8
シストラムは学校の駅をとうに過ぎ、いつしか辺りは暗くなっていた。
今度は、璋が話す番だった。
「もうすぐ、神様が殺しに来る」
璋は外に流れる光を遠く見ながら言った。
『神様が殺しに来る』、これは彼等の隠語で璋の変化を意味していた。男性か、あるいは女性への。
それはかなりの衝撃だった。
「誕生日はいつだったっけ?」
ギイが訊いた。
試験管ベビーは徹底した人口調整のため、十三歳の誕生日に政府の決定した性別を知らされる。その結果は当日本人にしか伝わらない。そして一週間後には体内で性ホルモンを作るためにDNA治療がなされ、変化するとまず髪の色や声質が変わっていく。
「今日」
「どっちだ、え、どっちなんだ」
彼は璋の胸座をつかんだ。
本当のことを言えば、変わらないでほしかった。男にも、女にも。そして自分自身、そのことによって変わってゆく気がしてならなかったのだ。
璋はそれを力強く押し退け、ひとこと「おんな」とだけ言った。
彼はこれ以上なにも聞きたくなかった。
「…親には言ったのか?」
代わりにギイが尋ねた。
「…言ってない」
璋はまっすぐ彼とギイの方を向いて言った。
「ずっと言わない。言わないでこのまま男としてやっていく。女になるぐらいなら死んだ方がましだ。あんなもの、生き物じゃない」
最後の言葉はまるで吐き捨てるようだった。璋の脳裏をよぎる女性とはどんなものだったのか。誰も璋の母親に会ったことがない。
「無理だよ」
即座に彼は言った。
「無理なもんか。女って言っても完全じゃないんだし、お前らと離れたくない」
彼は嬉しくなったが、いつもの璋にあるまじき言葉にひっかかりを感じた。
「どういうことだ?」
「オレには生殖機能がないの。その部分の遺伝子が欠けてるから」
「で、だから?」
ギイが真面目な顔で言った。
「だから、って…」
璋は当惑していた。
「変化しようが、子供産めまいが、離れるわけないじゃん」
ギイの言葉は力強かった。
「女になろうが璋は璋だし、おれたちだって変わらないよ、な?」
彼も慌てて頷いた。
「そう…か……」
璋はいつもの尖った目つきで彼等を見なかった。少しだけ円い光がその中に在った。まったく、ギイときたら人を安心させる天才じゃないのか?
でも璋の語尾には僅かな疑問符があった。彼はひどく動悸がした。
「おれの母さんさ、」
ギイが急に喋り始めた。
「再婚するかもしれないんだって、客の一人と」
「知ってるやつか」
「ああ、ちょくちょく家に来る」
「どんな奴」
「建設会社の社長だか、キザなヤローだよ。いつも薔薇の花束抱えてやって来るんだ、生まれた世紀が違うんじゃねえのって感じ」
ギイには珍しい乱暴な口調だった。
「うえー」
彼と璋は同時に言った。
「その度におれは家を追い出される訳ですよ。居場所がさ、どこにもないんだよなー。今日もそう」
初めて聞く「カテイのジジョウ」を、ギイはいつものように明るく笑いながら言った。
だけど、それが本当は笑える話などではないことは彼にも璋にも解った。語弊があるのは承知だが、実際、ギイは母親を誰よりも、多分彼よりも愛していたわけだから。
「なんだかギイの話を聞いてると、母親がいるっていいなあ、って思うな」
璋はしみじみ言った。
「オレんち母親いないからさ」
「そうなのか?」
ギイがまた目を丸くした。彼は黙って聞いていた。これまた衝撃の事実だった。
「ん、オレが生まれる前に家出したって聞いた。子供作るのがいやだったんじゃないの?親父が相手じゃなあ」
自嘲気味な苦笑が混じる。女とは産まされる性であるとしか、璋には思えなかったのか。
「へえー」
こんな相槌も、ギイだから許されるのだろう。
「写真だけ見たことがある…オレとよく似てんだ。瓜二つってぐらい」
「人工授精だとそういうこともあるんじゃない?遺伝子操作とか」
彼は何気なく言った。その途端、ものすごい顔で睨まれた。
「それができなかったからオレはこういう体なの!」
確かに悪い冗談だった。受精卵の遺伝子組み替えは完全に可能な技術となった現在でも法的に禁止されているのだ。
「じゃあ、璋はおやじさんと二人暮らしなのか?」
ギイが場を取り繕うように尋ねた。
「いや、昼間は家政婦がいる。それに親父はしょっちゅう他の星に出張だし」
「ひゃー、豪勢だな」
「親父、科学者だからいろんなとこから金貰ってるんだろ」
ギイの応対に璋は少し態度を軟化させた。
「いろんな意味でイっちゃってるけどな」
璋は何本目かの煙草に火を点けて続けた。
「…母親がいないのもあるけど、ずっと試験管ベビーってことで特別扱いされてきた。
たとえ周りがそんなつもりじゃなくても。
小学生の頃ある家のクリスマスパーティに呼ばれた時だな、それを確かに感じたのは。
みな、幸せそうなのになにか違うんだ。
存在を許されていないんだ、どこかで。オレを見る目が違うんだ。
オレを、試験管ベビーを、人間じゃないものみたいに見るやつがまだいるんだ。
こんなところいつか飛び出してやる、そんな事ばかり考えるようになった。
いつか、いつかオレが、ちゃんとオレでいられる処に行きたい」
璋の眼はいつになく真剣だった。
「お母さんには?」
彼はおそるおそる訊いた。
「今さら会っても、どうにもならねえよ」
璋は、呻くようにぼそっと呟いた。
そして彼等はしばし黙する。
「そういや昔もこんなことやったよな、三人で」
ギイが突然言って彼らは一年前のことを思い出した。
それはまだ一年生の春(ギムナジウムでは後期にあたる)、璋がクラブの合宿中に他のメンバーと喧嘩になり、途中で飛び出してしまったのだ。彼とギイはそれを追いかける形で同行し、結局そのまま一日帰らず町の辺りでぶらぶらしていた。
翌朝に見つかって三日間の謹慎を頂戴した、彼等の輝かしい悪行の皮切りとなった事件だった。以来彼等は常に教師達に監視され、放課後では部活やチャットでしか話せない関係になっていたのだ。
確かあの時も原因は、璋が試験管ベビーであることをからかわれた事だった。
「…おれたちって、はみだし者だな」
ギイが呟いた。
「言えてる」
彼も頷いた。
「このままどこかに消えちゃおうか」
「どこに?」
璋が訊ねた。
「おれたちが、ちゃんとおれたちでいられる処」
ギイの提案に彼等はいっとき躊躇したが、もう戻るのはご免だと考えていた。
彼等はみな、それぞれがひとりぼっちで、聳え立つビルの中を駆け抜けていく列車に似ていた。
「行ったことのない場所にしよう」
彼が言った。