まんまるなしあわせ
およそ常連客くらいしか入ってこないのではないかと思うような古い喫茶店『しおん』に、そこそこの客入りと売り上げがある理由は3つ。
ひとつ。喫茶店『しおん』のマスター、矢野崇志の娘たち。小学校4年生の一卵性双生児、桜と桃。父を手伝う天真爛漫な姿が喫茶店のマスコット的存在になっており、お客さんから可愛がられている。
ふたつ。恋が叶うパンケーキ。食べる前に自分で好きなようにデコレーションできるようにチョコペンをつけているのだが、そのチョコペンで片想いの相手の名前を書いてから食べると両想いになれるという触れ込みのパンケーキなのだ。
しかし、実際は何の根拠もない、桜と桃が始めた小学生レベルのおまじないないのようなものである。だが、偶然にも両想いになれた、恋が実った、という女の子が何人か現れてしまった。女の子は、総じてその手の話が好きであるし、それが、また、スイーツ込みとなると噂は早い。近くに私立の女子高もあるせいか、いつの間にか女の子たちが集まるようになっていた。
そして、3つ目の理由は…。
「恵くん、今日も遅いなあ…」
店内の柱に備え付けた時計が5時半を知らせたのを見て崇志が呟いた。6時間目の授業が終わるのは3時35分。それから歩いて帰宅しても余裕で4時には帰ってこられる場所に、松永恵の通う高校はある。今まで4時過ぎには帰ってきていたのに、ここ1、2ヶ月は必ず5時を過ぎるのだ。
高校3年生男子の帰宅が5時だろうが6時だろうが、気に病む必要などないのであるが、心が騒いでしまう。
追加オーダーの声に拘泥の念を払拭し応じたとき、店の扉が開いて恵が顔を出した。途端に店内がそわそわとした雰囲気に包まれる。
「メグちゃん、お帰り~」
「今日もご用事?」
「うん。ごめんね」
宿題を片している桜と桃に笑い掛けて、恵は、カウンターの最奥に腰を下ろした。
「お帰り。恵くん」
「ただいま。もしかして心配かけちゃってます?」
「い、いや。そんなことはないよ?」
恵のためにアールグレイを用意しながら否定する崇志に、愛娘たちが呆れた顔で暴露する。
「嘘ばーっかり。パパねえ。メグちゃん、今日も遅い~って」
「そうそう。時計ばっかり見て。今日、オーダー、2回も間違えたんだよぉ」
余計なことはいわなくてよろしいとばかりにふたりを睨みつけて、崇志は恵の前にカップを置いた。恵は、紅茶の香りに表情を和らげる。その美しい繊細な微笑みに店内のあちらこちらから熱い視線が注がれていることを気にも留めない彼は、細い指をカップに引っ掛けて紅茶の味を堪能している。
カウンターはL字型になっており、恵がいつも座っている場所は、壁を背に店内を一望できる位置に当たる。逆に、店内どこにいても恵の姿が確認できるわけだ。
昼頃迄は常連の年配客が多いこの店も、午後3時を過ぎた頃から客層ががらりと変わるのは、恵の姿見たさのことである。恵は、この『しおん』の不可侵の王子様なのだ。
「メグちゃん、もしかして、できちゃった?」
「できた? 何のこと?」
カップを両手で包み込みながら、桃に視線を向ける。
「こ・い・び・と!」
「だから、毎日、デートで帰り遅いんだあ」
なるほど、と、桜もポンと手を打つ。
「ちょ、ちょっと、待て!」
頬を引き攣らせて、崇志が会話に割り込む。カウンターの中から身を乗り出すようにして恵に詰め寄った。
「め、恵くん、恋人、いるのか?」
「え…? 崇志、さん? 何…?」
「答えて! 恋人、いるの?」
「い、いません…!」
「本当に?」
あまりの勢いに一驚し、若干背筋を反らし気味にコクコク頷く恵を見て、崇志は、脱力してその場にしゃがみ込む。今度は、恵がカウンター内を覗き込む番だった。
「よかった~!」
「僕に恋人がいなくて、ですか? あの、何で…?」
しゃがんだまま、崇志は恵の顔を見上げる。きれいな黒い瞳に見つめられて、口の中でもごもごと何かしら呟いているが、恵の耳には届かない。
「崇志さん?」
「そりゃあ…、ほら…、あれだよ」
「あれ?」
「えーと…。店の売り上げ! この店の王子様にお姫様がいるなんてことになったら、恵くん目当ての女の子たちが減るだろッ。そしたら、店の売り上げに響くからさ」
恵は、椅子に座りなおすと、クスクスと笑った。
「それ、いつまで使える手なんです? せいぜい2、3年でしょ」
「いやいや。恵くんがスーツ着たら、客層が女の子たちからお姉さまたちに変わるだけだよ。そして、奥さまたち、おばさまたち。一生使えるね」
「…鬼だ。鬼がいる」
恵は、ぷうと頬を膨らませて、残った紅茶を飲み干すと、鞄を掴んで立ち上がる。
「僕、夕飯の支度、しますね」
そして、売り上げ貢献度NO.1の彼は、居住用に続く扉の奥へと姿を消した。
「ねえ。パパってバカ?」
席を立った客の姿を捕えて、入り口近くのレジへと向かう父の背中を見つめながら、桜が問う。桃は、シュガーポットから、バラの形の角砂糖を摘んで口の中に放り込みながら、毒づいた。
「メグちゃんが絡むとバカ、かもねえ…。売り上げって何よ。他にいいよう、ないわけ?」
「きっと、あれで誤魔化せてるつもりなんだよ」
「だとしたら、救いようのない大バカね」
悪態をつかれているとは知らない崇志は、双子の様子に首を傾げながら、空いたテーブルの食器を下げにいった。
「その話ならちゃんと断ったはずだ! 放してよ!」
桜と桃は、顔を見合わせた。学校帰りの通学路の途中である。小さな児童公園をぐるりと取り囲む垣根の向こうから聞こえてきた。
「…今のメグちゃんの声に似てなかった?」
「うん。似てた。行ってみよう!」
ふたりは、垣根に沿って小走りに角を曲がると、公園入口から首だけを出して、そっと中を覗き込んだ。
「やっぱりメグちゃんだ」
「一緒にいるの誰かな」
知らない顔だった。誰もいない閑散な公園で、恵が同じ年頃の男に腕を掴まれている。同じなのは年くらいで、見た目はずいぶん違う。少々野蛮な感じが見受けられた。恵がその状況を喜ばしく思っていないことは、彼の険しい表情からも明らかだった。
「そんなこといわずに考え直せよ。俺、けっこう本気なんだぜ?」
「迷惑だってば! 何度もいわせるなよ!」
声を荒げても、男は怯む様子もない。それどころか、恵を引き寄せると、もう片方の腕で腰を抱き、己の身体を擦りつけるように密着させる。
「いやだ…ッ…!」
恵の嫌悪に満ちた声を聞いて、桜と桃は頷き合うと、その場へと飛び出して行った。
「メグちゃん!」
「ちょっと! メグちゃん、放しなさいよ!」
いきなり姿を見せた少女たちにぎょっとして、一瞬、男の手から力が抜けた。すかさず、恵は、腕を振り払って、男と距離を取る。
「桜ちゃん…。桃ちゃん…」
桜と桃は、ふたりの間に割って入り、恵を背に庇うように立ちはだかると、男をキッと見据えた。
「何こんな真昼間からどうどうと痴漢行為働いてるのよ!」
「ここ押したらブザーが鳴って、パパに連絡いくんだからね! うちのパパ、空手有段者だよ!」
携帯のブザー機能のボタンに指を置いて、桃が男を牽制する。少女たちの剣幕と、空手有段者が効いたのか、男は忌々しげに舌打ちすると、逃げるように去って行った。それを確認した恵は、気が抜けたのかその場へしゃがみ込んでしまう。
「メグちゃん! 大丈夫? 何かされちゃった?」
「ううん、桜ちゃん。大丈夫だよ」
「ホント? 追いかけてやっつけてこようか?」
「桃ちゃん…。ありがとう、でも本当に大丈夫…」
恵は、勇敢な双子に微苦笑を漏らす。
「歩ける? パパに迎えに来てもらう?」
「パパに相談したら? きっとやっつけてくれるよ」
空手有段者は、はったりではない。しかし、静かに首を振られてしまう。
「えー? どーして?」
「駄目だよ、そんなの! パパ、心配するよ?」
「だから、だよ」
恵は、膝に手をついて立ち上がり、帰ろう、といってふたりに手を差し出した。右の手に桜が手を伸ばし、左の手を桃が握った。
「崇志さんには心配かけたくないんだよ」
「でも…」
「メグちゃん…」
「お願い。ね?」
恵の頼みに、双子は、どちらも返事をしなかった。
崇志の妻、小夜子は、両親を亡くした後、年の離れた弟と身を寄せ合うようにして生きていた。崇志は、両親が経営していたこの喫茶店にアルバイトとして雇われていた彼女に惚れて結婚を申し込んだ。
一旦は、弟の面倒を見なければならないのでと断られたが、弟も一緒にと熱心に口説き落とし、ふたりは結婚した。その妻の弟が恵であった。
しかしながら、幸せは永くは続かず、もともと心臓があまり丈夫ではなかった小夜子は、今までの心労と、出産の身体的負担から、愛娘が2歳にも満たないうちに鬼籍に入ってしまったのだ。不幸は続くもので、そのすぐ後、崇志の両親も旅行先で不帰の客となった。
男手ひとつで幼子をふたりも抱え、途方に暮れずにすんだのは、恵の存在とその献身的な助力によるところが大きかった。
当時、恵はまだ11歳だったが、自分までも暖かく迎えてくれた優しい崇志のため、亡くなった姉の分までも自分が彼を支えたい一心で、倦まずたゆまず頑張ってきたのだ。
いつも子供たちの側にいられるよう、それまで勤務していた企業を退職し、親の遺産である喫茶店を相続して暮らしの糧にした。2階が住居になっているその場所で、4人は仲良く暮らしていた。
夕食は、エビフライと揚げ焼売、マッシュポテトにニンジンのグラッセ、蕨のお味噌汁だった。夕食の用意をした後、恵は家庭教師のアルバイトがあると出掛けて行き、親子3人で先に食べている。この家庭教師のアルバイトも、ここ1ヶ月に始めたものだった。
「ねえ。パパ」
エビフライにかぶりつきながら、桜が呼び掛ける。
「んー?」
「今日、メグちゃん、男の人に襲われてた」
崇志は、口に含んだ味噌汁を、ブーッと吹き出した。
「な、何だって?」
「桜の表現はちょっとオーバー。いい寄られてたって感じかな」
横で、桃が冷静に訂正する。恵はああいったが、やはり話しておくべきだと判断したふたりである。自分たちが見たことの顛末を話して聞かせた。
「パパに心配かけたくないからって、口止めされていたんだけどね」
「いや。話してくれてよかったよ」
「パパ。ぐずぐずしてたら、メグちゃん、他の人に持っていかれちゃうよ?」
「そうだよ。早く好きっていって、お嫁にきてもらえばいいのに」
再び味噌汁を吹き出す羽目になった。
「おっ、おまえたちなあ…っ!」
年の割に、妙に達観した娘たちに、父親は焦りを隠せない。詰責されているような厳しい視線を向けられ、崇志は、溜息をひとつつくと、箸を置いた。
「いいか。恵くんは、いずれはここを出ていく人間だよ」
予想だにしていない言葉に、双子が同時に口を開きかけるが、崇志は、手を挙げて聞きなさいと制した。しぶしぶ口を噤む桜と桃。
「ママが死んだとき、恵くんはまだお前たちと同じ小学生だった。だけど、学校から帰った恵くんがしていたことは、遊ぶことでもなく、宿題でもなく、お前たちの面倒を見て、家の中の用事をすることだった」
本来であれば、小夜子がすべき仕事。小夜子が死亡した矢野家では、崇志がせねばならぬことだった。しかし、喫茶店の仕事をひとりで抱えていた彼には手が回らず、恵が奮闘していたのだ。
それは、恵が中学へ行っても高校へ行っても変わらなかった。嫌な顔など微塵も見せずに母親代りをこなしてきた彼に、崇志は、負い目を感じている。遊びたい盛りの子供に育児や家事を押しつけてきて、悔やんでみても詮方ないのは分かってはいたが、もうここらで、それらから解放してやりたいと思っていた。親の贔屓目かもしれないが、愛娘たちは、一頭地を抜くできたいい子たちである。恵がいなくとも自分たちのことは己でやれるだろう。
「でも、ずっと、メグちゃんといたい…」
「私たち、ママがいなくて寂しいなんて思ったことないけど、メグちゃんがいなくなったら寂しいよ!」
「パパだって寂しいさ。だけど、ずっとこのままでいいわけないだろう?」
恵には恵の人生があるのだ。自分たちに縛りつけておく権利はどこにもない。
しゅん、と項垂れた娘たちに、その場を解すように崇志はいった。
「それに、だ。新しいお嫁さんなんてもらったら、死んだママが可哀想だろう?」
しかし、双子が同意すると思っていったこのセリフは、逆効果でしかなかった。桜は、持っていた箸を、父親に投げつける。
「あたしは! 写真でしか知らないママのことなんかどうでもいい! ママのことなんか覚えてない! それよりも、パパとメグちゃんがずっと一緒にいて、幸せになってもらいたいの! ずっとみんなで一緒にいたいの! パパのわからずや!」
くるりと向きを変え、まだ半分以上残った夕飯を置いて、桜はキッチンを飛び出していった。崇志は、バラバラに床に落ちた箸を拾い上げ、シンクの中に置いてある洗い桶に入れる。
「私は、桜みたいにママがどうでもいいとは思わないけど」
桜より若干冷然としたところのある桃は、ニンジンのグラッセが上手く箸で掴めず、眉根を寄せながら、自分の意見を述べた。
「パパが、メグちゃんをもっと他の高校生とおなじように遊ばせてあげたいというのはよく分かるの。参観日にも来てくれたりして嬉しかったけど、じろじろ見られて可哀想って思ったこともあったし…。でもね」
結局、ニンジンは掴めず、桃は、箸で突き刺した。それは、父に対する憤りをニンジンが代わりに受けたようなものだった。
「ママが可哀想っていうのは、パパのいいわけだよね? そう思うことで、メグちゃんのこと自分に誤魔化してるだけだよね?」
詰問口調で問いただす。
「桃…。おまえ…」
「パパは、本当にメグちゃんをこの家から出したいの?」
「…勘弁してくれないか。パパの気持ちだけでどうにかなる問題じゃないんだよ」
「それは、メグちゃんも同じようにパパが好きならいいってこと?」
「…もうこの話はやめよう」
力なく椅子に座りこんで頭を抱える崇志に、ニンジンを口の中に放り込み、桃も席を立った。
「パパの意気地なし! ママみたいに本当にいなくなってから後悔したって遅いんだからね!」
足音も荒く出ていく娘の言葉の刃を胸に受け、崇志は固く目を閉じた。
『しおん』の定休日は日曜日である。客層に学校帰りの生徒が多いということもあるが、休日は、娘たちと一緒に過ごしたいという崇志の気持ちが反映したものである。
その日曜日の正午を迎えようかという時間、恵がキッチンへ顔を出すと、双子が今からパンケーキを焼くという。一緒に食べないかと問われ、恵はありがたくいただくことにした。
最近は、子供用の調理器具も充実している。持ちやすいサイズの器具ということもあるが、恵の手伝いでキッチンに立つことが多いふたりにとって、パンケーキは楽勝のメニューだ。今日のように相伴に与ることは初めてではない。
しかし、目の前に置かれたパンケーキを見て、恵は、固まってしまった。パンケーキには、チョコペンで崇志の名前が書かれていたのだ。
「…」
「メグちゃん、お願い、食べて」
「私たちからの一生のお願い!」
ふたりは、真剣な表情で手を合わせたが、恵の手はどうしてもフォークとナイフに伸びてくれない。恵がこれを食べて崇志のことを好きになれば、ずっとこの家にいてもらえる。ずっと恵と一緒にいられる。父が自分からいい出さない以上、この方法しか思いつかなかった。ませてはいるとしても所詮は小学生。愚計を弄していることに気付かない。
「おい。何やってるんだ?」
そこへ、間が悪く崇志が顔を出す。それぞれ所思は違うのだろうが、3人とも泣きそうな顔をしているので、崇志は眉を顰める。だが、テーブルの上の自分の名前が書かれたパンケーキを見て、その場の状況を瞬時に理解した。
「まったく…。おまえたちは…」
「だって!」
「メグちゃんにパパと結婚してほしかったんだもん!」
「男同志で結婚はできません! だいたい、ケーキの使い方が違うだろう」
そう。『しおん』のパンケーキは、片想いの相手の名前を書いて食べれば気持ちが通じるというものであって、書かれた名前の相手を好きになる、というものではない。
「パパが悪いんじゃない!」
「そうだよ! メグちゃんのこと」
「ああ、もう、いいから! あっち行ってなさい。パパがちゃんと話すから」
半信半疑の色を見せる双子をキッチンから追い出し、崇志は、恵に向かい合って腰を下ろした。恵は、ちらりと崇志の顔を一瞥して、ふいと顔を背ける。
「恵くん。この家を出るかい?」
「え…?」
びっくりして視線を戻す恵である。
「崇志、さん? どうして…そんな話になるんですか?」
「だって、恵くん、辛そうだから」
膝に置かれた恵の手は、激しい動揺を隠したいかのように強く握り込まれた。
「ここ最近、ずっと帰りが遅いのも、家庭教師のアルバイトも、なるべくこの家にいたくないからだろう?」
「…気づいて…いたんですか…?」
「当たり前だよ。何年一緒に住んでいると思うんだ。恵くんの考えていることくらい分かるよ」
温柔な笑みを浮かべて、崇志は恵の手を取った。冷たくなっている手に温度を渡すかのように力を込める。
「ごめんな? 俺がもっと自分の気持ちをはっきりさせていたら、恵くんに辛い思いさせずにすんだのにな」
「崇志さん…っ…」
「もう高校生だもんな。いろいろ都合もあるよな。いつまでも家事任せてちゃ思うようにデートもできないし」
一瞬、恵の身体がピクリと強張ったことに、崇志は気づかない。
「大学への試験勉強だってあるし、他の子たちは塾にも通ってるだろう」
「…」
「だいたい高校生の男の子にさせることじゃないよな。掃除や洗濯や…」
「ちょっと待って、崇志さん」
握られた手を振り払って、恵は立ち上がって、彼を見下ろした。その瞳に冷ややかな光が見て取れるのは、はたして気のせいか。
「恵くん?」
「崇志さんは、僕が、この家の何が辛いか、本当にわかっているんですか?」
いつになく、口調がきつい。半ば、圧倒されながらも、根拠の再確認を試みる。
「だ、だから、子守りや毎日の家事に愛想がつきたんだろう? 高校生らしい生活が送りたくてこの家から離れたかった…」
「あなたって人は…っ…!」
ブルブルと拳を震わせて、恵の堪忍袋の緒が、ブチリ、と音を立てて切れた。
「崇志さんのバカ!」
「え…、め、恵、くん…?」
「何が僕のこと分かってる、ですか! 全然、ちっとも、これっぽちも! 分かってないじゃないですか! 僕が、あなたのことお兄さんって呼ばない理由とか考えたことないんですか? 自分の中で兄だと認めたくなかった僕の気持ちなんか気づいてないんでしょ! あなたが姉さんの旦那さんで、いくら僕が想ったところでどうにかなれるわけなんかないのもちゃんと分かってる! だけど! あなたが好きだって気持ちは大きくなるばっかりで、顔を見るのが辛かったから、この家にいる時間を少しでも短くしたかった…! なのに、家事が辛い? デートしたい? 見当違いも甚だしい限りです!」
一息に吐き出して、恵は肩で息をついた。崇志は、目の前で何が起こったのか把握しきれずに、酸素を求める金魚のように口をパクパクさせている。
「もう、いいです! 出ていきます! お世話になりました! さようなら!」
「わあああ! 待った! 恵くん、ちょっと待った!」
脇をすり抜けて出て行こうとする手を掴み、自分の方へと引き戻す。恵は、それを振り解こうと抗うが、崇志も放すわけにもいかないため必死だったので、さっきのようにはうまくいかない。
「崇志さんなんか、大っ嫌い! 放してよ!」
「お、落ち着いて。お願いだから、ちょっと落ち着いてくれ…!」
体格差を武器に、細身の身体を胸に抱き込む。腕を突っ張って押し返そうとするが、あまりにも強い力で抱き締められ、恵は観念して大人しくなった。崇志は、その背中をあやすようにポンポンと叩いて、嘆息した。
「普段、大人しい子が切れたら半端ないってのは事実だったんだなあ…。あー、びっくりした…」
少し腕の力を抜いて、恵の顔を覗き込む。所在無げに目を瞬かせながら拗ねたように唇を噛んでいる可愛らしい表情に、崇志は、ふっと微笑んだ。
「…俺のこと、好きっていってくれた?」
ボンッ、と顔から火を噴く恵である。
「い、い、いってません、そんなこと! 空耳です!」
「もう遅いよ。ちゃんと聞こえた」
挙措を失って、再び逃げ出そうとする恵の髪に指を差し込んで仰向かせると、崇志は、顔を近づける。軽く唇を触れさせると、恵の身体はビクン、と硬直した。逃亡の気力を奪うにはいい方法だった。案の定、恵は、逃げることも忘れ、憂色を漂わせて崇志の顔を真っ直ぐに見つめる。
「…な、なんで…?」
「好きだよ」
「嘘…。だって、今まで、そんなことひとことだって…」
「いえるわけないだろう?」
崇志の年はほとんど恵の倍である。ふたりの子供だっている。小夜子は死ぬ前に、弟を頼むといった。それは、大人になるまで面倒をみてほしいという意味で、決して、現状のような関係を望んだ言葉ではない。
だが、もう、ずっと惹かれていた。男の子であることも、妻の弟であることも、どうでもいいくらいに、恵は掛け替えのない存在になっていた。何に対しても一生懸命で直向きな彼を大事にしたい。その気持ちが、かつて妻を愛しいと思った気持ちと微塵も変わらないと気づいたとき、悟られてはいけないと思った。
しかし、恵は自分を好きだといってくれた。もう、遠慮する必要はなかった。
「そんな…。僕が好きっていわなかったら、ずっと黙ってるつもりだったの…?」
「そういうことに、なるかな」
少し寂しげに笑う崇志に、恵は、瞳に涙を滲ませて非難する。
「ずるいよ…」
「ごめんな。でも、パンケーキにいつも恵くんの名前書いてたから、いつかはいってもらえるかなって思ってた」
「…あなたまで、そんなことしてたんですか?」
いたずらっ子の少年のように、にっと白い歯を見せる。いささか呆れる恵である。子供たちにいえた立場ではない。
華奢な体を愛おしげに抱き締め直して、耳元に唇を寄せて崇志は囁いた。
「愛してる。俺と一緒に小夜子を裏切ってくれないか…?」
羞恥と歓心に頬を染め、恵が小さく頷くのを確認すると、再び顔を寄せた。恵も瞳を瞼の裏に隠して、心持ち顎を上げ、彼の唇を受け入れる。さきほどの軽いものとは違い、これまでの我慢をぶつけるようなちょっと強引な口づけだった。長めのキスに息を継ぐため唇を緩めた隙を崇志は見逃さない。熱い舌に歯列を割られて、恵は慌てて頭を引いた。
「…た、崇志、さん、ちょっと、待っ、…ん…っ…」
後頭部を固定され、抗議の声は激しい攻めに遮られた。その激しさに眩暈を覚えながらも、恵が顔を背けて逃げようとする。
「恵…っ…」
「やっ…、待って…っ」
ついていけなくなって弱々しく抵抗する様が、逆に崇志を煽り立てた。背中にあった大きな掌が、いつの間にか前に回り、大腿部をなぞりあげたときである。
突然の大音量が二人の耳を貫いた。ぎょっとして手を放す崇志と、あたふたとキッチンの隅へと逃げ、自分の身体を抱き締める恵。
「何こんな真昼間からどうどうと痴漢行為働いてるのよ!」
恵の前に仁王立ちになり、桜は父を一喝する。その横で、桃が警報音を喚き散らしている携帯を握って侮蔑の表情を浮かべていた。どこかで見た光景である。
「と、止めなさい、それ…!」
耳を塞いで、崇志が怒鳴る。とりあえず、自分たちもうるさいのは否定できないので、桃は、警報ブザーを停止した。戻った静けさに、恐る恐る耳から手を放した崇志は、再び耳を押さえることになる。
「何考えてるのよ! メグちゃん、まだ、高校生だよ!」
「おまけにこんな明るいキッチンでなんて! 少しは考えたらどうなの!」
「いや、あのな…。これは」
「メグちゃん、すっかり怯えてるじゃないの!」
「いっとくけど、メグちゃんが未成年の間はこういうの、絶対、許さないからね!」
「はあ? 何だ、それは…!」
せっかく想いが通じた以上、身体も繋げたいと思うのは至極真っ当な願望なのだが、恵がその行為を受け入れているとは思えないふたりは、断固として阻止する気である。床の上にへたり込み胸元を強く握り締めて涙ぐんでいる恵の手をそっと解き、よしよしと頭を撫でると、桜は力強く断言した。
「安心して。メグちゃんの純潔は、あたしたちが必ず守り通してみせるから!」
「うん。ありがと…」
「恵くん! 何で、そこでお礼いうかな!」
「…えーと。…何となく?」
「何となくって…」
崇志のことはもちろん好きだが、さすがにいきなり紳士的とはいいがたい欲望をぶつけられて怖かった、とはいえずに、恵は、明後日の方向に視線を向けてとぼけた。それを見て、落ち込む父親を尻目に、桜と桃は、恵の手を引いて立ち上がらせた。
「パパなんかほっといて、お昼は外に食べに行こう。ね」
「桃~。パパもお腹すいた…」
「うるさい! 私たちが帰るまで、パパはそこに正座! 海よりも深く反省!」
「さ、メグちゃん、行こう」
「い、いいのかな…?」
「いいの、いいの。今後の身の守り方も相談しないといけないし」
まるでケダモノでも見るかのように崇志を一瞥すると、ふたりは、恵の背中を押して出ていった。情けない面持ちで、いわれたとおりに正座する崇志だが、来月半ばに、双子たちが学校行事の1泊2日のキャンプで家を留守にすることを思い出し、にやりとほくそ笑んだ。反省どころか、どうしようもない父親である…。
「当店マスターの恋も成就。まんまるなしあわせを、あなたもどうぞ」と書かれたパンケーキのメニューポスターが貼られるようになった店内ではあるが、崇志に新しい嫁がきた様子も窺えず、常連客に誇大広告はやめた方がいいと忠告を受けた、というのは、後日談である。
古い喫茶店『しおん』の売り上げ貢献は3つ。マスターの可愛い娘たち。恋の叶うパンケーキ。そして、不可侵条約が破約となったことはまだ知られていない、きれいな王子様、である。
<後日談>
晴れやかな空の下、喫茶店の前では、桜と桃が体型に不釣り合いな少々大きなリュックサックを背負って、父と恵に向かい合っている。今日、明日と1泊2日でキャンプなのだ。
「楽しんでおいで」
「うん!」
崇志に声を掛けられ、さすがに、子供らしい表情で頷くふたりである。親元を離れてのお泊りは、例え学校行事の一環だとしても嬉しいのだ。
「忘れ物は? 大丈夫かい?」
「あ、ハンカチ、忘れた! パパ、取ってきて」
桜がポケットを探りながらいう。崇志は、しょうがないなあ、と店の中へ入っていった。その間に桃が恵に耳打ちしている。
「メグちゃん、大丈夫? 都合、ついた?」
「うん。問題ないよ」
「今日は、学校終わっても、お店には絶対戻らないでね」
「心得てます!」
顔を見合わせて、くすっと笑い合う。
「ほら、これでいいか?」
崇志が適当に掴んだきた花柄のハンカチを桜に手渡す。ふたりは、元気よく学校へと出かけていった。
ふたりの姿が見えなくなると、恵も一旦店に戻る。再び出てきた彼は、いつもの通学鞄とは別に、トートバックをぶら下げている。
「どうしたの、その荷物?」
「崇志さん。急で申し訳ないんですけど、今夜は友人のところに泊まることになったんです」
「…はあ? 聞いてないよ、そんなこと!」
「来週提出のグループ課題を徹夜で仕上げようってことになったんです。昨日はキャンプの準備でバタバタしてたからいいそびれてました」
にっこりと微笑む恵であるが、実は、まったくの嘘である。桜と桃には、父の浅はかな考えなどお見通しなのだ。崇志と恵をふたりきりにさせるなんて、そんな、オオカミの前に赤ずきんちゃんを放り込むような真似、できるわけがなかった。恵に、1日泊めてくれる友人を捜しておくよう事前に指示しておいたのだ。
「滅多にない、ふたりきりなのに?」
「…ごめん…なさい」
「一応、俺たち、恋人同士だよね…?」
思わず再確認したくなるのは、この場合、崇志に限ってのことではないだろう。
「あの、さ。無理矢理どうこうする気なんてないよ? そんなに警戒されると傷つくんだけど…」
上目遣いに崇志をチラ見すると、ひどい落胆ぶりである。さすがに恵の中に罪悪感が広がった。崇志のいうことは正しい。その証拠に告白の後も崇志の基本態度は変わらない。
「ま、課題なら仕方ないか。いっておいで」
背を向けて喫茶店のドア飾りを「Close」から「Open」へと変える。だが、脇から伸びてきた手が再び「Close」に戻した。
「恵くん?」
「…学校、休みます。だから、喫茶店もお休みにして…」
真っ赤になっている恵の肩を抱いて、崇志は優しく微笑んだ。
「いいの?」
コクンと頷く恵と喜色満面の崇志を飲み込むと、扉はカギが掛けられた。キャンプから帰宅後の桜と桃の怒髪衝天が見物である。
「Close」のあとのお話はまた後日…。