた目には、いつもの輝きが少し戻っていた。
「……う……ん?ディークリフトさん?」
「…………脅かせるな、馬鹿。」
ディークリフトは詰まりかけていた息を吐き、ベッドにもたれかかるようにうつ伏せになる。
「あれ……?いきなり、暴言を……吐かれたんですけど……?」
「うるさい。俺は眠い。」
「えぇ~……」
彼の言動に納得いかないラスカもまた、一つ欠伸をした。レイが、すでに寝息をたて始めているディークリフトにも布団を掛けながら、穏やかに微笑む。
「寝ずに看ていたから、疲れたのかも。ラスカももう少し休んでていいよ?」
「……ありがとう。まだ……少し……眠い………」
ふにゃふにゃと呟いた彼女は、すぐに眠りに誘われる。
それを確認して、レイは微笑みを崩して固い表情になった。
「……ルイ、見た?」
『うん』
『……誰ですか。』そう尋ねた時の、あの雰囲気。
眠っているラスカの意識の深層で視た、『彼女』と同じ。
ラスカが記憶を無くす前の、『彼女』だった。
「ラスカは……彼女の記憶は、あの鎖で封じられているように見えた。」
ラスカは目覚めても、本当の彼女の意識と記憶は眠っている。
そして、気になる事がもう一つ。
「確か、ヴァルクさんがオレ達を魔神だと思ったのは、魂……本質を視ていたからだ。」
それならば、機械人形と表現された彼女は
一体、何者なのだろう。




